安倍元首相の国葬決定 — ザイニチみたいに排撃の波が起きなければいいが
安倍元首相の死去に対し、今秋に「国葬議」が執り行われることになった。
岸田内閣総理大臣記者会見
更新日:令和4年7月14日
https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2022/0714kaiken.html
岸田首相は、その意義を「憲政史上最長の内閣」「卓越したリーダーシップ」を遺した安倍元首相を讃え「民主主義は暴力に屈しない」ことを内外に示すこと、としているようだが、
・「憲政史上最大の内閣」は国葬に値するのか
・「多大な功績」とはいったい何か
・「民主主義は暴力に屈しない」ことを示すことになるのかどうか
疑問山積である。
ただ単に姑息に延命した結果として憲政史上最長になったのではなかったか、
庶民は確実に貧乏になり憲法や法治が軽視されモラルはハザードしまくりだったが、それが功績になるのか、
被疑者は政治的意見で彼を殺したのではなさそうだが統一協会云々を隠すためにそういうことにしたいのか、
2秒くらいで次々、本当に次々と疑問符が浮かぶ。
国民大多数の圧倒的な同意のもと内閣が賛意に押されて決定した、ということではなく、どこまでも賛否両論なものを、政治的な思惑優先で国費を投じ実施するらしい。
根っからの安倍不支持者である私が今般の国葬に反対なのは言うまでもないが国葬の実施如何については、諸兄が散々書いているので、これ以上は書かない。
私が危惧するのは、
国葬に至るまでにどのような雰囲気が醸成されるのか、国葬に反対する者、弔意を示さない者に対する「圧力」「排斥」が拡がるのではないか、という危惧である。国葬に対する態度如何で、また市民が分断されるのではないか、と危惧するのである。
・当日までに、昭和天皇の体調不良が続いた昭和63年よろしくの雰囲気が醸されるのではないか?
・国葬に反対するデモや意見に対し、様々な排撃や吊るし上げが行われるのではないか?
・当日は休日の扱いになり、学校や事業所も「平常運転」が許されないのではないか?
・極端な団体が出てきて、弔旗を掲げろ、弔文を打て、喪服を着ろ、遊興や演芸はするな、とか言い出すのではないか?
自民党がかの日、連呼した「民主主義の価値」が、国葬で試されると考えている。
思えば、
私が朝鮮学校の生徒だった時、初級学校(小学校)時代は、日本の祝日は学校の休みではなかった。逆に朝鮮の祝日(4/15金日成の誕生日や9/9建国記念日など)は休日であった。朝鮮の休日に近所のゲームセンターに遊びに行ったら、そのゲームセンターの親父に「学校を休んで来るな」とか言われるので、その際は決まって「学校の創立記念日だ」と言い訳する知恵がついていた。
その後、保護者からの意見もあって日朝両方の祝日を休むようになった。送る側の保護者の負担とか、学校教員側の負荷とか、いろいろ理由があったが、並行した保護者の意見として根強かったのは、日本の祝日に平常運転で登校させると、朝鮮学校の生徒だとすぐにバレて、例えば「朝鮮学校の生徒は天皇陛下の誕生日を祝わないでけしからん」と排撃に遭うので休ませてほしい、というものだった。チマチョゴリ事件の真最中で近所の女子生徒が次々制服のチマを切られる事件が続発したころだったので、やむを得ない、というか妥当な判断だったと思う。
ザイニチが顕在化すると排撃に遭う。
レイシストは排撃材料を確保するために、ザイニチ認定を行い、「本名推奨」を行い、挑発を繰り返す。政治は差別をガス抜きのメディアとして放置しているので、これからも当分は、ザイニチは攻撃に遭わないように、通名を使い、チマチョゴリ制服を脱ぎ、息をひそめて生きるしかない(私は本名で生活をし、決して息をひそめなどしないが、ザイニチ全体では少数派だろう)。
これと同じ図式が、国葬当日にかけて再生されるだろう。
日頃「ザイニチ探し」に奔走するレイシストらと同じような価値観の目線で、彼に弔意を外形的に示さない者を『非国民』扱いする言説や行動が溢れ、内心の自由を侵して恥じ入らない連中が、日の丸を手に闊歩するだろう。
それが、かの日、自民党によって声高に主張された「民主主義」日本の姿であることを、よく目に焼き付けておいたほうが良い。
杞憂となれば良いとは思うが、たぶん無理だ。同調圧力が強すぎて息が詰まりそうである。