いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

朝鮮学校の教育内容を批判するのに、補助金支給如何を云々するのは卑怯ではないか。

前稿に引き続き、Yahooニュースに掲載された記事について、思うところを書いてみようと思う。



朝鮮学校の「教育」とは 公費投入のあり方を問う
https://news.yahoo.co.jp/feature/589
2017年4月28日11:39 Yahooニュース



冒頭の萩原遼氏の見解に大いに違和感がある。
萩原氏は朝鮮学校の民族教科の一部で、朝鮮の指導者の礼賛や、日本とは違う立場を教えているのに対し、

「でも、嘘八百を教え、個人を崇拝する教育を行い、挙げ句、反日感情を煽る。そんな今の朝鮮学校補助金を出すということは、そういう教育を大いにやってくれ、という意思表示でしょう? それはおかしい」

と断じている。

確かに、現在の朝鮮学校の教材として使われている『現代朝鮮歴史』系統の教科書については、朝鮮政府が推進する金一族の個人崇拝的プロパガンダが色濃く反映されている。このようなプロパガンダ教科は初・中級学校ではほとんど扱われないが(私が現役の時は初級学校4年からあった)、高級学校では週2限程度の時間を割いて、金一族の正統性を説く授業が行われている。あるいは、朝鮮政府の見解を反映して、歴史科目で教える事象(朝鮮戦争は韓国側が先制した、とか)が、日本や国際社会のそれと異なることもある。それについて、氏は心底気に入らないらしく、補助金はやるな、と言っているのだ。



第一に、民主党政権下での拉致問題相の難癖を発端にし、政権交代後は安倍政権による無償化法からの完全排除、果ては地方自治体の補助金に難癖を付けて不支給にする、という一連の流れは、(表向き)『教育内容』を問題にしているのではない。『朝鮮学校朝鮮総連が運営していて、朝鮮総連北朝鮮と一体であり、拉致問題が解決しておらず国民の理解が得られない』から無償化から外す、補助金も払うな、と政治が、政策として、朝鮮学校の子弟を狙い撃ちしたものである。朝鮮学校は『キタチョーセンだから』ダメだとされ、それを国民は『キタチョーセンだから』問題にしなかったのである。決して在日朝鮮人子弟への教育内容を『心配』して、それを是正しようと始めた話ではなく、ただ単に『キタチョーセンだからカネをやりたくない』のである。
  パブコメ結果.pdf 直
  日本政府、朝鮮学校への補助金交付に『留意』を通知 ― 朝鮮学校生徒へのレイシズムそのもの - いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記
その後、橋下をはじめとする排外主義を是とする首長が、政府の朝鮮学校排除にチカラを得て、教育内容『も』問題にしだしたのは確かだが、当初のこの判断が無ければ、このような雪崩を打ったような公的扶助からの排除もなかったのである。それまではほぼ何の争いもなく補助金等は支給されて続けてきたわけであるから。

そのうえで、
朝鮮はあのような国家体制であり、国体の護持のために指導者を神格化しているなか、正統性を取り付けるべく、かのようなプロパガンダ教科を設けているわけだが、前稿にも示した私の見解に沿わせて見れば、日本における民族教育にそのようなプロパガンダ教育を挟み込まなければならない必要性は、(私の現役時代、20数年前と比較して格段に軟化しているのだが、それでもなお)はっきり言って無い()。
それはそのとおりなのだが、氏の言うように、そのような教育施設に補助金を給付することは、その教育の主義に賛同し「大いにやってくれ」という意思の表示と言えるのだろうか?例えばトッチャン坊やがイタコ芸をやっている宗教法人が学校を持っている(http://happy-science.ac.jp/)が、そこにも当然に補助金は支給されている。学校法人格を持っている中等教育機関だから当然である。ではこのような学校に補助金を出していることは、イタコ芸を「大いにやってくれ」と認定したということになるのだろうか?明らかに違う。
自分の価値観(国定の価値観、でもいい)に『合致している』かどうかという話と、異なる立場や主義が存在するということを『認める』という話は、根本的に異なる。

言っておくが、韓国学校は独島(竹島)を韓国領と教えているし、中華学校は釣魚島(魚釣島)を中国領と教えている。『慰安婦』や『南京大虐殺』についても堂々と実態を教育している。現在の権力中枢が神経質になって教科書会社やお友達を巻き込んで教育内容にズケズケとモノを言っている領土問題・歴史問題であるが、心配しなくても韓国学校中華学校では、(日本の公立学校における教育現場への政治の介入、それに伴う現場の疲弊とは対照的に)自分らの立場を堂々と教育している。それでも今般の補助金云々無償化云々の議論で、このことが俎上にはまったく上がっていない。立場が違うのだから教育内容が違うのは当然だから、それで正常である。
もっと言えば、(実態は知らないが)アメリカンスクールにおいて、原爆投下を、加害の立場から、日本のあまねく市民の歓心を買えるべく教えるべきだ、そうでなければアメリカンスクールなど認めない、などというトンチンカンな話は誰も言いださない。そんな話が成立するわけがないことも、誰にでも分かる。

国家の政治的な主義や歴史的な見解は国家間で異なる。自分たちとは異なる立場が存在するというのは国境や歴史観や文化を跨げば幾らでもある。日本には朝鮮学校以外にも多くの外国人学校が存在し、それらの教育は日本の公教育の教える主義・価値と相いれないものも、それこそ幾らでもある。そして、政府はこれらほぼ全ての初中等教育外国人学校に高校無償化法を適用し、地方自治体は補助金を払っている。当然である。
それなのに朝鮮学校だけは、『拉致が解決していないから』『キタチョーセンだから』と言って問題にする。通達まで出して徹底的に朝鮮学校を『拒絶』するように圧力をかける。その圧力は今年に入って、これまで細々と補助金を支給し続けてきた自治体にまで及び、実際に打ち切られ、あるいは打ち切りが軽々しく企図され、そしてそのことに喝采が浴びせられるなど、それこそ完全排除が実現するまで、収まる気配を見せない。数ある外国人学校の中で、朝鮮学校の子弟のみが、自分らにはどうしようもない政治事件、あるいは首長の政治信条を口実に、不遇を被らされているのだ。それこそ、朝鮮学校から補助金を取り上げる理由は何でもいい。ある首長は生徒が描いた『慰安婦像の絵』をネタにし、ある知事候補は『治安対策』を理由にする。それこそ、何でもいい。普通これだけ理屈が立たないことは良い大人なら言い出さないはずだが、『キタチョーセン』に対しては、どんな支離滅裂なことでも言っていいし、やっていい。それについて取り囲む市民が喝采すら送る。『チョーセン』を前には、完全に人間としての知性や感覚が麻痺しているのだ。

このような状況を知らないわけではなかろう萩原氏が、朝鮮学校への補助金の是非を問う文脈で、愚かな政治家連中と一緒になって「嘘八百だ個人崇拝だ」と教育内容を批判するのはどのような効果をもたらすだろうか?朝鮮学校補助金等から排除することの是非、公金を支出することの是非について問われたのであれば、少なくとも識者として意見するのであれば、まずは、補助金等から排除されるに至ったことの経緯を踏まえ、このような政治判断、政治手法の在り方、そしてこのような政治を諸手を挙げて支持する国民の感覚について、まずは言及すべきだろう。それを、事実としての流れを汲むことなく、新たに自分の『朝鮮学校にカネをやりたくない理由』のネタを開陳するというのはどういう了見なのだろうか。自分の意欲をダダモレさせて悦に入るのは、実際にその政策の効果を被っている当事者たる朝鮮学校生徒子弟を前にして、いい大人がやるべきではないと思うがどうだろうか。

朝鮮学校『のみ』が除け者になっている補助金給付の記事のインタビューで、その教育内容が気に入らんと批判することは、日本政府の狙い撃ちの差別政策を補強することにしかならない。キタチョーセン憎し、個人崇拝憎しの個人的信条は大いに結構だ。では補助金不支給という差別はOKなのか、何故OKなのかという着眼がスッポリ抜け落ちている。
いい大人なのに。

エクスキューズ程度に「民族教育は大事」というのであるならば、アリバイを作ったような言い方をするのではなく、民族教育の保証は存分に行われるべきで、朝鮮学校への差別には反対だが、朝鮮学校の○○は是正されるべき、程度は言わなければならないのではないだろうか?(当然その物言いに朝鮮学校側が聞く耳を持つのかは別次元の話であるが)
キタチョーセン憎しの『具』にされて泣いているのは朝鮮学校の学生児童である。教育内容(しかもそれは朝鮮学校の教育のごく一部分のみである)にモノを言うのはいいとして、それで子供を泣かすのはいいのだろうか。それをいい大人が理解できないのだろうか?

これは別に私が朝鮮の個人崇拝に親和性を抱いている、というしょうもない話をしているのではない。私は金正恩は早く死ねばいいと思っている。朝鮮が民主化し、軍事優先ではなく融和主義であって欲しいと願う者の一人である。自由な批判ができない空気感は確かに良くない。しかし当事者には全く手の届かない政治的な思惑を背景に、見せ金をちらつかせて「俺らが気に入るように教えろ」とやるのは明らかに間違っている。そのような態度では、教育方針を頑なに守ろうという発想にはなっても、逆には絶対に流れない。私の現役時代と比較して、教科書も教育内容は格段に改善されていることから考えて、朝鮮学校も頑固ではなく、現場や社会の声を拾いながら変わっていきつつあるのに、政治がその態度を硬化させるような露骨な圧力をかけるのだから。やるせないことこのうえない。

マイノリティを対象にした民族学校なのだから、国民全体から見れば相対的に価値が低い、その意義を理解しづらいのは当たり前である。歴史や民族的アイデンティティの理解もなく、国際的な人権基準への理解もなく、そのことに想いが至らないいい大人たちが、『私は朝鮮学校のここが気に入らない』『私はこれが』『私はここが』と、好き勝手な議論をはじめ、勝手に学び舎に持ち込み、それに否応なく付き合わされる朝鮮学校の関係者に身にもなってみればいいだろう。

もっとも、
反日』などという非科学的反知性的な言句を言いふらしている人間だ。まともに付き合うような対象ではない。しかしこのようなまともでない言論がまき散らかされている現状に、しっかり対抗言論を張っていかなければならないことも、また事実だろう。



朝鮮学校の学生たちはテレビ・新聞・書籍等で、学校で吹き込まれる「北朝鮮礼賛」に相反する情報にも、幾らでも接する。そしてそれら情報を比較検討する程度の能力や知見は、生徒には概ね備わっている。それは日頃から政治的攻撃や差別・偏見に晒され、結果社会問題に関心を持ち、自らの立場を守るために勉強せざるを得ない、という境遇が大いに影響している。実感だが、プロパガンダ教科の字面や意図を真に受ける学生はほぼ皆無である。あくまで朝鮮の国家体制が要求し、朝鮮総連の翼賛体制がそれを拒否できずにいるプロパガンダ教科であるということは、教える側・教わる側、それぞれが十分に分かっていて、お題目の暗唱程度に認識しているのが実際のところである(これは本国も本質としては一緒だろう)。
日本社会をはじめとした民主主義の価値についても十分に理解し、その尊さを朝鮮のそれと比較してもいるが、同時に現在の日本社会の民主主義の危うさ、何故自らがその仕組みから構造的に排除されているのかも鋭く洞察しているのだ。
私は常々言っているのだが、いちど政治家は機会を作って朝鮮高校の生徒と膝を交えて「自らの朝鮮高校の排除政策についてどう思うか」聞いてみればいいと思っている。彼らのほうが、日本の呑気な民主主義の構成員より、遥かに日本社会の本質を見抜いているというのが分かるはずだ。