いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

雑感:『ヘイトスピーチ』をろくに定義づけずに語るのはどうなんだろう?

朝鮮人をぶっくぉろせぇ!」「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮人」「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」
未だに路傍の汚物よりも汚いヘイトスピーチという暴力が、朝鮮人をはじめとしたマイノリティに日々投げつけられている。社会の良識がそれを取り囲むようになってきてはいるものの、飽きることなく休日ごとに日本各地でそれを繰り返す、あるいはネット上に撒き散らすレイシストらに、塵ほどの規範意識も感じることはできない。既に朝鮮人に対する汚物投擲はレイシストらの娯楽として確立されつつある。この社会はどこまで堕ちるのか。暗澹たる思いだ。

このようなヘイトスピーチに抗う記事、動画、twitter投稿も多く出回るようになってきたが、それに対し度々、ネトウヨ?の皆様方からよくわからない反論が寄せられることがある。
曰く、
「あなたも反日ヘイトスピーチをしていますよね?」
「韓国でもヘイトスピーチをしていますよね?」
「あなたが私にしていることもヘイトスピーチですよね?」

最初、私はただの言いがかりか、反論の能力が不足していて適当なことを言っているのだと思っていたが、かなりの割合のネトウヨ様が異口同音に同じことを言っている(例えばニコニコでヘイトスピーチに反対する団体が生配信したりすると、この種のコメントで画面が埋め尽くされる)ので、どうやら彼らは『ヘイトスピーチ』がどのような行為を指すのかを理解していないようだ。
彼らは『ヘイトスピーチ』を「嫌いだとコトバにすること(表現すること)」と英語直訳で解釈するか、日本で流通している「憎悪表現」という訳語で解釈するかしていると思われる。これは違う。「偏見に基づき差別を扇動する侮蔑的表現」というのが『ヘイトスピーチ』の定義であり、それがヘイトスピーチ及びヘイトクライムを法で規定・制限している諸外国での理解である。公人の挙動に対する批判や怒声罵声、国家機関や公共物に対する責任追及はこれに当たらない。
例えば、現在安倍政権の陣容や政策に対する多種多様な批判が街頭デモというカタチで展開されている。中には安倍個人の無能を批判したりするものも含まれる。また日本政府の歴史修正に対して抗議するデモがたびたび起こっている。しかしこれらは(内閣とか総理大臣とかの)国家機関、あるいはそれらが堅持しようとする政策や差別主義、植民地主義を批判しているのであり、これに対して「日本に対するヘイトスピーチ」という言説をぶつけるのは間違っている。これらのデモは、「日本人」全体を罵り嘲っているのではない。レイシストが朝鮮のナニが気に入らないという口実をもって「朝鮮人は死ね」「殺せ」と人種に対する憎悪を扇動することとは根本的に異なるのだ。それを誤解してはならない。あと、「韓国での日本へのヘイトスピーチも取り締まれ」というのは、まず第一に、それは韓国に言うべき話であって、いち在日朝鮮人のブログに書き込んでもしゃあないし、第二に韓国内で対日のデモが起こることはままある話だが、デモの対象は日本の政府、政府要人、及びそれが執る政策、歴史修正主義等であり、「日本人は死ね」的な言説が白昼撒き散らかされているわけではない。新大久保等で行われているレイシストの破廉恥行為とは根本的に異なる(仮に韓国内で「日本人は全員死ね」と扇動するような愚行が行われているとしたら、同じ系譜で批判対象であることは言うまでもない)。
また、レイシスト朝鮮人らマイノリティに対して投げつける「殺せ」や「ゴキブリ、ウジ虫」等の妄言に対して、それに抗議する者が「レイシストはこの街から出ていけ」「差別主義者は死ね」と強烈なコトバを浴びせていることがある。これを「ヘイトスピーチヘイトスピーチで対抗している」「どっちもどっちだ」と捉える者がいるが、よく考えてほしい。レイシストが吐いている妄言は、朝鮮人一般という人種に向けられているのに対し、対抗するコトバは、レイシスト個人あるいはレイシズム集団に向けられている。先天的に背負った運命、変えることのできない属性を口汚く罵る行為と、その行為を「止めろ」という行為とを、同列に見、同価値で評価することは根本的に間違っている。

このように、『ヘイトスピーチ』の定義を正確に捉えないと、この問題の本質を見誤るし、何を尊重し保護すべきかもあやふやになってしまうし、回りまわって差別への加担者にもなってしまう。
改めて『ヘイトスピーチ』の定義を端的に表すならば、この図式の赤矢印が該当し、他は該当しない。借り物だが紹介したい。

http://kdxn.tumblr.com/post/66296158976



ところで、
このような分かりやすい差別が全国各地で量産されるなか、元々問題意識が希薄だったのか、それとも暇人レイシストからのクレームやイチャモンの処理が面倒臭いのか、イヤに及び腰だったテレビ局各社も、主に街頭のヘイトデモについては現状を取り上げるようになってきた。この数カ月に私はいくつかのヘイトスピーチ考をテレビで見ることがあった。例えば大阪市の橋下が人気取りで在特会云々と言い出したときに、大阪の昼の番組では結構長い時間の特集が組まれたりもした。おのれの時間の遣い方を惜しんだような下らない番組もあったが、多くは、このような罵詈雑言や差別語の羅列が街頭で垂れ流されていることに対する憂慮というものを、ポーズとして持っていたように感じた。
しかし、ヘイトスピーチの定義について、十分に掘り進めてそれを提示できた番組、あるいはヘイトスピーチの法規制の賛否について明確に放送局の立場を表明した番組には、ほんの一部()を除いては遭遇できなかった。「ヘイトスピーチとは何ぞや」が、十分に本質を捉えられるように咀嚼された状態で提示できずに議論が煮詰まるはずがないし、視聴者の理解も進むはずがないが、それをせぬまま、上っ面をなぞり、両論併記的に話を進め、核心に迫らず、「みなさんはどう思いますか?」と見る側に丸投げして、これら番組は終了して行った。この社会のあるべき姿を、自らの憲法や国際人権法の系譜からいくらかでも探求する矜持を、まったく発揮することは無いままに。
官公庁からの発表、特に安倍ちゃんがどう言ったとかどうしたいとかは無批判にそのまま垂れ流すのに、マイノリティへの人権侵害行為に社会がどう向き合うかについては「公正中立」を旨として立場を明らかにしない。要は「逃げている」。社会にとって守るべき価値は何なのかを提示するプライドが無い。マスコミはこれまでも社会に有効な提言を示したことが少なかったが(対立や好奇や妬み嫉みを煽ることは腐るほどあったが)、今回もなおマスコミは社会的な責任を果たすことはなさそうだ。

まぁ、そもそもの話、ではあるが、
この国では「ヘイトスピーチとは何か」以前に「差別とは何か」「民主主義とは何か」すらも普遍的に共有されていない。そのための公教育も存在しないし社会で掲げるべき課題としても提示されていない。これは一にも二にも政治がそのことに価値を持っていないことを意味する。高市とかいうアホがヘイトスピーチ議論の一丁目で(自分らにしては鬱陶しい)反原発や反政府のデモも一緒に規制をしようと言い出しても、首が飛ぶどころか放送分野を束ねる総務大臣になっちゃえることが日本の今日の現状を端的に表している。このように、この国の為政者及び支配階層の感度は、「カンコクガー」「ザイニチガー」と除け者探しゲームをするぶんには研ぎ澄まされているものの、殊、人権や民主主義の精度の問題については鈍りきっている(自分らが手に入れている自分らの“人権”保護と、多勢の専制状態が維持されていることに関する“民主主義”への満足がそうさせているかのようだ)。

これら政治とマスコミの現状を置いて、ネトウヨの残念さを責めるのはこの問題を眺めるうえで本質的ではない。私はこの国の政治感度の「ユルさ」とマスコミの感度の「ユルさ」、権力とマスコミの「ユルい関係」が、この国に住まう者の絶望的な人権や民主主義に対する感度のユルさをもたらしている、と考えている。その結果量産された「弱者」が、同じ弱者を“敵”と見なして叩いていることを、権力は意図的に放置し、あるいは保護しているのだから、幾重にも罪深い。

単純な話だ。自らの不満や不遇に関係ない人間を捕まえて「死ね」だ「殺せ」だ「ウジ虫」だと人前で口汚く吐いて悦に入る自由を保証する“利益”と、自分の尊厳どころか存在をも否定するコトバに座視し耐えることを強要され、ピントのずれた狂気による憎悪に沈黙を強要され、おのれの運命を呪わなければならない“不利益”とに、バランスを取るべき事由が寸分でも存在するか、を、自らの憲法憲法で遵守すべきとされる自らが批准した条約を含む)を眺めて寸分でも見いだせるか、という話だ。

表現の自由」とは無制限に認められる不可侵の権利ではない。公共の福祉、つまり他者の法益との境界線で制限され得るものだ。実際、威力業務妨害、名誉棄損等、表現行為が他者の法益とバッティングすることによって構成される犯罪が現時点の法典にも多数存在する。何故殊更、ヘイトスピーチの法規制による不利益のみが声高に主張されるのだろうか?その一方で、その放置によって侵害される利益、つまり弱者のガス抜きに利用されるマイノリティの人格や尊厳が一顧だにされないのは何故か?

私はそれが、ヘイトスピーチの法規制によって保護される者が、マジョリティではなく、専らヘイトスピーチの攻撃対象であるマイノリティだから、というのに尽きるのではないか、と疑っている。在特会レイシスト団体が日本に土着する植民地主義エスノセントリズム、特にアジアに対する優越思想に依って立つことは言うまでもなく、在特会はそれが極端な形態で顕在化したものに過ぎない。現政権が、在特会をはじめとするレイシスト団体とただならぬ親和性を持ち合わせていることは周知の事実だ。自分たちの政策を支持するはずもない朝鮮人の利益を追求するより、自分らを盲目的に支持してくれる者らに寄り添っていたほうが自分らの基盤が維持され得ると、本気で思っているのではないか、と疑っている。もっと言えば、日本の政権がその思想に擦り寄り続けていることを指摘しておかなければならない。安田浩一氏の言を借りれば、日本の政権が『在特会化』しているのだ。

そんな中でヘイトスピーチ法制化の議論が進む。(前項でも触れたが)ヘイトスピーチの定義も、国際的な人権基準への理解も心許ない政治家が、喧嘩両成敗的に着地させる危険が現実問題として付きまとっている。それを監視する我々市民が、あるべき姿から発進して、考えを研ぎ澄まさなければならない。すべての個人が個人として尊重される社会に、人種を蔑視し差別を扇動する行為が入り込む余地はない。

(付記)
ヘイトスピーチの本質を理解する上で、比較的深部に切り込んだ番組を紹介させていただく。リンク先で番組内容が紹介されているのでご確認願いたい。
報道ライブ21 INsideOUT「ヘイトスピーチと差別表現」 140925