いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

安倍元首相の死

安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。

彼が第一次政権で首相を始めて以来の、根っからの「安倍不支持者」である私にとっての彼の死は、喜べるようなものではまったく無かった。

暴力によって生命が奪われたことによる戸惑いや憤りばかりだ。

冥福を祈ることなどはあるわけが無いが、少し思いを馳せてみたい。

 

彼の政治家としての素質や、民主主義をないがしろにする政治姿勢、日本の政治風景を何十年も後退させたことに対する憤慨については、これまで諸兄が散々書き連ねてきたことなので書かない。

 しかし、彼の死によってもたらされる社会の損失は、彼の生命以上に、幾重にも重大で、日本社会に暗い影を落とすものである。私はその、余りにも分かりやすい近未来に絶望している。私の絶望について、少し書いてみる。

 

 

 

まず、彼が、自らの責任において被告人席に立つべきあらゆる政治疑獄について、自らの口で語り、自らの罪を償う可能性が、永遠に絶たれたことに対する、日本社会の損失である。

彼が、この社会の民主主義が正常であれば負ったであろう刑事責任をことごとく負わず、正常であれば機能したであろう国会の議論がことごとく空費され、正常であれば生きていたであろう役人が自死し、正常であれば追いやられたであろう政治家の立場を維持して死んでいった。

これをろくに清算せず、歴史的に評価せず、法の支配が破壊された状態で、彼の生命の終焉によって、うやむやに決着が図られたことは、まことに大きな損失であると言える。

 

一般庶民はコンビニでコーヒー代を数十円ちょろまかせば逮捕されるが、彼は国費を数十億円保身に費やしても逮捕されるどころか崇められる。

ある国会議員は鉄オタよろしく写真を撮りに線路をまたげば検察沙汰になるが、彼は検察官の人事にまで口を出して自らの疑獄を握り潰す。

まことに不公平な世の中だ。法の下の平等が泣く、というものだろう。

元々差別主義が払拭できない社会だったが、この10年で、よりグロテスクで露骨な社会に、「富益富貧益貧(富める者はますます富み貧しい者はますます貧しい、資本主義社会の本質として朝鮮学校でよく習う)」の社会に、見事に成り下がった。

 

 

 

次に、彼の死を徹底的に利用するであろう、近未来の政治風景が、絶望に余りあるということである。

自民党の国会議員、今回の選挙の候補者がことごとく、「民主主義に対する挑戦」という言句を口にしている。コトバの意味をよく考えて言ったほうががいい。普段民主主義をないがしろにしている自民党の議員がここぞとばかりに民主主義を連呼していることには反吐しか出ない。

民主主義を尊重するのであれば、国会での野党の質問に子供じみた妨害はしないだろうし、「野党の言うことなんか聞かない」などという暴言は出ないだろうし、選挙で吐いた公約を軽んじて恥じ入らないということも無いだろう。ことごとく民主主義の手続きを軽視し、監視するマスコミに圧力をかけ、一昨日までニュースに選挙がほとんど取り上げられておらず、「選挙=民主主義」が風前の灯火となっていたのが現下の日本社会である。

それなのに厚顔無恥にも、自民党は「選挙=民主主義」を旗印に最後の一日を過ごすだろう。明日は、弔い合戦よろしく「安倍元首相の死を無駄にするな」と、見事なまでの泣き落としに入るであろう。SNSでもそのような言句が並ぶだろう。そして分かりやすい文句に、これまた分かりやすく単純な有権者らが感化され、同情票は一気に自民に加勢するだろう。当落線上に居た自民候補はことごとく当選し、維新を除く野党はあっという間に飲まれるであろう。憲法改正ラインどころの騒ぎではない、荒廃した国会風景が、既に確定したも同然である。

 

当然、彼の死は憲法改正も勢いづかせる。「安倍元首相の遺志を成し遂げよう」という文句で埋め尽くされるであろう。少なくとも憲法改正国民投票に付すのであれば、その中身を詳細に広報し、その賛否を問うべきだろうが、そんなものはすべて「安倍元首相の悲願」という文句に取って代わるであろう。そして彼の思想にシンパシーを抱く多数の国民(国家主義へのシンパシー、という言い方と大差はない)が、中身を精査せずに彼の棺桶に票を投げるであろう。

 

襲撃犯人の蛮行は、この国の民主主義を完全に殺したと言っていい。

この国の鈍磨な民主主義の構成員は、やたらと人の死に寛容だ。レイシストであろうが独裁者であろうが、死んだらさっさと免罪して、線香の一本、香典のひとつでもくれてやるのだ。彼の影響でどれだけの者の人生がないがしろにされたか、どれだけの日本の風景を破壊されたかを顧みず、死んだら赦され、聖人のように崇められるのだ。それが、選挙戦も終盤の、自民からしたら抜群のタイミングで起こった。勝敗は、投票箱を開ける前に、見事に決したのだ。

結果は見るまでもない。

 

蛇足ながら、

今回も「犯人=朝鮮人」的な言句が、飽きもしないでtwitterを賑わしている。もちろん、犯人の実際がナニ人であろうと、このような言句の発生にはまったくの影響は無い。良いことをすれば日本人だし、悪いことをすれば朝鮮人、というまことに都合の良い思考回路なのだから、実際はどうでもいい。

問題は、このような社会を賑わす蛮行があって、社会的な不安が惹起されたときに、いつも持ち出されるこのような図式に、政治の側が注意喚起なり、打ち消す動きなりを、まったく見せないことである。このような言説を意識的に放置して、社会不安とゼノフォビアを結び付けてささやかな利を得ているのである。暴力の連鎖が社会的な弱者に向かおうとするとき、真っ先に「朝鮮人」の「子ども」がやられる。今日から多くの朝鮮学校が集団登下校だ。

この社会の風景の未熟さを見るにつけ、いつも叩かれる側の我が運命を呪っている。