いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

“JAPANESE ONLY”に思う。

浦和レッズ李忠成選手と言えば、数年前のアジアカップの決勝戦ロスタイムのボレーシュートを思い出す。鮮やかなダイレクトボレーがゴールネットに吸い込まれたのをリアルタイムで見て狂喜乱舞したのを今でも鮮明に覚えている。最近は日本代表にお呼びがかかっていないが、アグレッシヴでセンスの良い選手だから息長くこれからも活躍してくれるだろう。彼をはじめ多くの在日選手がプロの第一線で活躍してくれるのは、やはり同じ在日同胞として嬉しいものである。

そんな浦和レッズの試合が行われたスタジアムで、“JAPANESE ONLY”などという時代錯誤も甚だしい横断幕が張られた。こんな人種差別丸出しの横断幕が試合前からゴールネット裏のスタンド通路に掲げられていたのに、それを職員も把握していたのに、試合終了後まで延々張られ続けていたというのだから恐れ入る。さきのアメリカにおける“WHITE ONLY”“COLORED”と何が違うのか?嘆かわしい。

ネット情報に依れば、それを掲げたグループは「人種差別の意図は無かった」と言いつつ、「ゴールネット裏は我々の聖域でそこに最近外国人観光客が入ってきて統制が取れなくなっているから」などと弁解した。自らの行いを希釈しようと必死のようだが、外国人観光客を排除して『統制』を取ろうという発想自体が、愚劣な差別心の吐露から1mmもぶれない行為であるということすらも気づくことができていない。まったく哀れだ。
彼らがどのように詭弁を弄しようが、口や手から飛び出した表現をどのように他者が受け取るか、という着眼が、差別表現を語る上での肝だ。差別者側の抗弁は差別を希釈することには全くならない。在特会の連中が京都の朝鮮初級学校前で「チョーセン人をたぁたきだせぇー」「キムチくさいねん」などと叫んでおきながら「差別の意図は無い」などと嘯いても、ネトウヨ連中以外には誰にも相手にされない。

“JAPANESE ONLY”の横断幕然り、選手紹介時の李選手へのブーイング然り、かの日かのスタジアムで起こった事象を眺めるに、残念ながら現在の日本社会を覆っている『人権』や『差別』というものに対する感度の鈍さというものには、ただならぬ絶望感を覚える。確かにこんなことをする人間はほんの一握りだろう。しかし、このような差別事件が日本各地で頻発している事実、差別事件を起こす当事者に罪悪感や羞恥心が微塵も感じられず逆に確信的な意図が感じられるという事実、それを取り囲む市民の声が為政者やマスコミの目の節穴加減や感度の悪さにかき消されているという事実をもって、その絶望感は日に日に強くなっている。
オリンピックまであと6年ある。全世界の選手と観光客を迎え入れる前に、『差別』と決別するという市民の意思を見せるべきだと思うし、立法行政司法の決意も見たいし、世界的な監視の目も向けてほしいと思う(日本の為政者は伝統的に『黒船』には弱い)。

今回、Jリーグは浦和レッズに対し無観客試合の実施を課した。史上最も重い処分だという。FIFAの差別根絶の意思も踏まえたのだと思う。新大久保で差別主義が垂れ流されているのに放置している行政の体たらくに比べると、ではあるが、毅然と対応したものと一定の評価はできると思う。しかしそのことを、差別主義を日本中に垂れ流している当事者である官房長官の菅とかいう者が「迅速な対応だ」と評価しているというのだから、これは『ブラックジョーク』と解釈しても品が無い。「お前が言うな」である。

この事件に対する秀逸な論考を見つけた。概ね同意するので紹介したい。



「悪気のない?」差別こそ、ファシズムの温床ではないのか
五十嵐仁の転成仁語 3月14日(金)
http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2014-03-14

(引用開始)

「JAPANESE ONLY」(日本人以外お断り)
このような横断幕を、国際化が進んだ今日の日本において、サッカーの試合会場で眼にするとは、思いもよりませんでした。しかも、日の丸の旗と一緒に……。
この横断幕はスタジアム通路の浦和サポーター観客席入場口に掲げられ、通報があったにもかかわらず、試合が終わるまでそのまま放置されていたといいます。対応の遅さにも、呆れてしまいました。

これに対して、Jリーグは横断幕の内容が差別的だと判断し、横断幕を確認したあとも1時間にわたって撤去しなかった責任があるとして、レッズに対し始末書の提出を求めるけん責埼玉スタジアムで予定している清水エスパルスとのホームゲームを観客を入れないで行う「無観客試合」とする処分を下しました。Jリーグで無観客試合の処分が出るのは初めてで、これまでで最も重い処分になります。
当然のことでしょう。もっと厳しい処分が下されても良かったほどです。
実は、昨日、共同通信の記者からこの問題についての取材の電話があり、「全くとんでもないことで、許されない。厳しい処分が望まれる」という趣旨の話をしました。私のコメントが載った記事が、今日の地方紙に配信されることと思います。

この横断幕を掲げたのは3人で、「差別や政治問題化させる意図はなかった」と聴取に答え、掲げた理由については「ゴール裏は自分たちの聖地で、ほかの人たちに入ってきてほしくない。最近は海外のファンも増えているが、応援の統制が取れなくなるのが嫌だった」と話したそうです。本当でしょうか。
横断幕の写真を見ると、その横には日の丸の旗が付いています。「ほかの人」とは「日本人以外」を指していることは明らかで、外国人を排斥する意図があったことは否定できません。
サッカーの試合という非政治的でありふれた光景に、日の丸の旗と共に外国人を差別し排斥するような言辞が忍び込んできたということになります。日本社会の日常の中に、意識されることなく排外主義が浸透していることの現れであり、このような「悪意のない?」差別こそ、ファシズムの温床となるのではないでしょうか。

実は、悪意に満ちた差別も別の形で日常化しています。電車のつり革広告には、韓国や中国に対する悪口や罵倒の言葉が満ちあふれ、それはありふれた光景になっているではありませんか。
そのような光景を日常的に眼にしている若者にとって、外国人を差別したり他国や他民族を排斥したり貶んだりすることへの抵抗感が薄らぎ、知らず知らずのうちにそのような感情が内面化されていくのも当然でしょう。人権の無視や破壊であることを気づかず、軽い気持で人を踏みつけ、踏みつけていることにも無自覚であるという状況が、少しずつ生まれてきているのでないでしょうか。
人々の差別意識や歪んだ愛国主義に訴えて売り上げを増やそうとする週刊誌などの販売戦略がこのような風潮を強めています。それを批判し押しとどめるのではなく、愛国心教育によって加速させようとしているのが安倍首相の教育改革であり、首相自らが中国、韓国への敵対心を強める姿勢を取って緊張感を高めていることがこうした流れを後押ししていることは明らかでしょう。

本当に恐ろしい社会とは、日常生活の中で普通の人々が何気なく軽い気持で差別し、人権侵害を行うような社会です。人が人として扱われず、人権が尊重されず、異常が通常になり、国際社会での非常識が常識となるような社会へと日本が変貌しつつあることを、今回の事件が示していなければ幸いなのですが……。

(引用ここまで)



最後に少し長いが雑感を記す。

よく、拙ブログをたまたま見つけたであろう者が、「何で帰化しないんですか」「(少しの努力で)帰化すれば帰れとか言われなくなるのに何で朝鮮人のままでいるのですか」「朝鮮人のままで日本に対して文句を言うから差別されるのです」等と書き殴って去っていくことが、頻繁にある。その度に私は、
例えば私が帰化したとして、韓国籍であった私と日本籍となった私は書類上の差異以外には何も変わらない。それなのに前者の私は帰れと言われる理由があり、差別が是認される、というあなたの主張は理解しがたい。根拠を示してほしい』という趣旨の語りかけをするようにしている。それに対して膝を打つような返答を貰えたことは、今のところ無い(まともな返答ができない愚かな質問だと気付いたのだろうか、或いは元々捨て台詞以上のものではなかったのだろうか)。
李選手は元々韓国籍であったが日本に帰化した。馬鹿げた質問の主の言葉に従えば李選手の選択は歓迎され、「日本人」として、この国の主権者として差別されることなく人生を謳歌できるはずである。しかし今般李選手に向けられている排斥感情は、紛れもなく韓国籍朝鮮籍在日コリアンに向けられるそれと全く同質のものである。つまりは、我々在日コリアンは日本籍だろうが韓国籍だろうが朝鮮籍だろうが関係なく、差別主義者にとっては排斥の対象であることを物語っている。要は、差別主義者は我々チョーセン人の血を蔑んでいるのであり、書類上の記号がニッポンだろうがチョーセンだろうが全く無関係なのだ。

差別を私の解釈で平たく言うと、「多勢の自者と無勢の他者との差異を作り上げて、自者を優越の地位に置くか他者を低劣な地位に置くかして、他者を排斥すること」である。『差異を拵える』というのが差別の核心であると考えている。社会構造の中で、自分を『多勢の立場に置ける属性』を探し出し、自分を優越的地位に固定する。結果、優越的立場に居る者は、自分から劣後する立場にある他者を、幾らでも排斥することが許される。
差別主義者にとっては、他者との『差異』が重要なのであって、自分を優越的地位における『差異』は、それこそ何であっても良い。「性別」「障がいの有無」「犯罪者」「正規/非正規雇用」。社会構造の中での多勢と無勢、優越と劣後が自分の解釈の中で固定化できれば、何でも良いのだ。そして、その中での最たるものが「国籍の違い」「民族の違い」だ。多勢である「ニッポンジン」は「ザイニチ」を幾ら叩いても良い、少々やり過ぎても希釈免罪される、何故なら社会構造の中で『排斥されるべき人間』だからだ。
そして今日現在、日本各地で差別主義者が量産され、さして罪悪感や羞恥心を自覚することなく差別心を吐露し、賞賛すら与えられる状況にまで墜ちている。

このような差別主義の発想は、過去に世界各地で巻き起こった数々の紛争、帝国主義膨張主義の発端ともなり、考えようによっては諸悪の根源とも言える絶対的な悪である。人類は共有すべき普遍的な価値として『差別の根絶』を掲げ、あらゆる条約や宣言に盛り込んでいる。しかし日本の為政者はたびたびそれに背を向け、前近代的な『差別的な社会構造の固定化』を推し進め、事あるたびに日韓日朝日中のいさかいを誇張し、憎悪の扇動を競わせている。この国の為政者は人類が知性で積み上げてきた理想より、伝統的な価値観に横たわる感情に訴えるほうが効果が強く早いことを経験で知っている。日本社会の底流に存在する、アジア諸国に対する優越意識や、ケガレモノを排斥する選民思想を喚起し、社会構造のなかで同じ弱者であるはずの、例えば非正規雇用の若者などに、韓国朝鮮中国の具体物や構成員を叩かせることで、社会の矛盾や自らの失策に対する不満の矛先を逸らしている。
言葉を選ばずに言えば、日本の市民が愚民になるように情報や視点を制限し、あるいは操作し、愚民を扇動して弱者が弱者を攻撃するように仕向け、結果自らの地位や権益を保全しているのである。

我々は、そのような為政者の扇動に乗らないように注意しながら、人類の追い求めてきた理想、つまり普遍的な価値というものを学習し、その獲得のために批判的に社会を眺め、モノを申していかなければならない。そのような姿勢こそが、この社会の民主主義を育てるのだ。そう確信する。