『朝鮮学校への地方公共団体の補助金に対する政府の不当な介入に抗議する研究者有志の声明』に全的に賛同します。
先日、朝鮮学校に対して一部地方自治体が細々と続けている補助金について、日本政府が露骨な政治攻撃を仕掛けた愚について、何度か拙稿を示しましたが、流石にこのような人権侵害が放置されて良い訳は無く、日本の学者の有志からの批判声明が発出されました。
私はこの声明文が、
*朝鮮学校の行う民族教育が、何故、どのように認められなければならないか、
*日本政府の行う民族教育への政治攻撃が、普遍的な人権基準からどれだけ乖離し、国際的にどのように批判されているか、
*日本政府の、民族教育に対する一貫する冷淡な態度が、京都事件で朝鮮学校に行われたヘイトスピーチ・レイシズムに比肩する行為であるとの批判
が端的にまとめられており論点整理に有効であることと、主旨にも全的に賛同するので、全文掲載すると同時に、関連する若干の論考を示したいと思います。
朝鮮学校への地方公共団体の補助金に対する政府の不当な介入に抗議する研究者有志の声明
http://ksubsidy.hateblo.jp/entries/2016/05/24
2016年05月24日付け
(引用開始)
2016年 月 日
内閣総理大臣 安倍晋三 様
文部科学大臣 馳 浩 様
朝鮮学校への地方公共団体の補助金に対する政府の不当な介入に抗議する研究者有志の声明
2016年3月29日、文部科学大臣は「朝鮮学校に係る補助金に関する留意点について」という通知を28都道府県知事宛に送付しました。わたしたち研究者は、これを政府による民族教育に対する不当な介入であると考え、ここに抗議します。
同通知は、地方公共団体に朝鮮学校に係る補助金の支給停止を直接求める文面にはなっていないものの、既に各地で動揺が広がっています。それは、報道などで公表されている経緯からして明らかであるように、この通知が、自由民主党および日本政府による朝鮮民主主義人民共和国に対する一連の「制裁」に関する議論と措置の一環として出されたためです。補助金の支給自体はこれまでどおり各地方公共団体の自治的な判断に委ねられているとはいえ、「北朝鮮への圧力」といえば何をやっても許されるかのような風潮が作り出されてきたなかで、政府がこのような通知を出す目的と効果は明白です。
在日朝鮮人による自主的な民族教育に対して、日本政府はその権利を保障するどころか、歴史的に一貫して冷淡で、ときに直接的な弾圧を加えてきました。日本政府は、戦前には「民族的色彩」が濃厚と判断した教育施設を弾圧し、戦後の脱植民地化の趨勢のなかでようやく各地にできあがった民族教育施設に対しても1948〜50年にかけて多くを強制的に閉鎖し、さらに1965年の文部事務次官通達などを契機に閉鎖を含む統制を加えようとしました。
各地の地方公共団体は、こうした国の政策にもかかわらず、外国にルーツをもちながら地域住民として生きる子らの民族教育に対する地域社会の理解を基礎とし、地方自治の精神にのっとって補助金制度を設けてきました。ところが、近年ふたたび日朝関係の悪化を背景に、日本政府は朝鮮学校を高等学校等就学支援金制度(いわゆる高校無償化制度)から排除し、このことが一部の地方公共団体による補助金の打ち切りや減額を誘発しました。そしてついに今回、地方公共団体の補助金交付に直接介入してきたのです。
このような昨今の日本政府による朝鮮学校への政策は、各種の国際人権法や日本国憲法で定められた平等権、学習権を政治的事由にもとづいて不当に侵害するにとどまらず、それ自体が人種差別撤廃条約で禁止しているレイシズム(人種・民族差別)の一形態に他なりません。実際、2014年に国連の人種差別撤廃委員会が日本政府に対して、朝鮮学校生徒への高等学校等就学支援金の支給と、地方公共団体補助金の「再開あるいは維持」を要請しています。日本政府は、この要請を「留意点」として地方公共団体に通知すべきであるにもかかわらず、むしろ反対に人種差別撤廃委員会が懸念を示している政策を維持、拡大しようとしています。
今回の通知は、排外主義を助長することになるだけでなく、それ自体が結果的に「ヘイトスピーチ」と同様の機能をもってしまうことに、わたしたちは懸念を表明せざるを得ません。2009年には京都の朝鮮学校に対して排外主義団体が激しい示威活動をおこないましたが、この事件に対して裁判所は、当該活動によって朝鮮学校の「社会的評価」が低下させられ「民族教育を行う社会環境」が損なわれたことを重く見て高額賠償を求めました。この観点からすれば、今回の通知は、長年にわたって地域社会で培われてきた朝鮮学校の社会的評価と社会環境に負の影響を及ぼそうとする目的と効果において、排外主義団体が学校前でおこなった言動に比肩するものです。
以上の点から、わたしたちは今回の文科大臣通知に強く抗議するとともに、その撤回を要求します。また、文教政策において朝鮮学校に対するレイシズム(人種・民族差別)をただちに中断し、国際基準に照らして民族教育を保障するよう求めます。
(引用ここまで・上記引用文の日付が入っていないのは、恐らく賛同者が出揃った時点で日付を入れて発出することを意図しているものと思われます)
これに関連して、
大阪府及び大阪市については、2011年より朝鮮学校に支給されていた補助金が不支給になっています。私は息子を朝鮮学校に送っている親ですが、私が大阪府・市に納めた住民税は、まったく我が息子の学びに活用されることが無い、という状態が続いています。つまり、私の息子の学びは、公的に保護する価値がまったく無い、と私及び私の息子が住んでいる自治体に宣言されてしまっている状態です。
大阪府・市が大阪朝鮮学園に「これを守るのであればカネをやってもいいよ」と突きつけたのが『4要件(のちに6要件)』ですが、こちらの資料が詳しいので、そちらに譲りますので参照してください(リンク先レジュメの6〜7ページ参照)。如何に民族教育の自主性をないがしろにし、横暴勝手を極めたものかが分かると思います。こんなものを受け入れたら民族教育が民族教育ではなくなります。
無償化連絡会大阪レジュメ.pdf
さて、大阪府・市の補助金不支給に対する訴訟が、大阪朝鮮学園等によって提起され現在継続中です。その訴訟を傍聴した保護者のレポートを手に入れることができましたので、一部抜粋で紹介します。
(引用開始)
(前略)運よく傍聴権を手にし、原告側4名の証人尋問を傍聴してきました。今までの書面のやりとりとは違い、今回の直接的な裁判に期待が膨らみました。…が、いざ始まってみると、段々と胸が苦しくなり最初は体調不良か?と思ったのですが、それは怒りでした。殆ど反対尋問がない中、時々出たかと思うと、裁判官や被告側弁護団の質問が、やれ「肖像画や迎春公演」だの「朝鮮学校の教員は資格があるのか」だの、終いには「補助金が不支給になり具体的な負担はどうだ」との質問に、そんな分かりきった事を聞く前にもっと聞くことがあるだろう!と怒りでワナワナ震え、最後はただただやるせない気持ちになりました。なぜ私たちがこの裁判を起こしたのか、その一番重要な部分がないがしろにされ、お粗末なマスコミ報道のような“北朝鮮バッシング裁判”に成り下がったと感じました。結局、彼らは正攻法では勝てないのです。裁判官や弁護士はまるで産経のまわし者かと思えたし、あまりにも韓国・朝鮮にルーツを持つ在日の歴史的経緯を知らなすぎると感じました。司法試験に受かるために勉強に明け暮れ、豊富な社会経験もない頭でっかちの裁判官に我々の闘いの歴史、苦しみの歴史をくみ取る器があるとは到底思えない。差別の矛先が他でもない何の罪もない子ども達に向けられ、朝鮮学校に通う子ども達への重大な人権侵害が行われているというのに…!外交問題を理由に差別が許されるなら、日本は取り返しのつかない人権後進国として国際社会から間違いなく非難をあびるでしょう!
(略)多くの方が証言台に立ちました。(略)皆さん其々自分の立場から一生懸命証言されており、特にまだ若くしてこの重責を担う場に立ちながらも、堂々と真っ直ぐに受け答えをした○○さんの姿は誇らしく、素直に胸打たれ、また差別に屈せず逞しく生きてきた同胞達の後ろ姿を見ながら、ウリハッキョ(私たちの学校=朝鮮学校のこと)で育った子ども達らしい強さと逞しさを感じました。最後に○○さんが裁判長に向けた「当たり前のことが当たり前でない世の中…」「私から目を逸らさず、私を真っ直ぐに見てください!」との力強く真っ直ぐな言葉…。正常な神経の持ち主なら胸に突き刺さったことでしょう。そうであると信じたい。(後略)
(引用ここまで・伏せ字、略、注釈は引用者)
私は、在日問題は、日本の『戦後処理』の問題だと思っています。
在日朝鮮人の圧倒的多数者の来歴を辿れば、日本の植民地支配に行きつきます。過去の日本国家の政策によって内包した朝鮮人及びその子孫が、その民族的自覚から日本国内で朝鮮人として生き続けようとすることに、日本国家は、旧宗主国として、責任を負い続けなければなりません。日本国家の歴史を「戦前」と「戦後」で断絶することはできないのです。日本国家の歴史に連続性があるように、在日朝鮮人の世代継承にも連続性があり、どのように生きるか・継ぐかを決めるのは在日朝鮮人のコミュニティ自身です。
朝鮮を「日本」にしたのも日本国家だし、朝鮮人を「日本人」にしたのも日本国家だし、戦後日本に残る「日本人」を「朝鮮人」にしたのも日本国家です。そのように翻弄され続けた在日朝鮮人が、自分らの自覚から「朝鮮人」として生きようとすることにまで、日本国家は干渉し妨害しようとしている。自らの歴史を直視せず、機会あれば修正・美化しようとしている日本国家の姿が、そのまま在日問題に凝縮されて反映していると言えるでしょう。
日本国家が、自らの歴史を直視し、それを政策に反映させ、それを教訓として後世に残すように公教育に反映させるべきです。そうすれば我々のような「植民地政策の残滓」が何故存在し、何故いまも維持されているのかについて、我々のみがその説明責任を負っている、という現状は改善され、自ずと在日問題の「問題」は解消されることでしょう。
そのような情勢に好転するには、現情勢及び現政権の愚かな姿を見るにつけ、道は果てしなく長いと感じます。それでも諦めず、まっとうな『戦後処理』を求めていきたいと思っております。