いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

雑感:「朝鮮人を殺せ」に抗するメッセージに思う ― 私は、ヘイトスピーカーと「仲良く」などできない。(20131012追記あり)

安倍ちゃんが世界に向かって大嘘を吐いて東京がオリンピックをかっさらってから数週間が経過した。
在特会をはじめとしたレイシスト集団は、東京招致成功をわざわざ待ってから、ヘイトスピーチデモという悪ふざけを再開した。吐く言葉に進歩は無く、相変わらず「ゴキブリ朝鮮人をたぁたきだせぇー」「朝鮮人をぶっくぉろせー」である。これは朝鮮人への誹謗以外の何者でもない、ただの人種差別や憎悪を扇動するだけの唾棄すべき行為だ。これが、ジャパニーズスタンダードでは「表現の自由」「保護の対象」らしい。批判とは程遠い文句や憎悪を、批判対象となりうる国家やその機関等にではなく人種一般に対して向ける行為、その人種の生存権すらを否定する表現が、何故にこの地ではこれほども『自由』だと信仰され抵抗感すらなく、法益を認め保護されるのか?まったく理解できない。
7年後にこの国で、この都市で、オリンピックを行うなんぞ、悪い冗談にしか聞こえない。オリンピックを開けば、朝鮮人も中国人も、それこそ世界中の国の選手と役員と観客が来る。そこで「○○人を殺せぇ」とやって、「平和の祭典」もクソも無かろう。絶対的多数者の立場をひけらかして自尊心を取り戻したいだけのクズ人間が、少数者をリンチにしたい衝動を言いふらすという愚劣な行為を、まさか憲法をタテに正当性を主張し、更に司法司直が全面的に保護して回る。これを外国からの訪問者がどのように受け取るか、考えてみればいい。当然に、「どれだけ野蛮な国なんだ」、となると思うが、どう考えるだろうか(一応書くが、嫌悪を抱くという思想に云々言っているのではなく、嫌悪を吐露し他者を先導し周囲を委縮させる行為を問題にしている)。

流石にこのような状態に、日本社会の劣化を食い止めようという各種の取り組みも目立ってきた。ヘイトスピーチの垂れ流しに、ヘイトスピーカーの数倍規模のカウンターデモ隊が取り囲むようになり、国会やテレビでもその問題点や犯罪としての法制化が取り上げられたりした。
例えば先日、「のりこえねっと −ヘイトスピーチレイシズムを乗り越える国際ネットワーク−」という団体が立ち上がった。数々の著名人が共同で立ち上げ、ヘイトデモの撤廃を呼び掛けている。
私は基本的な立場に賛同し連帯したい。
設立宣言を全文掲載する。



「のりこえねっと」設立宣言
http://www.norikoenet.org/declaration.html

(引用開始)

いま、在日韓国・朝鮮人を標的とするヘイトスピーチが、各地で凄まじい勢いで拡大している。 多文化のもとで共生する人びとの平穏な生活を切り裂き、民族差別や人種偏見に満ちた、侮辱的、脅迫的言動が繰り返されている。

ヘイトスピーチは、街頭だけでなく、ネットやさまざまなメディアでも繰り広げられ、差別、偏見、攻撃の言説を執拗に展開している。 なかでも日本軍性奴隷被害者(いわゆる「従軍慰安婦」)とされた女性たちに向けられる侮辱と憎悪の表現は、人権の価値を根こそぎ破壊するレベルにさえ達している。

ナチス時代のユダヤ人などへの迫害、かつての南アフリカでのアパルトヘイトアメリカ南部におけるKKK団のリンチを想起させるような激しい侮辱と憎悪表現に対して、日本社会からの反応は、いまだあまりに鈍い。

在日韓国・朝鮮人は、日本による侵略と植民地支配によって生み出された。その存在の歴史性に対する決定的な無知と、「言論の自由」の尊重という口実のもとで、この社会の多数派は、この卑劣で暴力的なヘイトスピーチを黙認し続けている。

ヘイトスピーチは、当面の標的とする在日韓国・朝鮮人だけではなく、女性を敵視し、ウチナーンチュ、被差別部落の出身者、婚外子、社会が障害となっている人たち(いわゆる「障がい者」)、性的少数者などの、社会的少数者にも攻撃を加えてきた。 彼らが攻撃する人々は、日本の戦後体制の中で、人格権や生存権を政策的に奪われたり無視されたりしてきた人々と、みごとに重なっている。この意味において、日本におけるヘイトスピーチは、戦後体制が政策的に作り出してきた差別そのものなのだ。

本質に立ち返って考えたい。
ヘイトスピーチが傷つけるものとは何なのか、ということを。
それは、在日韓国・朝鮮人だけではない。社会的少数派だけでもない。
ヘイトスピーチは、良心を持つあらゆる人々を傷つけるのだ。国籍も、民族も、性別も、出自も関係なく、すべての人間には普遍的な尊厳と人権があると考える人々の信念、そして、なによりも平和に生きようとする人々の精神に対して、言葉と物理的な暴力で憎悪を投げつけ、侮辱し、傷を負わせる。国際社会がこれまで長い苦しみの歴史の中で築いてきた、世界人権宣言にも謳われる普遍的な人権概念を攻撃し、その価値をあざ笑い、踏みにじる。
これが、ヘイトスピーチの本質なのだ。

だから、この暴力に対峙し、決然と対決することは、単なるマイノリティ集団の利益のための行動ではない。また、一国の国内問題を解決するためのものでもない。民族や国境の壁を超えて、人権の普遍的価値を擁護し、防衛する行動でもあるのだ。
それは、この日本社会にあっては、戦後体制によって市民的権利を剥奪されてきた人々の「市民として生きる権利」を希求する行動以外の何ものでもない。
ここであらためて確認し、明記しておく。
人間の涙の歴史を無に帰そうとする挑戦に、私たちは、決して屈しない。
 
ヘイトスピーチレイシズムを乗り越える国際ネットワーク 「のりこえねっと」共同代表 一同

(引用ここまで)



ところで、
ヘイトスピーチに対抗するメッセージには、私もヘイトスピーチを浴びせられる当事者の立場として、勇気づけられたり感謝したりすることしきりなのであるが、どうしても私の理解が及ばない言葉がある。苦言というわけではないのだが、少し書いてみようと思う。

それは、『仲良くしようぜ』というメッセージである。

これが、「誰が」「誰と」仲良くしようと呼びかけるメッセージなのか、どう理解すればいいのか、私には分からないのだ。

どう考えても、
ヘイトスピーカー側に我々在日朝鮮人と『仲良くなる気がない』ことは自明である。在日朝鮮人と仲良くなりたいのに、在日朝鮮人が振り向いてくれないから「ツンデレ状態」でヘイトデモを繰り広げているなどとは、冗談にしても出来過ぎである。狂ったように在日朝鮮人を殺せと叫ぶ者に、対峙する在日朝鮮人及びその友人が、『仲良くしようぜ』などとメッセージを投げかけても、それが響くとは、どう考えても、無い。馬へのものより無駄な念仏になるとしか思えない。このような者どもに響く言葉を朝鮮人とその友人である日本人は持っていない。それはヘイトスピーカーが懲りずに毎週のように「楽しく」ヘイトスピーチに興じる今日の現状が証明している。

次に、まさかとは思うのだが、
我々在日朝鮮人が、ヘイトスピーカーと『仲良くしようぜ』ということなのだろうか?これは「ご勘弁」と言わざるを得ない。我々に「死ね、殺せ」と吐く連中に、我々が仮面の笑顔を湛えて擦り寄り、『仲良くしようぜ』と持ちかけるなど、どう考えても無い。有り得ない。右傾化した社会潮流、そこに力と数を得た政治状況…旭日旗を片手に闊歩するヘイトスピーカーは、このような現代日本の現状が凝縮した『煮こごり』とも呼べる連中である。このような連中に、尚更おもねるなどとは、人間としてのプライドが許さない。

残る可能性は、
カウンターデモに抗うために集った「日本人」が、「朝鮮人」と『仲良くしようぜ』と呼びかけている、ということであろうか。朝鮮人が目の前で虐げられている状況を見て、朝鮮人の友人たる日本人あるいはレイシストに抗う者が、「日本人は目の前のレイシストのような者ばかりではない」ということを示すように、互いの連帯のために『仲良くしようぜ』ということなのかもしれない。これなら何だか分かる気がする。ただ、『仲良くしようぜ』のプラカードは明らかにレイシスト達に向けられていて、レイシストに人種間の融和を呼び掛けているようであるから、私のこの解釈は誤りだと言えよう。

http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/23757731.html



私の思うところを正直に話す。

レイシストの行進を自らの社会の恥と捉え、自然発生的に非組織的に集まった抗議者なので、持ち寄る言葉も各人各様なのは当然なのだが、『仲良くしようぜ』という言葉には、どうも視点がずれているというか、拭えぬ違和感を感じずにはおれない。
私は、私の血を憎み、蔑み、それで他者を煽ってきた者に手を差し伸べ、『仲良くしよう』と寛容な態度を取ることなどできない。自己の存在や自尊心を蹂躙し、横っ面を引っ叩き踏んづけてきた者、そのような者と「仲良く」することなど、私には絶対にできない。
確かに、互いの差異を際立たせ優劣や貴賤を競うより、些末な差異を脇に置いてでも互いに協働共有できることを探す、円と円が重なり合う部分で連帯し分かち合うことのほうが、個人にとっても社会にとっても有益であることに疑いは無い。そのための前提として、他者同士が互いに「寛容」であり、「溜め」「余裕」をお互いに持つこと、それを社会内で価値として共有することは非常に重要だと思う。しかし、人間の根本に対する排撃に対して、私は「寛容」「溜め」を差し出すことなどできない。

人種や社会属性に対する攻撃に晒された際の、血の沸騰とも形容し得る強烈な怒り、そこから覚めた際に襲ってくるとてつもない虚無感や苛立ちについて、換言に値する重量のコトバを、私は未だ見つけることが出来ていない。レイシスト達が熱狂の中で吐く言葉は、人間の尊厳を蝕む圧倒的な威力を持ち合わせていると、私は考えている。たまたま私などは日々の経験や学習や築き上げたものによって、レイシストの放つ言葉に冷笑程度で返せるほどの耐性を持ち合わせている。しかし私が持つような「免疫」を持たぬ者がこのような言葉の暴力に晒されたときに、世の中や時代を憂い、自分が生まれてきた事実をも恨み、自らで完結するという悲しい結末すらも、私には想像ができる。レイシストの放つ言葉は、紛れもなく「凶器」だ。
『仲良くしようぜ』というメッセージには、眼前で繰り広げられるレイシストの狂気、その言葉の凶暴性に、実際にマイノリティが、朝鮮人が、どのように泣き、悲しみ、時代に絶望しているのか、という部分への『想像力』が届いていないように、私には感じてしまうのだ。

冒頭、現状の日本のレイシズムに対する日本社会の鈍感さに対する苛立ちを書いたが、昨日、京都朝鮮初級学校へのレイシストの襲撃に対して、街宣禁止と損害賠償を命じる判決が出た。当然の判決だろうと思う。これは司法が示した良心に違いはないが、そこから一歩進めて、レイシズム、そしてレイシストに厳然と決別するため、そして人類が普遍的な価値として認める『個人が個人として尊重される』という社会に近づけるためには、何よりそれを追求する側自身が、抱く理想と掲げる言葉を研ぎ澄まさなければならない。そう思うのだ。



(2013.10.12追記)
はてなにはブックマークという機能があって、そこでもコメントを受けることができるのですが、こんなコメントが貼ってありました。

festerfester

ヘイトスピーカーと仲良くする必要なんかあるわけがない。そして「仲良くしようぜ」とわざわざデモに来てくれた人たちがヘイトスピーカーであるわけがない。後者を憎んだらもう取り返しのつかない修羅の道だよ。

私の言及のどこをどう読めば「わざわざ来てくれた人がヘイトスピーカー」と読めるのでしょうか?あんまりどこかの安い政治家みたいなことは言いたくありませんが、読解力が無さ過ぎませんか?字面及び論旨をちゃんと捉えていただきたい。変な言いがかりを持ち込まないでいただきたい。
私が言っているのは、『理想と掲げる言葉を研ぎ澄まさなければならない』ということです。ヘイトスピーチに抗う行動自身を見下してる意図などあるわけがありません。
対抗すべきはレイシズムレイシストです。