朝鮮学校の朝鮮支持は、韓国の否定に繋がってはならない
前エントリを受け継いだ稿として、前稿で紹介した、Yahooニュースの以下のエントリーについて、思うところを書いてみようと思う。
朝鮮学校のいま 「在日」生徒たちの胸の内
https://news.yahoo.co.jp/feature/586
2017年4月27日11:38 Yahooニュース
朝鮮学校は、終戦直後から在日のコミュニティ内で、禁じられてきた朝鮮語を子弟たちに教えるために発生した寺子屋的教育機関である『国語講習所』がその起源である。朝鮮語を知らない世代が生まれていた在日朝鮮コミュニティにとって、朝鮮語を教えることはすなわち、在日コミュニティが民族性を取り戻すことであったのだ。
朝鮮戦争を経て、韓国政府が在日を棄民扱いする中、朝鮮政府は戦災復興の最中から金銭的支援を含む援助を現在に至るまで朝鮮学校に行ってきた。このことにより朝鮮学校は、韓国ではなく朝鮮との、強固な親和性を獲得してきた、という歴史的な経緯がある。
その歴史的な連続性を無視して現在の朝鮮学校を語る愚について、私は十分に理解している(そして朝鮮学校を外部から語る人間、及び朝鮮学校に何らかの指図をして政治的アリバイを拵えようとする人間の多くが、この愚に落ちている)。
南北朝鮮に対して完全なニュートラルの民族大衆団体が存在しない中、朝鮮民族の一方当事者たる朝鮮政府の影響下にある朝鮮総連が運営している朝鮮学校が、朝鮮政府に比重を置くのは当たり前であるし、ある程度の『肩入れ』も理解する。
しかしこのような前置きを置いてもなお、この記事で校長が言う朝鮮政府への過度な恋慕や、生徒が朝鮮(のみ)を祖国と感じる(が韓国はそうではない)、という文脈については、私個人が現役の学生時代から、変わらず違和感を覚えているものと重なる。
私は朝鮮学校の存在意義はどこまでも「民族教育を施しうる教育機関であること」「自らのルーツを学べること、それに繋がるコトバと文化を学べること」「同じ境遇の生徒と机を並べること」「自らのルーツが否定されないこと(自己肯定)」にあると考えている。朝鮮政府一方への盲目的な賛意、政治体制への従属的な賛同に重心を置くべきではないと考えている。それをやりだすと、もう片方には敵対や不賛同を置くことになる。単純な二極対立で捉えるべきではないし、日本も韓国も朝鮮も中国も米国も正しいこともあるし間違うこともある。それは自分がナニ人ということとは別個のものである。朝鮮にも韓国にも是々非々で付き合え、両方と交流でき、行き交いができるのがザイニチである。分断国家の一方当事者の息がかかっているとはいえ、わざわざこの「ザイニチのメリット」を投げ出すような姿勢、わざわざ積極的に国家体制に従属するような態度は、正直感心しない。
もっとも、韓国学校は韓国民団の影響下で韓国に比重を置き、韓国の立場で教え、朝鮮政府・朝鮮総連・朝鮮学校をこき下ろしている。朝鮮学校が、民主党政権下で高校無償化法や自治体の補助金から排除されようとしていた当時、日本政府と一緒になってその排除に賛成していたのが彼らであったし、その際の言説は日本政府のそれより苛烈に、イデオロギー対立や思想選別を煽るような、下劣極まりないものだった。朝鮮総連同様、(小規模ではあるが)民族学校を運営してきた韓国民団が、民族学校の意義に共感するどころか、「朝鮮学校に通わせている韓国籍者は、朝総連は反国家団体だからさっさと縁を切れ」と斬って捨て、朝鮮学校を中心としたコミュニティーを分断しようとさえしていた。http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=13172
民団側が、一生懸命に在日社会内に分断国家の構図を持ち込んで、朝鮮的なもの排除・切り捨てするなど、『北韓憎し』に躍起になっている事実がある。
総連側は、自らの体制の否定をしない限りは、だが、寛容的に韓国の勢力を内包しようとしている。朝鮮は、自分の体制に敵対的でなければ、だが韓国籍者でも入国させる。逆に韓国は、朝鮮籍者は一律に朝総連・敵対勢力であるとして(余程のことが無い限り)入国を拒んでいる。日本における朝鮮籍者とは『北朝鮮国籍保持者』ではないにもかかわらず、である。http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20150908/1441724199
このように、ほんの一時期左派政権下で融和的であった他は一貫して、朝鮮総連・朝鮮学校に対して敵対的排除的である韓国政府・韓国民団の状況を踏まえれば、朝鮮学校が少々朝鮮贔屓であっても決して不思議ではない。
いずれにせよ、
「生まれて初めて、心置きなく朝鮮人として堂々と街を歩けて、自分の国の言葉を使えて。日本人なら(日本で)当たり前のようにできることが、(自分たち朝鮮人は)実は踏みにじられていて…。自分は朝鮮人だったという認識を深めることができ、とてもうれしかったです。(北朝鮮の)生活水準は高くなかったけど、みんな幸せに見えた。そういう人間味を感じることができて、日本ではできない体験をしたな、と」
と生徒がインタビューで述べているように、日本で肩身の狭い思いを散々してきた生徒は、朝鮮での修学旅行で市民から歓待を受け、これまで習ってきた朝鮮語を堂々と話し、日本では通学途上着られなくなったチマチョゴリで街を闊歩できた、という体験によって、自己肯定は最高潮に達し、生徒が自分らの学校を支えている朝鮮政府に愛着や敬意を感じたわけだ。これは何ら不思議な話ではないし責められる話でもない。生徒らは、日本政府の自らに当てつけられた露骨な差別政策や、日本社会のヘイトスピーチ・ヘイトクライム等、自らへの排撃を卑屈に感じてきたなか、朝鮮政府は自分らの存在を理解し支援し温かく迎えてくれたのである。自分らが自分らの運命に向き合えるようにしてくれたのは、朝鮮学校の存在及び朝鮮政府の後ろ盾があるからに他ならないのだ。
しかし、である。それでも、である。
韓国は間違いなく朝鮮と共に我が祖国である。朝鮮籍・韓国籍関係なくザイニチの殆どが朝鮮半島南部をルーツに持つことを引き合いに出さずとも、朝鮮と韓国は我が民族の国である。分断された一方当事国を賞賛し、他方の国を切り捨てる発想は、ザイニチ当事者こそ自制的でなければならないと思う。分断を欲せばいさかいが生まれる。両者の主義や違いを認め、取り持ち、共生し乗り越える発想が大事だ。北とも南とも付き合えるような人材、北と南をつなぐような人材こそ、ザイニチには育てることができるはずだし、ザイニチだからこそ北にも南にも一歩引いた、バランスを備えた視点を携えて付き合えるはずだ。
理想を語れば、ザイニチ社会が先に『統一』し、南北の本国とは離れて独自に是々非々で判断できる大衆団体を立ち上げ、民族教育施設がそれにぶら下がることが、余計な政治性を廃した民族教育に踏み出すことになるだろう。その際、両国の政策・挙動に翻弄されることは目に見えているが、その都度是々非々を旨としつつも、抑制的・寛容的に接すればいいではないか、と思う。
ただ、このようなプランは私などが言い出さなくても何度も企図され試行され挫折してきたものである。理想が過ぎる。現実的ではない。難しいことは分かっている。しかしながら、そうであるべきだ。
付言すれば、朝鮮総連・朝鮮学校が、朝鮮政府に対し翼賛的に構えるがあまり思考停止しているように、私には見える。朝鮮も韓国も否定せずに両方に向き合って、相互に交流できる道を探求できないものだろうか。元々、ザイニチに本国の政治など左右できるはずもない、わざわざ両国の政治意図に律儀に付き合わなくてもいいのだ。
誤解や曲解を産まないように書き添えるが、
国家体制・イデオロギーで朝鮮と対立している日本・韓国の側から見れば、「日本国内におけるキタチョーセン」たる朝鮮学校は奇異に見えるかもしれない。実際私も朝鮮学校に通っていた時代に、そして息子を通わせている現在も、そのような意見を直接ぶつけられることは多々ある。しかしそれは「自らの主義・信条とは相容れない」ことは意味するが、それをもって即、「差別的に取り扱っていい」ことにはならない。「嫌い・理解できない」ことが、「立場・生立ち・見解が異なる」ことが、貶めたり、社会的再分配や福祉の対象から除外したりする根拠になる、という発想は、断じてあってはならない。
この辺の見解も含め、同じくyahooニュースの記事を題材にした次の稿に譲る。