『ヘイトスピーチ対策法』成立に対する拙考
今月24日に『ヘイトスピーチ対策法』が成立した。私や多くの心ある反差別に取り組んだ方々が望んだもの、そして最初に旧民主党が中心になって提示したものとは程遠い、いわゆるザル法だが、それでもなお一縷の希望を見出す。
成立した法律では、ヘイトスピーチの定義を、
専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加える旨を告知するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。
としている。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g19002006.htm
これに対し、私がヘイトスピーチ研究の第一人者だと認識している、師岡康子弁護士による著書『ヘイト・スピーチとは何か』による定義は以下のとおりである(48頁)。
ヘイトスピーチとは、広義では、人種、民族、国籍、性などの属性を有するマイノリティの集団もしくは個人に対し、その属性を理由とする差別的表現であり、その中核にある本質的な部分は、マイノリティに対する『差別、敵意又は暴力の煽動』(自由権規約二〇条)、『差別のあらゆる煽動』(人種差別撤廃条約四条本文)であり、表現による暴力、攻撃、迫害である。
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1969年に発効した人種差別撤廃条約を日本が批准したのは1995年であるが、ヘイトスピーチ禁止条項については留保をしたままになっていた。繰り返しの改善勧告に対しても日本政府はゼロ回答だったのである。今般の『ヘイトスピーチ対策法』を、この宿題に対する20数年ぶりの回答と捉えるのであれば、当然に人種差別撤廃条約を援用してヘイトスピーチを定義すべきであるが、今般の法律では、日本独自の定義を拵え、ヘイトスピーチを限定的に捉え、限定的にそれを解消しようと試みるのである。
これまで反差別反ヘイト運動を眺めていれば自ずと分かることだが、ヘイトに苦しめられてきたのは、何も「本邦外出身者」ばかりではない(確かに最も激烈かつ『共感』を掻きたてたのが朝鮮人に対するヘイトスピーチであることは認めるが)。
アイヌ、琉球、障がい者、女性、LGBT、被差別部落出身者、宗教者、ヒバクシャ、などなど、挙げればキリが無い。
マジョリティが、被差別マイノリティという身分に落とし込んだ者に対し、その差異を取り出してあげつらうという図式で発生するのがヘイトスピーチである。マジョリティという属性をひけらかしてマイノリティを貶めたい、rawanさんの言を借りれば『魂が悪い』人間の匙加減で、攻撃対象は如何様にも変幻するものである。
それなのに、法律によって抑止しようとしているのが「適法に居住する本邦外出身者」に対する差別のみ、ということでは、対策の体を成し得ない。反差別反ヘイト側に集う者の連帯の輪を分断しているようにさえ見える。
最も、差別主義者にとっては我々在日朝鮮人は『密入国者の子孫』ということになっている。それに対して、行政の側からこのような言説に対する明確な反論は、これまで試されてこなかった。差別主義者が我々を攻撃する際に、「密入国者の子孫は出て行けという政治的主張」だと言い張れば、それはこの法律の枠外、ということに(差別主義者の頭の中では)なってしまう。差別主義者への牽制という実効力も、まことに疑わしい。
私は、差別はどこから生まれるのかという根本に対する着眼、差別に対する社会的な学習の蓄積というものの欠如があるのに、それこそそれが欠如しているという認識が『欠如』のままに、法律という建物を急ごしらえで拵えたから、このような『上っ面をなぞったような法律』になったと思っている。
あらゆる差別は、人間の知性を否定した、歴史に対する「無知」と、普遍的人権思想に対する「無知」から来ている、と私は考えている。これまでに発生した差別事件がことこどく、そのことを裏付けている。
この膨大な「無知」に対応する学習を取り付けずして、土台を固めずにして、その上にいくら華美な建物を立てても、それは住むに値しない。
今般法律のターゲットたるヘイトスピーカーは、「無知」の時間的蓄積で湧いてきた『極端な者』である。これを立法府が認識せず、いま湧いてきたヘイトスピーカーのみに対処療法的に対策を打ったとしても、(心配しなくても)次から次へと同種の者は湧いてくる。少なくとも政治の世界では同種の者が湧き続けている。この膨大なそして徹底的な「無知」に目を向けない限り、根本治癒には程遠いのだ。
しかし、少ないが希望を見出だすとすれば、法律では教育の充実及び啓発活動についての、国及び地方自治体の責務を明確化していることである。上記の「無知」を埋めることで、湧いてくる者が少なくなっていくことを、長い目では期待したい。
今回の法律の成果は多くはなかったが、この法律を根拠にした地方自治体の条例制定、及び本法律の改定等、数次の肉付けを経て、実効力を備えた差別主義者へのコントロールとなることを期待する。この法律は小さな一歩だが、諦めずに大きな果実を得られるように、私も微力を尽くしたいと思う。
(付記)
本法律の不十分さを指摘する記事を紹介する。
反ヘイト法成立「第一歩だが、改正を重ねてより良いものに」伊藤和子・HRN事務局長
毎日新聞 2016年5月24日
http://mainichi.jp/articles/20160524/mog/00m/040/007000c
(引用開始)
24日成立したヘイトスピーチ対策法は、罰則のない理念法だ。ヘイトスピーチ解消に向けては、国に相談体制の整備や啓発活動などを義務づけ、地方自治体にも努力義務を課す。人権団体「ヒューマンライツ・ナウ」(HRN)事務局長の伊藤和子弁護士に同法成立の意義を聞いた。
伊藤さんは「ヘイトスピーチに関する法律は日本になかったので、その意味で第一歩」と評価しながら、保護される対象者を限定した要件を設けたことを問題点に挙げた。同法はヘイトスピーチ解消の対象を「本邦(日本)外出身者」で「適法に居住する者」と規定しているため、「対象外の人たちへのヘイトスピーチが容認される恐れがある」と指摘する。
容認される恐れがある人たちとは、具体的には難民認定を申請する人、配偶者ビザを持ちながら家庭内暴力などで避難する人、両親がオーバーステイの状態で生まれた子、外国人旅行者−−などだ。
同法の付帯決議には、「本邦外出身者」で「適法に居住する者」以外に対するヘイトスピーチは許されると理解するのは誤り、と盛り込まれたが、伊藤さんは「付帯決議に与野党が合意できたのなら、(保護の対象の)要件を外すべきだ」と主張する。
ただ、男女雇用機会均等法やDV防止法を例に、「不十分な内容の法律も改正を重ねてより良いものにすることは可能」と見る。「差別を無くしたいと思っている人たちが分断されてはいけない。切り捨てられた人たちを法律の枠内に含めていく必要がある」と強調した。
(引用ここまで)
(追記)
ヘイトスピーチの解消に関する決議が、参議院法務委員会にて全会一致で採択された。法律の主旨を補完し、今後進むべき方向性や、対象に含めるべき被差別者にまで言及している。私は本稿で法律の『不足感』について書いたが、このような共通認識が国会で形成されたことについては、素直に賛辞を送りたいと思う。