今年最後の“極私的”更新 ― 祖父の死に思う
私には色々な顔がある。仕事場(純粋な日系企業)での「金さん」から始まって、在日社会での集まりでの「○○(名前での呼び捨て)」、ご近所さん相手の「○○(息子の名前)くんのパパ」、家庭での「アッパ(朝鮮語でお父さんの意)」と、色々ある顔を使い分けながら生きている。
しかし今年は、公私にわたって本当に色々あった。印象深い年になった。
先ず仕事場だ。4回目の異動で、いつも従前の経験が活きないような部署に異動させられるので、私はいつも「企業内転職」と呼んでいるのだが、今回の異動先は仕事の質、量共に本当にヘビーでアタマが煮える音が聞こえそうな程だ。いままで「忙しい」と言っていた部署は、本当は忙しくも何ともなかったと思えるほど忙しい。まぁ私も年相応に苦労させられるようになったということだろうか。
そんな中、私的にも大きな出来事があった。母方の祖父の死だ。享年九六だった。大往生だ。
祖父は、日本の朝鮮植民地統治の早い時期に、曾祖父と共に日本に渡ってきた。慶尚南道の自分の土地が日本当局によって収用され、出稼ぎに来ざるを得なくなったのだ。広島西部の朝鮮集落で、極貧の中でも養豚を興し、細々と生命を繋いでいたところ、原爆に被爆し、命からがら生き延びたのだった。
終戦は祖国朝鮮の解放を意味した。祖父はすぐに帰るつもりだったが、祖国は分断統治による軍政の混乱があり、日本の港では引き揚げようとする同胞の混乱が収拾せず、当分見送らざるを得なかった。戦争が始まり、いよいよ混乱を極める中、養豚の稼業も徐々に軌道に乗り、子供も多く抱えた祖父は、帰る意思は残しながらも、日本での定住を続けていた。
そんな中、祖父が力を注いだのが朝鮮総連での活動だった。朝鮮政府が戦災復興ままならぬ時から朝鮮学校への支援を行ったことに共感し、生まれた南ではなく北を祖国として恋慕し、娘たちを将来の朝鮮帰国に備えて朝鮮学校に送るとともに、自らも金日成の著作や祖国朝鮮の情報を貪り学んだのだった。韓国政府が在日朝鮮人を棄民扱いしたのに対し、朝鮮政府は根なし草の我々を海外公民として認め愛情を注いでくれる。祖父は地場の朝鮮集落の総連支部の非専従活動家として、専従活動家の面倒を見、たびたび祖母の営む焼肉屋に招いて腹いっぱい食わせ、私財を総連組織のために投げ打ってきたのだった。居間には金日成の肖像画、書棚には金日成の著作、読みかけの本の栞には若き日の金日成将軍の写真…そんな祖父だった。
そして朝鮮への帰還事業が始まる。祖父の住む朝鮮集落でも多くの同胞が我先にと帰った。しかし養豚がある程度成功し、集落を束ねていた祖父は、集落の同胞の世話を優先し、自らの帰還は後回しに考えていた。
そこに舞い込んだのは、先に帰った同胞からの窮状の報せだった。日常の生活物資もままならず在日同胞は原住民からの差別に喘ぎ、当局からの監視対象にされている、と。地上の楽園と言う情報は宣伝でしかなかった、という事実に愕然とし、自らが帰るのを躊躇い、日本での永住を選択した。しかし、引き続き集落に残った同胞の生活のために奔走し、私の母を含む娘たちを朝鮮人として育て切った。
笑えるエピソードがある。年に数回、総連の広島県本部主催で集会があるとき、当の朝鮮集落の支部にも動員がかかるのだが、祖父は集落の同胞をその集会に動員すべく、私財でバスをチャーターするのだった。バスの待機場所は祖父の養豚場の前だ。ところが朝鮮人の悪い癖で、同胞たちはみんな時間にルーズだった(※)。観光バスの運転手やバスガイドは出発予定時刻の10分前から養豚場の前で待つのだが、出発予定時刻を過ぎても殆どの同胞が集まらず、祖父は同胞の家を一軒一軒回って早く乗るよう促すのだが、どの家も「最後の人が乗ったら行くわ」的返答で一向に集まらず、いつも集まるのは集合予定時刻を30分以上過ぎてからだった。いつもこのような感じで、異臭漂う養豚場の前で待たされる訳だからバス会社の運転手等は堪ったものではない。ついに祖父に訴える。「すいませんが本当に出発する時間に呼んでいただけませんか?」
朝鮮政府にまつわる事件が続発し、最後には拉致事件が引き金になって、祖父は落胆の中肖像画を降ろした。その一方、最期の瞬間まで朝鮮人として誇り高く生きることを信念とし、娘が、孫が、正月のたびに帰ってきては「クァセ、アンニョンハシムニカ(あけましておめでとうございます)」と朝鮮式の大礼(クンジョル)をするのを、大層楽しみに余生を過ごした。祖父は朝鮮の両班として生まれた誇りを忘れず、街を歩くときは、いつでも身だしなみを整え、中折れの帽子を被り、背筋を伸ばして歩いた。いつもしっかり新聞を読み、本を愛した。
祖父が死んだ報せを受けて、私は嫁と息子を連れて広島に飛んで行ったのだが、そこに待っていたのは偉容溢れる祖父の遺影だった。「その日」のためにわざわざ写真館で撮って残した写真とのことだった。在りし日と同じく、背筋を伸ばし、キッチリ身なりを整えた、堂々たる風格の遺影だった。葬儀が終わった後、久しぶりに揃った親族一同で遺影と共に写真を撮ったが、親戚らの顔は一様に清々しかった。骨を拾い終わって帰ろうとする私に手渡されたのは交通費の入った封筒だった。祖父が自分の葬式に集まる子や孫を思って事前に用意していたお金だと聞いた。
最期の瞬間まで、自らのルーツを重んじ、子や孫の代がそれを尊び生きることを教え、子や孫の繁栄や安寧を喜んでいた。私は祖父の尊んできたものが私の子の代まで受け継がれている、世代継承の遙かなる営みに想いを馳せた。棺桶に入る寸前まで、子や孫へのささやかな気配りを忘れない堂々たる人生に涙した。
年が替わろうとするこの瞬間、いま改めて先祖の歩みに生かされていることへの畏怖と、子の代に何を受け継がせるべきかをしっかり考え与えなければならない責任とを実感しながら。
合掌。
(※)私が朝鮮学校の現役生徒の時代、とにかく時間にルーズな朝鮮人のこの性質を、自虐気味に『コリアン・タイム』と呼んでいた。とにかく集会とか行事とかがタイムスケジュールどおりに運ばないのだ。まず開始時間が30分以上遅れるのはザラで、開始から1時間以上経っても幾らでも参加者が集まってくる。若き日の私は総連に動員されて時間どおりに揃っているのに、ある程度歳を取った同胞らがお決まりのように遅れて来るのが腹立たしくて仕方なかった。今では世代交代が進み、集会や動員の類はほぼ時間キッカリに始めキッカリに終わるらしい。当然と言えば当然なのだが、「やればできるもんだ」と思っているのは私だけではないだろう(笑)