いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

雑感:日本には民主主義は無理だ、という結論に達している。

開票10日前に書いた 通り、参院選は自民の圧倒的な勝利に終わった。https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/2019/07/10/162830
大阪の結果も予言通りの最悪だった。維新―維新―自民―公明。良心的な政治家である立憲と共産の候補は共に敗北。戦争と富の独占を是とする勢力が、全ての議席を持って行った。

為政者側は、今回の選挙を『存在しないもの』として徹底的に隠し、前期間の国会議論からも逃げ回り、争点をボヤかせた。テレビも徹底的に報道せずやり過ごした。この関係は共犯関係と呼ぶに相応しいが、歴史的な犯罪として裁かれるべきものだろう。少なくとも早速来年の歴史の教科書には載せるべきレベルの話である。
そして大きくは、為政者側が今回の選挙によって、再び、そして決定的な成功体験を得たことだ。国民は選挙を隠せば選挙に関心を示さず投票行動も起こさない、ということだ。これは三年前の参院選でも試されたことだが、改めてこれが効くことを学習したのだ。業界団体の組織票を持つ自民が、この決定的な成功体験を得たことは大きい。
SNSでは、「自民が議席を減らした」とか「公示前勢力より弱体化した」とか「改憲できなくなった」とか言って、ささやかな収穫を喜び合う筆致で溢れたが、余りにヌルイ現状認識で泣けてくる。

心あるネット上の市民が、自民に抗ってSNSで投票を呼び掛け、SNSで比較的まともな情報を得て投票行動を起こした者も居ただろう。しかしマスコミに圧力をかけてテレビを支配し、選挙を無き物にした自民は何議席だったのか。立憲野党を全部足しても全然歯が立たない。世間のSNSが果たす役割など、テレビに比べれば取るに足らない。人生のイベントが相対的に少なくて高投票率を叩く高齢者や専業主婦層の、いったい何割がSNSを見るのか、それがテレビ対比で何%なのか、想像だけで圧倒的な差であることが分かる。その絶対的影響力のあるテレビが選挙を報じないわけだ。そりゃ低投票率にもなろうし組織票タップリの自民が勝つ。当たり前だ。

前にも書いたが、私は、日本では残念ながら民主主義は無理だ、という結論に達している。民主主義という制度が要求するレベルに達していない者の構成比が余りに高すぎて、民主主義を維持することが出来ない、と認識している。

間接民主主義が機能するためには、その代理人を選ぶ主権者自身が、①正しい情報を②正しく理解する能力が必要である。①正しい情報かどうかを見抜く能力(リテラシー)とは、溢れる情報を疑ってかかり、真贋を見抜く能力である。②正しく理解する能力とは、歴史及び人類の普遍的価値を学習し、相互に尊重できる能力のことである。そして、至極当たり前のことだが、③その能力を駆使して、ちゃんと代理人を選ぶという行為を放棄しないこと、例えば自分の主義に合致する代理人が居なくても少しでもマシな代理人に投票するなりして自分の意思を反映させる行為を怠らないことが必要である。これら3つの側面からの行動を主権者が絶えず行って、自らの間接民主主義を維持する必要があると考える。

そう考えてみた場合、現状はどうか。

 ①為政者は、逆立ちしても正しい情報を発信していない。安倍の「口から出任せ」をマスコミが「垂れ流し」、のちにファクトチェックすらしないわけだから、マスコミが機能を失っているのは言うまでもないが、それではその情報を受ける側が違和感から行動したり、真相が何なのか自分で調べたり、「おかしいのではないか」と声を上げたりするだろうか?ほとんどない。何もなかったかのように静かなものである。

 ②物事を正しく理解するために必要なのは、端的には学習量という言い方ができるが、具体的には「何を尊び」「何を追求するか」という価値基準を学習の蓄積によって個々が確立し、そこを基準に理解する、ということである。その際の大事なファクターは、「歴史」「普遍的価値」である。歴史を知ることは、人類の成功体験失敗体験を踏まえ失敗を繰り返さず成功を収める近道になるし、人類が数多の犠牲をもって追求してきた基本的人権や民主主義や平等思想といった普遍的価値を踏まえることは自分たちの代理人を選ぶ基準にもなるし、時代錯誤的な差別主義選別主義排外主義人治主義と対峙する基準にもなる。人類の歴史と人類が求めてきた価値を貶め乱暴で稚拙な基準を弄ぶような代理人、資本主義原理や新自由主義ばかりを追求するような代理人から政治風景を守る確かな知識にもなりうる(政治が再分配の機能と理解する場合、資本主義の原理に任せることを主張するような政治家は、資本家の手先や利益誘導の代理人でありこそすれ、一般多数(庶民)の代理人にはなりえない)。

 ③投票率が5割にも満たないことの愚かしさは、私が戯言を重ねるまでもない。税金一つ基地一つ原発一つ、政治の挙動は自らの生活や環境に密接に関わるというのに、投票するという当たり前のことすら軽んじられる。それこそ、投票という最低限の政治参加さえ冷笑する空気が社会には確実に存在し、政治に行動を起こす人間を冷めた眼で見るのが一般だし、政治の話題など出そうものなら途端に「しらこい」空気が流れる。余りに嘆かわしい状況である。

 

恐らくこれまで試されたあらゆる社会制度の中で最も人類一般(庶民)の理想に近い制度であると現時点では思われる間接民主主義制度だが、それも構成員次第なのかな、と思う。私が知る限り、米国や仏国で多くの血を流して確立された制度、韓国で軍事独裁と対峙し何千人も死んでやっとの思いで手に入れた制度、この国で会話の節々で嘲笑の対象になる朝鮮ではまだ手に入れられていない貴重な制度が、この社会では構成員自身の手によってことごとく踏みにじられている。

 

その原因としては、選挙制度の不完全さによる諦念、自らが血を流して獲得していないという自史から来る当事者意識の欠如以上に、日本社会に馬鹿が揃い過ぎているのではないか、という疑念が、私には払拭できない。

 

これだけ市民の生活と人権を後退させ、好き勝手に自分の友人に利益誘導し、記録を残さず資料も捨て改竄し将来の検証可能性さえ無くし、法の支配を否定して徹底的に人の支配を強化し反目する者を獄に繋ぎ協力する者を逃がし、司法人事にも露骨に介入して破天荒な判決や決定を乱発させ、三権分立立憲主義を否定して『立法府の長』として君臨した、前代未聞の為政者及びその政党への審判が、たかだか10議席減で、投票率は5割に満たないのだ。

 

これはこの国の民主主義の構成員に馬鹿が揃い過ぎている何よりの証明であるし、現在の社会が覆う空気をナチ前夜の空気や大日本帝国末期の空気と対比して危機感を覚える人間の余りの少なさもまた、馬鹿の多さの証明となっている。余りに歴史を知らない。歴史は中学校で習うもので全てだと勘違いしているのではないかと疑ってしまう(その中学の歴史も覚束ないのが安倍であるが)。

そんな貧しい政治風景であるが、政治の成果物(正のものばかりでなく、負のものを含めて)の、最も影響を受けやすい階層の一つが、我々在日朝鮮人である。
資源が再分配される際には最後まで分配が回ってこず、公的扶助から排除する際には最も早く排除されるのが在日朝鮮人である。

単純に資源を均等に分配するより、事細かに要件を拵え選別してから分配するほうが、余計な資源を喰うことくらいは、幾ら計算ができない人間でも理解できると思うが、余計な資源を投じて知恵を絞って、我々在日朝鮮人に分配されないようにするという、醜悪な政治風景がここ何年と続いてきた。社会に閉塞感や不満が蓄積されてきたとき、あるいは為政者の疑獄から目を逸らさせたいとき、社会に「敵」が必要となる。ガス抜き・鬱憤晴らし・資源配分の妬み嫉みの対象に、多勢とは違う『血』を引っ張り出す、ということである。キタチョーセン・朝鮮総連朝鮮学校・そして在日朝鮮人。韓国も然り。これらを「敵」にし、取り締まったり、あげつらったり、貶めたり、資源を分け与えなかったり、取り上げたりという、「制裁政治」「選別政治」が、ここ数年極端に増えてきた。朝鮮・韓国、及びその人間・属性が、政治の直接的な攻撃によって、あるいは政治家の扇動によって散々尊厳を踏みにじられ、それが大衆の安易なナショナリズムの喚起による高揚、ひいては政権の浮揚に利用されてきた。

 

私は既に、この社会に絶望しているが、この絶望を共有できる人間がほぼ見当たらないこともまた、この絶望を加速させている。とことん堕ちるところまで堕ちるだろうが、その過程で私や家族の尊厳は、また醜悪な大衆の娯楽の中で消費されるだろう。
余りに嘆かわしい。