いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

続:朝鮮学校を知るということ。

久しぶりに朝鮮学校について書く。

非常に良心的な筆致の、朝鮮学校に関するレポートがあった。筆者様に許諾をいただいたので、拙ブログに転載させていただくとともに、若干の所感を示そうと思う。



朝鮮学校訪問、インタビューの感想

狂国見聞史 2019/2/17(日) 午後 9:07

https://blogs.yahoo.co.jp/hanmyoraki3115/56328043.html

 

(引用開始)

機会があって、横浜にある朝鮮学校にインタビューしに行ってきました。エマニュエル ・パストリッチさんという、韓国で活躍される方が本を出版するに当たって私に依頼してきたインタビューなのですが、私も訪問した感想文を書きました。

 

私達日本人は朝鮮民族を誤解するパラドックスの中にいる

~神奈川朝鮮学校訪問を終えて~

                                                    河中 葉

 

私が小学生高学年の頃になると、家庭にはまだ珍しかったがインターネットが少しずつ普及してきていた。当時はまだ電話回線で高額な使用料を払い、時間を限定しながらインターネットを使っていた記憶がある。

 

ドイツで知り合った人の家に行った時に、ドイツのスーパーで買ってきた硬い豆腐を料理して二人で食べた。ドイツ人の知り合いは、「豆腐はインターネットみたいだ。最初はほとんど見かけなかったし食べる機会もなかったのに、今はどこにでもあってみんな食べる。」とインターネットと豆腐の社会への浸透するスピードについて話していた。

 

スマートフォンの普及もそれと似たようなものかもしれないが、情報化社会というものは恐ろしいもので、便利さの中毒に陥っているうちにある偏ったイデオロギーに染まってしまう事もある。

 

日本における朝鮮民族への差別や偏見が、その最たる例ではないだろうか。

 

私も何の悪気もなく、ただ興味本位で性犯罪についてインターネットで検索して調べていた時に、その誰が書いたかもよくわからない記事に「犯人は在日」「韓国や北朝鮮は性犯罪大国」という文字が踊っているのを読んで、鵜呑みにして信じてしまっていた時期がある。

 

その軽い考えと無知が、どれほど日本に住む在日の人達を苦しめ、朝鮮半島の人々も貶める事になっているかを全く知らなかったと思う。

 

私はヨーロッパなどに憧れを抱くようになり、実際にフランスに滞在もしたが、朝鮮半島については隣の国なのによく知らない事が沢山あった。

 

それでも機会あって韓国に知り合いも出来て、時々韓国には行くようにもなり、いかに若い頃の自分の考えが偏っていて無知だったかを思い知った。北朝鮮には行った事がないが、韓国に関して言えば韓国人は日本人に対して非常にオープンマインドで接してくれるし、日本が朝鮮半島を統治した歴史に関してもとても冷静だから、テレビのニュースで報道されている韓国と日本の問題の数々が、戦争ビジネスを目論む日本政府によって煽られているという事が身に染みてよくわかるようになった。

 

「河中さんも、朝鮮学校に行ってみてください」と韓国に住むパストリッチ氏に勧められた時、はいと短く答えたものの朝鮮学校に見知らぬ私が出向いて行って、果たして学校の人達に受け入れられるのだろうかという気持ちだった。訪問する目的がインタビューとなった時に、少し今まで抱いてきた隔たりのようなものが無くなった気になったというか、私は日本人の抱える差別的な考えが、少し取り払われるきっかけができるだろうかと期待した。

 

私が訪問した神奈川朝鮮中高級学校は、国や自治体に差別され、神奈川県内の外国人学校の中で唯一、授業料無償化制度が適用されず、県は同校を含む5校に通う児童・生徒への学費補助を2016年以降停止している。それについて元文部科学事務次官前川喜平氏が横浜市内で講演し、「国や自治体が率先して差別を行い、国民の差別感情を助長している。官製ヘイトだ」と批判されている。

 

私が神奈川朝鮮中高級学校を訪問した際、金燦旭校長先生は私に広い校内を見せ、wifiの配線なども卒業生や父兄の協力を借りて、自らの手でやっていると教えてくれた。高くて広い天井にあれだけの長い配線をするには労力と時間がかかるだろうが、それでも彼等は自分達の手でやるのだ。

神奈川朝鮮中高級学校では、特に語学教育に力を入れていて、生徒達は皆、朝鮮語、日本語、英語の三言語をしっかり学ぶ。学校を卒業する際には、各言語の検定試験の資格保有を目標として、ハードな勉強を毎日こなす。日本の学校が取り入れるよりも前に、情報教育を実践し、情報リテラシーなどを学んで自ら情報発信のできる人材育成をしている事も特徴の一つだと金燦旭校長先生は語った。それは課題のうちの一部であるが、やはり学校の教育方針としてのベースにあるのは、互いに助け合い、何かが得意な人はそれらが苦手な人の手助けをするという助け合い精神を基調とした、朝鮮民族としての心と誇りをしっかり教えるという事だ。

 

私が生徒達との雑談の中で「将来どういう風な仕事をしたいですか?」と聞いたところ、ある生徒は「この朝鮮学校を続けていくために何か役に立てるようになりたい」と、はにかみながら私に答えてくれた。その話を金燦旭校長先生にしたところ、「生徒が学校の心配をするなんて、本来しなくて良い事なんですけれどね。」と言った。神奈川朝鮮中高級学校は、多くの保護者や卒業生の助けによって運営されてもいるから、生徒の目から見てそうする事は当然という意識なのだろうが、金燦旭校長先生は複雑な表情を浮かべた。けれども私が思うに、生徒達の意見は金燦旭校長先生らの教育の成果でもあろう。そこに朝鮮民族の助け合いの精神が受け継がれていく様子を見た気がする。

 

校内で誰と会っても笑顔ではきはきと挨拶され、電車の中でぶつかってもすみませんすら言わないような殺伐とした雰囲気は微塵も感じられない。

 

授業を見学させて貰うと、生徒達は地震災害に対する備えをしっかりしましょうだとか、挨拶は大事なので特に目上の人に対しては丁寧に挨拶をしましょうだとか、自分でテーマを考えて発表し、音楽の授業ではアカペラで合唱して笑い合っていたり、和気藹々とした雰囲気を感じた。

 

少し日本の学校と違うように感じた点は、発表前に多少生徒がおどけていたりしても、先生も叱ったりせずに笑って見守っている事だろうか。そこに大らかさを感じる。


私が在日の人達に対して差別をしてくる日本人に関して質問した時も、感情的な発言をせずにあくまでも冷静に彼等の思想を分析して、決して貶したりする事のない態度は、金燦旭校長先生だけでなく生徒達にも見られたので、少し驚いた。

 

例えば多くの日本人にとって、従軍慰安婦の問題であるとか、徴用工の問題であるとか、戦争責任について問われるのは自分達が一方的に悪く言われているように感じるのか、もう解決済みのことに関して何度も蒸し返してくる朝鮮民族はタチが悪い、というように感情的な意見が多い。

実際に韓国で慰安婦の少女像を守る活動をしている人に話を聴けば、賠償を何回も求めている理由は日本の政治家が次から次へと慰安婦の強制連行はなかっただの、必要悪だったなどと失言を繰り返しているからだと説明してくれるのだが、そういう話をしても「韓国側の態度が悪いからそういう発言をせざるを得ないんだ」と開き直る日本人もいる。

 

インタビューの中で、生徒の一人が「私達は思想というか、自分達の考えをしっかり持つ事を大切にするように教えられているから、日本の人達もしっかりと自分の考えを持って話し合えば、偏った情報に惑わされずに理解し合えるようになると思う」というような事を言っていたが、正に私達日本人は自分達の考えを失ってしまっている事に気付かされたような気がする。

 

金燦旭校長先生は、繰り返し、無知が色々な問題を起こすと言ったが、それは過去の私に聴かせてあげたい言葉である。

 

無知― 知っている気になっていて、実は何も知らないという事が、どれほど多くの差別を蔓延らせているのだろうか。

 

昔の私は単純にインターネットに載っていた情報を鵜呑みにしたがために偏った考えを持っていたと思うが、「知る」という事の大切さすら「知らなかった」のであろう。

 

10代の頃にも病気のために精神的に不安定で、私の家族が差し伸べている手も見えずに、家族に対して悪態をつき続けた経験もあるが、正に日本人の多くが朝鮮民族の差し伸べている手が見えないまま悪態をつき続けている構図と重なってしまう。


人として当たり前の思いやりや公正な目線というものは、失敗を繰り返して学んでいくものでもあるのかもしれないが、頑なになった人の心というものは失敗を失敗とも認められない事がある。

 

しかし、金燦旭校長先生や神奈川朝鮮中高級学校の生徒達は、差別を受ける側でありながらも「日本人と普通に接して理解し合える事」「学校を開かれた場所にして、多くの日本人が足を運んでくれる事」を目標とし、心掛けてくれていた。

 

自分の不満や不安を誰かに向けることで安心しようとしている人達は、どれだけ悪態をつかれようと自分達に暖かい眼差しを向けて受け入れようとしてくれている人の心がないと、安定して立っている事はできない。

 

皮肉にも、それを一番実践してくれているのが、自分達が差別する相手の在日の人達であるという事を、認めざるを得ないのではないだろうか。彼等は差別を許しはしなくても、極めて冷静に公正に接してくれるのだから。

 

学校を去る時に、「またいつでもどうぞ」とお辞儀をしてくれた金燦旭校長先生と、外で遊んでいたのに私を見かけてまた挨拶をしてきた生徒達を見て、日本人が失いかけている心を、彼等が「朝鮮民族の誇り」として教育に取り入れて脈々と継承しているのだと思った。

 

暖かい彼等と接したら、朝鮮学校への補助金の打ち切りや無償化制度から外すといった政府や自治体の対応の全てが、仕組まれたビジネスのような差別の実態だと私達は気付き直せるきっかけを手にできるのではないだろうか。

 

(引用ここまで)

 

 

 

私は以前にも、外部から朝鮮学校を論じるうえでの視点を捉えてほしい意図から、拙い文を書いたことがある。https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20140727/1406467680


ここでも書いたことだが、

朝鮮学校に入り込んで、教師・生徒・支援者など、運営当事者から生の声を聴いたり実際の現場を見たり体験したりして得た情報を元に書かれたレポート

と、

朝鮮学校の外側から、朝鮮学校の運営当事者とは関係ない者や、朝鮮学校の水が合わずにドロップアウトした者の、類推や伝聞や妄想や妬み嫉みを繋ぎ合わせたレポート

とは雲泥の差があるというのが分かってもらえると思う()。

 

結局のところ、

朝鮮学校の教育姿勢を語るとすれば、実際に現役で「その」教育を受けた者が、どのように捉え、育ち、社会の中に巣立っているかを捉えるべきだし、

高校無償化法適用の是非を言うならば、「すべての意志ある者に教育の機会を」という立法趣旨の客体である学生当事者の利益を無視した議論などはゴマカシでしかない。

 

朝鮮学校を知ろうとするのであれば、

外野から・好奇心や猜疑心の赴くままに・都合の良いことだけを摘んで繋ぎ合わせたり、結論を先に設定して情報を収集したりするのではなく、

実際に教育を施し、受け、運営し維持している者の、思いや葛藤や理想に迫って書くべきだろう。

朝鮮学校は、当たり前すぎるほど当たり前だが、運営に携わっている者が運営しているのであり、運営に関係ない者の話を聞いても仕方がない。たとえ批判や要望であっても、運営当事者の手の届かないこと、例えば拉致問題がどうとか国交正常化がどうとか言っても仕方が無い。仕方がないことのいちゃもんに長々付き合って、いつもニコニコしているほど、朝鮮学校もお人よしではない。

 

私は、今般引用させていただいた著者様の、朝鮮学校及び在日朝鮮人に対する、素直で温かい眼差しに敬意を表するとともに、不躾な私の突然の要望にも快く応じていただけたことにも感謝申し上げる。

 

なお、引用させていただいた稿の感想、特に応援メッセージは、是非引用元のほうへとお送りいただければ、と思う。

 

)参考までに、わざわざ詳細は書かないが、私の言うところの「後者」の筆致のレポートや、その批判記事を挙げておく。全部産経が元ネタである。

http://x5jjri.seesaa.net/article/143496840.html

https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/41519302.html

http://d.hatena.ne.jp/three_sparrows/20120408/p1

義務は「日本人同様」、権利や保障は「朝鮮人を除く」。今も昔も一緒。 ― 朝鮮人元BC級戦犯の悲哀を描いた良質記事

良心的な記者による、鋭い洞察の記事があったので、記録の意味も含めて紹介したい。

 

 

日本人であることを強要された「元BC級戦犯」の苦悶

いつ命を奪われるか分からない日々に…
栗原 俊雄
現代ビジネス 2019.02.03
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59623

(引用開始)

(前略)

■今も続く「戦争」

「ああ、すっかり変わってしまいましたね。私の宿舎はあそこにありました」。東京屈指の繁華街・池袋、サンシャインシティの公園で、李鶴来さんはそう話した。2015年、8月のことである。

李さんは1925年、朝鮮半島南西部の全羅南道で、小作農の長男として生まれた。郵便局員などとして働いた後の1942年、17歳で軍属、捕虜監視員となった。前年の開戦間もなく、日本軍は東南アジアで占領地を拡大していった。それに伴い、連合国軍の捕虜が増えた。それを監視する人員が必要になり、植民地の朝鮮や台湾で募集していたのだ。

成績優秀だった李さんは、村役場から受験するよう勧められた。「拒否することはできませんでした」。役場ごとにノルマがあったという。

その後2カ月間、釜山で捕虜監視員としての訓練を受けた。「声が小さい、姿勢が悪い」などの理由で、上官から何度も殴られた。「立派な日本人にしてやる」と。命令は絶対。「生きて虜囚の辱めを受けず」=捕虜になることを厳しく戒める「戦陣訓」を暗唱させれらた。

戦時下とはいえ、国際法によって捕虜には人道にかなう待遇が保障されていた。しかし「捕虜になるくらいなら死ね」と教えた大日本帝国は、それを捕虜監視員に教育していなかった。李さんはまったく知らされていなかった。
訓練を終えた李さんは、泰緬鉄道で働く捕虜の監視員となった。タイとミャンマー(現ビルマ)を結ぶ鉄道で、映画「戦場にかける橋」の舞台として知られる。劣悪な衛生環境と過酷な労働、食料事情などで捕虜およそ1万人が死んだとされる。

連合国軍捕虜は大柄だった。少年の面影を残す李さんは「最初、怖かった」。しかし「なめられてはいけない、と思いました。そういう教育を受けましたから」。

泰緬鉄道は、ビルマを守りさらにイギリスの植民地インドをうかがう日本軍にとって、死活的に必要なもので、建設を急いだ。鉄道を敷設する部隊は毎日、労働に必要な人員を出すよう捕虜監視員に命じた。李さんは捕虜側の責任者にそれを通達する。捕虜たちは疲弊しており、病人も多い。

捕虜側が、求められた人員を出せない、と言ってくることもあった。しかし「上官の命令は絶対」とたたき込まれた捕虜監視員たちは、病気の捕虜らを作業にかり出すこともあった。

非情である。しかし日本軍の命令体系の末端にいた李さんたち捕虜監視員に、その非情な措置の意志決定権はない。多数の捕虜を死に追いやった責任は意志決定権を持つ軍体系の上層部にこそある。さらに言えば、戦争を始めた為政者たちにこそあった。

しかし、そうした国家意志決定者たちが李さんたちのように最前線に立つことはなく、したがって捕虜たちと接する機会もなかった。捕虜たちの憎しみは、直接接していた捕虜監視員に向かったのだ。

■「日本のため」だったのに、死刑

1945年夏。大日本帝国の敗戦で、ナチスドイツのポーランド侵攻以来6年に及んだ第二次世界大戦は終わった。しかし李さんたちにとっては、2019年の今日まで続く、別の戦争の始まりでもあった。

李さんら監視員は「捕虜虐待」の疑いで逮捕され、シンガポールの刑務所に入った。李さんは一度、解放された。日本に向かうべく香港に移ったところ再び拘束され、裁判を受けることになった。元捕虜9人から告発されていた。全員帰国しており、反対尋問はされなかった。つまり、告発者の証言に記憶違いや虚偽があったかどうかを確かめる機会はなかった。

さらに判事、検事とも戦勝国のオーストラリア人。およそ人道的とは言い難い裁判で下されたのは、「死刑」。「まったく予想していませんでした」。李さんはぼうぜんとした。「手錠をかけられて、その冷たさで我に返った」。
敗戦後、「捕虜虐待」などの理由で朝鮮人148人が「戦犯」とされた。そのうち23人が処刑された。李さんは、処刑されてゆく仲間を見送りながら考えた。「どうして、日本の戦争のために自分が死ななければならないのか」。納得できるはずもなかった。処刑に値する罪はない。そして、いつ命を奪われるか分からない。どれほど苦しんだのか、想像しがたい。

告発した9人の中には、ダンロップ軍医がいた。泰緬鉄道の現場で、仲間の捕虜を守るために軍医は、李さんと厳しく対立した。そのダンロップは、李さんの死刑に反対した。そこまでの罪ではない、という判断だ。李さんは懲役20年に減刑された。2人は1991年、豪州国立大のセミナーで再会し和解することになる。ぎりぎりのところで、人道の輝きがあったというべきか。

東西の冷戦が本格化する中、「戦犯」たちも翻弄された。1951年8月、李さんは東京の巣鴨プリズンに移された。今は東京・池袋のサンシャインシティ、都内屈指の繁華街だ。

翌年4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たすと「戦犯」たちの扱いは緩やかになった。外出ができた。プリズン内で新聞が発行された。収容所の中で自動車の運転免許を取ることもできた。

「著名な芸能人やスポーツ選手が慰問に来ていましたね。私たち朝鮮人の所には来ませんでしたが」

「戦犯」たちの釈放が続いた。しかし朝鮮や台湾の出身者、大日本帝国時代の「日本人」たちにはさらなる不条理があった。意志を聞かれることなく、一方的に日本国籍をはく奪されたのだ。

戦争にまみれていた大日本帝国には軍人恩給があった。だが、連合国軍総司令部GHQ)はこれを軍国主義の温床として停止させた。日本政府は独立した1952年、これを復活させた。前年には戦傷病者戦没者遺族等援護法を施行している。いずれも、対象は日本人だ。李さんら旧植民地出身者は、「日本人」として大日本帝国戦争犯罪を背負わされた。そして「日本人ではなくなった」ため、「日本人」が受けている補償から切り捨てられた。

55年4月。獄中にあった李さんら韓国人元BC級戦犯が「同進会」を結成した。「戦犯」や家族らが支えあうための団体だ。さらに日本政府に対する援護請求などの拠点となった。李さんは56年10月に巣鴨を出所した。仲間とともに首相官邸前に座り込むなど、補償を目指して運動を続けた。

 

■故郷にも帰れない

 

さて冒頭で見た通り2015年夏、李さんは今は公園となった巣鴨プリズン跡を訪れた。筆者の取材の依頼に応えてくれたのだ。公園はコスプレをした若者たちが集う場所で、この日もにぎわっていた。
「出所して、故郷に帰ろうとは思わなかったのですか?」。そう問うと、李さんは60年前を思い出すかのように、遠い目をした。

「1日でも早く帰りたかった。でも仲間に聞くと「『対日協力者として風当たりが強い。とても住めない』」と言われて、あきらめたんです」

日本に残ったものの身よりはない。仕事のあてもなかった。「戦犯」のレッテルは重く、就職もままならない。生活苦で出所した仲間2人が自殺した。

李さんたちは、タクシー会社の創業を目指した。肝心の資金はない。支援者が現れた。東京・江戸川区耳鼻咽喉科開業医、今井知文さん。すでに日本人戦犯の支援をしていた今井さんは、巣鴨で李さんと面識があった。「日本人として恥ずかしい」と思い、200万円を李さんたちに無担保で貸した。国家公務員6級職(後の上級職)の初任給が8600円の時代である。200万円は、自宅を担保に入れて工面したものだった。

李さんたちは懸命に働き、借金を返済した。今井医師は1996年、92歳で永眠した。「自分の息子のように助けてくれました」李さんはそう振り返る。

日本人として「戦犯」になった李さんたちの同進会は、日本政府に補償を求めた。だが政府は動かない。65年に日韓基本条約などが結ばれると、日本政府は「補償問題は解決済み」と、いっそう頑なになった。歴代首相に要望書を出し、首相官邸前での座り込みも行った。国会議員への陳情も。しかし、事態は改善しなかった。

同進会は、司法による問題解決を求めた。1991年11月。李さんら7人が日本政府に謝罪と計1億3500万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。「戦時中日本人として国の責任を肩代わりさせられ、戦後は日本国籍を失って補償を受けられないのは正義・公平の原理(条理)に反する」と主張した。日本にとって都合のいいときだけ「日本人」として利用し、都合が悪くなると「日本人ではない」として切り捨てる。そういう態度は、不正義、不条理であり、人道に反するものだ。そういう主張である。

96年9月、東京地裁は原告の請求を棄却した。判決は一方で「わが国の元軍人・軍属、遺族に対する援護措置に相当する措置を講ずることが望ましい」と指摘。ただ「どの範囲でいかなる救済を行うかは国の立法政策に属する」とした。

東京高裁も原告の訴えを退けた。ただ、注目すべきは「戦犯者控訴人らについてみれば、ほぼ同様にあった日本人、更には台湾住民と比較しても、著しい不利益を受けていることは否定できない」という指摘だ。

日本政府は1987年、台湾人戦没者と遺族に慰問金を支給している。だが、朝鮮出身者にはしない。高裁は、同じ植民地出身者でありながら日本政府が差別していることを指摘したのだ。その上で「国政関与者において、この問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講じることが期待される」とした。

そして99年12月、最高裁で敗訴が確定した。李さんたちの被害を認定しつつ、「立法府の裁量的判断にゆだねられるものと解するのが相当」とした。

被害を認定しつつ、解決は立法にゆだねる。李さんたち植民地出身の「戦犯」だけでなく、民間人の空襲被害者やシベリア抑留被害など、戦後補償訴訟で裁判所が繰り返し述べている「立法裁量」論である。

 

■命を削った闘争

 

被害者たちは、その立法ができる政治や行政に長年、しかるべき対応を求めてきた。らちがあかないからこそ、司法に救済を求め命を削って闘争をしているのだ。裁判が続く中で、亡くなる人もたくさんいる。そうした事例を取材している私は、裁判所の裁量論は、立法という権限へのたらい回しであり、虐げられた人権の救済という役割を放棄した判断にみえる。

司法のたらい回しにあった李さんたちは、立法による解決を目指した。これに応じたのが、野党時代の民主党議員だ。2008年5月、議員立法を目ざし「特定連合国裁判被拘禁者特別給付法案」を通常国会に提出した。だが翌年の衆議院解散で廃案となった。翌年、民主党が政権を取っても成立しなかった。

民主党時代の法案をたたき台に、朝鮮や台湾出身で、BC級戦犯として有罪になった人や遺族ら計321人に対し、1人当たり260万円を支給することを柱とする内容だ。予算総額は2億5000万円。対象者全員が請求し認められれば総額はもっと多くなるがが、当事者の高齢化が進んでいること、また当事者側が手を挙げなければ支給されないことなどから、総額を下回る見込みとしている。

2億5000万円は、巨額ではある。しかし日本人の元軍人、軍属らに行われてきた補償や援護の累計60兆円にくらべたらどうだろう。あるいは日本政府が1機100億円以上するアメリカの最新鋭ステルス戦闘機F35を100機以上買おうとしていることも考えたら。1人260万円は、戦争=国策と差別によって人生を狂わされ、かつ戦後74年苦しんでいる人たちへの支給として高額とはとうてい言えない、あるいは信じがたいほど低額だと、筆者は思う。

「低額すぎるのでは?」。そう問う筆者に、李さんは「お金は象徴であって、それが目的ではありません。『戦犯』として亡くなった仲間たちの名誉を回復するため。私たち生き残った者の責務です」と話す。

かつて70人いた同進会の仲間で、存命なのは3人だけ。ここ数年、動けるのは李さん一人だ。国会が開かれる度に、議事堂の向かいにある議員会館で支援者らが集会を開き、李さんが立法を訴える。つえをつき、時には車いすで。

集会に何度も参加する議員は、戦後補償問題に意識の高い人たちだと思う。「日本人として恥ずかしい」と話す議員もいる。筆者も「日本人として恥ずかしい」と思う。

また議員は、「今度(の国会で)こそ(立法を実現する)」などと話す。しかし、実現に至っていない。「シベリア抑留や台湾出身者戦犯への援護などは、議員立法で成立しています。なぜ私たちだけが……」。李さんはそう話す。「同情はいらない。求めているのは日本政府の謝罪と補償です。私が言っていることは理不尽でしょうか。日本人と正義と道義心に訴えたい」。

 「日本人はいい民族だと思うんですよ。勤勉、まじめで……」。李さんはしばしば、そう話す。今井医師以外にも、李さんたちを支援した日本人はたくさんいたし、今もいる。しかし結果として、私たちの日本社会は李さんたちの願いに応えていない。

強靱な精神力と体力で生きてきた李さん。しかし近年は入退院を繰り返すなど、万全の体調ではない。彼の日本人観を裏切らない結末、法案の成立が待たれる。李さんは今、93歳だ。


(引用ここまで)



この記事を見て、どのような感想を持たれるだろうか?


自分の意思とは関係なく、労苦や義務は「日本人として」果たすことを強いられ、刑罰も「日本人として」裁かれた。しかし権利や補償、恩給は「朝鮮人だから」除け者にされた。この不条理を埋める試みは、政治や社会の側からはまったく乏しく、司法にかけ合っても「立法に期待」して主体的な判断を示そうとしない。今も昔も、まったく一緒である。情けない気持ちを抑えることはできない。

過去の植民地政策とその残滓にろくに向き合ってこなかった日本政府によって、搾り取り・辱め・貪った人々への戦後保障は、最悪の解決策によって終結しようとしている。

つまり生命の途絶、という終結である。従軍慰安婦のハルモニたち同様、李さんも長くはない。どうか生命の灯が消える前に、日本政府や日本社会の、誠意ある『戦後補償』を求めたい、と思う。

 

改めて、問う。

 在日朝鮮人が、いまだに「ザイニチチョーセンジン」として存在し続けているのは、日本社会の責任である。

 上記命題の意味するところ、理解ができるだろうか?



(追記)

何の保障も受けられない朝鮮人の元日本兵が『醜い』姿を晒して世間に訴える姿、それを他人事のようにスカす政治家と、何とも冷めた目線で遠めに見る市民の姿を映した記録映画を紹介する。

在日芸能人の犯罪…なんでいちいち関連付けられなあかんのや?

日芸能人、と在日から見たらすぐに分かるが世間的にはそうだと認知されていなかった者が、破廉恥罪を犯して逮捕状が請求された、という報が駆け巡った。瞬間、嫌な予感しかしなかったが、やはり的中した。

翌日のヤフーニュースには、逮捕後にきっちり本名を晒された当該芸能人の記事が踊り、コメントは嫌韓厨のヘイトコメントで溢れた。

この者の芸名がいわゆる通名なのかどうかがは知らないが、犯罪の中身に言及することなく、わざわざ「本名を晒せ」「通名廃止だ」「在日の犯罪率がこれで分かる」と、嫌韓厨が異口同音に書き殴っている。

https://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20190201-00000248-sph-ent

 

 芸名を使うことも一般的であろう芸能人の本名が朝鮮名だったからと言って、それを在日朝鮮人通名使用の問題に収斂させてしまう。まさに「待ってました!」とばかりの盛り上がりと、脊髄反射的な短絡な反応である。在日という好物が投下されたら最後、個別の犯罪事実はそっちのけで、在日の通名使用だの犯罪率だので盛り上がる。私が命名したところの『パブロフのウヨ』である。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20170522/1495423154

 

そもそも、在日である個人の犯罪を取り出して、在日という社会属性そのものを貶め、「在日=犯罪者予備軍」のようにこき下ろす。そのことを嬉々として行う、ということがレイシズム・ヘイトそのものである。既に批判され尽くしている。私も批判資料を提出しておく。既出のものだが紹介する。

 

言うまでもないことだが、我々在日朝鮮人は単一の企業や秘密結社に全員が属しているわけではない。生計も個々のものである。別々の人生なのに在日の犯罪は、まるで連帯責任のように在日が一緒くたに論じられる。「またザイニチ」「ここにもザイニチ」「こいつもザイニチ」と。

在日は常にザイニチを晒して生きろ、という連中の主張も、ナチ下の六芒星そのものであり、連中の自意識を満たす以外の目的のない、何とも馬鹿馬鹿しい主張である。

このような唾棄すべき行為が、なんの社会的批判もなく、在日の犯罪が報じられるたびに繰り返され、そのたびにザイニチを運命として生きる我々の疲弊は蓄積していく。

 

「良いことをするのは日本人/悪いことをするのは在日」「在日の犯罪率は云々」「在日が日本の社会保障にタダ乗りしている」「在日が通名を使うのは在日特権のため」「在日は不法入国者で云々」「在日のDNAが云々」…

在日がザイニチという記号を抱えて生きることを強制している日本社会が、今日もザイニチに『負』を押し付けて、『日本』を保全している。

 

理不尽だ。

一部のやくざ者にいちいち関連付けられる身にもなってみろ。

放っておけばいい、言わせておけばいいことだが。



(20190205追記)

 

雑感:ガイジンと共存する気が無いのなら何故受け入れるのか?

今日、大阪国際女子マラソンをテレビでやっていて、ぼおっと見ていた。

終盤、アフリカの選手と日本の選手が一騎打ちになったが、アフリカの選手が先行し、日本の選手にはほぼほぼ勝ち目がない、という状況になった。それでもテレビは、その日本選手の過去の試合や生い立ちを取り上げながら、ほぼその日本選手のみをカメラで抜いていた。日本選手が遠くなっていくアフリカの選手を追いかけるさまを、日本選手の背中から前方に向けたカメラで抜き続けていた。『残念なことに』先頭のアフリカ選手がゴールテープを切るさまを5秒ほど映したが、再びカメラは日本選手にズームを向け、2位でゴールをしてからも、ほぼ当該日本選手に画面を割き、インタビューもアフリカ選手を差し置いて当該日本選手のインタビューを先に流していた。
遠い日本にわざわざ招かれて来て、クソ寒い中にもかかわらず1位でゴールテープを切ったアフリカ選手を満足に讃えることも無く、番組はほぼ日本選手のみにクローズアップして終わっていった。


大相撲初場所も、何年も綱を守ってきたモンゴル人の両横綱はそこそこしか取り上げず、日本出身(笑)横綱の充実ぶりがどうだということを場所前に散々取り上げた(残念ながら引退してしまったが)。優勝争いも、初優勝がかかるモンゴル人小結の何倍も、二連覇がかかる日本人関脇を持ち上げる論調であふれ、現場の歓声もモンゴル人小結の対戦相手に対するものばかりで可哀そうな限りであった。

 

思えば、大坂なおみ選手の全豪オープンテニスでの活躍に合わせ、スポンサーの日清食品がアニメで大坂選手を取り上げたが、明らかに白人に寄せたキャラで表現されており、瞬く間に批判が集中して取り下げられた。

 

スポーツの世界では、自国の選手に限らず、外国人選手も多数参加する。
誰それを応援するという次元で日本人を応援するのは勝手だが(身内びいきなのはどの国の媒体も一緒)、対戦相手たる外国人をリスペクトできないような姿勢はいかがなのかと思う。あくまでプロレスで言うところのヒール役でしか、外国人選手を捉えられないのであれば、それは相手に失礼だろう。

大相撲は国際試合でも何でもない。スポーツとして日本以外の普及も盛んではない。それこそ日本の伝統芸能(←と敢えて書く)に、日本語も何も分からずに身体一つで飛び込んできた外国人の若者たちが、ここ20年の大相撲の屋台骨を支えている。多くの外国人無しには立ちいかなくなっているのに、その現状をそれが悔しかったのか何なのかは知らないが、日本出身力士を待望し、日本出身力士がようやく活躍してくれた、と手放しで持て囃しているメディアというのは、どういう神経をしているのだろうか、と思う。

大坂なおみ選手の件などは典型だ。大坂選手が『日本人』であるから、その活躍や優勝を祝福するのであって、彼女が二重国籍だったり肌が褐色だったりという彼女の個性(日本人的でないこと)は露骨に切断しても良いと思っている。それが差別であるということに気づくことすらできない『世界的企業』。重症である。

スポーツを主催する、あるいは観る、映す目線として、スポーツには相手があり、相手も味方同様プライドや人生がある、という当たり前の前提を共有できていないことが多いのではないか、これでオリンピックをやるつもりなのか、冗談ではなかろうか、と思う。

 

 

 

翻って、昨年末、政治の世界を大いに盛り上げ、私がその政治に新たな絶望感を覚えたのが、外国人労働者受入拡充に関する、出入国管理法の改正法案だった。

安定の適当な審議による強行採決だった。安倍は立法機能を素通りすることなど屁とも思っていない。経団連の人件費削減のリクエストに応えるためにはなりふり構わず、というところだろう。慣れとは怖いもので、強行採決程度では既に驚かなくなってきた。

 

恐ろしいのは、この法案の中身がスッカラカンなことである。敢えてスッカラカンにした、と言っていい。ガイジンを単純労働者として大量に受け入れる、ということだけが決まっていて、その中身は省令で決めていく、という。そして、これらガイジンは移民ではない、という。雇用が(安い給料だから)安定しない分野にのみ調整弁として導入し、調整が済んだら帰ってもらうのだ、という。

 

外国人も人間である。機械を導入するかのように気に入らなくて取り換えるとかはできない(するかもしれないが)。子供を産むなとか恋愛をするなとかコミュニティを作るなとか、それは大きなお世話であり、不可能な話である。人間なのだから。

 

大量に流入した外国人は、その地域で、その種族で、コミュニティを形成するだろう。子供もどんどんできるだろう。親は子供に自らの文化や言語を授けようと思うだろうし、子供も日本社会と自らのコミュニティとのギャップに苦しみながら、日本人のそれとは違う自我を形成するなかで、それを欲するだろう。

 

皆まで言わなくてもわかるだろうが、外国人を労働力として受け入れるということは、この社会で根付き繁栄し死ぬということである。日本の産業界は上から目線で、外国人の人間としての営みを制限する気でいるようだが、絶対にそうはならないしできない。心配しなくてもコミュニティを形成するし、子々孫々繁栄するし、それに見合うだけの教育機関が要る(当然民族教育機関である)し、医療や公的扶助も、彼らの事情に特化したそれが新たに必要になるし、多文化共生や(外国人を含めた)基本的人権や民主主義に対する理解も、社会全体で進めていかなければならない。それを踏まえる気が無いなら、受け入れる資格が無い。

 

ところが安倍政権、そのことに想いが至らないのか、あるいはどうでもいいと思っているのか、現在に至るまで表立って触れようとしない。社会においても、多くの外国人が大量に流入したら、安い給料で単純労働を担うようになったら、どのような未来が待っているのかを想像しようともしない。

 

私の眼前には、非常にわかりやすい未来社会が広がる。それはサッサと切り捨てるつもりで無闇矢鱈に外国人を雇って収拾がつかなくなった労働市場と、低賃金競争でいつの間にか足元を脅かされる日本のサラリーマンたち、そして蔓延するレイシズムエスノセントリズムの空気、その期に及んで被害者ヅラする善良なる日本市民の皆様と、半笑いでそれを眺める私の姿、である(必ずそうなるから魚拓でも取っておいてください)。

 

外国から労働力を導入しようとして、その生活や人生を受け入れる気が無いのなら、最初から導入すべきではない。少なくとも現在の日本社会には、外国人との共存生活、多文化共生の価値観は浸透していない。それは既に100年以上前に、自国の都合で受け入れはじめた朝鮮人との共生に、未だにろくな回答を導いていないことからも明らかである。

 

誤読する者が多い(それほど国士界隈には短絡的な者が多い)から付け加えるが、これはガイジンを受け入れるな鎖国しろ、というバカげた主張をしているわけではない。外国人との共生は余程の未開の地でもない限り、避けられない時代的趨勢である。日本が先進国であればなおのこと、である。

つまらない自国優先主義・外国人嫌悪主義・宗主国根性・差別主義・選別主義を後生大事に抱えるのではなく、日本の民族意識や文化や言語は大事にしながらも、他国・他者のそれも隣人として尊重する思考の醸成と、日本に移住しようとする者を日本社会のメンバーとして受け入れる社会的インフラと法制度の構築に早急に取り組むべきであり、それに価値を持つ政治勢力を政治風景の中心に据えるべきである。少なくとも他国への嫌悪を煽って支持率を保とうと画策するような政治屋連中に、外国人を安易に受け入れる資格がないことは明らかである。

嫌韓本ブームは去ったのか & 韓国の書店に『反日』本は溢れているのか

数年前、いわゆる『嫌韓本』が巷に溢れていた。


https://n308.xsrv.jp/2017/09/05/post-309/



http://etc8.blog.fc2.com/blog-entry-2363.html

タイトルを見る限り、おおよそこんな感じである。

・日本はいいことをしてやった、インフラ整備してやった、国力を朝鮮に注ぎ込んだのに感謝しない、という、頼んでもないのにリフォームしてやったと開き直る押し売り根性丸出しの言説

・韓国社会の後進性、民主主義の至らなさ、貧富の差、社会資本の未熟さ、街の汚さに対する嘲笑

・韓国人のモラルの無さ、容姿の醜さ、服装の淫猥さ、習慣の卑しさ、人糞がなんだ、整形がどうだ、女の股がユルいだ、等のステレオタイプのこき下ろし

・出身地や政治的意見やスポンサー契約の企業などをあげつらって、◯◯はザイニチだ、◯◯は反日だ、などと「敵」として指し示すこと

総じて、嘘や誇張が乱用され、一部を全部に当てはめ、属性や出自で決め付ける、偏見と差別主義と植民地主義が丸出しの、乱暴かつ破廉恥この上ない論調である。

普通の感覚なら、このような記事はファクトチェック云々の以前に、ナチ的憎悪扇動として流通させてはならないものだ(少なくとも出版業の良心かあれば)。しかし、このテの新刊本が次々と出版され、書店のポールポジションに平積みにされた。週刊誌も同じような論調の、汚い言葉を表紙に踊らすことを、各社で競っていた。それが、つい数年前までの、書店の光景であった。


http://www.cyzo.com/2014/01/post_15798_entry.html


https://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/81d5646ab289514cf3ddb4b5cafec519

加えて、ほとんどは、韓国側(この言い方の時点でかなり頭が悪い言い方だが敢えて)の立場を支持する者は全部韓国人あるいは反日に認定するなどの選別(切断)も頻繁に活用されていた。結語に「韓国(人)とは付き合うな」「相手にするな」「縁を切れ」との扇情的な物言いを置くことにも抵抗感が無かった。
ところが、関係の断絶を何年も散々呼びかけているにもかかわらず、当の本人らが自ら縁を切って、『韓国(人)をネタにしない言論』を展開するそぶりは、何故か見せようとしない。逆に、自ら敵のテリトリーに何度も足を運び、自ら関係をこじらせて回り、相手もしていないのに喧嘩を売り、トラブルやいさかいを欲し、根掘り葉掘り深々と、韓国を嫌悪するための新しいネタはないか、と探し回っている。関係を断絶する気を、本人らからは微塵も感じることはできない。
前々稿の「余命日記」にも通じるが、攻撃や断絶をけしかけるのに自らは実行しない。自らは、韓国を専ら道具にして商売に勤しみ、韓国に積極的に関わり、韓国をビジネスパートナーとして徹底的に利用する。このサマのみをもって分かることで、端的にこいつらは、単なるインチキ連中である。

このような連中の書いたデタラメな本が、一部の日本人によって、『日本人であること』の自尊心のために、または自らの劣等感を糊塗するために、『卑しい韓国(人)』を味わうために流通する。このような悪趣味かつ学の浅い、ナチ思想と瓜二つの連中が日本社会の一部に確実に存在し、これら書籍の多くが受け入れられた。
しかしネタの新鮮味が徐々に乏しくなり(要はこのような悪趣味な著述者の構成に変化や拡大がなく、相互コピペが横行していた)、入れ替わるように『ニッポンスゴイ』ブームが隆盛し、最も重大なことにはこれらのネタを収集し鑑賞すること『自体』の卑しさへの自覚が浸透したことによって、急速に萎んでいった。



さて、数年前まで嫌韓本の平積みによって侵されていた書店は、私の足を遠ざけていた。本を買うのはもっぱらAmazon等のネットショップであって、なかなか店頭でじっくり本を詮索する気になれなかった。しかし嫌韓本がコンテンツとして収束しつつあるという情報を自らの目で確認したくなって、先日、大阪市内の数軒の書店に立ち寄ってみて、現状を検証してみた。




一時期、嫌韓本ばかりを良い場所に平積みしていた書店に立ち寄ってみた。ポールポジション百田尚樹に奪われているのはご愛嬌としても、嫌韓本は見当たらなかった。代わって橋下の本が置いてあったが。









雑誌コーナーの論壇誌の構成は相変わらずだったが、『あの』時は足元まで平積みしていたのに現在は棚で表紙を向けているのが数誌で、他は刺している。極一部に残るコアな嫌韓読者たちのために、配本されてきたやつだけは並べておこう、という程度のようだ。









ドぎついタイトル『嫌韓朝論(!)』が目につき、思わず手に取る。いつものメンバーが書き連ねている。客は細くなったのに演者が代わり映えしない。
あ、逆か。演者演目が同じの安い芝居が客を遠ざけたのか。









前3枚とは別の書店2店で、新刊本のコーナーで撮影した。他の政治関連やビジネス系の新書と混ぜてポツポツ置いてあった。嫌韓本でカテゴライズできるほどの出版数が無いのだろう。えげつないPOPなども皆無。あくまで並置、である。









しかし、どの書店に行ってもケント・ギルバートの本が平積み扱いなのには驚いた。種類も多い。AmazonのレビューやTwitterで情報収集する限り、エビデンスの裏付けに乏しい、とてもまともに読める著者では無さそうなのだが。一応インテリの扱いなのだろうか。










どうやら、嫌韓本が幅を利かせ、書店が知識や教養ではなく偏見と差別扇動を売っていた時代は、(私が数店舗の書店を見回る限りだが)終わりを迎えていたようだ。いくらか健全さを取り戻していて、胸を撫で下ろしている。
代わって「世界から尊敬されるニッポン」とか「安倍ちゃんスゴい」とかが平積みされていたが、これはこれで気が向けば追々書こうかと思う(多分書かない)。



翻って、嫌韓本が大量に平積みされていた時代、「ヘイトを商売にするな」と批判していた側には、様々な罵声がネトウヨ界隈から浴びせられていた。
表現の自由だ」「事実だからいいだろう」という頭の悪い言い分と並んで、「韓国も反日の書物ばかり並べているのだろう」という想像から来る文句も含まれていた。
私は年に数回韓国を訪れ、書店に何回も立ち寄っているが、そのような光景に出会ったことがなく、不思議なことを言うものだと思っていた。

実際、韓国の書店の、『反日』の扱いはどの程度のものなのだろうか、私が今夏に訪れた書店の風景をリポートする。確認してほしい。



訪れたのは、鐘路1街にある「鐘路書籍」という書店だ。ネットで「ソウル 書店」と韓国語で検索したら上位に出てきた。広い店内に、本がゆったりと並び、ゆっくり見て回れる。カフェやフードコートが至近にあり、ムードもよい。老若男女で言うと、若い層、女性向けが若干多い印象だが、何でも手広く置いている、有名な書店のようだ。







早速『反日』本を探して政治論壇系統や哲学系統の本を当たるが、南北関係の書物が圧倒的に多い。やはり南北首脳会談の熱が冷めていないこともあり、関心は高いようだ。早期の統一を目指す論調、冷ややかな論調、様々だ。









なおも探し歩く。中国に関する書籍は多い。歴史書、思想関連、リーダーに関する論評、様々だ。
しかし、というかやはりというか、『反日』本は見つけられない。どころか日本に対する論評の書が無い。『韓中日世界史』という本はあったが、近現代史の概説本。とても『反日』ではない。









世界の有名な作家による作品を集めた文庫本のコーナーで、太宰の「人間失格」を見つける。これに限らず、ビジネス書や文芸書で、日本の作家の作品を翻訳したものを見つけるのに苦労はない。










数年前に流行った「もしドラ」もあった。写真に撮るのを忘れたが、漫画本のコーナーでは妖怪ウォッチとかドラえもんなどが翻訳版で並んでいる。










旅行書のコーナーがあった。日本行きの旅行書が最も部数が多い。ほとんどが国名別で発行されているのに、日本向けのものは都市別がほとんど。「東京」「大阪」「福岡」「四国」など。最も近い外国なので当然ではあるが、何だか嬉しい気分になる。









「大阪で宝探し」という児童向けの旅行書。大阪城通天閣海遊館などのイラストが並ぶ。











カルチャーのコーナーに、「伝統剣道」という本があった。前後の本がスポーツというわけではなく、脈略のないところにポツンとあったので笑ってしまった。記念に撮っておいた。










どうやら『反日』本どころか、日本の政治風景を論評する書籍は一切ないようだ、という結論を得て帰りかけたところ、一冊平積みで置かれていたのがこれ。「東京30年、日本の政治を貫く」という本。日本在住の韓国人教授が、日本の政治風景を緻密に書いている。パラパラと立ち読みしたが、30年の日本在住・研究歴からあくまで客観的な日本の政治レビューであると感じた。安倍の民主主義の手続を経ない政治手法をかなり批判的に論じているが、このことをもって直ちに『反日』と切り捨てる者は、たとえネトウヨでも少数だろう。興味があるなら、この本のレビューが書いてあるURLを紹介するのでご覧いただきたい(韓国語)http://www.yes24.com/24/goods/65121109




写真は撮ら(れ)なかったが、ほか数軒の小規模な書店を見ても結論は変わらない。
反日』どころか、日本の政治風景を論評する本に出会うことは難しい。要は特段関心がなく、本に出すほど売れない、ということだろう。
韓国の国際政治を論ずるうえで、日本は、中国・米国・ロシア・朝鮮などと並ぶ外国の一つであって、本に限らず、ニュースやワイドショーを見ても、日本の政治ネタは、日本のワイドショーのそれと比較しても、はっきり言って少ない。
(私は数年前から韓国語の勉強のために、休みの日はKBSやMBCのニュースを流しっぱなしにしているが、安倍晋三が出てくる頻度は、習近平やトランプや金正恩の頻度より格段に少ない)

代わりに、日本の文化やビジネスモデルに触れようとする書物、日本の優れた文芸作品の翻訳本、行き先が日本の旅行書、日本語のテキスト、日本の漫画キャラクターなどは、探さなくても至る所にある。一度見に行ってみればいい。心配しなくても日本文化は深々と韓国に浸透している。

日本と韓国は断交せよ、という頭の悪い主張を繰り広げている連中や、日本と韓国が仲違いすることで利益を得たり政治的延命を図ったりといったよこしまな連中は、いい加減このへんで放っておいて、お互いの文化、特に優れていたり美しかったりクールだったり、という文化の交流を、何のわだかまりもなく続けていきたい、と思う今日この頃、である。

ブログ再開後、2週間を経過しての雑感

1年以上眠らせていたブログを再開して1稿書いたら、いろいろなコメントがついたが、大部分は罵詈雑言やヘイトのコメントだった。

在日朝鮮人のブログということで、わざわざ文句を言いに寄ってきた者
*とにかく、韓国・朝鮮という国家、及びその国家機関の挙動に対し文句が言いたくて書き込んでいく者
*エントリーに関係の無い主張を繰り広げる者
*出自や身の上など、プライベートを不躾な言いぶりで詮索する者
*とにかく粘着質に一つひとつのコメントに何かと文句を言いに来る者

これでは何のためのコメント欄か分からない。
エントリーの主張に対し、感想・意見・賛意・批判をするためのコメント欄であるはずだし、ブログの主旨(人権擁護と多文化共生)にかなうコメント、たとえ国籍やバックボーンは違っても目指す方向性や理想を共有するべく議論する場でなければ、私がブログを続ける意味がない。

他者の人権や、多文化が共に生きる社会を軽んじるコメントばかりが並び、選別主義や差別思想をひけらかし、日本以外の国・民族、あるいは共同幻想の『反日』の立場の者を貶める場を提供しているようでは、ヘイトの増幅に一役買うことにも繋がりかねない。

これまで、良心的な筆致のブログや人権擁護を求める市民団体が、べったりとまとわりつくネトウヨレイシストの攻撃に手を焼き、閉鎖や休眠に追い込まれていく様を方々で見てきたが、分かる気がする。
ネトウヨレイシストの理解を取り付けるほど、骨の折れることも無いし、利益が少ないことも無い。
常々私が言うように、彼らに必要なのは、治療であり、まともな政治や法治による『周辺化』である。

これほどに「反知性」や「嘘」や「ごまかし」が大手を振って歩くようになった現在、私が結果としてそれに加担するようでは、まったくどうしようもないので、以下のとおり、ブログの方針を変更することにする。



1)コメント欄は承認制とする。

2)承認する基準は以下のとおりである。
*エントリーに対する、感想・意見・批判・議論とする
*エントリーと関係のないものであっても、民族や社会的属性を貶めるものでなく、人権擁護や多文化共生に資する意見等と認めるものは承認する

3)承認されないものとしては、上記2の基準のほか、以下のとおりである。
*差別主義、選別主義、歴史修正主義を是とする発言
*人権擁護、多文化共生といった、人類の普遍的な価値に挑戦する主張
*会話が成り立たない、前提となるべき知識や共有されるべき着眼点を欠く、独善的な主張

4)ブックマークのコメントについても、同様の基準で削除することがある。



個人のブログは個人の主張を展開する場である。私の主張が気に入らないのなら、別でブログでもやればいいわけであるから、律儀に構える必要もないと思い至った。不本意ではあるが、了解願いたい。
現在別の稿を執筆中である。近日中にアゲる予定である。

人々を選別し、敵を指し示し、攻撃を扇動することが賞賛される「国」は、美しいか?

この間、あまりに仕事が充実しすぎて『社畜を満喫していた』のと、プライベートが多忙すぎたので、まったく更新ができなかった。
コメント欄にはヘイトがあふれていて、何度か、はてなからコメント欄の制御要請(要は激烈な差別表現を間引けという要求)が来ていた。
何とかせねばならぬ、とは思っていたが、身が割けなかったは弁解の余地もない。
しかし、何度かブログ内で表明しているとおり、「差別は現に存在している」ものであるから、明らかな差別意図を含んだコメントを、間引いで見えなくするのは違うと思っている。
Yahooのコメント欄のような拡散性は拙ブログには無いし、愚かな差別文言が拙ブログで半永久的に晒されるのも、この時代の『負のモニュメント』として、存在価値があると思っている。

いい素材があったので、久しぶりに、短く書こうと思った。




大量懲戒請求 賛同した女性「洗脳状態だった」
毎日新聞 2018年10月23日 16時45分
https://mainichi.jp/articles/20181023/k00/00e/040/296000c



(引用開始)

在日コリアンらの排斥」を訴えるブログの呼び掛けに応じ、多数の読者が2017年、各地の弁護士を対象に計約13万件の懲戒請求を出した問題で、実際に請求書を出した女性(50歳代、首都圏在住)が毎日新聞の取材に応じた。女性は「ブログに不安感と恐怖感をあおられた。洗脳状態だった」などと主張し、「現在は請求したことを後悔しており、謝罪文を送付して一部の弁護士とは和解した」と話した。【後藤由耶/写真映像報道センター】

女性があおられたとするのは「余命三年時事日記」と題された匿名の筆者によるブログ。「南北朝鮮人は日本の癌(がん)」などとしたうえで、読者に(1)「在日」と見なした人物を「不法残留者」として入国管理局に通報すること(2)「反日」などと見なした人を外患誘致罪などで検察に告発すること(3)朝鮮学校への補助金停止に反対する弁護士会長声明に賛同することは「確信的犯罪行為」などと理由を付けて、賛同した弁護士らの懲戒請求をすること−−など具体的な行動を促してきた。

今回、取材に応じた女性は落ち着いた語り口で、丁寧に言葉を選びながら記者の質問に答えた。請求した相手や提出件数は正確に覚えていないが、請求した人数は「だいたい170人くらい」とし、「(ブログの書き手に)言われるがままにやっていた」と振り返った。請求された弁護士らが逆に、業務妨害などとして損害賠償請求する動きが報じられ、初めて「恐怖を感じ、まずいことをしたと気づいた」と言う。

女性がこのブログと出合ったのは15年、あるお笑い芸人のネタが「反日的だ」とするネット上の書き込みを見たのがきっかけだった。そこからネットサーフィンするうちにたどり着いた。過激な文言が並ぶ中でも、とりわけ「日本が韓国・中国と紛争状態になったら在日コリアンらと実質ゲリラ戦の状況となる」の記述に危機感をあおられたという。女性はブログからの「指示」を楽しみに待つようになり、「日本を守るために」と指示を実行していく。ブログ運営者の活動費にしてほしいと現金を寄付したこともあった。

弁護士への懲戒請求は、所属する弁護士会宛てに必要書類を送れば誰でもできる。弁護士法に違反するなど「品位を失うべき非行」があると認定された場合、弁護士は業務停止や除名などの懲戒処分を受ける。

女性は大量の懲戒請求について「負担感は全然なかった」と振り返る。ブログのコメント欄に自身の住所・氏名を書き込み意思を伝えると、昨年5月と10月にそれぞれ約200枚の告発状と懲戒請求書が送られてきた。対象者名や請求理由は記載済み。女性は自分の氏名と住所を書き込んで押印、まとめて東京都板橋区にある指定場所へ郵送するだけだった。ネット動画を見ながら作業し、半日もかからずに書き終えたという。

事の重大さに気付き、このブログを読むことをやめた今は「対立をあおって戦わせようと仕向けるカルト性が高い危険なブログだった」「信者になっていた」と感じている。「朝鮮学校への補助金支出は誤り」という考え自体に変わりはないが、懲戒請求という「手段が間違っていた」と振り返る。

    ◇    ◇    ◇

一方、標的とされた弁護士は「これは明らかにヘイトスピーチだ」と憤る。

東京弁護士会に属する在日コリアン3世の金竜介弁護士は17年11〜12月、959人から懲戒請求を申し立てられた。「単純に名前を見ただけで対象に選んだのだろう」(金弁護士)。書面には自身を含む8人の「在日弁護士」の名前が連ねられていたが、いずれも仕事上のつながりのない人たちだった。

金弁護士は「(請求は)人種差別が目的」と断じる。ネット上の扇動をきっかけに自らの氏名と住所を明かして請求行為をするという点で、「匿名のヘイトスピーチとはまったく質が違う」とも指摘した。今年7月、請求者数十人を相手取り損害賠償請求訴訟を起こしたのは「ここで歯止めをかけないと直接的暴力につながる」との危機感があるからだという。

「もはや教育や啓発活動だけでは(対応策は)足りない段階に来た」。金弁護士は歯止めとなるような新たな法整備が必要だと訴える。

960人から懲戒請求を受けた札幌弁護士会の池田賢太弁護士には、今年7月までに7人の請求者から「謝罪文」が届いた。しかし、「そこに『差別をした』という認識はなく、損賠請求を免れるための手紙としか読めなかった」と厳しい見方を示す。

池田弁護士は今回、95年前の関東大震災時に起きた朝鮮人の虐殺事件を想起して強い恐怖を感じたという。「当時はデマを伝える手段も限られていた。今のように誰もが瞬時に情報発信できる中で同じようなことが起きたら、いったいどうなるのだろうか」。近年は大きな災害が発生する度に、排外的なデマがネット上で流布する状況だからだ。

池田弁護士は、うち3人の請求者にこんな返信の手紙を送った。「あなたがなすべきことは、あなたの中に明確に存在する『差別をする心』と向き合うことであり、差別を楽しむこととの決別です」

    ◇    ◇    ◇

ブログの運営資金などを管理しているとみられる法人の代表者は毎日新聞の取材に応じ、「口止めをされている」「(ブログの管理人が)どこにいるか分からない」などと話した。複数の関係者によると、管理人は70歳代で元タクシー運転手だという。ブログの投稿欄を通じて取材を申し入れたが、23日現在で返答はない。

弁護士の懲戒制度

弁護士には業務上の「自治」が認められ、懲戒処分は行政庁ではなく弁護士法に基づいて所属する弁護士会が行う。懲戒請求は誰でもすることができる。会員弁護士らでつくる委員会が調査し、処分(戒告、業務停止、退会命令、除名)を検討する。全国の請求数は年間数千件で推移してきたが、昨年はブログ「余命三年時事日記」の扇動を背景にした請求の影響で約13万件に上った。

(引用ここまで)



例の、「余命日記」に扇動されて、(ほとんどが)無関係の弁護士に大量に懲戒請求を出した愚者が、毎日新聞に言い訳をしている。
「洗脳状態だった」「カルトだった」「自分が差別主義者だと言われてもピンとこない」と、本当にピントのずれた寝ぼけた言い訳を並べている。
在日の弁護士に対し、在日だからという理由で懲戒請求を送るという行為を、「ただ言われたから」「書いていたから」と、『当事者性』を放棄して、あっけらかんと語る。

端的に言えば、無知そのもの、という愚かさだが、
無知なのにここまで他者を攻撃できる愚かさ。被告人席に座るいまに至っても、「ブログが悪い」と、自分の行動の責任を他者に転嫁する愚かさ。二重三重の愚かさに見合う言葉を、私は見つけられずにいる。本当に、ただただ愚かだ、としか言いようがない。

この国では、人々を「我」と「彼」、「味方」と「敵」という二極構造で選別するという図式を、行政府の長が多用してきたことに象徴されるように、選別主義的な物言いや思考回路が本当に幅を利かせてしまっている。「敵」はここにいる、「敵」は「我」を攻撃しようとしている、「敵」をやっつけなければ「我」は脅かされるといって、人種や信条で「敵」を括り、それをあげつらいおとしめるといった言動が、日々繰り返されている。そして、「敵」には何をしてもいい、「敵」は「敵」なのだから、真理も理論も法治も理想も理性も何もかも放り出して、屁理屈やへったくれを押し付けて、自分たちの思い込む『正義』を追求すればいい、と思っている。日々その図式が、政治の場で、ネット上で、テレビで、裁判所で、そして社会の日常で、量産され、疑問は挟まれず、よくやったよく言ったと賞賛されてさえいる。
私が例示するまでもなく、そのような光景は、日本のそこかしこに、本当に至る所にある。社会を分断し、人々を対立させ、コストや時間をことごとく費やして「分ける」ことに心血を注ぐ、今日の日本の風景である。

件の事件は、「ザイニチは日本(人)の敵だ」と差別を扇動するブログによって、攻撃対象を指し示され、実際にその攻撃に手を下す文字通りの愚者が大量に発生した、という事件であるが、
 *攻撃内容がとにかく稚拙であり、
 *攻撃対象が、あろうことか法律の専門家である弁護士だった
ことによって、幸いなことに、攻撃者がその行為に見合うちゃんとした責任を取らされることで収束しようとしている。

しかし、同様の図式が再生産されることによって、いつ何時私や私の家族が攻撃される、という具体的な恐怖が、私にはある。私は、私の家族は、朝鮮人だ。余りに分かりやすく、余りに「敵性」性向が強すぎる、在日朝鮮人という識別記号から、私は逃れられない。いくら取り繕おうが、いくら名前や素性を偽ろうが、まごうことなく、私は朝鮮人だ。
社会が、あげつらうほど、おとしめるほど、その識別記号は鮮明化し、ユダヤ人排斥の際に書きなぐられた六芒星のように、私の人生に影を落とす。朝鮮人であることは、運命だし、悪いことでも何でもないが、この運命とともに生きることに、困難の度合いが日々増している。そういう社会に、日本社会は、だんだんと、しかし着実に、巻き戻ろうとしている。

そして、私のこの恐怖は、件の愚者の言うところの、抽象的で中身が無い、幻想の『恐怖』などではない。
実際に大震災の時にこの社会はデマに乗って朝鮮人を殺しまわり、実際に一世紀以上も前から現在に至るまで制度的な排斥を崩さず、社会の分配から除け者にし、我々の子女はチマチョゴリの制服では街中を歩けなくなり、有形無形のいじめや享楽の対象にされてきた、という具体的な積み上げがある恐怖である。ブログで煽られた程度で、脳味噌を通過せずに差別行為人権侵害行為を平気で繰り出す人間がこれだけ発生する今日、情勢不安や為政者の物言いから、いつでもそれが大規模化先鋭化するだろう、という、予兆をも感じる恐怖である。つまりジェノサイド前夜の被排斥者の恐怖である。

この社会は、私の、私の家族の、そして在日朝鮮人コミュニティの抱える、この恐怖に対する想像力を、欠片程度でも持ち合わせているのだろうか?
毎日のように意識せざるを得ない、この社会に対する疑問である。

虐殺事件のモニュメントと、歴史修正主義と。 ― 小池東京都知事の愚かな判断

世界各地、虐殺が起こった土地では、その反省と教訓を後世に遺すべく、記念碑や資料館を立てたり、その舞台となった場所を保存したりしていることが多い。

例えば、現代最大の大量殺戮の舞台となったドイツでは、ユダヤ人や、シンティ・ロマ、障がい者らを殺戮したことを後世に語るための巨大なモニュメントが至る所にある。


http://berlinhbf.exblog.jp/1090258/


http://motoobeyond.blogspot.jp/2010/09/2_29.html



https://www.ab-road.net/north_america/usa/boston/guide/11294.html



例えば、ポル・ポトが支配し恐怖政治を敷いたカンボジアには、政治犯収容所として2万人が虐殺されたと言われているS21が、そのまま虐殺博物館として保存され、その際に犠牲になった人々の頭蓋骨をそのまま展示したり、子供たちを含む多数の犠牲者の写真や拷問具を紹介したりするなどして、その犯罪性を白日に晒している。


http://keishiseki.blogspot.jp/2014/01/blog-post_27.html


https://blogs.yahoo.co.jp/tuktuk_asia/10864922.html



http://boysbeambitious1.blog.fc2.com/blog-entry-30.html



例えば、徹底的な赤狩りによって6万人が犠牲になったと言われる「4.3事件」の舞台となった韓国・済州島には、その慰霊碑と歴史資料館がある。当該事件は余りの犠牲者の多さと比率の高さ(島民5人に1人の割合で犠牲になった)から、韓国内でも長らくタブーとされていた(何せ虐殺加害者と犠牲者家族が隣近所というのが珍しくないのだから)。しかし盧武鉉政権下で政府として公式に謝罪している。


http://www.dangdangnews.com/news/articleView.html?idxno=26377


http://www.jejudomin.co.kr/news/articleView.html?idxno=70157



http://m.ohmynews.com/NWS_Web/Mobile/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002313268#cb

実は、数年前、私はここに訪れたことがある。都市部よりかなり離れた寂れた場所にあり、その場に居合わせた訪問者は私を入れて十数人と、(日取りが良くなかったのかもしれないが)絶えず多くの人の目に触れるというようなものでは決してなかったが、証言・証拠・写真映像等様々な資料は、多数の犠牲者の死を社会が無駄にせず、後世に活かそうという意欲を汲み取ることができた。




誇らしく輝かしい歴史も、恥ずかしい負の歴史も、歴史的事実は消すことができない。しかし後世に生きる者が、その歴史を直視し、それを教訓として生かすために、このようなモニュメントは価値があると思う。建っていれば、残っていれば、その事実の風化は抑えられるし、先人の歴史を教材・サンプルとして、同じ過ちを繰り返すという不幸を抑えることにもつながる。

国家が、被害の歴史ばかりでなく、加害の歴史にも向き合い、それを正しい評価の下、ありのままを整理して残すことは、その国民を再びその被害・加害に晒さないために重要なものであろうと、私は認識する。



日本も、関東大震災朝鮮人虐殺事件という負の歴史を背負っている。しかし日本国家は現在に至るまで、このジェノサイドをろくに総括せず、公式に犠牲者数も集計すらしていない。モニュメントと呼べるものは、民間が建てた小さな石碑程度のもので、その歴史の教訓を後世に語り継ごうという意欲は、国家レベルでは、まったく無いと言っていいだろう。


http://tokyoireikyoukai.or.jp/park/%E6%96%BD%E8%A8%AD%E6%A1%88%E5%86%85/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85%E8%BF%BD%E6%82%BC%E7%A2%91/

挙句に、今日の日本では、歴史的事実を証言するモニュメントに難癖を付け、価値を軽んじ、あるいは撤去を画策しさえしている。負の歴史を無いものとして歪曲していく過程において、その事象の象徴たるモニュメントは、存在してはならないのだろう。低俗な屁理屈と事なかれ主義の共同作業で、街中の『物言わぬ証言者』は、どんどんその姿を消してしまっている。


http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/43fa2f2dc83dae3b39c51672b6b3433b



数年前に韓国のモニュメントを目にしたという自分自身の経験と、今年もまた9月1日の関東大震災記念日を迎えることとが相俟って、
犠牲者数も去ることながら、その差別性、惨たらしさが上記の事件に決して引けを取らない関東大震災朝鮮人虐殺事件に関して、日本には満足なモニュメントひとつ、歴史教育ひとつ、まともに存在しないことに、私は今日、たまたま想いを巡らせていた。
そうしたらたまたま、東京都知事の小池が、朝鮮人犠牲者慰霊式典への追悼文の送付を見合わせたとニュースが飛び込んできた。



小池知事朝鮮人犠牲者慰霊式典へ追悼文送付を取りやめ
毎日新聞 2017/8/24 20:53
https://mainichi.jp/articles/20170825/k00/00m/040/092000c

(引用開始)

東京都の小池百合子知事が、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者を慰霊する9月1日の式典への追悼文送付を取りやめていたことが分かった。歴代知事は毎年送付し、昨年は小池知事も送付していた。都の担当課は「知事は朝鮮人も含め全ての犠牲者に追悼の意を表しているので、個別の慰霊式への追悼文送付は見合わせることにした」と説明している。
式典は市民団体などで作る実行委員会の主催で、都立横網町(よこあみちょう)公園(墨田区)の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」前で毎年9月1日に実施される。この日は同公園内の慰霊堂で関東大震災東京大空襲の大法要も開催され、歴代知事は毎年出席して哀悼の意を表した。都によると、少なくとも石原慎太郎氏ら歴代知事は、主催者の求めに応じて朝鮮人犠牲者の慰霊式典に追悼文を送付してきた。
追悼文を巡っては、3月の都議会第1回定例会の一般質問で古賀俊昭都議(自民)が虐殺された人数に異論があるとして、「追悼の辞の発信を再考すべきだ」と発言。小池知事は「犠牲者数などについては、さまざまなご意見があることも承知している。毎年慣例的に送付してきたものであり、昨年も事務方が慣例に従って送付した。今後は私自身が目を通した上で適切に判断する」と答弁していた。
都公園課の担当者は「(見合わせは)以前から検討していたこと。この答弁で決めたわけではないが、きっかけの一つとなったのは事実」としている。
関東大震災50年の1973年に設置された追悼碑には「あやまった策動と流言蜚語(ひご)のため六千余名にのぼる朝鮮人尊い生命を奪われた」と刻まれている。

(引用ここまで)



小池にしてみれば、遠い昔の朝鮮人の大量死などを慮るより、自分の支持者・支持層のナショナリズムを喚起するほうが政治的都合がいいのだろう。
これまで眺めてきたような、「歴史の教訓を後世に伝える」という価値を真向から否定し、今日の日本でトレンドになっている歴史修正の系譜から1mmもぶれない、見事なまでにチンケな政治信念である。()。

「知事は朝鮮人も含め全ての犠牲者に追悼の意を表しているので、個別の慰霊式への追悼文送付は見合わせることにした」と説明している。

とあるが、災害で命を落とした者と、土着のエスノセントリズムの発揮によって殺された者とが、同じ価値判断であろうはずがない。その慰霊や歴史的反省の方向は、性格を全く異にすることくらい、中学生でも分かりそうなものだ。こんな拙い言い訳が通用するとでも思ったのか?まったくもって呆れるしかない。



在日朝鮮人の存在理由が学校でろくに教えられなくなって久しい。
このような日本の現状に、日本国家の負の現代史の残滓のような存在である私は、ある種の思いを日々強くしている。
そのうち自分の存在理由の正当性(合法性と言ってもいい)を、周囲の日本人に日々語って理解や許諾を取り付けて回らない限り、ほうぼうで人格が否定し尽くされ、生存すら脅かされるのではないか、と。

・教科書の記述を後退させ、あるいは育鵬社の教科書を推進し、
・各地の歴史的モニュメントを撤去し、あるいはその意義を認めず、
・韓国朝鮮人を資源の再分配から除外し、ここは日本だ日本第一だと開き直る、
これらは完全に地続きである。それを恥とも思わない政治勢力が、日本を完全に覆っている。

歴史を否定し、その証拠すら消し去ろうという勢力が、いつまで跋扈し続けるのか?暗澹たる思いだ。



)私は常々、安倍と小池は瓜二つ、自民党に入れる代わりに『第二自民党(あるいは第二維新の党)』たる小池新党に入れても、東京の政治風景はまったく変わらないと主張してきたが、100%の予想的中である。
安倍が政権奪還直後に朝鮮学校を無償化法から排除したように、小池は就任前後から韓国人学校の土地貸与はゼロベースと言ってきた。少数者を切り捨てて見た目の手柄を立て、ナショナリズムを煽り、選別によって多数者の喝采を得る。議会で多数を握ったら最後、配下の議員は早速顔が見えなくなり、ボスに無言で追従し数に驕り盲目的に賛成票を投じる。何から何まで安倍と瓜二つである。
これで来月、前原が『第三自民党』を立ち上げたら、いよいよ日本社会は最終段階に突入する。おぞましくて想像すらしたくないが、極右・極右・極右で政党が乱立して、何を競い、何を基準に票を入れるのか?もう本当に訳が分からない。

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

大阪朝高無償化裁判、地裁勝訴判決 ― たたかいは、これからだ。(20170731追記あり)

大阪朝高が勝った。我が母校が勝った。
大阪朝鮮学園が国を相手取り、高校無償化法の適用を求めた訴訟は、大阪朝鮮学園の完全勝利という、全くの予想外の地裁判決が下った。

この「全く予想外」という感想は、私が悲観的という話ではなく、この訴訟に関わり支援する大多数の者の共通認識であった。

今年1月の、大阪府・市の補助金の復活を求める大阪地裁判決は、行政の不手際を救済しながら、原告の弁論を完全無視して『キタチョーセンを切り捨てる』という世論迎合の結論に、理屈もかなぐり捨てて突っ走った判決だったし(http://www.sankei.com/west/news/170126/wst1701260077-n1.html)、
直前に下った広島地裁判決は、当該大阪判決とは真逆の結論で、子供の学習権、学校の民族教育権を一顧だにせず、それこそ、「カネがキタチョーセンに流れるかもしれない」という妄想とも言える『留意』を慮った馬鹿げた判決であった(http://www.sankei.com/west/news/170719/wst1707190058-n1.html)。



これまで常にそうであった。
朝鮮人の権利など、のっけから認められるわけもなく、除外・選別しながら、気が向いたら『特例』『裁量』で認められるのが常であった。
法律で除外を試み、法律で除外できなければ解釈や適用で除外する。
朝鮮人法治国家の住民として法律論で抗っても、感情先行で・嫌悪感丸出しで・屁理屈で・コジツケで、常に枠外に追いやられる。それが常であった。
朝鮮人を除く』が常に付きまとってきた我が人生だったし、周囲の友人知人のイザコザもイヤというほど聞きながら生きてきた。
この社会は在日朝鮮人の声に感化されて変化するほど柔軟ではないと分かっていた。朝鮮人は、日本社会にとって、差異を設け、攻撃し、危機を煽り、溜飲を下げ、言い訳を言いふらすのに『利用する』存在であり、もう一世紀以上『使い込んできた』社会構造である。
在日朝鮮人を自分らと同じ人間として外面(そとづら)では接しても、内面では、常に二級住民として存在を捉え、舌を出し唾を吐いているだろうことは、実体験で、イヤというほど認識していた。

私にも人間としての尊厳がある。自分や他者に向けられた差別に黙っていられないから、声を挙げるし、ブログも書く。裁判傍聴や報告集会にも行くし、SNSで拡散もする。しかしそれは、苦痛を伴うことであるし、見たくもないものを見る可能性をも孕む。
実際、数年机を並べ共に仕事をし、プライベートでも親交の厚い私の同僚が、SNS上でシェアされた「朝鮮学校補助金除外」の記事に対して「いいね!」しているのを目にしたこともある。朝鮮学校出身である私の素性を知らないはずがない彼が、私も見るであろうSNS上で、朝鮮人の子供が悔しくて泣くのを「いいね!」と賛同しているのを見たとき、近年覚えることのなかった本気の吐き気を催した。いまでもそれを思い出すと、口中を酸気が襲う。

実体験の中から、常に自らの立場を、イヤというほど自覚していた。慣れていた。負けるのに、虐げられるのに、打ちひしがれるのに、自分でもイヤになるほど、飼い慣らされていたのだ。

私の妻が、判決公判当日に、傍聴券の抽選に行くと言った。私は仕事で行けないこともあるが、絶対に負けると思っていたので「どうせ負けるわ」と、ツレなく言った。それでも行く、と妻は出て行ったが、チリほども期待していなかった。初報に接するまで、本当に信じられなかった。



今回の大阪地裁の判決は、大阪の、そして全国の在日同胞に、驚きをもって迎えられた。私も職場で妻からのメールに机がひっくり返りそうになるほど驚いたし、当日の判決報告集会で壇上でスピーチをする者ほぼ全てが「不当判決に抗議するスピーチばかり考えていた」と口を揃えるほどだった。SNSでの拡散は尋常ではなく、LINEは鳴りやまなかった。本当に衝撃的なものだった。それほど、これまで、我々は疲弊し、不感を強いられてきたわけだ。



今回の判決について、短く感想を書く。
『ことごとく妥当。』、この一言である。
元々、被告(国)が、高校無償化法の立法主旨を逸脱して、キタチョーセンにカネをやりたくない、という救う会等の圧力団体に迎合して、省令を改正してまで朝鮮学校を排除したのが問題の発端である(パブコメ結果.pdf 直)。
それが訴訟沙汰になったら、国は後付けで「財務状況」だの「ミサイル」だの「基準」だの色々並べて、妄想のような『懸念』を言い立てたわけである。
それにいちいち付き合って丸ごと乗ってしまったのが広島地裁判決であり、ことの経緯を精緻に分析してその言い草を一蹴したのが大阪地裁判決である。
行政の公平性公正性の原則から、後出しジャンケンで狙い撃ちして排除するのが違法・不当であることを、真正面からジャッジした判決だと言える。



法治主義、及び日本国自身が掲げあるいは批准する憲法及び国際人権条約の系譜から考えて、当然とも言える判決が出るまでに、もう何年を費やしただろうか?何回、街頭に立ち声をあげただろうか?幾らのカネを投じただろうか?
この間、多くの後輩が、国のむき出しの差別・上からのレイシズムに泣きながら校門を後にしたが、いまようやくそれが報われるところまで来る、そのスタートラインに立ったと言える。

勘違いしてはいけないのは、我々は、未だ何も得ていない。
地裁判決は確定していないし(恐らく国は上訴するだろう)、上級審になればなるほど判事は保守的・官僚的だ。もっとも、補助金訴訟は100:0のボロ負けだったことから考えて、決して楽観視できない。最後の最後まで、広範な在日同胞と理解ある日本の市民に支援されながら訴訟が進むことを願う。
私も、将来の息子の笑顔のために、微力を尽くしたいと思う。

たたかいは、これからだ。



【追記】勝訴判決を受けての各種記事のうち、読む価値があると考えるものを数点挙げる。一部当該判決前の記事も含む。



民族教育の歴史に正面から向き合った画期的な判決文
KOREAと日本についていろいろ 2017/07/29 09:20
https://blogs.yahoo.co.jp/remember_0416/archive/2017/07/29

歴史に記録されるであろう無償化裁判勝訴の1日
ニョニョのひとりごと 2017/07/28 21:51
http://blog.goo.ne.jp/okuyeo/e/a8f0b7a674a79cd874923203520dabe0

<時代の正体>学ぶ権利に「大きな一歩」 補助金停止問題にも光
神奈川新聞 2017/07/29 02:00
http://www.kanaloco.jp/sp/article/267550

朝鮮学校無償化「母校が認められた」全面勝訴に大歓声
毎日新聞 2017/07/28 12:44
https://mainichi.jp/articles/20170728/k00/00e/040/251000c

(社説)朝鮮学校訴訟 無償化の原点に戻れ(筆者注:広島地裁判決を受けてのもの)
朝日新聞 2017/07/21 05:00
http://www.asahi.com/articles/DA3S13047050.html

権海孝インタビュー「朝鮮学校は日本の右翼には目に刺さったトゲ」
KOREAと日本についていろいろ 2017/07/26 0:44
https://blogs.yahoo.co.jp/remember_0416/14916770.html



(20170731追記)

裁判の報告集会の動画が上がっていたので紹介したい。途中チマチョゴリをまとった現役生徒のスピーチがあるが、聡明さが際立った澱みのないスピーチと、凛とした誇らしげな表情が、泣ける。
「やっと私たちの存在が認めてもらえた」という生徒の言葉に、取り囲む大人は何を思うだろうか?

フジ住宅ヘイトハラスメント裁判の反論文書 ― 稚拙な言い訳

フジ住宅によるヘイトハラスメント事件については、拙ブログにおいても取り上げた(http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20150901/1441121840)が、フジ住宅がホームページに、訴訟提起に対する反論を掲載した。少し考えてみたい。


 
訴訟に関する弊社の基本的考え方
2017年06月16日 フジ住宅株式会社ホームページ特設ページ内
https://www.fuji-jutaku.co.jp/blog/



(引用開始)

(1)フジ住宅株式会社は、弊社ホームページに掲載した『訴訟に関する弊社の考えと原告支援団体の主張に対する反論』について、その原文をここに再掲載する共に、追加すべき主張を、本ページで今後展開してゆくことにいたしました。
もとより弊社は、起こされている裁判が弊社のパート社員により、弊社に対して起こされた裁判である事に深く留意し、また、原告が裁判を続けながらも弊社従業員として正常に勤務を続けてくれていることを斟酌して、原告のプライバシー保護の為にも、不必要に当訴訟に関する情報が社外に拡散しないように最大の配慮をしてまいりました。
ところが、原告を支援する団体は(当然、原告の了解の下と思いますが) 当訴訟に『ヘイトハラスメント裁判』との呼称をつけて、フェイスブックのページを立ち上げ、 『ヘイトハラスメント裁判を支える会ホームページ』(https://www.facebook.com/HateHarassment/)で、彼らの一方的な情報を拡散し、ついに本年平成29年に入り、3月末に向けてインターネット上で裁判所提出の為の広範な署名活動を行うに至りました。
つまるところ、弊社が対応せねばならない相手は、原告である一人のパート社員ではなく、広く情報を拡散して大衆運動をする「支援団体全体」の様相を呈して参ったわけです。

(2)ところで、弊社はそれでも、当該パート社員のプライバシー等を配慮して、弊社としてインターネット等での一般への情宣をしない方針を続けてまいりました。
しかしながら、残念な事に、そのような弊社の自重はまったく意味がありませんでした。いくら弊社が自重していても、原告を支援する団体の活動は益々エスカレートするばかりで、ついには、平成29年3月26日、南海電車難波駅前と、弊社が本社を置く岸和田駅前の両方で「フジ住宅ヘイトハラスメント裁判を支える会」などの横断幕を掲げて、大々的な署名活動、チラシをはさんだポケットティッシュの配布などを彼らは行い、ツィッターでの彼らの報道ではポケットティッシュは2000個以上配布したとの事です。
彼らのツィッターの記事と、当日の写真はここ(https://mobile.twitter.com/hateharassment?lang=ja)にあります。3月26日までスクロールしていただくと当日の様子を彼らが写真つきで報道しています。
この状況を見て、弊社としてはこれ以上一方的で、誤った情報が拡散されることを放置はできないと決意いたしました。その訴えられている内容があまりに一方的で、常軌を逸した判断に基づいていると思われるからです。弊社はこのような彼らの活動から、単に弊社に損害が及ばないようにする必要があるだけでなく、むしろ、弊社と、弊社の社員、そして弊社を選んでくださった顧客、株主はじめ、全てのステークホルダーの皆様の尊厳を守りたいと願っています。

(3)もしも万が一、ほんの少しでも弊社が当裁判で負けるような事があれば、事は一企業である弊社の問題に留まらず、その弊害は我が国全体に及び、大げさではなく、我が国の尊厳を根こそぎ否定されるような大変な事態になる可能性があります。
もしも弊社が当訴訟で負ければ、「中韓等、外国の国家、あるいはその国民性を批判する内容が含まれる、広く書店で市販されており、誰でもすぐに買う事ができる書物を、1読む事を強制せず、かつ、2受け取る事も強制せずに、参考までに社員に広く配布しただけで」それは「ヘイト行為」であるとされ、私企業の運営に国家が介入して、我が国の言論、出版の自由を大きく侵害する判決になる事が予想されます。また、現在書店に並んでいる多くの優れた書籍が、「ヘイト書籍」とされ、「出版停止」となる事にまでそれは繋がっています。
原告の訴えが全部認められれば、そういう事態になり、我が国は「暗黒時代」になると思われ、弊社は決してこの裁判に負ける事はできない責任を感じております。
そういう判断に基づき、弊社は、今後、裁判の進行に伴って、原告を支援する方々の情報発信に応じて、その誤りを正す情報を過不足なく、また不必要に原告の女性を傷つけることなく、当フェイスブックのサイトで発信してまいりたいと思っております。 どうか皆様のご理解を賜りますと幸いです。

(4)なお、念のためにここに記しておきますが、弊社の今回の対応は、この対応事態が「ヘイト行為である」と原告に受け取られる可能性がある事を、弊社は認識しており、(何が「ヘイト」なのか弊社も分かりませんが)、そのような発想こそが原告をして弊社を訴えるに至らしめたと認識しています。
一般論として、海外に住み、そこで外国企業に勤務する我が国の国民は、誰もがその国で、多かれ少なかれ我が国への批判を伴った文書、発言、行為に直面する事があると思います。中国では、何年か前に、デモによって本邦企業の多くが暴力的な破壊に晒され、日本人社員は身の危険に実際に晒されたのであり、韓国においても、我が国の国旗を踏みつけられ、火をつけられる映像が、全国的に放映された事がありました。もちろんそれらの企業の中に在るディスプレイにもニュースの度にそれらの映像が映し出されたに違いありません。
原告の考え方で行くと、韓国に住む日本人は毎日、今もあの「撤去されない慰安婦像」によって韓国と言う国家から「ヘイト行為」を受けていることになります。しかしそんな訴訟を韓国政府相手に起こした日本人はいません。 一体全体、弊社が原告に対して何か一つでも違法なことをしたでしょうか。何一つ、そのようなことはなく、ただの一度も原告は社内で「民族差別、人種差別」を受けた事はありません。
逆に、ベストセラーになったような書籍を配布しただけなのに、その中に原告の気分を害するような記述があったという理由で、言論の自由が保障されている社会では、大人であれば引き受けなければならない当然の常識をわきまえない原告によって、当社は「ヘイトハラスメント企業」だと原告と、原告を支援する人々に糾弾され、難波や、岸和田で、一方的な批判の街宣をされ、困惑しているのです。

(5)この稿の最後に、弊社として 原告に望む事を公に述べておきます。弊社は、原告がこのような支援団体のロジックで、ご自身をさらに苦しめたり、追い込んだりすること無く、弊社社員としての本来のプライドを思い出してくださり、弊社は日本の企業であり、原告は日本社会で暮らしているのだと言うことを再度よく認識して、むしろ逆に、今も「慰安婦像撤去」の国家間の約束を守らない韓国政府に、日本に住む韓国人として、母国に注意を促すような人物になって欲しいと願っています。もちろんこれは思想信条の自由に属することなので、それを会社が原告に強要するのではありません。ご自身がどんな思想をもたれようとそれは完全に自由である事は我が国の憲法が保障するところです。ところが、逆に弊社の方が、大多数の日本人が、日本人として当たり前と考える上記の「慰安婦像」に関するような発想を、広く社員に伝え続けていることを「ヘイトハラスメント」だと言われ、それをやめるように原告とその支援団体に「強要されて(訴訟を起こされて)」困惑しているのです。
原告は今も弊社のパート社員であり、大切な従業員でもあります。そして弊社従業員である限り、今も弊社社員教育の対象でもあります。社員教育は物事の発想法全般に及びます。そこで、弊社としては原告が一刻も早くご自身の誤りに気づき、訴えを取り下げられることを期待しています。
(付記)裁判の進捗についての情報は追ってここにアップして行く予定です。
(責任編集 フジ住宅株式会社)

(引用ここまで・パラグラフ冒頭の数字は引用者にて加筆したもの)



突っ込みどころ満載だ。もしこれが会社の裁判弁護士の監修によって行われているのであれば、「論拠が破綻しているから弁護士を雇いなおしたほうがいい」と老婆心を向けたくなるほどの支離滅裂だ。日本語の能力、文書構成の稚拙さも、誇り高き日本人が云々の前にその心配をしたほうが良さそうな気もする。
もちろん原告の全面勝訴を求める筆者としては好都合ではあるのだが。
順に反論を示していこうと思う。



(1)で認識している事項、すなわち、『弊社が対応せねばならない相手は、原告である一人のパート社員ではなく、広く情報を拡散して大衆運動をする「支援団体全体」』であるという認識は、方向性としてはそのとおりなのだが、認識する規模・スケールが小さすぎる。
差別とは、社会構造が発生原因である。女性・被差別部落障がい者・外国人・宗教者など、社会構造上非対称あるいは社会的影響力の差異があり、被差別の対象とされている者に対し、差別者がその社会的属性を貶めるという意図をもって行われるものであるために、ひとつの差別事象が許容されるということは、その社会のマジョリティによって、変えることのできない属性をあげつらい、『差別/被差別』という対立項を持ち出して貶めるという意図によって、幾らでも拡大・再生産されるものなのだ。
差別事件は当事者間の係争ごとに収まらない。差別事件の発生は、即、その同一の被差別属性を持つ者共通の傷となり、その差別事件の解決は、その共通の傷を癒し、差別構造の解消という社会正義の実現に直結する。その訴訟で示された判例は、即、『社会規範の確立』にもつながれば、逆に『差別のお墨付き』にもつながる。
これまでの就職差別事件、入居差別事件、セクハラ事件等々は、裁判沙汰になったら広範な市民により支援団体が組織され、社会的な関心のもとで進行されたものが多いのはこのためだ。フジ住宅の認識は、甘過ぎると言わざるを得ない。



(2)は、フジ住宅がさも被害者であるかのように振舞って開き直っている部分である。拡散されたくなければ、稚拙な反論をすることなく、不法行為を認めて、謝罪し和解することである。和解すればさっさと裁判は終結する。ステークホルダー(早い話が株主・株価)の心配をするならば、最初から不法行為をしなければいいだけの話である。



(3)は、前段では、中韓の国家・国民性を批判する本を流布する行為が裁判で負けたら最後、「我が国の尊厳を根こそぎ否定される」と大仰に構えているが、本訴訟で争われているのは、『職場内でヘイト本を広く奨励し配布する行為』である。職場外でやることは誰も止めようがないが、職場では物理的に拘束されており逃げようがない。会長の尊厳を重んじるが余り、その他大勢、一人ひとりの良心が阻害されていることを問題にしているのだ。
例によってヘイトハラスメントをセクハラの症例に置換して説明すると、「職場でエロ本を広げて見るな、目障りだ」と言っているのに、「エロ本を発禁処分にしようとしているのか、表現の自由の侵害だ」とレベルの異なる話を意図的に混同して煙に巻いていると言える。
後段、私にはまったく理解不能なのだが、おおよそ以下のような主張であると思う。

  a)ヘイト本は読む事を強制していない
  b)受け取る事も強制していない(参考図書として配布しただけ)
  c)しかしこれを「ヘイト文書」の配布だとして禁止等する旨の判決が下ると私企業の運営に国家が介入する『暗黒時代』になる

私が冒頭に示した拙稿でも言及したとおりだが、本訴訟におけるフジ住宅の不法行為は、『環境型ヘイトハラスメント』といえる行為である。ヘイト文書を配布することで職場環境を害した、ということを不法行為だと評価してのものである。
またセクハラに置換するが、直接的に手を下す『強制猥褻行為』、地位に乗じて減給や解雇をチラつかせるなどして間接的に行為を強制する『対価型セクハラ』とは違う、『環境型セクハラ』のヘイトハラスメント版だと言える行為である。
業務必要性が無いのに職場にヌードポスターを張り出したり、エロ本を衆人環視の下で読みまわしたり、そのエロ本の感想文がおおっぴらに流通したり、という具合に、性的羞恥心・嫌悪感を惹起させるような環境を拵えて職場環境を害する行為が『環境型セクハラ』である。『強制猥褻行為』『対価型セクハラ』の不法性は論を待たないが、『環境型セクハラ』は、被害者によって感度が異なるため、軽んじて評価される恐れがあるところに注意が必要だ。
これをヘイトハラスメントに置換すると、直接「○○人は帰れ!」と面罵したり、○○人であることを理由に職務上の差異を設けたりはしていないが、職場内に○○人を罵倒する言葉が溢れていて結果就業するうえで苦痛を感じるような環境が出来上がっている、これをハラスメント=嫌がらせ、という不法行為と評価しているわけだ。圧倒的少数者たる○○人には苦痛そのものだが、圧倒的大多数の日本人には、思想の差異強弱はあっても、自分が迫害対象ではないからそれほど苦痛も感じない、この『感度の差』が肝と言えるだろう。
さて、a)b)が、フジ住宅が主張するように、読んだり受け取ったりが強制されず、あくまで参考図書として配布しただけ、というのが実際の運用であるなら、確かに違法性が阻却される可能性はあるかもしれない。しかし実際はどうだったか。冒頭に示した拙稿も参照してもらいたいが、当時の報道資料を見る限り、会長が、盛んにこれら図書を読むことを奨励し、会長が配布する業務日報には、図書を読んだ社員の感想文(しかも下劣なレイシズム言句丸出しの)が並んでいたとされる。業務日報は、いくら当該原告がパート従業員とはいえ読まないわけにはいかないだろう。これで「任意だ」と強弁するのは流石に無理がある。
そしてc)の主張だが、a)b)では「任意だ」「参考図書だ」と業務関連性を否定しているのに、c)では唐突に「私企業の運営に国家が介入する」と、これまた壮大な評価を加えることになる。これはどうしたことか?
a)b)では仕事とは関係が無い、と言っているのに、c)では図書配布は企業活動だ、企業運営に国家が口出しするな、と言っている、ということは、フジ住宅が社の方針・業務として当該図書を配布していた、何を配布しようと我々の勝手だ指図するな、と主張していることになるではないか?
このように、こんな短文で、何度も論理が破綻している。



(4)も文章の稚拙さゆえに前後脈略が読み解きにくいのだが、一般論として多かれ少なかれ我が国への批判を伴った文書、発言、行為はあると前置きしたうえで、中国や韓国では日本に対するデモが酷いがそれでもそれら国家に対して日本人は訴え出ていない、と日本人の慎ましさを誇っているようなことを言ったかと思えば、唐突に、「弊社はベストセラー図書を配っただけ」「原告に対して違法なことはしていない」「原告は社内で民族差別人種差別を受けた事はない」「大人であれば引き受けなければならない当然の常識をわきまえない」と、原告に対する恨み節を書き連ねている。
パラグラフ前段で「中韓は毎日、日本人に対して酷い批判を行っている」と主張し、後段で「我々のそれはベストセラーにもなるくらいポピュラーなものを配布しているだけなのに何を神経質なことを言っているのか」「大人であればそれくらい甘受しなさい」と主張する。その前後の落差、つまり中韓は人種差別まがいの日本批判をしていて酷いが、日本の緩いそれは表現の自由の範疇だと、というコントラストを見せることで、おそらく説得力めいたものを持たせようとしているのだろうと思うが、失敗している。
本事件が問題としているのは、フジ住宅という『会社の中の行為』である。会社の中でヘイトをおおっぴろげにやるな、人種差別を扇動するなと言っているだけである。会長が中韓のデモが気に入らないのはともかく、それを批判する図書を会社に持ち込んで、会社が奨励して、結果それら人種への憎悪を煽ることは、集団で少数者の民族性を貶めることになるではないか。
仮に中国内の企業で、就業している日本人に対し、反日デモをネタにして、日本人という属性をあげつらうような形で侵害行為が行われたのであれば、堂々と「レイシズムだ」「民族差別だ」と主張すればいいだけの話である。社業と人種を貶めることに関連性などないのだから、慎ましく構える必要などない。
それを中国や韓国の街頭でデモが行われているからと、日本人へも外国法人企業内でヘイトが向けられているはずだと想像力を巡らせるのは勝手だが、まったく無関係なことを比較対象に無理やり持ち出しているだけであり、お門違いもはなはだしい。



(5)は、(4)でも挙げた『中韓の酷さ』を再度焼き直しつつ、
>弊社は日本の企業であり、原告は日本社会で暮らしているのだと言うことを再度よく認識して
と、ネトウヨが「郷に入れば郷に従え」とアホの一つ覚えのように鳴くのと瓜二つの言説をひけらかしている。
フジ住宅にも表現の自由はあろうが、企業という公器である以上、個人の良心の自由の侵害(しかも属性を貶めるという人間の根本に対する愚劣な侵害)という就業環境を侵してまで、社業という経済的自由(しかも社業とは直接関係しないオーナーの勝手を通す自由)を推進できるとは考えない。家族のみで切り盛りする企業、パパママショップならともかく、東京証券取引所にも上場するような、社会的影響力のある企業であれば、尚更、社員個々人の心情的安寧は慮られて然るべきであろう。
それを「我が社は日本企業」「日本人と共に暮らすのだから」と、独善的で排他的なナショナリズムを押し付ける、(当該女性にとってみれば)職場に針の筵を敷くような行為は厳に慎まれなければならないだろう。
極めつけは、
弊社従業員である限り、今も弊社社員教育の対象でもあります。社員教育は物事の発想法全般に及びます。
と、今般係争が原告女性の『魂の悪さ』にあり、それに対する矯正も行わんとするような、恫喝とも取れるような物言いをしているが、この一言がフジ住宅の企業としての姿勢をありありと見せつけているような気がする。慰安婦像をどのように評価しようと会長の勝手だが、それを社業に持ち込んで、社員を巻き込んで、それを経営者の自由だとふんぞり返って、結果良い家が建つのだと踏んでいるのであれば、余程に勘違いをしていると断じざるを得ない。会長に表現の自由があるのは認めるが、社員にはそれとは別個に、個人の表現の自由・良心の自由・良心への侵害行為を拒絶する自由がある。



実は、この稿は、当該訴訟の公判日が近づいていることもあり、自分なりに側面支援をする意図で書いた。

この訴訟が、圧倒的な人々の良心によって支えられ、誰も職場で、『自分の血をあげつらって貶められない』という権利を確認する判例が出ることを期待したい。
原告女性の勇気ある行動に心から敬意を表するとともに、これからも少しでも支援の輪が広がっていくことを望んでいる。
まずは今月29日の公判で、大きく前進を勝ち取ることを祈っている。

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