いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

朝鮮人を嫌いなのはどうでもいい。「朝鮮人が嫌いだ!」と触れて周るな。迷惑だ。

実は、前稿で予告していた韓国の書店のレポートだが、校了寸前にパソコンがバグって振出しに戻ってしまった。心が折れたので別のことでも書こうかと思う。ちょうどYahooに馬鹿が陳列されていたので、それを素材にしようと思う。

 

なぜ在日コリアン嫌うのか?「ニンジン嫌いと一緒」 元在特会メンバーら、朝鮮学校ヘイトに謝罪なし
Yahooニュース 2019/12/19(木) 19:06配信 京都新聞

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191219-00200709-kyt-l26

 

(引用開始)

 

「正義のためにやっている」。今年9月、ヘイトスピーチ(憎悪表現)をした過去について、「在日特権を許さない市民の会在特会)」元メンバーの被告の男(51)=京都市右京区=は、京都地裁であった公判で声を強めた。

 10年前の京都朝鮮第一初級学校(南区)の襲撃事件で、差別を扇動する罵詈(ばり)雑言を浴びせたうちの一人。威力業務妨害罪などで有罪となった後に服役し、高額の賠償命令も受けていた。

 今回の裁判では、2017年に同校の跡地そばで「この学校は日本人を拉致している」「学校関係者かな、と思ったら110番して」などと拡声器で言い放ったとして、名誉毀損(きそん)罪に問われていた。

 

     ◇

 

 朝鮮学校襲撃事件を起こした在特会は、事件の動画をインターネットで公開。社会に衝撃を与えるとともに、会員数を激増させた。12年ごろには1万2千人超に達したとされる。当時、襲撃に加わったメンバーたちは今、何を思うのか。

 

     ◇

 

 被告と一緒に襲撃事件を起こしたうちの一人で元在特会員の男性(40)=京都市=が取材に応じた。男性は、襲撃事件の1年ほど前に外国人在留許可問題を巡る在特会の活動をネット上の動画で知った。「すげー」と思い、「日韓断交」などを掲げるデモに加わった。「死ね」「殺せ」と叫ぶことに抵抗はなかった。一連の行動に参加した感想は「『やったった』やね」。

 なぜ、在日コリアンを嫌うのか。「レイシスト(人種差別主義者)」だと自称する男性に尋ねると、自宅近くの在日コリアン集住地域でトラブルを避けるよう親から厳命されて育った記憶を話した。それ以上のエピソードは質問を重ねても語られず、「その人種が嫌いなのは、ニンジン嫌いと一緒」と事も無げに言った。同校の児童に対する今の思いを聞くと「(学校側の)大人を相手にしていた」。事件については「謝罪はしない。自分たちの主張に感化された人がいる以上、裏切れない」と強弁した。

 

■「タブーにびびる世間変えた」自負

 

 公判の傍聴席には、大阪府門真市の飲食店経営者の男性(55)の姿があった。09年の朝鮮学校襲撃事件などで有罪となり、服役した。今は、在特会の元会長が代表となった政治団体の選挙活動などに前述の被告と共に関わりつつ、3軒の飲食店を営む。

 「10年前と考えは何一つ変わっていない。在日は最も身近に日本人へ不利益を与えている。だから、ひとくくりにして出て行けと言う」。大阪にある繁華街のビルの一室に構えた店で、飲食店経営者は取材に応じた。

 水商売の世界で働いて30年余り。一時は10軒以上を経営し、中国に進出した。現地で反日デモに直面して06年に帰国後、在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)などに直接街宣を仕掛ける在特会を知った。「『これや!』と。従来の右翼と違い、普通の市民が自らを危険にさらして行動する姿に美徳を感じた」

 逮捕や服役は気にせず、培った人脈と才覚でどう転んでも食べていく自信はあるという。「仕事と政治的主張は別物」と強調し、「在日コリアンの女性も雇い、自分は慕われている」と話した。

 飲食店経営者は、時に笑顔を交えて家族の話題も披露した。90代の母と2人で暮らし、自身に3人目の孫が生まれたばかりだという。記者には「いい質問しますね~」とくだけた物言い。2時間余りの取材で会話が途切れることはなく、ネオン街の話術が垣間見えた。ただ、あの日、朝鮮学校にいた児童への謝罪はなかった。

 この10年、「嫌韓」の主張がメディアや政治家の間で台頭し、強硬な右派論者も次々と登場した。16年、東京都知事選に出馬した在特会の元会長は11万超の票を集めた。飲食店経営者は、「事件の頃、僕ら以外にそんなことを言う人間はいなかった。世間は『タブー』にびびっていた。世論を変えるきっかけをつくった」

 冒頭の裁判。地裁は11月末、被告の男に罰金刑を宣告したが、拡声器での訴えに公益性を認めた。閉廷後、被告は「差別目的は否定された。保守世論を下支えするため、これからは選挙や」と勢いづいた。

 

朝鮮学校襲撃事件】2009年12月4日、京都朝鮮第一初級学校に在特会メンバーら11人が押しかけ、約50分間にわたってヘイトスピーチを行った。うち4人は威力業務妨害罪などで有罪が確定。後日、同校周辺であった2度のデモ行進でも差別発言が乱発された。民事裁判で在特会側は、同校による隣接公園の「不法占拠」への「意見表明」と主張したが、京都地裁判決は「表面的な装い」と退け、人種差別と結論付けた。大阪高裁も地裁の判断を支持し、高額の賠償命令などに加え、民族教育の重要性を積極的に評価した判決が最高裁で確定した。

 

〈連載「ヘイト追跡 朝鮮学校襲撃事件10年」 全4回の2〉

 

※おことわり 連載記事には、在日コリアンを対象にした民族差別に該当する文言が複数登場します。京都新聞社は、差別の実態を共有するため文言をそのまま報道します。あらゆる憎悪犯罪や憎悪表現を許さない社会をつくる一助とする目的です。

(引用ここまで・強調は引用者)



「差別ではない、正義の闘いだ、批判批評だ」と言えば差別が大手を振って市民権を得る光景。拉致問題さえ持ち出せば、朝鮮・朝鮮人を幾らでも叩くことが許される光景。数十年前から全く変わっていない光景だ。

連中の行動が娯楽的差別目的(月光仮面ゴッコみたいなもの)であること、政治団体を標榜したり選挙に打って出たりしてレイシズムを公共の場に持ち出す手段としていることが、マイノリティから見れば、あるいは初級的な知的鍛錬を得た者であれば明らかであるのに、こともあろうに裁判所が、公共性があると認めたわけだ。

まったくもってどうしょうもないことだが、私は数年前から日本の司法には完全に絶望しており、裁判所による人権救済に何らかの期待をするほうが間違っているという結論に達しているので、裁判所の判断について言及することはしない(マジョリティのなかで勉強ばかりしてきて社会経験が無く、多数者専制を宣言して憚らない安倍政権の下僕としての生存競争から無縁ではない連中が裁判官である。少数者の人権を救済する発想が出て来ると期待するのが間違いである)。


レイシストは相も変わらず、「○○人が嫌いだ」ということをひけらかす自由があると言い放ちふんぞり返っている。今回のインタビューでもそのように言い放ったし、彼らはいつでも、そのような『自由』を侵害するなと主張している。

○○人が嫌いという人間個々の内面を云々するつもりは無い。たまたま近所に住んでいた○○人『個人』の素行が悪いのを見てその『人種』に嫌悪を持つ、あるいはネットや雑誌で○○人を蔑む情報を日々収集してそのような視座を獲得する。いろいろなパターンがあるだろう。

一部の個人を見定めて全体をDNAで一絡げにしている時点で、救いようのない思考回路であるが、その○○人が嫌いという発想に対して、同じ○○人の個人には、責任も無いしやりようも無い。取り合う義務も無い。いろいろ思うことはあるが、しょうがない。

 

しかし、「○○人が嫌いだぁ!」と言って回り、書いて歩き、○○人を嫌う根拠、醜い事例を散々あげつらい、他者に理解や共感を取り付ける行為は、果たして自由なのだろうか?

 

これについて、私は数年前、駄文を連ねたことがある。△△が嫌いだ、という駄文である。拙い。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20111028/1319772824

(△△が何か知りたい方はリンク先からご覧ください)


私がこれを書いて既に8年経った。私の△△嫌いは今も相変わらずである。これを書いた時点で、人生で△△を口にしたのは2度きりだが、それからも一度も更新されていない。未だ2度だ。その2度ともが、辛く、思い出したくもないものだ。

 

私は△△が嫌いであることは間違いがない。時に狂気すら覚えるような△△嫌いだ。しかし△△が好きな者(たとえば私の家族)に向かって罵声を吐いたり、周囲の△△好きを矯正して嫌いにしようとしたり、普段△△を出している食堂に行かない、などということはない。私が△△が嫌いなのは私の自由だが、周囲が△△を好きなこと、それを受け入れていること、それで営業をすることも、まったくの自由だ。

仮にこれが、△△を喰っている場所に出かけて行って「△△を喰うなんて人間の所業じゃない」とほざいたり、△△を出している食堂に罵詈雑言を仕掛けたり、△△の工場労働者をディスったりすると、侮辱とか名誉棄損とか威力業務妨害とかの刑法犯に引っかかろうし、幸運に引っかからなくてもハタ迷惑この上ない行為である。いい大人であればやってはいけない。

 

件のレイシストの例えにしても、仮にニンジンが嫌いなら嫌いで結構だろう。個人の内部に留まる限りは自由である。多少食生活に偏りが出るだろうが、それは個人の責任だし、社会にとってはどうでもいい。

しかし、みんなでニンジンジュースを飲んでいるところに出かけて行って「お前ら気持ち悪いよー、家に帰れよー」とほざいてみたり、食堂で「俺はニンジン嫌いなのにこのカレーに入っているから代金を返金しろ!」と強請ってみたり、「ニンジンを給食から叩きだせぇ!」とアジってみたり、果てはニンジン農家に出かけて行って「なんでこんなの作ってるんだよ!」と嫌がらせをかけてみれば、早速警察が飛んでくるだろう。ただそれだけのことだ。それも理解できず、乱暴狼藉の限りを尽くし、ニンジン嫌いの何が悪い、とふんぞり返っているのが件のレイシストだ。

 

くどくど書いたが、結局のところ、自己の嫌悪感を外部に発散し他者を扇動すれば、いさかいの種になる。それが社会の少数者に向かえば排除排斥の種になる。だから差別扇動は許されない。ヘイトスピーチは許されない。

 

 

このようなことを想うとき、つい数十年前のルワンダでの出来事を思い出す。○○人が嫌いだ、○○人を排除しようと発散し続けるとどういう社会になるか、という人類としての教訓である。ルワンダでは1990年代初頭、多数民族フツの強硬派が出資したラジオ局が設立された。そこでは明るい音楽とともに、少数民族ツチを排斥しようと、日々呼びかけられていた。毎日のように「ツチはゴキブリだ」「立ち上がれ」「殺せ」と扇動していたのである。


千の丘自由ラジオのヘイトスピーチ Hate-speech excerpt from RTLM - Radio Télévision Libre des Mille Collines (1994)
https://www.youtube.com/watch?v=EobbnePn3qw 

それに感化されたフツらが、何の罪悪感も感じずにツチを殺しまわった。虐殺された人数は80万人とも100万人とも言われる。


ルワンダ虐殺の被害者映像と煽動者たち
https://www.youtube.com/watch?v=XqSxVedhnAg

翻って現在の日本社会。ひとに向けるには余りにふさわしくない悪罵が、朝鮮人相手にはやすやすと口から出る。あるべきモラル、倫理観、公共心が、朝鮮人相手には薄まる現在の日本社会。現在の状況がルワンダの前夜にあるとは思いたくもないが、現在の状況は、見事に符合している。

 

 

私を含めた在日朝鮮人が、「朝鮮人が醜い」「朝鮮人はろくでもない」という悪罵を吐かれる、人種に対する攻撃に遭うということは、言うまでもないが、この社会でここ最近に始まった話ではない。思えば私の人生の、それこそ幼少期から付きまとってきた。朝鮮学校への通学途上、電車やバスの中で殴られ、路上でヤジられ、朝鮮人だとバレれば笑われ、けなされてきた。しかしそのような行為に遭えば、周囲の日本人の大人たちが助けてくれたことも多かった。バスの中で私を殴った男子高校生に「やめて!」と制止してくれた女子高生のお姉さん、私をヤジったオッサンに「なんやお前」と割って入ってくれたお兄さん、すべて記憶に鮮明に焼き付いている。だから幼少期の私は、そのような乱暴を働くのがごく一部の堕落者や愚者の行いであると理解できたし、圧倒的な多数はまともな大人であって、私はそんな社会を信頼してきた。

幼少期からつい十数年前までを思い返せば、「差別はいけない」「国と国とにいさかいがあっても人と人との間柄は関係ない」という、当然のコンセンサスは形成されていたと思う。

しかしレイシズムは、いまや街中で何のためらいや良心の呵責もなく吐露できる感情となり、その羅列のみで一冊書いたら書店に平積みで置かれるようになった。行政が推進し、立法が放置し、司法が追認する感情となった。虐げられても助ける周囲はおらず、逆によく言ったもっとやれと喝采が送られ、味方をしようものなら一緒になって叩かれる。私の半生だけでもこの社会は堕ちるだけ堕ちた。レイシズムを社会が必要とし、人々が渇望した結果なのだろう。

 

差別は人間の生存本能や防衛本能に根差した、太古からある感情であり、社会の形成とともに形を変えながら維持された社会構造なのだという。原始的なものであると言える。その原始的なものが、現代になって、人間の理性や普遍的な権利意識によって淘汰されるのではなく、逆に研ぎ澄まされているのが今日の日本社会である。グロテスクな社会に成り下がったと言える。

 

「自分のなかの差別心に向き合わない者の行列だ」と、件のようなレイシストを評する人がいた。差別心を治癒する教育や啓蒙が必要だ、と。半分当たりだが、半分間違いだと思う。教育や啓蒙の不在は完全に同意するが、差別はそれが足りて早速根絶できるほど、人間社会にとって根の浅いものではない、と思っている。

差別心は誰の心にも、私の心の中にも、確実に存在する。そしてそれは死ぬまで治ることはない、とも思う。所詮、99.9%の人間は、仏や聖人君子のような心にはならない。

しかし私は、この世の差別は根絶されないが、差別なき社会を願わずにはおれないと思い描き、自らの差別心が社会に溢れないように理性や公共心を持って行動しよう、とは常に思っている。

単純で下品な例えをするが、セクシーな服装の女性が目の前に現れたからと言って、いきなり手を出したりパンツを脱いだりしないだろう。それが理性であり公共心である。大人であれば当たり前にそう行動する。しかしそれができない幼児性が犯罪に導く。

ヘイトを吐くか吐かないかも結局、おのれの差別心の吐露を理性で抑えるか、本能でダダモレさすか、の違いなのだろう、と思う。


社会をもって朝鮮人を虫けらに見立て嗤うことに熱中している昨今、余程の学習や知性が備わっていない人間は「朝鮮人が嫌い」と属性で括る思考回路に導かれていくのだろうと思う。何らかのきっかけで朝鮮人が社会的な迫害の対象になる環境は十分に備わっていると言える。最後は理性だけが、その垣根を超えることを抑える要素になると思う。