在日に対する「あなたはサッカー日韓戦で日本と韓国のどちらを応援しますか?」に回答する
もうすぐワールドカップが開幕する。我が人生の中では短期間ながらサッカーに関わったこともあり、楽しみな1ヶ月が始まる。寝不足と仕事への影響が心配な1ヶ月だ。
ところで、W杯に限らず、スポーツの国際大会では、たびたび日本と韓国、あるいは朝鮮とが対戦することがある。
これに乗じて、あるいは全然脈略の無いタイミングで、「在日朝鮮人のあなたは、日本と韓国(朝鮮)、どちらを応援するのですか?」と尋ねられることがある。
リアル社会でも何度かあるが、拙ブログのコメ欄でこの質問をぶつけられる頻度が格段に高い。
私に言わせれば、「どっちでもえぇやん」なのだが、(リアル社会なら話は別だが)ネット社会で訊かれた時は「なぜそのような質問をするのですか?」と逆に尋ねることにしている。
スポーツのどのチームを応援するのかは、本来自由なものであるのに、何故にたまたま見つけたであろう在日朝鮮人のブログ主にそれを訊いてどうしたいのか、私には分からないからだ。
選択が自由なこと、主観や嗜好に関することを、カテゴリーが違うことのみを理由に、マジョリティの立場からマイノリティに対して、立ち位置を表明させるという行為が何を意味するのか、想像が及べばいいのだが、なかなかそうはいかないらしい。
「日本と韓国(朝鮮)、どっちを応援するのか?」には、「お前はニッポンなん?チョーセンなん?どっちなん?」という他者を選別忌避排除する要素を大いに含む。
この類の質問には、マジョリティがマイノリティを試し、仕分け、回答によって「同化」か「除斥(≒チョーセンは帰れ)」を選択し適用する、という図式が、非常に分かりやすく浮かぶ。
少なくとも、私や、ある程度の経験(笑)を積んだ在日朝鮮人にしてみれば、質問者の、潜在あるいは顕在の意識が透けて見える。
だから私は、「予防線」として聞き返す。「なぜそのような質問をするのですか?」と。
加えて、私の主観や嗜好に過ぎない応援チームをひけらかすという行為を、公開のネット上で行うという所業は、受け手や傍観者の感度によっては、思わぬ方向に培養される危険性を孕んでいる。
私は私個人であり在日朝鮮人一般を代表したり平均を取ったりする能力も資格も無い。しかし視野狭窄なネット民に捕まれば、「在日朝鮮人」一般の意見と記号化され、「在日朝鮮人がこんなことを言っている」「これだからザイニチは」「気に入らないなら帰れ」などと、新たなザイニチ叩きの燃料となることも容易に想像できる。
従って、いい大人である私は、どこの誰だか分からない、このような質問を投げつけてくる者に、無責任に自分の主観を晒すのは避けてきた。
その意味でも、「予防線」を張る。「なぜそのような質問をするのですか?」。
少々前置きが長くなったが、
このような心配事は付きまとうが、まぁしかし、賢明な訪問者諸氏なら「私の個人的主観」だと言わなくても理解するだろうし、少し思うところを書いてみようと思う。
○「誰/どこを応援するか」というのは、結局のところ『思い入れの強さ』が関わるのだと思う。
私はスポーツ観戦は基本的に何でも好きな人間で、種目問わず結構何でも観るが、例えばNBAやスペインリーグのサッカー等なら、純粋にスポーツとして、どちらにも肩入れすることなく観るだろう。どちらのチームにも特に『思い入れ』が無いからだ。
しかし、日本のプロ野球やJリーグならそうは行かない。私は野球なら阪神だし、Jリーグならガンバ大阪だ。阪神は父がファンで小さい時から父の傍らで観ていた、ガンバはJリーグ開幕当初から地元のチームとして応援した、という『思い入れ』がある。
スポーツの対戦チームのどちらか一方に、より強い『思い入れ』があるから、どちらかに立って応援する。それが自然な姿なのだと思う。
○では、今回のワールドカップ、日本と韓国、どちらを応援するだろうか、自分に問うてみた。
拍子抜けする回答かもしれないが、「どっちも応援する」。
自分が生まれ育った郷里である日本、自分のルーツがある韓国、どちらも応援する。どちらも決勝ラウンドに進出すれば最高ではないか、と思う。
そう言えば、前回の南ア大会では、日本・韓国・朝鮮と3ヶ国も応援できて、在日同胞間では大いに盛り上がった。
○これまでに、野球のWBCやサッカーで日韓戦がたびたび行われたが、私はどちらを応援したか、振り返ってみた。
やはり、「どちらも応援していた」のではなかったか、と思う。
正直な話、ほぼ全ての選手の顔と名前が一致する日本チームのほうが、選手の特徴や生い立ちに対する『思い入れ』が強かった気もするが、韓国チームもやはり頑張ってほしい。
結局「どちらも応援する」という姿勢であったように思う。
○思うに、今回のW杯にしても、日本(韓国)生まれ・日本(韓国)育ちの・日本人(韓国人)なら、圧倒的大多数が日本(韓国)を応援するだろうが、「ルーツ」と「郷里」が分離している私のような特殊な人間は、そうは単純な図式には嵌らない。
私は「日本」でもなく「韓国」でもない、「ザイニチ」だ。どちらかを選択せよ、というのは、私にとっては元々無理な話なのだ。
他者を「我」と「彼」に分離し排斥することに喜びを感じるような者にしてみれば、いささか拍子抜けする回答だったかもしれないが、これが今の自分の率直な気持ちだ。
さぁ、もうすぐW杯が始まる。日本と韓国の快進撃に期待している。
(蛇足)サッカーの日朝戦に限れば、断然に朝鮮を応援している。
我々の代表である在日選手がチームに交じっている。彼らがナショナルチームの中心選手として堂々と胸を張って活躍する姿は、それはそれは誇らしい。『思い入れ』は半端無く強いことは言うまでも無い。
普段、ルーツや祖国を意識しても触れることが困難な我々にとって、祖国の代表として戦う彼らは、自らの人生観・祖国観を投影する対象でもある。私は、朝鮮対ブラジル戦のチョン・テセの涙が、未だに眼に焼き付いている。