いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

また陰鬱な選挙の時間がやってきた(今回も無理だと思う)

ほぼほぼ休眠状態のブログに、ちゃんと記事をアゲる定期的なイベントがやってきた。

「選挙」である。

 

いままでアゲてきた選挙ネタを再掲する。

2014-12-12

無権者のkinchanより、有権者の皆様へ。『投票に行ってください!』

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20141212/1418357734

2016-07-11

盛り上がらなかった祭り(参院選)の後で、無権者は思う。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20160711/1468167331

2019-07-10

雑感:また陰鬱な選挙がやって来る。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/2019/07/10/162830

2019-07-30

雑感:日本には民主主義は無理だ、という結論に達している。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/2019/07/30/233912

 

今回の選挙は、安倍菅政治という、グロテスクで、無節操で、コロナ禍という社会危機の中では政治屋としての役割を全く果たす気が無かった無能な集団に、選挙民がどのような審判を下すか、という選挙である。

しかし、もう大勢は決まっているようである。大方の新聞を読む限り、自民が安定的な過半数を握り、立憲や共産などの野党共闘勢力は微増、というところのようだ。

 

※但し、「そういうストーリーにして投票率を下げる狙いを持った情報操作だ、という見方も存在する。

 

確かに、

選挙がこのへんにある、小選挙区だから一本化を推し進めて与党vs野党、という構図にしないと勝ち目がない、というのが分かっているのに、野党側は共闘の構築が遅々として進まず、挙句に枝葉末節の違いにアレルギー反応が止まらず仲違いを繰り返した。聞けば、連合は、あろうことか共産の統一候補を応援せず、与党の公明党を応援する、というような選挙区もあるらしい。https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA26BC50W1A021C2000000/

共産主義が憎いのは勝手だが、労働者の生活を踏みつけている与党側を応援する、というのは流石に頭が悪すぎる。この一件のみ見ても、連合が労働者の利益を代表する機関などではなく、労働貴族が労働者階級を資源にブルジョアジーに滅私奉公する出先機関だということが見て取れる。

 

この野党のゴタゴタの代わりに維新が大躍進、らしい。冗談も大概にしなければならない。PCR検査をイソジンで切り抜けることを発明したことくらいしか功績が無く、維新の城下では医療と産業が疲弊しきっていて東京などよりも新規患者が人口比で量産されているというのに、維新のナニを評価して大躍進なのか。本当に選挙民が節穴揃いで意味不明である。仕事そっちのけでテレビに出て「吉村サン頑張ってはるから」と投票するオバハンには反吐しか出ない。まさに、出るほうも出るほうだが、出すほうも出すほうである。

 

常に思っていることであるが、選挙民の大半が、とにもかくにも精神年齢が幼児程度なのだ(投票率と投票先が証明)から、野党が勝とうと思うのであれば、幼児にも分かるレベルの選挙構図にすると同時に、徹底的に与党の失策を突き、幼児程度の記憶力しかない選挙民の記憶を、繰り返し繰り返し呼び覚ます作業をしなければならないのに、つまらない小さな差異で数人も同一選挙区に立ち、クリーンだのなんだのと自らの小綺麗な政策しか言えない。今回の野党共闘には中途半端感が拭えない。

 

こんな野党側の子どもっぽさを見るにつけ、自民や公明、そして維新の、選挙時のみの「大人の対応」は政治屋として成熟のものだと言える。自公や維新には何度かの選挙で成功体験が積みあがっている。テレビでやらなければ選挙は無いものにできるし、キレイな顔だけ出して、ウソでも何でも新しいことや聞こえのいいことさえ言えば票を入れてくれるし、選挙で言っていたことの検証にも有効なものは存在しないし、選挙が終わった後はいくら不正を積み重ねても選挙民は忘れてくれる、という圧倒的な成功体験である。この成功体験を不動のものにしているのが、取り囲む選挙民の幼児性であり、機能を失ったこの国のマスコミの現状が、その幼児性を補完している。

 

私の選挙に対する「諦念」は、数年前から変わらない。この「諦念」を見事に描き切った記事である。5年前の記事だが、私の感情も、恐らく森監督の感情も、不変だろうと思う。

 

まだ絶望していないあなたへ
森達也 (映画監督・作家・明治大学特任教授)2016年7月4日

https://politas.jp/features/10/article/496

 

今回は、この国がマトモな民主主義国に戻るための最後のチャンスだと思う。

これだけ民をないがしろにしてきた10年弱の政策、極めつけがこの2年弱のコロナ禍での政策だったわけだが、これに対する怒りがあるなら、この無策の連続に対する記憶力が人並みにあるなら、投票先の回答はおのずと出る。普通なら。

しかし、投票率は最低レベルの50%台だろうし、自民は過半を得るだろうし、公明は全選挙区当選だろうし、我が大阪は維新が、イソジンの功績を讃えられてほぼ独占するだろう。

絶望するばかりだが、これが日本の民主主義の現状である。


私は朝鮮学校で学んでいた時に、資本主義の本質を「富益富貧益貧」だと習った。
「富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しい」という意味だ。良く本質を突いた言葉だと思う。資本主義の弱肉強食機能の中で社会格差が拡がっても、政治が再分配に関心が無ければ、社会にその機能が無ければ、貧しさに墜ちた者は、社会的に再び立ち上がることさえ厳しくなる。

再分配を是とし、公平な社会を築こうとしている政党はどこか、おのずと答えは出るはずだが、現実は、貧しい者が、自民党や維新の会の、中身の無い甘言に騙されて票を捨て、投票箱が閉まったら手のひらを返されてもコロッと忘れる。

この現状を、外国や外国人との比較ではなく、自らのものとして直視するところから、まずは始めるべきだと思う

 

と吐いて終わろうと思ったが、日本が民主主義国に踏みとどまることは、無権者の私のとっても大事なことである。

朝日がやっていた政策マッチをやってみたら、私にマッチしたのは共産党だった。まぁ妥当なところかと思う。

 

 

共産党の政策動画を観て、腑に落ちたものを紹介しておこうと思う。

朝鮮学校の卒業式に思う。

先日、我が息子の、朝鮮初級学校の卒業式があった。

息子が初級学校に通うあいだ、特にここ数年は仕事ばかりの親父で、ろくに授業参観や親子行事にも参加できなかった。それを恥ずかしく思いながらも、我が息子の晴れ舞台を観に久しぶりに学校に出向いた。

 

学校の小さな講堂には、保護者や下級生が溢れんばかりに集まっていた。これでもコロナ禍のなかで参列対象者を絞っているのだという。式が始まるだいぶ前から、教員らは口々に私の前を通り過ぎながら「○○さんのアッパ(お父さんの意)、おめでとうございます!」と祝いの言葉を掛けてくれる。仕事の忙しさとコロナ禍の影響とでかなり足が遠のいていた学校なのに、教員らは親の顔を覚え、生徒同様温かく迎えてくれる。卒業式というある種の荘厳さとは無縁の、家族的な雰囲気で卒業式は始まった。

 割れんばかりの拍手の中、卒業生が入場してくる。驚いたのが講堂の壇上に設けられた卒業生らの椅子が、保護者側に向けられて配置されていることだ。生徒たちの表情を参列者がつぶさに見ることができる。「今日の主人公は卒業生たちです」というのが、目で見て非常に分かり易い。卒業生らはその席に座り、ときには笑い、ときには涙を浮かべる姿を、保護者らは見守り、共に涙しながら過ごした。

本の学校の、ごくごく一般的な卒業式と言えば、日の丸がデカデカと壇上中央に配置され生徒がそれを仰ぎ見つつ、全員で君が代を歌ってから式が進行する。そういえば卒業式の指揮権は校長だからどうのと、教員が国歌を斉唱しているか口パク具合を見て回る、という冗談かとも思えるような事件まで発生するような日本の学校のそれに対して、我が息子の学校のそれは、国旗・国歌とはまったく無縁、もちろん金日成金正日金正恩とも無縁の、手作りでアットホームな卒業式だった。

校長は祝辞の中で、「保護者の皆さん、情勢が厳しい中、コロナ禍というなかで、私たちの学校を信頼して、かわいい子女を送り続けてくれてありがとうございました」と言った。ちょうど6年前、入学式の中でも校長がそのようなことを、私たち保護者の顔を眺めながら語った。「こんな世の中で朝鮮学校に子どもを送る選択をしたことは大変だったろうに、私たちを信頼してくれてありがとう、私たちはあなたたち保護者の期待に必ずや応える」と。そこには自らが行う民族教育についての確信を見て取った。朝鮮人朝鮮人として生きるために民族教育が必要だ、その価値を認め、共に歩んでくれてありがとう、と。

 

学校は我が息子の学びを支えるために、様々な取り組みをしてくれた。既に朝鮮学校では数年前から紙の教科書とは別に電子教科書が用いられ、授業も一部ではipadが用いられる。一般に言うICT教育が、日本の学校に先んじて、朝鮮学校では普及が進んでいる。これがコロナ禍の中で威力を発揮した。youtubeを使ったオンライン授業配信や、Zoomを使ったホームルーム等、息子はipadを使いこなしながら、困難な中でも学校生活を楽しんだ。

特筆すべきは、これらほぼ全てが、公的な補助などではなく、民族教育に携わる教職員や、保護者の月謝、支援者の寄付によって支えられているということだろう。私の住む大阪ではもう何年も前から、朝鮮学校の学び舎はレイシスト首長の政争の具として晒し物にされており、腹立つほど納める私の住民税は、維新政治の衆愚パフォーマンスには活用されても、息子の教育拡充にはただの一銭も、本当に一円も活用されていない。少子化、そして行政補助からの排除、朝鮮学校の財政は逼迫しており統廃合が進んでいる。それでも朝鮮学校の現場では、少ない資源で、できることを、あるいはそれ以上のことを、最大限に子どもたちに注いでくれた。ICT教育のコンテンツや電子教科書は全国の朝鮮学校の教員らのチームで作られたものだし、オンライン授業も、現場の教員が少ない資源から工夫して行われたものである。教員たちは、職業的ではなく、教育者という生き方として、かつ同族の子女に対する同胞愛を行き交わしながら、我が息子の学習環境を守り通してくれた。我が息子は、真面目に毎日勉強する習慣を身に着け、特に落ちこぼれるでもなくちゃんと『6年最優等()』と『6年皆勤』を獲った。周囲といさかいやケンカもせず仲良く朗らかに過ごし、優しさや気配りを持つことができ、心優しい少年に育ってくれた。しかも病気も怪我もせず、である。親孝行なことこの上ない。怠惰な父に似ず、自慢できる男に育ってくれた。ありがたい限りである。

 

無論、朝鮮学校に送り続けることに困難や葛藤が無かったわけではない。公立の学校に送れば学費はタダだし給食もあるが、朝鮮学校は学費も高いし給食も無い。運動会だ学芸会だと言われればカンパもせねばならないし、動員もある。朝鮮学校草創期、「力がある者は力を、知識がある者は知識を、金がある者は金を」拠出して学校建設をしようと呼びかけられていたが、現在では、保護者が「力も知識も金も」全部を動員して支えなければ、学校は立ち行かないわけで、私も多くの保護者同様、息子の学校に幾度かボランティアをしてきた。しかし朝鮮学校それ自体に関して、細かい文句をつけるような発想は、私からは最後まで、まったく出てこなかった。大した学校だと思うし、このように息子をまっすぐに育ててくれた朝鮮学校には、本当に感謝しかない。

 

息子の進学先について、私は特に何もリクエストをしなかった、「自分で考えればいい」と。公立に行きたければ行けばいいし、私学でもいい。もちろんそのまま朝鮮中級学校に上がりたければ上がればいい。全部自分で決めたらいい、と。私は息子を信頼しているし、ありていに言えば、初等教育(小学校)時点で、自我は確立されているだろうから、この先何とでもどうとでもなる、と思って、完全に息子に委ねた。ここで言う自我とは、人間としての自立と同時に、朝鮮人としてのアイデンティティということである。自らの母国語としての朝鮮語を習得し、母語(日本語)と共に用いることができること、日本の地に生まれ落ちた朝鮮人としての来歴と文化風習を教わったことが、この先の彼の人生に否定的に作用することは、まず考えられない。私が幼少期に息子に得させたいと思ったもの、つまり日本で朝鮮人として、朝鮮人であることイコール自分自身を否定せずに生きる能力は、ちゃんと備わったと思う。これから先に親としてのリクエストは(今のところ)無い。だから完全に委ねた。

息子はそのまま朝鮮中級学校に進むと言う。4月からは中級学校に通うことになるが、親の私としては何の心配もしていない。急に難しくなる勉強や、急に増える同級生間の対人関係で、いろいろ思い悩むことは多いだろうが、我が息子なら、のらりくらり、しかし前を向いて堂々とやっていくだろう。

 

私も息子と同時に、朝鮮初級学校の保護者を卒業したことは本当に感慨深いが、この期間に更に顕在した、行政や取り囲む能天気な市民の明け透けな差別から、将来の息子を解放してやれなかったことが親として本当にもどかしかった。息子には未だ直接的な被差別体験は無いようだが、SNSやインターネットを経由して、そのようなものに触れる危険は、どんどん増してきて、日々露骨になってきているようにも見える。

想えば、私がこのブログを書き始めた当初(まだ執筆頻度を一定程度保っていた当初)、政権は民主党の下にあった。目玉政策の高校無償化法から朝鮮学校が排除されかけたことを発端に、朝鮮学校へのむき出しの差別が表れ始め、当然に私もそれに抗い拙い文を重ねていたが、いまから思えば、日本が溶けていく過程における、一種の象徴的な出来事だったように思う。

朝鮮学校差別のときに、朝鮮人は日本社会の隅でカナリヤのように鳴いていたが、日本社会は朝鮮人だから相手にしなかった。在特会レイシスト朝鮮人を排撃しにかかったが、日本社会は一部の極端な者を適当に間引いただけで茶を濁し、その根本には一切目を向けず、病巣を放置した。

その後、政権中枢はレイシストを支持基盤に抱える、無能かつ無節操な集団に移り変わった。政権移行後最初に手を付けたのが、朝鮮学校を無償化法から排除する省令改正だった。このことはこの政権の性格を余りに分かり易く映すが、朝鮮人がいくら警鐘を鳴らそうとも、日本社会は問題にもしなかった。朝鮮人だから。

その後、日本社会はどうなったか?

政権は史上最長となり、その後も子分が居座り続けているが、この政治勢力には恥の概念が無く、自らのテリトリーにカネを呼び込むことに必死で、自らの椅子を守るためには、嘘を吐くことにも、法律や記録に手をかけることにも、下っ端が死ぬことにも抵抗が無い。既に官僚らも、検事や判事すらも、良心をとっくに失い、ひれ伏し、おもねり続けている。

いつの間にか、コーヒー代を数十円ちょろまかしたら逮捕されるが、わけのわからない屁理屈をこねくり回して、自らの買収行為や利益供与行為から言い逃れをして、国費を数十億円空費しても、まともな批判が向けられないという、法律とか価値とかが取っ散らかった、グロテスクな社会に成り下がった。昨年からのコロナ禍においても、行政は市民を救う気が無く、カネは全然出さないが口は中途半端に出し、敵を指し示し、叩いては、自らの失策の言い訳に腐心した。自粛警察が跋扈し、廃業や自死は増える一方である。このように社会が劣化する速度は緩まる気配がないが、それを構成する市民は呑気が過ぎ、危機感を全く共有できないままでいる。選民政治(社会)・差別政治(社会)が、どんどん極まりつつある。

このようななか、いつまた行政が、レイシズムに活路(逃げ道)を見出すか、油断も隙もあったものではないし、SNS上では今日もレイシズムが野放し状態で、手軽な娯楽として消費されている。社会構造の中で朝鮮人を賤民と固定することで、日本人多勢に適度なガス抜きとして機能し、社会が保全されている。これからも朝鮮人差別を日本社会が必要とする以上、そうそう容易く、我々家族が『朝鮮人』であることを意識せずに暮らす日は来ないであろう。

 

このような社会で、まともな考え方、理論武装が不在では、自らが朝鮮人として、この日本に生まれ落ちたことを呪うような発想が、生まれてこないとも限らない。「生まれてきた時代を間違えたのではないか?」「私はなぜ朝鮮人なのか?」と。朝鮮人として生まれたのは自分の責任ではないし、良いことでも悪いことでもない。そう生まれた、そういう運命だったのだ。しかし、この社会で、その運命を受け入れ、能動的に生きるための能力は、日本人が日本人として生まれ落ちたケースとは別個のものとして必要だ。

その意味で、やはり朝鮮学校での教育は意義が深かったと思う。少なくとも、この社会で、朝鮮ルーツの先祖から受け継いだ自分の名前を、堂々と名乗ることに抵抗が無い時点で、教育は成功しているではないかと思う。

胸を張って、自分の名前で、堂々と生きてほしい。親父は息子にそう願っている。

 

 

 

()朝鮮学校の学業評点は絶対評価制で、高いほうから順に最優等-優等-普通-落後、となる。相対評価ではないので最優等だからと言ってクラスで最も優秀、というわけではないし、最優等評価の人数が決まっているわけでもない。少人数のクラスでは全員が最優等生ということも珍しくない。これについて、加えて日本教育における相対評価制(偏差値輪切り制)に対して、私が特にコメントすることはしないが、幼稚な物言いで「全員が頑張ったから全員が100点!」でいいのではないか、と私は思う。少なくとも中等教育までは。

雑感:日本政府のコロナ対応は、わざわざ「韓国の逆張り」をしているのだろうか?(20200429追記)

日本の新型コロナ患者は増加の一途を辿っており、五輪の延期を発表した直後から、堰を切ったように罹患者数がみるみる増えた。いつの間にか日本全体の罹患者は韓国のそれをさっさと追い抜いている。
マスコミは「毎日のように100名づつ患者が増えてます!」と恐怖におののいているが、常識的に考えて、罹患数に過度にクローズアップして声高に報道する意味がそれほどあるとは思わない。『高』と『率』の両者を捉え、それを諸外国のそれと比較しないと、日本の現状が捉えられない。例えるなら単に100万円と連呼しているだけで、それが200万円との対比なのか、1億円との対比なのか、言っていないに等しい。
 
これについて、少し検索して調べてみた。

韓国の状況は、こちらのサイトで毎日更新されている(https://coronaboard.kr/)が、本日閲覧の時点では、検査総数571,014件に対して、罹患者10,683名、罹患率1.87%である。
これに対し、日本の状況は、恐らく厚生労働省のサイトが最も正確だろうと思う(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html#kokunaihassei)が、検査総数178,084件に対して、罹患者10,751名、罹患率6.04%である。
 
韓国は「手あたり次第」検査しているのに対し、日本は「もったいぶってからやっと」検査しているから、韓国より日本のほうが罹患率は高く出るのは当然であるが、
韓国の人口(51,843千人)に占める検査率の概数は1.10%であるのに対し、日本の人口(125,960千人)に占める検査率の概数は、たったの0.14%、韓国の一割強である。仮に韓国並みの検査を敷いたら、実際の罹患者数は膨大な数に上ると容易に推測できる。
 
さて、MARS禍の教訓を機に先進的な防疫体制を敷く韓国・文在寅大統領は、facebookにたびたび投稿をしているのだが(たぶん広報官が書いているのだとは思うが)、コロナ対応の前線に常に立ち、たびたび国民を鼓舞する文言を発し続けている。施策の実績を示し、医療従事者に対する謝意も忘れない。行政を預かる者として自信に溢れた対応を続けている。
 
例えば、罹患者が大量発生した大邱市の新規陽性患者がゼロになったとして、「皆さんお疲れ様でした、もう少し頑張りましょう」と呼びかけたり、

어제 대구의 신규 확진자가 드디어 ‘0’이 되었습니다. 지역에 첫 확진자가 나온 이후 52일 만입니다. 일일 신규 확진자가 741명으로 최고를 기록한 날로부터 42일 만에 이룬 성과입니다. 그동안 대구...

문재인さんの投稿 2020年4月9日木曜日
ときには、「障がい者の日」に合わせて、少数者に目に向け、コロナが少数者にとってはより大きい脅威となる、お互いの尊厳を守ろうと呼びかける。

“우리는 모두 서로에게 소중한 사람입니다.” 장애인이 걷기 편한 길은 비장애인도 편하게 걸을 수 있습니다. 장애인이 불편함 없이 마음껏 일상을 누리는 세상은 비장애인의 삶도 풍요롭습니다. 제40회 ‘장애인의...

문재인さんの投稿 2020年4月19日日曜日
諸外国は韓国の防疫方式に注目を向け、たびたびカメラやマイクを向けるが、外相は外信向けに、所管外部署の対応を外国語で明晰に説明する。 
 
これらの姿は、
ろくな補償もせずに「家に居ろ」と強弁しつつ、自分はよりによって、その生活をろくに補償しないアーティストのコンテンツにタダ乗りして、優雅に「家に居る」動画を配信した、どこかの国の無神経な行政官とか、
つい先日、休校に伴う休業補償からキャバクラ嬢や風俗嬢をわざわざ外そうとして後から怒られて撤回する、どこかの国の行政の根性とか、
 
コロナ対応が失敗したときの責任の所在について、子供でも言わないような幼稚な反論を見せたどこかの国の行政官とかとは、
レベルにして雲泥の差を感じるのは、私だけではないだろう。
 
コロナ禍の中にも関わらず総選挙を予定どおりに実施した韓国では、当然にコロナ禍の対応が最大の争点となり、与党が圧勝し野党は惨敗した。その落選議員の中には、日本のワイドショーを朝から晩まで席巻した、タマネギ外相こと曹国氏の批判の急先鋒だった羅卿瑗氏も含まれた。
ちょっと前の日本のワイドショーからしたら格好のネタになりそうだが、日本の現状は最早それどころではない。


황교안·나경원·오세훈 줄줄이 낙선…통합당 '인물난' 과제로

2か月前は、韓国のドライブスルー式検査、ウォークスルー式検査、その他様々な防疫体制について、安倍応援団を中心に虚報に群がり、「韓国ガ医療崩壊ダー」「そんなもん意味ない」と嘲笑を送っていたワイドショーのコメンター達も、ようやく潮目が変わったと理解したのだろう、韓国の現状の取り上げつつ、日本の行政官の対応が遅い、やることなすことことごとく失策を重ねている、という言い草を隠さなくなってきている。逆に一応の峠を越えた韓国のネチズンたちが、日本のテレビ報道を紹介する動画を作っているのが対照的である。


일본 의료 붕괴를 막기 위한 힌트는 한국에 있다 / 일본 의사 의료붕괴 경종 "이미 시작" / 국민의 목숨과, 재정을 저울질



오늘의 늬우스~ 일본 연예인(개그연예인)이 한 발언

(↑20200429追記 以前紹介した動画が非公表になっていたので、別の素材に差し替えました)

 

最早、日本政府の対応を擁護する発言は、熱狂的かつ盲目的かつ世間知らずな安倍信者くらいからしか聞こえてこなくなってきたが、ここからは、完全な私の邪推である。
 
日本政府の今般のコロナ対応は、韓国嫌いを味方につける安倍が、わざわざ「韓国の逆張り」をしているのではないか、と思えてくる。
 
例えば、
・隣国に防疫の成功例が転がっているにもかかわらず、同じ方式の導入を頑なに拒み、未だに「クラスター探し」に資源を費やしていることとか、


[일본어뉴스 청해]드라이브 스루, 워크 스루 한국처럼 해 주세요#가토장관#야마노이의원#드라이브스루#워크스루

・当初の国際線封鎖の際に、いきなり中国全土と韓国を封鎖しながら、比肩するほど罹患者が増えていたイタリアは対象外だったりとか、
・韓国のように、とにかく情報公開に努めて無用のパニックに陥れないようにするのではなく、とにかく情報をひた隠しにしながら、自分たちの補償が最も手厚いと1秒でバレる嘘を吐くとか、
・国民に対する補償を捻出するのに躍起になって米国からの装備購入を先送りした韓国とは対照に、ウォンより有利な通貨を持つのに2か月以上出し渋るとか、
https://asagei.biz/excerpt/15050
韓国方式を採らないことに信念を持っているのかと、邪推している。
それがことごとくダメダメなのに、である。
 
私は安倍が小泉の次に総理をやると言い出した時からの、根っからの「安倍不支持者」である。それは彼が政治家としての能力(義務教育修了程度)に事欠くということ以上に、人間性として政治家には不適格だからである。政治の機能が資源の再分配と弱者救済と捉える(経済原理に任せるなら政治は不在でいい、ということを考えれば当然に行きつく結論、中学生の社会科レベル)ときに、彼のような選別主義を採る者は最もふさわしくないからである。それを、これまで何十回と総理大臣の座から追い出すチャンスがあったのに、呑気にそのままにしておいた。
このままでは日本社会はイヤというほど、そのツケを、最悪のカタチで支払うことになる。どれだけの産業と文化と娯楽とが、コロナの災禍に補償も無く耐えられるだろうか。中学生でも分かりそうなものだが、まだ分かっていないのが総理大臣なのだから、悪夢でしかない。

なお、今回の稿は、韓国礼賛・日本批判みたいな二極分法で敢えて書いた。それ程に今般の対応が「月とスッポン」だからである。普段の私は、朝鮮人だからといって韓国政府に諸手を挙げて賛意を示すような残念な人間ではない。今までの稿を見れば分かると思うが。一応お断りしておく。

蛇足:コロナで自宅に留まる市民に保健所から送られた生活必需品に驚く韓国人のツイート。ここまでやれば愛国心も湧きそうなものだが、
対して安倍の肝いり、「アベノマスク」はこのクオリティである。これが400億円強。もう勘弁してください。
 
 
(20200428追記)

私の「邪推」と同様の言及をするものも現れてきたので補強の意味で掲載する。

ドライブスルー検査も「韓国の医療崩壊の象徴」とバカにして3カ月遅れに…安倍政権とメディアの“嫌韓”がコロナ対策を遅らせた
リテラ 2020.04.26 02:18
https://lite-ra.com/2020/04/post-5393.html

 

200422 NO HATE TV 第85回「レイシズムで日本滅亡😩」
のりこえねっとTV 2020.04.22
https://www.youtube.com/watch?v=oDoXXZ_kguE
(1:06:00あたりからそのような言及がされている)

ローソンが朝鮮学校にもおにぎり配布 - ありがとう。ウリハッキョの子どもたちを普通に扱ってくれたことに涙が止まらない。

 

朝鮮学校にもおにぎり届く ローソン、川崎に60個無償

神奈川新聞  2020年03月18日 11:30
https://www.kanaloco.jp/article/entry-302275.html


(引用開始)


在日コリアンの子どもたちが通う川崎朝鮮初級学校(川崎市川崎区)に17日、おにぎりの支援が分け隔てなく届いた。新型コロナウイルスの感染が拡大する中、学童保育施設を対象にコンビニ大手のローソンが無償で配布したもの。学校関係者は「朝鮮学校ということで色眼鏡で見ることなく、当たり前に扱ってくれたことが何よりうれしい」と喜んだ。

 

 正午すぎ、小学1年生の教室で子どもたちがぱりぱりのノリを巻いたおにぎりをほお張っていた。午前中に1人2個行き渡るよう60個が届けられた。教員が作ったわかめスープも添えられ「とってもおいしいよ」と笑顔が広がった。

 

 無償配布は各地で学校が休校となったことを受けて実施。昼食の準備をしなければならなくなった保護者の負担を減らそうと、申し込みがあった施設を対象とした。10日は約1800施設に約14万個、17日は約2700施設に約22万個を届け、24日にも行う予定だ。

 

 同校では10日に福岡市の朝鮮学校に配られたことを知った姜珠淑(カンジュスク)校長が申し込んだ。公式サイトに施設名などを記入すると確認の電話が鳴った。同校は学童保育施設として市に届け出ているわけではないが、「日本の学校と同じく子どもを受け入れていると伝えたら『では届けます』と。学校名ではなく、実態に即して判断してくれた」と姜校長は安堵(あんど)する。

 

 朝鮮学校は高校授業料や幼児教育・保育の無償化から排除され、さいたま市では感染防止のためのマスク配布でも対象外とされた。学校と無関係な拉致問題が理不尽に持ち出され、補助金や物資を支給すれば「不正をするのでは」というあらぬ疑いが排除の理由にまかり通る。県などの補助金の停止も相次ぎ、李靖華(リチョンファ)先生も「授業料の負担から共働き家庭も多く、学童保育のニーズも高い」と話す。

 

 ローソンの広報担当者はマスク不支給問題に心を痛めていたといい、「朝鮮学校だからという線引きなど考えもしなかった。困っている保護者の負担軽減という目的に照らせば、子どもを預かっている施設であれば対象にするのは当然だ」と話している。

(引用ここまで)



引用文最後の「当然だ」と言い切るローソン担当者の言葉に、勇気をもらい、感謝と感激を感じた在日朝鮮人は、恐らく私だけではないだろう。私企業がその資源でCSRを行なうにあたり線引き匙加減は企業の自由であるが、朝鮮学校にも他の学校の生徒らと同様に「当たり前」におにぎりを贈ってくれたことを、本当に嬉しく思う。ありがとうローソン。私はこの報に接して涙が止まらない。ウリハッキョの子どもらを人間として扱ってくれた企業に、心からの敬意を覚える。

明日から当分、毎朝のコーヒーはローソンで決まりだ。ちゃんと一杯一杯注いでくれるし。ありがたくいただくことにしよう。ご恩返しだ。

 

しかし、

それだけ我々在日朝鮮人が社会から、差異を設けられ、切り分けられ、排除され、再分配の対象から外され、声を聴かれず、義務は求められるが権利は奪われる、という日常を送ることに慣れていた。

特にここ10年弱の、高校無償化法に絡む朝鮮学校排除の際に並べられた、中学生をも白けさせる屁理屈の数々と、それに胸を張る日本国・日本社会の『大人たち』の仕打ちに、大きな幻滅を感じていた。

 

ここ数日のコロナウイルスに絡む、埼玉の「マスク騒動」についても、朝鮮学校にマスクを配布することを最初から想定せず、抗議すれば「転売するのでは」と吐き捨てられ、社会的批判が高まっても悪びれるそぶりもない。それを報じるYahooニュースでは高校無償化法騒動の際に湧いた連中がその当時そのままの汚い字面で行政や差別者を擁護して回る。「マスクが欲しければ将軍様に恵んでもらえ」と。どれだけの悪意を詰めればこんな言葉が思いつくのだろうか。同時発生的に拙ブログにもクズコメントがどんどん押し寄せて来た(←当然に承認しない)。

 

このようにあらゆる資源と屁理屈を弄して、朝鮮人を除け者にする『大人たち』の姿が、我が息子の眼にどのように映るか、ということを、ここ数日考えていた。本当に教育上余りに「よろしくない」今日の日本国・日本社会の姿だった。

 

しかし、この報に触れて改めて思う。この社会は、やはり捨てたものではない。

埼玉のハッキョにも、多くの心ある日本人からのマスクが贈られてきた、と聞く。

捨てたものではない。

 

我が息子が出自による差別を理解できる人間になって、むき出しの差別に絶望を覚えているとき、私は息子にこのように伝えたい。

 

この社会は、多くの良識ある人間によってできている。

人々の違いを認め、尊重し、融合し、共生することのできる、尊敬できる仲間がたくさんいる。

 

なかには、人々の軋轢を好み、分け隔て、貶め、機会あれば他人(ひと)より多くを得ようと騙(かた)る者がいる。底の浅い政治に翻弄され、時代に絶望することもある。

そのような者の声は大きく、目につきやすいから、余計にそう思うだろう。

 

でも、この社会は多くの良識ある人たちで支え合って成り立っている。

アッパ(おとうさん)は何度も、社会の中で助けられてきた。

誠実に生きていたら、必ず社会の中で誰かが見ていてくれるし、手を差し伸べてくれる。

 

誠実に生きろ。

貶める側、騙る側に回らず、誠実に生きろ。

必ず、自分の血を恨まずに生きられる時代が来る。

必ず、社会の中で共に手を携えて生きることが当たり前の世の中になる。

アッパはそう信じている。

新型コロナウイルスを警戒して「中国人を入店禁止」にするラーメン屋 - 論外

新型コロナウイルスは猛威をふるい、さっさと日本に上陸して感染が広まっている。
これに関連して、札幌のラーメン店が馬鹿げたツイートを晒しているので、あげつらっておく。

f:id:dattarakinchan:20200130220344j:plain

https://blog.goo.ne.jp/menya-hareruya/e/f5aed52cac19eb2ebe497852df0a0b74

「論外」である。
私も一応客商売に勤める者として、サラリーマンのリスクヘッジとして考えても、この対応は論外である。
思いつくまま、どう論外かを書いておく。
(数日中に当該ツイートは消される可能性が高いので、画像も保存しておく)


1)「病者であること」を理由に入店させないのではなく、「中国人だから」入店させないらしい。新型コロナウイルスは人種で感染する/しないは無い。日本人感染者もどんどん発生している。病者である日本人と、健康そのものの中国人、どちらに感染危険性があるかは言うまでもないが、中国人だからという理由で一律に入店させない、と言う。論外である。



2)「飲食されるお客様ならびに従業員の健康と安全を考慮し」たらしい。
中国人観光客はお客様ではないらしい。論外である。


3)中国人観光客と在日中国人をどのように区別するのだろうか?まさか渡航歴でも調べるつもりなのだろうか?パスポートを見せろとでも言うのだろうか?
この店ならやりかねないが、論外である。

 


4)中国人と日本人、朝鮮人、モンゴル人、フィリピン人、インドネシア人、以下無限、、、どのように判別するのだろうか?

判別できたところで何か意味があるのだろうか?論外である。

 

 

5)1000000000歩譲って、明らかに体調悪そうにゲホゲホと咳をまき散らしながら自店に入店してこようとしたなら、「他のお客様に感染するかもしれませんので」と事情を説明して入店を「ご遠慮いただく」ことは、客商売としてあるかもしれない。「また快復されましたらお待ち申し上げます」とクーポン券の一つでも渡せば、余程の偏屈でもなければ「仕方が無い」と客も納得するだろう。

それを、こともあろうに「禁止する」と書いている。まったくの論外である。


元々中国人に何らかの軽蔑心を持っていたのが、これを機に適当な理由をつけて「禁止」にした、というのがおおよそ推測するオチであるが、人種を排斥排除するような店は、客のほうから願い下げである。

まったく論外である。どうしょうも無い。

朝鮮人を嫌いなのはどうでもいい。「朝鮮人が嫌いだ!」と触れて周るな。迷惑だ。

実は、前稿で予告していた韓国の書店のレポートだが、校了寸前にパソコンがバグって振出しに戻ってしまった。心が折れたので別のことでも書こうかと思う。ちょうどYahooに馬鹿が陳列されていたので、それを素材にしようと思う。

 

なぜ在日コリアン嫌うのか?「ニンジン嫌いと一緒」 元在特会メンバーら、朝鮮学校ヘイトに謝罪なし
Yahooニュース 2019/12/19(木) 19:06配信 京都新聞

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191219-00200709-kyt-l26

 

(引用開始)

 

「正義のためにやっている」。今年9月、ヘイトスピーチ(憎悪表現)をした過去について、「在日特権を許さない市民の会在特会)」元メンバーの被告の男(51)=京都市右京区=は、京都地裁であった公判で声を強めた。

 10年前の京都朝鮮第一初級学校(南区)の襲撃事件で、差別を扇動する罵詈(ばり)雑言を浴びせたうちの一人。威力業務妨害罪などで有罪となった後に服役し、高額の賠償命令も受けていた。

 今回の裁判では、2017年に同校の跡地そばで「この学校は日本人を拉致している」「学校関係者かな、と思ったら110番して」などと拡声器で言い放ったとして、名誉毀損(きそん)罪に問われていた。

 

     ◇

 

 朝鮮学校襲撃事件を起こした在特会は、事件の動画をインターネットで公開。社会に衝撃を与えるとともに、会員数を激増させた。12年ごろには1万2千人超に達したとされる。当時、襲撃に加わったメンバーたちは今、何を思うのか。

 

     ◇

 

 被告と一緒に襲撃事件を起こしたうちの一人で元在特会員の男性(40)=京都市=が取材に応じた。男性は、襲撃事件の1年ほど前に外国人在留許可問題を巡る在特会の活動をネット上の動画で知った。「すげー」と思い、「日韓断交」などを掲げるデモに加わった。「死ね」「殺せ」と叫ぶことに抵抗はなかった。一連の行動に参加した感想は「『やったった』やね」。

 なぜ、在日コリアンを嫌うのか。「レイシスト(人種差別主義者)」だと自称する男性に尋ねると、自宅近くの在日コリアン集住地域でトラブルを避けるよう親から厳命されて育った記憶を話した。それ以上のエピソードは質問を重ねても語られず、「その人種が嫌いなのは、ニンジン嫌いと一緒」と事も無げに言った。同校の児童に対する今の思いを聞くと「(学校側の)大人を相手にしていた」。事件については「謝罪はしない。自分たちの主張に感化された人がいる以上、裏切れない」と強弁した。

 

■「タブーにびびる世間変えた」自負

 

 公判の傍聴席には、大阪府門真市の飲食店経営者の男性(55)の姿があった。09年の朝鮮学校襲撃事件などで有罪となり、服役した。今は、在特会の元会長が代表となった政治団体の選挙活動などに前述の被告と共に関わりつつ、3軒の飲食店を営む。

 「10年前と考えは何一つ変わっていない。在日は最も身近に日本人へ不利益を与えている。だから、ひとくくりにして出て行けと言う」。大阪にある繁華街のビルの一室に構えた店で、飲食店経営者は取材に応じた。

 水商売の世界で働いて30年余り。一時は10軒以上を経営し、中国に進出した。現地で反日デモに直面して06年に帰国後、在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)などに直接街宣を仕掛ける在特会を知った。「『これや!』と。従来の右翼と違い、普通の市民が自らを危険にさらして行動する姿に美徳を感じた」

 逮捕や服役は気にせず、培った人脈と才覚でどう転んでも食べていく自信はあるという。「仕事と政治的主張は別物」と強調し、「在日コリアンの女性も雇い、自分は慕われている」と話した。

 飲食店経営者は、時に笑顔を交えて家族の話題も披露した。90代の母と2人で暮らし、自身に3人目の孫が生まれたばかりだという。記者には「いい質問しますね~」とくだけた物言い。2時間余りの取材で会話が途切れることはなく、ネオン街の話術が垣間見えた。ただ、あの日、朝鮮学校にいた児童への謝罪はなかった。

 この10年、「嫌韓」の主張がメディアや政治家の間で台頭し、強硬な右派論者も次々と登場した。16年、東京都知事選に出馬した在特会の元会長は11万超の票を集めた。飲食店経営者は、「事件の頃、僕ら以外にそんなことを言う人間はいなかった。世間は『タブー』にびびっていた。世論を変えるきっかけをつくった」

 冒頭の裁判。地裁は11月末、被告の男に罰金刑を宣告したが、拡声器での訴えに公益性を認めた。閉廷後、被告は「差別目的は否定された。保守世論を下支えするため、これからは選挙や」と勢いづいた。

 

朝鮮学校襲撃事件】2009年12月4日、京都朝鮮第一初級学校に在特会メンバーら11人が押しかけ、約50分間にわたってヘイトスピーチを行った。うち4人は威力業務妨害罪などで有罪が確定。後日、同校周辺であった2度のデモ行進でも差別発言が乱発された。民事裁判で在特会側は、同校による隣接公園の「不法占拠」への「意見表明」と主張したが、京都地裁判決は「表面的な装い」と退け、人種差別と結論付けた。大阪高裁も地裁の判断を支持し、高額の賠償命令などに加え、民族教育の重要性を積極的に評価した判決が最高裁で確定した。

 

〈連載「ヘイト追跡 朝鮮学校襲撃事件10年」 全4回の2〉

 

※おことわり 連載記事には、在日コリアンを対象にした民族差別に該当する文言が複数登場します。京都新聞社は、差別の実態を共有するため文言をそのまま報道します。あらゆる憎悪犯罪や憎悪表現を許さない社会をつくる一助とする目的です。

(引用ここまで・強調は引用者)



「差別ではない、正義の闘いだ、批判批評だ」と言えば差別が大手を振って市民権を得る光景。拉致問題さえ持ち出せば、朝鮮・朝鮮人を幾らでも叩くことが許される光景。数十年前から全く変わっていない光景だ。

連中の行動が娯楽的差別目的(月光仮面ゴッコみたいなもの)であること、政治団体を標榜したり選挙に打って出たりしてレイシズムを公共の場に持ち出す手段としていることが、マイノリティから見れば、あるいは初級的な知的鍛錬を得た者であれば明らかであるのに、こともあろうに裁判所が、公共性があると認めたわけだ。

まったくもってどうしょうもないことだが、私は数年前から日本の司法には完全に絶望しており、裁判所による人権救済に何らかの期待をするほうが間違っているという結論に達しているので、裁判所の判断について言及することはしない(マジョリティのなかで勉強ばかりしてきて社会経験が無く、多数者専制を宣言して憚らない安倍政権の下僕としての生存競争から無縁ではない連中が裁判官である。少数者の人権を救済する発想が出て来ると期待するのが間違いである)。


レイシストは相も変わらず、「○○人が嫌いだ」ということをひけらかす自由があると言い放ちふんぞり返っている。今回のインタビューでもそのように言い放ったし、彼らはいつでも、そのような『自由』を侵害するなと主張している。

○○人が嫌いという人間個々の内面を云々するつもりは無い。たまたま近所に住んでいた○○人『個人』の素行が悪いのを見てその『人種』に嫌悪を持つ、あるいはネットや雑誌で○○人を蔑む情報を日々収集してそのような視座を獲得する。いろいろなパターンがあるだろう。

一部の個人を見定めて全体をDNAで一絡げにしている時点で、救いようのない思考回路であるが、その○○人が嫌いという発想に対して、同じ○○人の個人には、責任も無いしやりようも無い。取り合う義務も無い。いろいろ思うことはあるが、しょうがない。

 

しかし、「○○人が嫌いだぁ!」と言って回り、書いて歩き、○○人を嫌う根拠、醜い事例を散々あげつらい、他者に理解や共感を取り付ける行為は、果たして自由なのだろうか?

 

これについて、私は数年前、駄文を連ねたことがある。△△が嫌いだ、という駄文である。拙い。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20111028/1319772824

(△△が何か知りたい方はリンク先からご覧ください)


私がこれを書いて既に8年経った。私の△△嫌いは今も相変わらずである。これを書いた時点で、人生で△△を口にしたのは2度きりだが、それからも一度も更新されていない。未だ2度だ。その2度ともが、辛く、思い出したくもないものだ。

 

私は△△が嫌いであることは間違いがない。時に狂気すら覚えるような△△嫌いだ。しかし△△が好きな者(たとえば私の家族)に向かって罵声を吐いたり、周囲の△△好きを矯正して嫌いにしようとしたり、普段△△を出している食堂に行かない、などということはない。私が△△が嫌いなのは私の自由だが、周囲が△△を好きなこと、それを受け入れていること、それで営業をすることも、まったくの自由だ。

仮にこれが、△△を喰っている場所に出かけて行って「△△を喰うなんて人間の所業じゃない」とほざいたり、△△を出している食堂に罵詈雑言を仕掛けたり、△△の工場労働者をディスったりすると、侮辱とか名誉棄損とか威力業務妨害とかの刑法犯に引っかかろうし、幸運に引っかからなくてもハタ迷惑この上ない行為である。いい大人であればやってはいけない。

 

件のレイシストの例えにしても、仮にニンジンが嫌いなら嫌いで結構だろう。個人の内部に留まる限りは自由である。多少食生活に偏りが出るだろうが、それは個人の責任だし、社会にとってはどうでもいい。

しかし、みんなでニンジンジュースを飲んでいるところに出かけて行って「お前ら気持ち悪いよー、家に帰れよー」とほざいてみたり、食堂で「俺はニンジン嫌いなのにこのカレーに入っているから代金を返金しろ!」と強請ってみたり、「ニンジンを給食から叩きだせぇ!」とアジってみたり、果てはニンジン農家に出かけて行って「なんでこんなの作ってるんだよ!」と嫌がらせをかけてみれば、早速警察が飛んでくるだろう。ただそれだけのことだ。それも理解できず、乱暴狼藉の限りを尽くし、ニンジン嫌いの何が悪い、とふんぞり返っているのが件のレイシストだ。

 

くどくど書いたが、結局のところ、自己の嫌悪感を外部に発散し他者を扇動すれば、いさかいの種になる。それが社会の少数者に向かえば排除排斥の種になる。だから差別扇動は許されない。ヘイトスピーチは許されない。

 

 

このようなことを想うとき、つい数十年前のルワンダでの出来事を思い出す。○○人が嫌いだ、○○人を排除しようと発散し続けるとどういう社会になるか、という人類としての教訓である。ルワンダでは1990年代初頭、多数民族フツの強硬派が出資したラジオ局が設立された。そこでは明るい音楽とともに、少数民族ツチを排斥しようと、日々呼びかけられていた。毎日のように「ツチはゴキブリだ」「立ち上がれ」「殺せ」と扇動していたのである。


千の丘自由ラジオのヘイトスピーチ Hate-speech excerpt from RTLM - Radio Télévision Libre des Mille Collines (1994)
https://www.youtube.com/watch?v=EobbnePn3qw 

それに感化されたフツらが、何の罪悪感も感じずにツチを殺しまわった。虐殺された人数は80万人とも100万人とも言われる。


ルワンダ虐殺の被害者映像と煽動者たち
https://www.youtube.com/watch?v=XqSxVedhnAg

翻って現在の日本社会。ひとに向けるには余りにふさわしくない悪罵が、朝鮮人相手にはやすやすと口から出る。あるべきモラル、倫理観、公共心が、朝鮮人相手には薄まる現在の日本社会。現在の状況がルワンダの前夜にあるとは思いたくもないが、現在の状況は、見事に符合している。

 

 

私を含めた在日朝鮮人が、「朝鮮人が醜い」「朝鮮人はろくでもない」という悪罵を吐かれる、人種に対する攻撃に遭うということは、言うまでもないが、この社会でここ最近に始まった話ではない。思えば私の人生の、それこそ幼少期から付きまとってきた。朝鮮学校への通学途上、電車やバスの中で殴られ、路上でヤジられ、朝鮮人だとバレれば笑われ、けなされてきた。しかしそのような行為に遭えば、周囲の日本人の大人たちが助けてくれたことも多かった。バスの中で私を殴った男子高校生に「やめて!」と制止してくれた女子高生のお姉さん、私をヤジったオッサンに「なんやお前」と割って入ってくれたお兄さん、すべて記憶に鮮明に焼き付いている。だから幼少期の私は、そのような乱暴を働くのがごく一部の堕落者や愚者の行いであると理解できたし、圧倒的な多数はまともな大人であって、私はそんな社会を信頼してきた。

幼少期からつい十数年前までを思い返せば、「差別はいけない」「国と国とにいさかいがあっても人と人との間柄は関係ない」という、当然のコンセンサスは形成されていたと思う。

しかしレイシズムは、いまや街中で何のためらいや良心の呵責もなく吐露できる感情となり、その羅列のみで一冊書いたら書店に平積みで置かれるようになった。行政が推進し、立法が放置し、司法が追認する感情となった。虐げられても助ける周囲はおらず、逆によく言ったもっとやれと喝采が送られ、味方をしようものなら一緒になって叩かれる。私の半生だけでもこの社会は堕ちるだけ堕ちた。レイシズムを社会が必要とし、人々が渇望した結果なのだろう。

 

差別は人間の生存本能や防衛本能に根差した、太古からある感情であり、社会の形成とともに形を変えながら維持された社会構造なのだという。原始的なものであると言える。その原始的なものが、現代になって、人間の理性や普遍的な権利意識によって淘汰されるのではなく、逆に研ぎ澄まされているのが今日の日本社会である。グロテスクな社会に成り下がったと言える。

 

「自分のなかの差別心に向き合わない者の行列だ」と、件のようなレイシストを評する人がいた。差別心を治癒する教育や啓蒙が必要だ、と。半分当たりだが、半分間違いだと思う。教育や啓蒙の不在は完全に同意するが、差別はそれが足りて早速根絶できるほど、人間社会にとって根の浅いものではない、と思っている。

差別心は誰の心にも、私の心の中にも、確実に存在する。そしてそれは死ぬまで治ることはない、とも思う。所詮、99.9%の人間は、仏や聖人君子のような心にはならない。

しかし私は、この世の差別は根絶されないが、差別なき社会を願わずにはおれないと思い描き、自らの差別心が社会に溢れないように理性や公共心を持って行動しよう、とは常に思っている。

単純で下品な例えをするが、セクシーな服装の女性が目の前に現れたからと言って、いきなり手を出したりパンツを脱いだりしないだろう。それが理性であり公共心である。大人であれば当たり前にそう行動する。しかしそれができない幼児性が犯罪に導く。

ヘイトを吐くか吐かないかも結局、おのれの差別心の吐露を理性で抑えるか、本能でダダモレさすか、の違いなのだろう、と思う。


社会をもって朝鮮人を虫けらに見立て嗤うことに熱中している昨今、余程の学習や知性が備わっていない人間は「朝鮮人が嫌い」と属性で括る思考回路に導かれていくのだろうと思う。何らかのきっかけで朝鮮人が社会的な迫害の対象になる環境は十分に備わっていると言える。最後は理性だけが、その垣根を超えることを抑える要素になると思う。

クラウドファウンディング:「ヘイト」に対抗するための言論誌を応援します。

また数か月ぶりの更新となってしまった。


仕事が忙しく気が回らない、というのもあるが、何よりもこの社会に何かを問うことの意義を、私自身が見失っている、ということが最も大きい。

例えば、日本の首相は連日のように己の醜さと能力の無さをひけらかしているし、日本の政治風景、基本的な人権の侵害度合いは、日を追うごとに酷さを増している。公文書は隠ぺいか改ざんか不作成が平常運転になったし、政治家は開き直れば責任を取らなくてもよくなったし、頼まなくても自分らに気に入らない映画や言論は愚民が寄ってたかって潰してくれるし、代わりに朝鮮カルタを展示して「表現の自由だ」とふんぞり返る者には方々から賛辞が送られる。人々は社会の分断を促進し、仮想の敵を作り上げ、あげつらうことに熱中している。来年東京五輪を迎えようというのにこの「発展途上感」は凄まじい。私の眼には、この世は本当に21世紀なんだろうかと錯覚するほどの、社会の劣化を見て取る。
しかしそれが日本のテレビで問題になることは少ない。自国の社会の劣化具合よりも韓国の法相がどうだとか、朝鮮のミサイルがなんだとかのほうがよっぽど重要なようで、朝5時のニュースからニュースを飾る。昼間のワイドショーも「カンコクガー」と言っていればいい。楽な商売である。

例えば、国会で障がい者である議員が、トイレの個室が使いづらいので基準を見直してほしいと意見したことを取り上げたニュースには、障がい者ヘイトと言うに相応しい見苦しいコメントがベッタリ貼りつき、それに賛意を示す「いいね」が連なった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191108-00000074-kyodonews-pol

例えば、首里城が火災に遭ったら、早速「韓国人の放火だ」「ざまぁみろ」というクソを煮しめたようなコメントや動画が溢れた。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1017781.html


https://www.youtube.com/watch?v=WKx9vG_WCx8

本当に探す苦労など無く、幾らでも挙げることができるヘイトの数々。それに対する、あるべき抵抗感や嫌悪感も、日々同種のヘイトが巻き散らかされる圧倒的な量的充実によって、私ですら、もう何とも思わなくなってきた。恐ろしい感覚の麻痺である。

こんな世の中になるとは、正直思わなかった。

約9年前にブログを立ち上げたときは、在日朝鮮人との無接触から来る誤解と偏見を少しでも解いていけたら、という思いだったが、社会の劣化スピードが速すぎて、最早そんな初心など、早い段階で飛んで行ってしまった。今思えば、その初心とやらがどこまで青臭かったのか、と。嘆かわしいまでの「先見性の無さ」であった。

少数者に対する差別など、マジョリティである日本人男性健常者(と敢えて書く)にとってはどうでも良く、逆に自分らへの分配が耳垢程度間引かれることに対する嫌悪感のほうが強いようだ。日本社会はいまや、理性というパンツを投げ捨て、本能を丸出しにして街中を闊歩する連中に、称賛すら与えられる、グロテスクな社会に変質したのだ、と思う。少数者の自由を慮るより、多数者(と思いこまされている我々と同種の弱者)個々人のみみっちい分け前を守るほうが正義なのだと吹き込まれ、それを妄信する者たち。そのような者らの前で、この社会の劣化を、いち在日朝鮮人がカナリヤのように鳴いて知らそうとしても、最早まったく価値がない。もう余りに手遅れだ。

ただ、私にも息子がいる。

これ以上この社会の劣化が進めば、自分の生存権すらやすやすと差し出さざるを得ない状況が来るのは目に見えている。我が家族がいざ殺されようとする前に、息子が「アッパ(お父さんの意)、こうなる前にアッパは何をしていたの?」と訊かれて、恥ずような行動だけはしてはならない。そのような気概のみで何とか書いている。

 

さて、この社会に蔓延したヘイトとの闘いについて、当然少数者一人ひとりの力など取るに足らず、ヘイトを吐くことに羞恥心が不要となった世の中に響くことはない。文字通り多勢に無勢である。
ただ、対抗言論を絶えさせず、常に抵抗し、ヘイト社会への進行を少しでも遅らせる行動には、相変わらず敬意を覚える。ヘイト本が100冊並ぶ脇に、良質な書物が1冊でも並ぶようでないといけないと思うし、そのような書物を応援したいと思う。
そんななか、「ヘイト」に対抗するための言論誌を作りたい、とのクラウドファウンディングがあったので紹介したい。

https://camp-fire.jp/projects/view/206457

呼びかけには、こうある。

私たちは今、隣人に対する「ヘイト」の蔓延する社会に生きています。外国人・移民に対するレイシズム、性差別、障害者差別などが複雑に絡み合い、殺伐とした不寛容が拡がっていく社会。そんな状況を、私たち自身で乗り越えていくための批評/文学/学問の新雑誌を創刊します。

 

実際にどのような雑誌になるのかは分からない。ヘイトに対抗すると大見得を切りながら羊頭狗肉が如くの『残念な』筆致に落胆したことも一度や二度ではないが、彼らに見えているこの社会の現状には同意するところが多い。私も応援してみようと思う。早速少額だが振り込んでみた。創刊号の読了後には、感想文の一つでも書いてみようと思う。微力ではあるが、この社会の劣化が、すんでのところで踏みとどまることを願っている。

(付記)
以前書いた稿(https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20181203/1543846906)の続編を執筆中である。実はこの夏も韓国に行っていくつか書店を回ってきた。そのレポートである。数日中には稿をアゲる予定である。

雑感:日本には民主主義は無理だ、という結論に達している。

開票10日前に書いた 通り、参院選は自民の圧倒的な勝利に終わった。https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/2019/07/10/162830
大阪の結果も予言通りの最悪だった。維新―維新―自民―公明。良心的な政治家である立憲と共産の候補は共に敗北。戦争と富の独占を是とする勢力が、全ての議席を持って行った。

為政者側は、今回の選挙を『存在しないもの』として徹底的に隠し、前期間の国会議論からも逃げ回り、争点をボヤかせた。テレビも徹底的に報道せずやり過ごした。この関係は共犯関係と呼ぶに相応しいが、歴史的な犯罪として裁かれるべきものだろう。少なくとも早速来年の歴史の教科書には載せるべきレベルの話である。
そして大きくは、為政者側が今回の選挙によって、再び、そして決定的な成功体験を得たことだ。国民は選挙を隠せば選挙に関心を示さず投票行動も起こさない、ということだ。これは三年前の参院選でも試されたことだが、改めてこれが効くことを学習したのだ。業界団体の組織票を持つ自民が、この決定的な成功体験を得たことは大きい。
SNSでは、「自民が議席を減らした」とか「公示前勢力より弱体化した」とか「改憲できなくなった」とか言って、ささやかな収穫を喜び合う筆致で溢れたが、余りにヌルイ現状認識で泣けてくる。

心あるネット上の市民が、自民に抗ってSNSで投票を呼び掛け、SNSで比較的まともな情報を得て投票行動を起こした者も居ただろう。しかしマスコミに圧力をかけてテレビを支配し、選挙を無き物にした自民は何議席だったのか。立憲野党を全部足しても全然歯が立たない。世間のSNSが果たす役割など、テレビに比べれば取るに足らない。人生のイベントが相対的に少なくて高投票率を叩く高齢者や専業主婦層の、いったい何割がSNSを見るのか、それがテレビ対比で何%なのか、想像だけで圧倒的な差であることが分かる。その絶対的影響力のあるテレビが選挙を報じないわけだ。そりゃ低投票率にもなろうし組織票タップリの自民が勝つ。当たり前だ。

前にも書いたが、私は、日本では残念ながら民主主義は無理だ、という結論に達している。民主主義という制度が要求するレベルに達していない者の構成比が余りに高すぎて、民主主義を維持することが出来ない、と認識している。

間接民主主義が機能するためには、その代理人を選ぶ主権者自身が、①正しい情報を②正しく理解する能力が必要である。①正しい情報かどうかを見抜く能力(リテラシー)とは、溢れる情報を疑ってかかり、真贋を見抜く能力である。②正しく理解する能力とは、歴史及び人類の普遍的価値を学習し、相互に尊重できる能力のことである。そして、至極当たり前のことだが、③その能力を駆使して、ちゃんと代理人を選ぶという行為を放棄しないこと、例えば自分の主義に合致する代理人が居なくても少しでもマシな代理人に投票するなりして自分の意思を反映させる行為を怠らないことが必要である。これら3つの側面からの行動を主権者が絶えず行って、自らの間接民主主義を維持する必要があると考える。

そう考えてみた場合、現状はどうか。

 ①為政者は、逆立ちしても正しい情報を発信していない。安倍の「口から出任せ」をマスコミが「垂れ流し」、のちにファクトチェックすらしないわけだから、マスコミが機能を失っているのは言うまでもないが、それではその情報を受ける側が違和感から行動したり、真相が何なのか自分で調べたり、「おかしいのではないか」と声を上げたりするだろうか?ほとんどない。何もなかったかのように静かなものである。

 ②物事を正しく理解するために必要なのは、端的には学習量という言い方ができるが、具体的には「何を尊び」「何を追求するか」という価値基準を学習の蓄積によって個々が確立し、そこを基準に理解する、ということである。その際の大事なファクターは、「歴史」「普遍的価値」である。歴史を知ることは、人類の成功体験失敗体験を踏まえ失敗を繰り返さず成功を収める近道になるし、人類が数多の犠牲をもって追求してきた基本的人権や民主主義や平等思想といった普遍的価値を踏まえることは自分たちの代理人を選ぶ基準にもなるし、時代錯誤的な差別主義選別主義排外主義人治主義と対峙する基準にもなる。人類の歴史と人類が求めてきた価値を貶め乱暴で稚拙な基準を弄ぶような代理人、資本主義原理や新自由主義ばかりを追求するような代理人から政治風景を守る確かな知識にもなりうる(政治が再分配の機能と理解する場合、資本主義の原理に任せることを主張するような政治家は、資本家の手先や利益誘導の代理人でありこそすれ、一般多数(庶民)の代理人にはなりえない)。

 ③投票率が5割にも満たないことの愚かしさは、私が戯言を重ねるまでもない。税金一つ基地一つ原発一つ、政治の挙動は自らの生活や環境に密接に関わるというのに、投票するという当たり前のことすら軽んじられる。それこそ、投票という最低限の政治参加さえ冷笑する空気が社会には確実に存在し、政治に行動を起こす人間を冷めた眼で見るのが一般だし、政治の話題など出そうものなら途端に「しらこい」空気が流れる。余りに嘆かわしい状況である。

 

恐らくこれまで試されたあらゆる社会制度の中で最も人類一般(庶民)の理想に近い制度であると現時点では思われる間接民主主義制度だが、それも構成員次第なのかな、と思う。私が知る限り、米国や仏国で多くの血を流して確立された制度、韓国で軍事独裁と対峙し何千人も死んでやっとの思いで手に入れた制度、この国で会話の節々で嘲笑の対象になる朝鮮ではまだ手に入れられていない貴重な制度が、この社会では構成員自身の手によってことごとく踏みにじられている。

 

その原因としては、選挙制度の不完全さによる諦念、自らが血を流して獲得していないという自史から来る当事者意識の欠如以上に、日本社会に馬鹿が揃い過ぎているのではないか、という疑念が、私には払拭できない。

 

これだけ市民の生活と人権を後退させ、好き勝手に自分の友人に利益誘導し、記録を残さず資料も捨て改竄し将来の検証可能性さえ無くし、法の支配を否定して徹底的に人の支配を強化し反目する者を獄に繋ぎ協力する者を逃がし、司法人事にも露骨に介入して破天荒な判決や決定を乱発させ、三権分立立憲主義を否定して『立法府の長』として君臨した、前代未聞の為政者及びその政党への審判が、たかだか10議席減で、投票率は5割に満たないのだ。

 

これはこの国の民主主義の構成員に馬鹿が揃い過ぎている何よりの証明であるし、現在の社会が覆う空気をナチ前夜の空気や大日本帝国末期の空気と対比して危機感を覚える人間の余りの少なさもまた、馬鹿の多さの証明となっている。余りに歴史を知らない。歴史は中学校で習うもので全てだと勘違いしているのではないかと疑ってしまう(その中学の歴史も覚束ないのが安倍であるが)。

そんな貧しい政治風景であるが、政治の成果物(正のものばかりでなく、負のものを含めて)の、最も影響を受けやすい階層の一つが、我々在日朝鮮人である。
資源が再分配される際には最後まで分配が回ってこず、公的扶助から排除する際には最も早く排除されるのが在日朝鮮人である。

単純に資源を均等に分配するより、事細かに要件を拵え選別してから分配するほうが、余計な資源を喰うことくらいは、幾ら計算ができない人間でも理解できると思うが、余計な資源を投じて知恵を絞って、我々在日朝鮮人に分配されないようにするという、醜悪な政治風景がここ何年と続いてきた。社会に閉塞感や不満が蓄積されてきたとき、あるいは為政者の疑獄から目を逸らさせたいとき、社会に「敵」が必要となる。ガス抜き・鬱憤晴らし・資源配分の妬み嫉みの対象に、多勢とは違う『血』を引っ張り出す、ということである。キタチョーセン・朝鮮総連朝鮮学校・そして在日朝鮮人。韓国も然り。これらを「敵」にし、取り締まったり、あげつらったり、貶めたり、資源を分け与えなかったり、取り上げたりという、「制裁政治」「選別政治」が、ここ数年極端に増えてきた。朝鮮・韓国、及びその人間・属性が、政治の直接的な攻撃によって、あるいは政治家の扇動によって散々尊厳を踏みにじられ、それが大衆の安易なナショナリズムの喚起による高揚、ひいては政権の浮揚に利用されてきた。

 

私は既に、この社会に絶望しているが、この絶望を共有できる人間がほぼ見当たらないこともまた、この絶望を加速させている。とことん堕ちるところまで堕ちるだろうが、その過程で私や家族の尊厳は、また醜悪な大衆の娯楽の中で消費されるだろう。
余りに嘆かわしい。

ビジネス講習のディベートネタにレイシズムを使うって、どういう神経をしているのか?

サラリーマンである私は、企業内研修を受講する立場になることもある。流石に新入社員ではないのでビジネスマナー的な研修はもう流石に回ってこないが、例えば交渉術とか論理的思考力とか、外部講師によるビジネススキルの研修というのは、人事課から多頻度に「受けろ」と案内が回って来る。

スキルを与えてもらえるのはありがたい。しかしここ数回の受講では、教材の記述や講師の言動に、ビジネスはともかくとして、普遍的な価値観、即ち人権感覚とか互いの自尊心を尊重するとか人間としての基本的な価値に対して挑戦していることが目につき、とても気になっていた。私は、たとえ利益を追求するでも、そこに関わるひと同士、相手をいたずらに貶めたり、白を黒と言い包めたりというのは、いくら企業を代表して交渉し、看板を背負って名刺を切るとしても、決してやってはならないものだと考えてきた。松下幸之助の「スーパー正直」を信奉するようなピュアなビジネスマンなどでは決してなく、薄汚れた仕事も散々重ねてきた私だけれども、仕事に人間性を奪われてはならぬ、とずっと考えてきたから、正直何度かの受講で辟易していたのだった。

先日、その何度目かのビジネススキル講習があった。そこではディベートの実地講習ということで、あるいはの立場というのを、受講者がランダムに当てがわれ、その立場で理由提示をしたり反論したり納得させたりして、説得力ある交渉を行う、というものが行われた。自分の嗜好や主義主張とは関係なくがランダムに当てがわれ、それに基づいて即興でディベートを行い、最後に受講者全員の挙手によって、どちらに説得力があったかの投票が行われて対戦が終わる。個人の思想信条を脇に置いてでも会社の立場で交渉しなければならないビジネスマンとしては、一応は必要なスキルなのだろうか。よくわからないが。

最初は「旅行をするならA海外旅行か、B国内旅行か」「食べ盛りの息子をレストランに連れて行くならAバイキングか、B爆盛定食屋か」的な、和やかなネタで始まり、だんだん「早期定年制度の導入にA賛成か、B反対か」などとビジネスライクな設問に移行していったのだが、そんななか同僚に出された設問に、私は言葉を失った。

 

「これからの店舗スタッフはA外国人も採用すべきか、B日本人に限定して採用すべきか」

 

掲げられた設問は、一言で言えば人種主義・レイシズムを選択するかどうか、である。

店舗スタッフをガイジンだからと一律に間引くか、(まともな)ガイジンも採用していくか、という二者択一の設問である。こんなものは議論するまでもなく、結論は当たり前に瞬時に出る。国籍や人種で一律に採用を制限するなど、21世紀の社会、しかも先進国たる日本に属する企業(それも零細企業ではない)で、議論する余地があろうはずがない。ビジネススキルだディベートだ以前、常識以前の問題である。

 

それぞれの立場を当てがわれた同僚らによって、ディベートは始められたが、私はとてもまともに聞いていられなかった。自分も気づかぬうちに「ありえない」「余りに馬鹿げている」と独り言を重ねていた。周りの同僚も私の変化に気づいて心配していたが、根本的に何に私が怒っているのか理解していないようだった。

 

このディベートを、レイシズム側にも発言権を平等に与えて議論を深める、ということは何を意味するだろうか。

「日本人に限定して採用すべき」理由、「外国人は採用すべきでない」理由を、知的バックボーンもろくに無い人間が、いたずらに羅列することを意味する。何をどう工夫しても『選別主義』『人種差別主義』に帰結するしかない議論。それを軽々に。しかもガイジン(私)を前に行うことになる。たかがビジネススキル講習のネタとして。

実際を当てがわれた同僚が、ガイジン採用のリスクがどうだ、日本人だったら安心がどうだと、苦慮しながら、ではあるが愚にもつかない理屈を並べていた。まさかレイシズムの正当化を即興でさせられるとも思っていなかったようで苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。対戦は当然にに軍配が上がって終了したが、講師が「に説得力を持たせようと思ったら、これだけ小売業に外国人が増えている中で、ホスピタリティやおもてなしの視点から主張したほうがよかったかもしれないね」「日本語もままならず教育コストが増えるとか」などと、が勝つためのディベートの方策を得意げに解説して見せたが、ただ単なる差別の方便、である。

醜悪そのもので、その光景をまともに正視できなかった。

 

また朝鮮人が重箱の隅を綿棒でほじくり返してイチャモンをつけていると思われるかもしれない。しかし想像してほしい。これが仮に「障がい者も採用すべきB健常者のみ採用すべき」「A女性も採用すべきB男性のみ採用すべき」「被差別部落出身者も採用すべき被差別部落出身者は採用すべきでない」だったらどうか。これをディベートだ頭の体操だと切り分けてまともに進行できる人間がどれだけいるか。こんな愚かなディベートを掘り下げて選別・排除する理由をいたずらに積み上げることに何の価値があるのか。議論のネタなら、技術の試行なら、知的探求のための材料であれば、あるべき倫理観や踏み外してはならない常識も脇に置いていいのか。

 

私はそうは思わない。

 

この愚かな試みが眼前で繰り広げられていたとき、私は以前youtubeで見た、ある動画を思い返していた。https://www.youtube.com/watch?v=Pi2rHOhPZZ4


知的興味を培養していく過程で、痛覚が無い人間が頭を使って歩くという「気持ち悪い」CGを作った技術者に対し、宮崎駿監督が「私の知り合いの身体障害者を思い出す」「痛みに対する想像力が無い、極めて不愉快だ」「生命に対する侮辱だ」と喝破する場面である。ビジネススキルとか知的興味とかを追求して、人間性を失ったのなら、それに何の価値があろうか、と言っていると理解する。この怒りに、私もまったくもって同意する。

 

知識や技能を持つ者が繰り出すネタの、知性と想像力の無さに気づくことが多い。

差別主義をダダモレにして、それでもビジネスが大事だと胸を張る。

私はそうありたくない。御免被る。

雑感:また陰鬱な選挙がやって来る。

また選挙の季節がやってきた。私にとっては陰鬱な季節だ。

 

それは私に選挙権が無い、ということも一因ではあるが主要因ではない。

せっかくの間接民主主義の機会である選挙権を有権者の40%近くが放棄しているという嘆かわしい現状に、言いようのない陰鬱な気持ちを禁じえないのである。

 

肝心の残る60%の投票行動自体にも疑問だらけだ。自分の投げた票がどのような効果をもたらすのかというのにまったく想像力を巡らせずにただ単に会社や業界の指し示す候補者や政党に投票する者、かわいいとかイケメンとかおおよそ政治家を選ぶ指標になりえない基準で投票する者、その政党や候補者がどのような政策を掲げているかをろくに考えずに投票する者、既に保守政党ではなくなって久しいのに保守として自民党に投票する者、実際にその政治家が国会でどのような政治活動を行っているかを知らないのに投票する者、などなど。

この国の民主主義の構成員が、寄って集って自らの民主主義を破壊する様を見て、反吐を覚えずにはいられないのだ。

 

大阪は毎回、「お笑い百万票」と揶揄されるような不可解投票行動が続発するが、このままいけば、維新-維新-自民-公明、で大阪の4議席は決まりだ。私服を肥やす不良政治家ばかりを量産し、特に実績も無く、数値的な裏づけも無く、偏差値の恐ろしく低い人間を党首として掲げる、政治家集団の体を成していない維新に投票するなど、何をどう見ればそうなるのか、私にはレベルが高すぎてまったく理解できない。私は住民税と固定資産税で年間約50万円が維新行政に吸い上げられるが、朝鮮学校に通う私の息子の学びには、本当にまったく還元されないし、維新の政策に賛同できるものなどほぼ皆無だ。私からしてみればこれだけ払い甲斐の無い税金もなかなか無い。給与天引だから抗弁の機会さえも無い。腹立たしくて仕方が無い。

しかし何も考えていない能天気な大阪のオバチャンにかかれば、そんなことなどお構いなしだ。残念ながら二人とも受かるだろう。未だにインチキな橋下の亡霊に取り憑かれてでもいるのだろうか。反省の回路が無い大阪のオバチャンの成せる業だ。

逆に政治の腐敗を質し続けた共産党の議員とか、有能な弁護士たる立憲の新人などは、残念ながら落ちるだろう。大阪のオバチャンは日常的に大阪のワイドショーのヘイトに汚染され、ニイチャンネエチャンはそもそも選挙が何なのかも知らない。何の選挙なのか、選挙でどうなるのか、理解していない者ばかりで泣けてくる。

 

テレビは早くも選挙特番の番宣を繰り返しているが、言うまでも無くいまチカラを入れるべきは開票後の選挙特番ではなく、投票前の選挙報道である。この六年間の政治風景を振り返りつつ、未来に向けた政策の比較を行って、選挙民が公正な審判が下せるような材料提供をやるべきだ。ところがこの国は数十年前からどうなっているのか、政策批判は開票後に、という変な「協定」が結ばれているようだ。この国のマスコミは日常的にもまともに権力に対峙しないのに、選挙期間中にもその任を放り投げているのなら、彼らは一体全体何のために居るのか、何がメシの種なのか、本当に意味不明だ。ナチ下、あるいは大日本帝国下のマスコミの風景はどうだったか、いまのマスコミの風景とダブるのではないか、と考えるのは私だけではなかろう。

 

仮に私に選挙権があれば、今回投票する価値があると考えるのが、山本太郎率いる「れいわ新選組」だ。着眼点が庶民の方を向いていて、少なくとも業界団体とかアメリカ資本とかの御遣いレベルの政策を掲げる自民とは、政治姿勢に雲泥の差を感じる。気になったので政党のホームページを覗いてみた(https://www.reiwa-shinsengumi.com/policy/)が、庶民の立場からして、代弁者として推せる要素が様々あることには感心した。特に消費税の考え方や、沖縄・原発の切り口がハッキリしている。これまでの愚策で犠牲になってきた者を救護する、旗幟鮮明な姿勢は、既存政党には無い威力を感じる。次々に発表された候補者たちも、いま日本社会が抱える病理を知る当事者ばかりで、民主主義の構成員が代弁者として送り込むのに適した人材ばかりで、非常に好感が持てる。

しかしマスコミにはまったく露出が無い。既存マスコミには「山本太郎の熱狂」を伝える勇気がない。それだけ官邸の睨みが徹底しているのかもしれないが、とはいえ昼のワイドショーは今日も日韓間の貿易のいさかいを小一時間もかけて面白おかしく伝え、コメンテーターたちは病的な妄想の深さを競っていた。日本政府の挙、これ自体が選挙対策だと分かりそうなものだが、何度も何度もカンコクガーと唸っていた。本当に頭が悪くて救いようがないが、そんな時間を浪費する反面、選挙のことなど1ミリも触れない、まるで選挙など無いかのようである。

 

これは、皮肉とかではなく、本当に真面目に言うのだが、この国の構成員は民主主義の尊さが骨身に染みていないのだろう。それは日本が血を流して民主主義を獲得していないことがその主要因ではないだろうか、と本気で疑っている。それこそ多くの者の血を流して権力に対峙して民主主義を獲得したフランスやアメリカや韓国からしてみれば、これだけ権力が腐敗しきっているのに、こんなにも選挙熱が低い、というのはどう考えてもあり得ない現象だ。先に挙げた国の民衆は、日本の愚鈍な民主主義の構成員を、どのような生暖かい眼で眺めているだろうか、と想像してみる。まったくもって『理解の範疇外』だろう。いや、そもそもこんな呑気な政治風景は民度が低すぎると無視を決め込むかもしれない。それほどまでにレベルは低い。果てしなく低い。

 

このように、まったく盛り上がりに欠く今回の選挙だが、選挙権がないのに選挙の結果如何で人権や公の扶助の取扱が如何様にも翻弄されるザイニチ当事者の私からすれば、毎回の選挙結果は本当に気が気でない。切り捨てるときは真っ先に切り捨て、恵むときには最後まで恵まないのが私たちザイニチに対する人権だ。

これまでも選挙のたびに幾度となく、ザイニチを再分配の対象から外すと言って喝采を浴びた者が首長選挙で当選したり、ガイジンにも差異無く分配をしようとする行政官を槍玉に挙げて攻撃して政治的な功績を上げたり、という、端的に言えば「弱い者いじめ」が横行してきた。そしてこれがまた、この国の節穴の目を持った民主主義の構成員たちには本当によく効くのだ。「日本人の血税の使い道を正した」と。頭が悪すぎて死にそうになる。私をはじめガイジンが納めた税金および資源を全額返してからその言い分が初めてスタートラインに立つというのに、何をふんぞり返って偉そうにモノを言っているのか、と思う。社会の隅で息を殺しながら棲むザイニチを追いかけまわして供物にする前に、やることは手前にいくらでも転がっているだろう、と思う。

 

とはいえ、こんな泣き言をいくら弄しても、確実に選挙は訪れる。

少しでも私たちを含めた社会的弱者の存在が視界に入る政治家が選ばれて欲しい。

少なくとも集票のパフォーマンスの為に、私たちザイニチの尊厳を切り売りするような政治風景には、もう懲り懲りだ。そのような状況がこれ以上進まないように、と願うばかりだ。

 

まぁ、無理だろうけど。

日本には民主主義は無理だ。もう数年前から私は諦めている。
代わりに、「韓国を何とかしろ」とか「北朝鮮に帰れ」とかいう人間がいつものようにやって来るだろう。
それが即ち、日本には民主主義が無理だ、と私が語る理由の、何よりの証明になるのだが、まぁそれが理解できる人間の集まりなら、こんなことにはなっていないだろう。