いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

新語・流行語大賞に「ヘイトスピーチ」が選ばれる時代を憂う。

今年の『新語・流行語大賞』は、テレビのコメンテーター曰く「非常に豊作」で、審査員曰く「バナメイエビも入らないくらい沢山の流行語があった」とご満悦だったようだが、その受賞語のひとつに「ヘイトスピーチ」が選ばれた。
http://singo.jiyu.co.jp/nendo/2013.html
豊作だと言われるほど分母が大きかったのに、それに生き残れるほど「ヘイトスピーチ」が日本の社会問題として顕在化し、広く知れ渡るほど一般化した、ということだろうか。この事象ひとつ取っても、まことに由々しき事態だと言わざるを得ない。

前稿で書いたこととも重なるが、「チョーセン人をぶっくぉろせぇー」「シナ人をたぁたきだせぇー」といった、理性の欠片も感じられない剥き出しの差別心の吐露は、現代の民主主義、普遍的人権の尊重という人類共有の価値を根こそぎ否定するものだが、この流行語大賞での取り扱われ方にしても、メディアでの取り上げられ方にしても、このようなリンチが、民主主義と言われる自らの社会で公然と行われているという重大な事実から考えて、余りにも「軽い」という感情を拭うことができない。
ヘイトスピーチを繰り出す当事者も当然に軽い。いまやトレンディーヘイトスピーカーの地位を確たるものにしている桜井誠に至っては、自己のインタビューをわざわざ書籍にして恥を散布しているが、その書籍のブックカバーなど、現実に彼が街中で繰り出す罵詈雑言の凶暴性、周辺に撒き散らす迷惑や影響力から比較して、拍子抜けするほどの「軽さ」、果てしない「間抜けっぷり」である。
在特会とは「在日特権を許さない市民の会」の略称です ! (SEIRINDO BOOKS)

多くの良心的ブロガーが指摘するように、「ヘイトスピーチ」という顕在化した事象は、この社会が生産し頑なに維持する『差別/被差別』の構造の中から生み出されていると、私も思っている。外に向かってはアジア諸国及びその国民に対する優越感、内に向かっては戦後も一貫して続く植民地主義及びケガレ思想・選民思想である。それに感化され乗ってしまった人間が、恥を恥とも思わず練り歩いているのである。多くのメディアがこれを正面から捉えることを私は求めたいが、表現世界の表舞台では、まったくお目にかからない。表現世界の表舞台に躍る文言は、換言すれば、「トレンド」「ノリ」「空気」という言葉たちで収斂させられてしまうような、時間軸としては「短期」、本質からは「表層的」、展望としては「近視眼的」なものである。

ヘイトスピーチをはじめとした人種に対する憎悪を扇動する行為は、欧米では立派な犯罪行為である。つい先日も歌手のボブ・ディラン氏がフランス司法当局から刑事訴追されている。http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2013120302000239.html
日本では、ピントのズレた「表現の自由」信仰とその恣意的な適用によって、現在のところ犯罪の構成要件とはなっていないが、ヘイトスピーカーの暴走が社会問題化するにつれて、日本でもヘイトスピーチを法的に規制しようという議論が、少しづつ進んでいる。

問題は、その議論の着眼である。
主には、
*民族や属性に対する憎悪を表現し扇動する行為を日本で犯罪行為とするかどうかという『線引き』
あるいは、
*「正当な批判だから」「とは言っても朝鮮人は悪い」といった加害側の『価値基準』
という座標で議論評価することが着眼の中心であるのだが、それに比べ、
*実際にそのような表現行為を受ける被害側の『心情』
に着眼して語られることが、絶望的に少ないということを、私は感じている。

理解を取り付けたいために脇に逸れる。街中の情景を少し想像してほしいのだが、道路上の電光掲示板が「乗ったら飲むな!飲酒運転は免許取り消し!」と表示することは多くても「あなたの飲酒運転は無辜の命を葬る」と表示することは少ない。また、駅のポスターが「痴漢は犯罪です!あなたの一生を棒に振ります」と表現することは多くても、「あなたの痴漢が被害者の心に一生拭えぬ傷を与えます」と表現することは少ない。これに私は、日本に今もって支配的な、男性的、上から目線的、と言うべき思考回路のベクトルを見て取る。
「自分に刑罰が下るからやってはいけない」、というのは抑止力の系譜ではそのとおりなのだが、民主主義社会における規範意識とか、相互の普遍的人権を慮る、という系譜で発進したものではない。それは本質に迫っていないのではないだろうか?行為が「刑罰が下る/下らない」以前に、人に迷惑をかけることはやってはいかんのだからやってはならんのである。ヘイトスピーチの問題も然り、出自を根拠に人を傷つける行為は、傷つく人がいるのだから、やってはならんのである。民主主義を尊ぶ社会の構成員として、普遍的人権の尊重の視点で、この社会で何が尊重されるべきかの視点で、もっと語られるべきなのである。

確かに、ヘイトスピーカーたちは、罵声を浴びせられる側の心情に「想い」が至らないから、実際にその行為に至っているのだし、現在日本社会の広範に亘って、民族差別に対してあるべき規範意識が霧消麻痺し、挙句に加害者たる差別主義者に称賛すら与えられる現状にあっては、処罰を可能にする法制化は、この社会をこれ以上荒廃させないためにも、差別主義者に対する『特別予防』として、一定程度の抑止効果を確保することを、先ずは実現させなければならない、と思う。しかし、傍観者及び消極的な賛同者に対する『一般予防』という点、もう少し言うと、出自や、彼らが併せて攻撃対象にする性別やハンディキャップや年齢を根拠に人を排撃する行為を社会として許容しないというコンセンサスを広範に共有するという点で、いわゆる加害側犯罪者側の視点だけではなく被害者側被差別側の視点や想いを共有する、という手続は有効かつ必須である、と考えるのだ。

しかし今日の日本でヘイトスピーチにまつわる各種のアプローチを眺めて、その着眼に立って思考しているのは余りに少ない。(当たり前だが本人に選択の余地なく)日本で「チョーセン人」として生まれた、ただそのことのみで「死ね」だ「殺せ」だ「臭い」だと言われる、実際にその罵詈雑言を浴びせられている人間が、どれだけ心を痛め、時代に絶望しているか。自分に責任が無く、身に覚えさえ無いことで「特権」だ「寄生虫」だと、ネットだけでならまだしも白昼堂々街中で繰り返し罵られる人間の眼差しを、どのようにこの社会が受け取っているのか、そのことに対する着眼が、決定的に少ない。結果、マイノリティの保護や人権擁護のための議論のはずが、マジョリティの腹具合匙加減の議論に終始してしまっている。
だからこそ、私のような在日朝鮮人当事者が、それを伝え、現状に抗って行かなければならないと思う。

私はこんなことを思うたび、ある少年のことを思い出す。拙ブログにコメントを寄せてきた少年のことだ。HNけらすという名で2年ほど前にコメントを寄せてきた。彼はこう言った。http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20111207/1323288190#c1324019241

日本生まれの在日です
ぼくは今高校3年です自分の生い立ち、親戚たちの関係なんでこうなのか
一つも理解してない子供なんですが僕は自分が在日として生まれたことが死ぬほど嫌です
この関係を本当に断ち切りたいです。
でもネットを見ると在日は死ねだとか朝鮮帰れだとかっていう意見で溢れかえってます
僕は何もしてないのに。むしろ在日であることが嫌で仕方ないのに
日本で生まれたから日本人として生きたかった。

私は朝鮮人という出自を隠し恥じるのではなく、晒し受け入れる生き方に、親が導いてくれた。朝鮮人であることを誇ろうなどと思ったことは無いが、恥と思ったことも無い。ただ、受け入れている。しかし、我が同胞の中には、このHNけらす君のように、どうすることもできないこの運命を、恥じ、おのれの人生の最大の障害と捉え、必死に隠そうとし、苦しみ、嘆き、死ぬことさえ考える、そんな者が居る。彼に限らず、私はそのような人間とも多く出会ってきた。
前にも別の稿で書いたが、私は朝鮮学校で学んだが私の兄妹は公立学校に進路を取った。朝鮮人である出自が友人に知れるのを極度に恐れ、友人を家に招くときは事前に私の朝鮮学校の制服や教科書を隠し、普段「オモニ」と呼んでいた母親を「おかん」と読んだりして、とにかく朝鮮人とバレないように神経を使っていた。そんな兄の気も知らず、私が家の中で大声で「オモニ!」などと口走ったら、友人らが帰ったあとで殴られたりもしたものだった。
出自が原因で結婚が破談になった者も居る。朝鮮学校の制服やバイト先のユニホームの名札を見た瞬間喧嘩を売られた者も居る。本名で就職しようとしたら通名なら採用すると言われた者も居る。そして、ネット上で、週刊誌で、朝鮮人であることが罪であるように書かれ、顔の見えない人間たちが「死ね」「汚い」と自分の属性に愚劣な言葉を投げつけてくる。政府や地方自治体がそれに力を得て差別政策を打って喝采を受ける。週末には大都市で鬱憤晴らしのネタに使われる。こんなエピソードが自分と周囲で積み重ねられる。一つひとつが、朝鮮人で生きることを疲弊させていく。

どう考えても、日本の地で朝鮮人として生まれた『個』は悪くない。しかし彼、HNけらす君は、このような積み重ねで、追い込まれて行ったのだと思う。些細ながらも救いを求めて同じ属性を持つ私にコメントを寄せたのだと思う。私はそれを見て、ある種見当違いなことを吐いて彼の痛みを共有してやれなかったことを、いまになって後悔しているのだが、彼を含めた我々在日朝鮮人が、おのれの運命を呪わなくても生きていけるような社会を、我々と同じようにこの社会の様々な差別に抗っている方々と連帯しながら、求めていかなければならない。いま改めてそう思う。