親父の背中に思う。
思うところがあって、今日は私の親父について書いてみようと思う。
私の親父は、偏差値にかけてどちらかと言うと真面目だと自認する私に言わせても、これほどの生真面目な人間はなかなかお目にかかれない、と思うほどの、堅物ともいえる真面目な人間である。曲がったことが嫌いで、時間や約束を守ることを自分にも他者にも厳密に課しながら、とにかく直向きに生きてきた人間である。
いまはもう70を過ぎたが、人一倍仕事に熱心で身体を削って生きてきたので、実年齢以上に年老いた姿、身重な身体になってしまった。学費の高い朝鮮学校に高校卒業まで通わせてくれ、次いでこれまた高い学費の私立大学にも通わせてくれた。それなのに私はその苦労に報いることなく、ろくに大学で勉強せず、日々バイトに明け暮れ女友達と遊び呆け、社会に出ても心配ばかりをかけてきた。まったくの親不孝者だと恥ずかしい気持ちになる。
いま私自身が親の立場になり、嫁と一人息子を養うようになってはじめて、親父の苦労の片鱗でも理解できたような気がするが、親父とのエピソードを顧みると、私の苦労など取るに足らないようなものだと、いま小さくなった親父の背中に、ある種の想いを馳せる機会も多くなってきた。
いくつかの親父とのエピソードを書いてみようと思う。
私の幼少期、親父はたびたび家族を野原や野山に連れ出してくれた。山の頂上を目指す道すがら、親父は野に生える草花の名前を息子らに教えたりして過ごすのだが、ある日、登山道の傍らから竹より細く葦にも似たような、自分らが住む都会ではお目にかからない植物の茎を見つけてきてポキっと折り、手際よく口で食んで皮を剥いては息子らに「食べてみろ」と与えるのである。噛むと酸っぱい味がする。確か親父はこの植物のことをスカンポと呼んだが、これ以外にも食べられる野草らをよく知っていて、親父は息子らに教えたり、与えたり、採って持ち帰ったりしたのだった。
またある日は、植物のツルや転がっている枝や石ころ、電気のコードなどを手際よく組み上げて、鳥を捕えられるワナを拵えて見せてくれた。親父が小枝のふもとに生米を蒔き、その小枝に鳥がとまるとワナが動いて鳥が捕えられるのだという。実際小枝を動かしてみると、曲げられていた木の幹が戻ろうと立ち上がる力とかを用いてワナが動き、カゴがその場に落ちてくる。手品かと思わせるような見事な技にワクワクした。残念ながら息子の目の前で獲物が掛ることはなかったが、親父はそのようなワナを作る術をいくつも知っていて、私を楽しませてくれた。
私は子供心に「アボジ(親父のこと)は色んな事を知っているなぁ」と感心したものだった。
これらは親父が幼い時、飢えを凌ぐために習得した「生きる知恵」だった。そのことが分かったのは、私がある程度大きくなって、親父の幼少期時代を知ったからだった。親父の幼少期は極貧の極みだったのだ。
祖父は両班の端くれで、23の山を持つと言われる程度の土地持ちだった。小作人に田を貸して悠々自適と暮らしていた。ところが、日本の植民地政策のひとつである土地収用策によって生活の糧たる土地を奪われてみるみる落ちぶれた。朝鮮での生きる術を失った祖父は、家族とともに生きるために日本海を渡った。敗戦間際の日本全体が暗い影を背負った時期に、親父は6番目の子供として、祖父の元に生まれ落ちた。貧乏子沢山の典型であった。ろくに学も腕もなかった祖父は、肉体労働の出稼ぎで各地を渡り歩き、家は家で極めて狭いところに大人数が肩を寄せ合い、生活はまったく話にならない。祖母は親父が未だ乳飲み子程度の時期に病に斃れ、祖父は家にはほとんど帰って来ない。親父はひもじさに耐えながら幼少期を育った。野に咲く花、草木、飛びまわる鳥や昆虫。親父はそれらの中で飢えを凌げるものを食みながら、必死に生き延びたのだった。
エピソードがある。家には風呂は無く、数日に一度、良心ある近所の日本人宅に戴きに行っていた。ある日、いつものように風呂を戴きに行くと、その家の食卓には刻んだ沢庵を盛った器が置いてあった。いつ終わるとも知れないひもじさと、目の前の沢庵欲しさの誘惑に堪えかね、親父はその一切れを盗み食いしようと口に運んだが、運悪く家人に見つかってしまう。家人は親父を盗人と罵った。「もうお前の家族に風呂はやらん」と。親父はそれを泣いて詫び、二度と人様に向かって恥ず様な真似はしないと決めたのだというが、同時に今でもそのときの沢庵の味が忘れられないのだと言う。「うまかった」と。
親父はそんな話を成長期の息子(私)に聞かせ、真面目で正直な人間になれと語るとともに、息子には自分のような苦労はさせたくないのだと、自分に言い聞かせるように語るのだった。いっぽうの私は、『まんが日本昔ばなし』を聞くような、リアリティを感じられない話題としてその場をやり過ごしていたような気がする。親の心子知らずを地で行くようなもので、まったく言葉が無い。
親父は、高校を出て早々、工場の下働きのような職を得て、一日も病気や怪我で休むことなく真面目に働き、少しづつ生活が安定していった。嫁(私の母)を迎え、(こんな私のような、であるが)子宝にも恵まれ、人並み以上の生活が送れるようにと、親父は必死だった。小さな家を買い、子供三人を大学まで出してやり、それぞれが身を立てられるようになるまで育て上げた。私らの家庭はこれまで生活保護の世話にもなったことは無いし、私は成長期にひもじさを覚えたこともない。贅沢ではないが、不自由のない暮らしを送らせてもらった。尊敬できる親父だ。
そんな親父は、朝鮮学校を出てそれなりに民族心が強い嫁(私の母)の影響もあったりで、朝鮮総連絡みの地域同胞の繋がりには付き合い程度に関わっていた。現在もなお韓国籍のままであり、おのれに取りついた民族的属性を忌避するような考えは持ち合わせていないようだ。なのに、職場には日本名で就職し、それでずっと通していた。職場の同僚が朝鮮学校に通う私に接触する可能性があるときは、「朝鮮学校に通っていると言うな」「俺のことをアボジと呼ぶな」と事前に釘を刺されたりと、自分が朝鮮人とバレないように神経を使っていた。
いっぽうの私といえば、朝鮮学校で学び、同年代の在日同士で語らう中で、朝鮮人であるという強い自覚を得た。親父から受け継ぎ、外国人登録に併記されていた通称も、自らの意思でわざわざ消除したりして、自分が朝鮮人であることを、忌避せず、受け入れ、それを晒すという生き方を、自らで選んできた。
親父は全ての社会生活を通称で行い、朝鮮人であることを隠しながら生きている。朝鮮人であることは悪いことでも恥ずかしいことでもないのに、である。
自分にも他者にも厳しく、真面目で直向きな親父が、本名を名乗らず、『嘘』をついている。
私は思春期特有の反骨心も手伝って、「朝鮮人として堂々と生きればえぇやないか」「なんでうちの表札は通名しかないんや、うちは金家ちゃうんか?」と思っていた。親父に養ってもらっているのに、こんな『いっちょまえ』なことを考えたりしていた。
いま大人になって振り返ってみたとき、その頃の自分が、如何に青臭く、浅はかだったのかと、本当に恥ずかしい気持ちになる。
在日二世である親父が就職をした1960年代は、いまより遥かに外国人に対する差別が激烈であった時代である。国民年金制度からは排除され、公団住宅にも入れない、就職差別・居住差別・結婚差別は当たり前の時代だ。朝鮮人であることを晒して、まともな就職先にありつくなど、とても考えられない時代だった。在日二世、ちょうど戦後間もなく生まれた世代に個人事業主が多いのはこのためだ。雇ってもらえないから興すしかなかったのだ。
この時代において、朝鮮人であることを晒す生き方など、食っていく・命を繋いでいくうえにおいては、何の役にも立たない。むしろ障害でしかない。出どころが悪ければ、自分が築き上げたものですら、一瞬にして崩れ去りかねない。この時代において、自らの民族性を晒す生き方など、多くのザイニチにとっては、『人並みに食う』『安心して生きる』が満足してはじめて追求できる、ただの戯言でしかなかったのだ。
親父もそのような背景の元、日本社会で、日本人たちの中で、生きるために『日本人』を選択した。日本人たちの中で朝鮮人として顕在化することが人間扱いされない世の中における、生きるための選択だったのだ。
かつての植民地支配によって内包した朝鮮人に、日本政府は満足な法的地位を与えず『二級国民』として扱い、終戦後には日本国籍を取り上げ、危険分子として排斥するなど、一貫して続く植民地主義のなかで、ザイニチは、その民族性を、ある時は晒し、またある時はひた隠しにし、という様々な選択を個々に重ね、激烈な差別の時代を生き抜いてきたのだ。生きるというのは理屈ではない。時にしたたかに、そして時に愚直に、やれることをやり、使えるものを使う。そのような様々な選択の中に、日本人名(通称)があったのだろう。戦前、創氏改名によって『日本人』を押し付けてきた象徴たる、屈辱にまみれた名前を、戦後もなお使い続けなければならなかったのには、「社会がそれを許さなかった」「社会に受け入れられるために使ってきた」という歴史的な潮流があったのだ。
1970年代以降、段々とそのような激烈な差別が解消され、日本社会の中でザイニチが朝鮮人として顕在化するという選択をしても、生存の危機に晒されないようにはなった。その背景には、国際化・グローバリゼーション・国際人権感覚の高まりと日本社会とが無縁で無くなったこともあるが、何よりも私の親世代と、それを支援してくれた多くの心ある日本人が、指紋押捺拒否や、居住差別・就職差別解消のための各種裁判闘争など、差別に抗い、一つひとつ解消してきた、という成果があったからに他ならない。
それを知らないでいた成長期の私は、しょうもない虚栄心を働かせて「朝鮮人として生きる」「通称を使うなんておかしい」などと息巻いていた。このことほど、いまから思えば身の程を知らないことは無い。先人が、『朝鮮人』として生きられなかった時代を、多くの選択を経ながら生き抜いてきて、一つひとつ権利を積み上げてきた結果、自分が『朝鮮人』として生きられるのであり、私は先人が築いた舞台で踊っているに過ぎなかったのだ。まったく恥ずかしいことこの上ない、と思う。
翻って、
ある講演会で在日の学者が言っていたことが頭に浮かんだ。おおよそこのような主旨だ。
「今の時代が、私が生きてきた中でいちばん苦しいのではないか、私たちに『死ね』『殺せ』と、何のてらいも無く言えるような時代に戻ってしまった。ジェノサイドが起こる前夜のような気がしてならない」
確かに、
日本で生まれた朝鮮人であるということ「だけ」で、知らない人間に死ねだ殺せだ言われる筋合いはまったく無い。それなのに、ネット上でそのような言説が失せた日は無い。しかも言っている側は、実に楽しそうに、である。『死ね』『殺せ』が気楽なエンターテインメントに化し、それに良心の呵責の欠片もない。そんな言葉が溢れかえる世の中になってしまった。政治の貧困さが、そのような言説を放置し、あるいは勢いを与えてさえいる(アリバイ作りのような法律は通ったが政権中枢の姿を見る限り私の評価が変わるわけではない)。
『死ね』『殺せ』を言っている側、攻撃している側、放置している側には、私や私の親父のような具体的な生活者としてのザイニチの人生が視界に入っているのだろうか?
私が、私の親父が、何故に死ななければならないのか、何故に殺されなければならないのか。私の、そして親父の、ささやかな人生を振り返った時、何故なのか、本当に、これっぽっちも想像がつかないのだ。
先に書いたように、人一倍苦労し、人一倍努力して、ようやく人並みの生活を手に入れた親父が、人並みに生きる手段として通名を使っていたことは、『死ね』『殺せ』という社会的制裁に値する行為なのだろうか?
朝鮮人として生きようにも生きられなかった社会の在り様、個人の自由や人格の領域でさえ朝鮮人であればいちゃもんをつけられる不寛容な社会の在り様を差し置いて、誰にも認められているはずの通り名の使用を、朝鮮人だから排撃の材料にする、人間の心の在り様とは、いったい何なのだろうか?
私は攻撃者に対する怒りと共に、親父の苦労に対する悲哀を覚えるのだ。
激烈な社会環境の中、様々な選択をしながら生き抜いてきた親父の背中を思う。
今日のように社会が堕ち、日々排撃される立場にまたもや置かれたことを、親父は言葉にせずとも心底憂いているのではないかと思う。
人間の宿命で親父も長くはないだろう。
ジェノサイド前夜のような今日の空気感が、薄雲が晴れるように無くなればいいのに、と思う。