いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

雑感:「差別語」と「差別表現」の区別がつかないで、どうやって差別やヘイトスピーチを議論するのだろう?

先日、NHKの番組で、女優の市原悦子さんが、まんが日本昔ばなしの、「やまんば」のキャラクターを愛する、というトークのくだりで、『片輪』『毛唐』という、いわゆる「差別語」を連発したことに関して、後でNHKのアナウンサーがお詫びのコメントを入れる、ということがあった。

(問題となったトークのくだりは、37:00ごろから、アナウンサーのお詫びは1:28:39ごろから)


聞けば分かることだが、市原さんは、いわゆる『昔話』のシーンの中で『片輪』や『毛唐』という「社会から疎外された人」が出てくる、それの典型としての「やまんば」を話しているだけで、現在の社会における障がい者や外国人を指して、『片輪』や『毛唐』と悪罵を投げているわけではない。
つまり、「差別語」を用いて話をしているが、(物語に出てくる人物を含めて)誰かを貶めたり下げたりという意図を持って話している、つまり「差別表現」をしているわけではない。
しかし、NHKに抗議の電話が入ったか、NHKの上層部が問題視したかしたのだろう、その言葉を用いたことが「体の不自由な方々や外国人の方々を傷つける発言だった」とお詫びコメントを入れるに至る。聴く側が意図を踏まえられないのか、「差別語」と「差別表現」の区別がつかないのか、奇妙な出来事だと思う。仮にも公共放送なのに、何とも稚拙なコトバの取扱である。


先の話を分かりやすくするために、私が思うところの言葉の定義を揚げておく。
「差別語」…ある属性の者、あるいはその集団を、貶める、侮辱する、排除する、という差別の意図を持って用いられたという『歴史』を持つ言葉。その言葉には『歴史性』が備わる、という部分が重要。
「差別表現」…ある属性の者、あるいはその集団を、貶める、侮辱する、排除する、という差別の意図を持って発せられた表現。差別語を用いるかどうかを問わない。


今回俎上にあがった『片輪』に始まり、『キチガイ』『チョン』『エッタ』などは、これまで被差別者が、そのコトバによって虐げられ辱められた歴史を持つ「差別語」である。この語を、その歴史性に無知・無頓着にして用いると、その虐げられた歴史を持つ属性の者あるいは集団は、そのコトバの持つ歴史性によって、そのコトバによって虐げられ沈黙を強いられたという、熾烈な差別がその場で再生産されることになる。つまり、少数者の側からすれば、そのコトバで責められ、生存権を奪われてきた、という歴史的事実及びその関係性が、そのコトバで甦るということである。「差別語」を使用するということは、この意味においてあってはならない。


しかし、会話や議論というものは、表現者の発する言葉にどのような意図があるかを踏まえなければならないのは言うまでも無い。
「差別語」を用いていても、差別の意図などまったく無く、逆に差別の現実を討っている場合もある。例えば漫画『はだしのゲン』には、『きちがい』『こじき』等といった、数多の「差別語」が登場する。しかし作者に差別をする意図などまったく無く、逆に戦争・戦災によって人間性が、人間の尊厳が、そして生命が、それこそ『虫けら』のように奪われていくことを表現し、それに反対するという姿勢で、一貫して描かれている。そこには描かれた当時、そして現在の『きちがい』『こじき』を嘲り嗤う意図などは、この作品を、『別の意図』で斜視しない限り酌み取れない。


差別に抗い、それを討とうとするとき、敢えてそのコトバを晒し、そのコトバの暴力性・不当性を問う、ということが、表現世界において時として選択すべきであることは、容易に想像ができるかと思う。しかし、日本では「差別語」が出た瞬間に、「タブーのコトバだ/抗議が来る」と一律に予防線を張って間引いてきた。これが、日本における差別問題への理解の後進性に一役買ってしまっている、というのが、私の理解である。


もっと言えば、醜い差別心の吐露たる「差別表現」には、差別語の有無は必須性の要素ではない。街頭におけるヘイトデモの、醜悪なシュプレヒコールとして、「日本が大っ嫌いな、クソチョンコ!おまエラは、今すぐ日本から、でぇていけぇー」というのがある。差別主義者が、自らのコトバの攻撃性の燃料として、敢えて「差別語」を多用することはよく知られているが、これを仮に「差別語」を全く用いず、やたら上品にして、「日本のことがお嫌いな、在日朝鮮人の皆様は、一刻も早く、祖国にお帰りくださいませぇー」とやり直したとしても、寸分狂いも無くそれはヘイトスピーチだし、差別の意図や、差別扇動の熱量が、塵ほども減じられることはない。極右論壇の登場人物たちも、言葉尻は上品であっても、吐く内容は差別主義排外主義そのものであったりするが、コトバ尻の上品さで、受ける側のダメージが減じられるわけではない。


別の例示をする。「朝鮮人」という言葉自体は朝鮮民族の構成員を指す記号でしかないが、この社会においては至る場面で『賤民』を指す象徴的記号として用いられている。
例えば、犯人不明の動機不可解な猟奇的犯罪が起こったとする。ネット上では早速「朝鮮人の犯罪のような気がする」的な見解で埋め尽くされる。程なく犯人が捕まって朝鮮人ではないことが明らかになっても、「あれは元在日朝鮮人」とか言い出す。この際「朝鮮人」は、「正常/異常」「日本人/日本人以外」の識別記号として使用され、『チョン』だのなんだのコトバにせずとも、この地に土着するエスノセントリズムが滲み出ている。一言とも「差別語」を使わなくとも、寸分狂わず「差別表現」であることは誰でも分かる。
逆に、『在日特権』などという、在日朝鮮人へのヘイトスピーチの典型のコトバをぶつけられても、それが出自を辱める意図ではないと、会話や議論のなかで理解できるものであれば「差別表現」ではない。例えば日本人の友人とコリアンタウンで飯を喰っていて、その友人が、「ザイニチのメシってほんまにうまいよね、こんなメシばっかり喰ってるなんてほんまに『在日特権』やね!」と言われて、怒りだすザイニチは居ない(これは実話でもある)。


差別批判の対象となるべきは、コトバの字面ではなく、コトバの意図である。
討つべきは「差別語」そのものではなく、差別や、その扇動の意図を持って吐かれた「表現」であり、そのコトバの背景にある、差別が蔓延る土壌、それを容認し親和性を保つ社会の意識である。
発話者の意図というのは、内面に迫れば自ずと透ける。
表層のコトバを狩るのではなく、差別主義者の内面から滲み出る、辱め貶めるというココロを問題にし、討たなければならない。


このことを理解せずして、差別やヘイトスピーチに向き合うのは、いささか思慮不足と言える。思慮の至らない差別考の行きつく先は、いわゆる「言葉狩り」とか「揚げ足取り」とか「屁理屈」とか。まぁ良いことはない。
今年の国会で、ようやくヘイトスピーチの法規制に関する議論が俎上に登るようになった。歓迎すべき動きではあるが、本稿に書いたような憂慮が、面子が面子だけに垣間見える。極右界隈と親和性の高いことを恥じようともしない安倍ちゃんとそのお友達内閣に、まともな議論ができるとも思えない。やはり理解ある市民によって、あるべき姿の探求が続かなければならない。