いま思うこと。
ブログ主、kinchanです。お久しぶりです。
もうかれこれ5年ブログをやっているので、エントリーが多岐に亘るので、検索に引っかかりやすくなっているのでしょう、それなりにコメントも入るようになりました。それなのに毎度巡回や更新が少なく、申し訳なく思います。こんな更新が恐ろしく不定期なブログに頻繁に寄っていただいている常連様、いつもありがとうございます。
このところ更新していなかったですが、第一には、
このブログは、ブログ主である私の、心と身体のキャパシティがあるときのみ更新、というスタイルでやっておりますが、最近それがまったく無いからです。サラリーマンは身体が資本ですので。拘束時間長いですし。すいません。コメントについては、最近ほぼ返信しておりません。これもまたすいません(余り返信の意義を感じられないのは元々返す気がありませんが)。
しかし、それ以上の理由があります。少し書いてみます。
在日朝鮮人問題を、日本社会の問題として可視化する、というのが当ブログを立ち上げた一番の趣旨でした。
為政者の選別・排撃の矛先が在日朝鮮人に向いている、この社会のマジョリティは、その非対称性ゆえに問題にしていないし、見えてもいないが、それはこの社会の問題であることに違いはないので、その問題の当事者自身が、それを可視化するために書いてきました。
『在日社会とは日本社会の一部であり、在日朝鮮人の問題は、日本社会の問題の一部である』という考えからです。
『この社会は、何かオカシイぞ、いまは圧倒的なマイノリティであるザイニチが排斥対象だが、そのうちあなたたちにも矛先が向くぞ』と。
在日朝鮮人差別と障がい者差別、高齢者差別、女性差別、沖縄差別、挙げ出せばキリが無いですが、あらゆる差別は攻撃の対象は違えども『主義』は同根、というのが私の考えです。差別主義・選別主義・排撃主義というのは、ひとの属性をあげつらって「我」と「彼」に分け、少数者・弱者を貶める行動様式・思考回路ですから、多勢者の腹の虫、声のでかい者の匙加減によって、次々にその攻撃対象は変遷・拡大するものだ、と思っています。
根が繋がっている以上、『ある差別・選別・排撃』は、常に新たな対象を生み出すことを宿命とし、いずれいかなる者にも矛先が向くはずだ、だから我々は、あらゆるそれら攻撃に抗い、その『主義』を討たなければならない、と。この社会の一員として、この社会を良くするために、先ずは自分らの手の届く範囲で、その事象を可視化することを意図して書いてきました。
言い古された話ですが、『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』という有名な詩があります。ナチスが排斥対象を徐々に拡大していく過程で、自分に矛先が向いていないからとそれを傍観していたら、遂には自分に矛先が向いた。共に抗う者は既に駆逐されていて、周囲におらず、気づくのが遅すぎた、という話です。
「在日朝鮮人だから差別はオーケー」ではないのだ、在日朝鮮人排斥に用いられた方法・論理は、そのまま他の差別に転用される危険性を感じないといけないのです。社会的排斥の最前線の当事者の声を、この社会の問題を眺める事象として見てほしい、と。そのような想いから書き続けてきました。
しかしどうでしょう。
現在のこの社会は、既に私が細々とブログを更新して警鐘を鳴らさなくても、一部の上記『主義』の者以外には、社会の劣化具合がとことん顕在化・可視化するところまで来ています。この社会は綻びどころか、止めどなく血を流しながらふらついている、ということが誰の目にも明らかになってきました。
民主党政権が失敗に終わってから、立憲主義・法治主義を踏みにじっても屁とも思わない政治勢力が台頭してきて、法で予定している手続や議論をないがしろにし、次々と民主主義・人権主義を破壊して回るようになりました。
それは最初、政権発足直後の省令改正による朝鮮高校の無償化排除から始まりました。マジョリティからしたら小さな問題で、自分たちには関係が無く、「キタチョーセンの学校にカネをやるな」という集団ヒステリーに迎合した、『世間的には歓迎された』策でした。しかし私は、朝鮮学校生徒を政治のダシにする差別政策に憤慨するのは当然でしたが、同時に、法の精神を無視して差別政策を強行し、涼しい顔で言い訳を繰り出す為政者の厚顔無恥のさまに、この政権の本質、そして未来の暗雲を見たのです。
その後、この政権の行ったことは、私が書き連ねるまでもないでしょう。秘密保護法、派遣労働法改正、沖縄への蹂躙、そして安保関連法、、、人々の権利を侵害し、平和主義を脅かし、前近代復古主義とも言えるような愚策のオンパレードです。違憲と言われようが人権無視と言われようがお構い無しに、(議会の)少数派の意見を一顧だにせず、手続を放り投げて、悪法を次々と通しています。全国的に反対運動が巻き起こり、数々の有名人が声を挙げ、世論調査で「説明不足だ」「拙速だ」「違憲だ」という意見が大多数を占めても、「モチ喰ったら忘れる」と言ってのける始末でした。政権発足と同時にマスコミが懐柔され、まともな批判能力を持たなくなったこともまた、政権を援護していました。
それでもなお、この社会は、この為政者を追い出し、普遍的価値を追求するべく学習や観察を行おうという気概を持たない。
呑気な社会の空気を前に、危機感を共有できないのです。
こんなに分かりやすい危機状態でこうなのだから、私がこのブログで言い重ねる些細な「危機感」など、蚊の鳴き声よりも弱く、鴻毛より軽い。価値が無いのです。
現在のこの社会を眺めるうえで、私が感じるのは、とてつもない「脱力感」と「無力感」です。
数年前から、民主主義・立憲主義・人権主義が、これほどもわかりやすいカタチで破壊されているのに、この社会はどこまでも呑気であり、未だに内閣支持率は不支持率を上回り、国会は開かれずとも大した問題にはならず、あれだけ熱中した民衆の『怒り』はさっさと鎮まり、来年の国政選挙で現在の為政者を追放しようという気概が野党からも感じられない。
相変わらず為政者は、マスコミは、その支持者は、「カンコクガー」「ザイニチガー」と見当違いな敵を吊るしあげることに熱中するか、少数者や弱者を叩くことで仕事をした気になっている。このままでは恐らく、来年の国政選挙で、彼らはさらに大きなチカラを得て、差別主義・選別主義・排撃主義に磨きをかけるでしょう。
この期に及んで、私がブログで書くことなど、本当に何の価値も持たない。
それこそ、この社会は徹底的に堕ちないと、民衆は覚醒しないのではないか、と思っています。
例えば、現憲法が自民党憲法草案の如く個人の権利が国家公権力の前にひれ伏すことを是とし、マスコミは戦前よろしく国家の広報機関と化し、当たり前のように「国益」のために身体の自由が侵され、学ぶこと一つひとつに国家がちょっかいを出し、個人の生き方一つひとつに「国家のために」「国民のために」と枕詞を付けなければ価値が軽んじられるような社会になって、はじめてようやく、この普遍的価値の『価値』を認識し、『墓碑』に成り下がったこの時代の良心的な書き手の文書を、先に述べた『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』を著した詩人のような心境で眺める日が来るのではないか。そう思っています。
暫くは休筆しようか、あるいは「社会派ブログ」的筆致ではない、ユルくて何の意味も無い戯言を書き連ねようか、いずれにしても「ザイニチ」当事者の声を挙げる価値を再認識できるようになるまで、いまのような筆致で書くのは止めておこうと思います。
また心変わりするかもしれませんが、現在の率直な心境です。
コメント欄は常に開放していますし、議論も自由に行っていただければと思いますが、また暫く留守にすると思います。
勝手をお許しください。