いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

「ニッポンは素晴らしい」に関するいち考察

サラリーマンである私は、ブログの更新はアタマとココロのキャパシティがある場合のみ、と決めているのだが、ここ最近は巡回もままならなかった。久っさしぶりに巡回に訪れてみると、毎年ながらの夏休みクオリティだ。まだ年端も行かないであろう新入りレイシストのオボッチャンとオジョウチャンが、『在日朝鮮人』の検索に引っかかってお越しになる。まぁ、見事に出来上がっている。これについての言及は、既にエントリーがあるのでそれに譲る。

毎年、夏休みになると、ビギナーネトウヨ在日朝鮮人ブログにわざわざ文句を垂れに来る件
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20140807/1407424211



久しぶりの更新だが、安倍の談話について書こうと思ったが、何が言いたいのか分からない余りにしょうもない言い訳がましい駄文だったので書く気が失せた。そのうち気が向いたら書こう。たまにはユルい話でも。

「ニッポンは素晴らしい」と、拙ブログのようなザイニチのブログのコメント欄に頻繁に書きにくる者がいる。巷では「日本が大好きな外国人が日本を続々訪問」だの「日本人妻が辺境の地に嫁いで尊敬されている」だの、「ニッポン大好き系番組」が幅を効かせているので、それに感化される者は量産されるだろうし、「ニッポンは素晴らしい」という感想を持つこと自体について特段の感想は無い。わざわざ拙ブログのような在日朝鮮人のブログにマーキングしに来るのはどうかとは思うが。
(もっとも、昨今のニッポンスゴいブームに乗るために、そのような結論を導けるような取材をして、摘まんで番組にしているのだから、「ニッポンってすごいんだ♪」という結論に達するのは当たり前なのだが。日本に親しみや好奇心を持っているのだから日本に来るのだろうし、現地人から広く軽蔑されている日本人妻など取材対象になるわけがない)
しかし、まぁ、たまには、ちょっとそのようなノリにノッてみて、韓国や中国と比較しての「日本の成熟度」を示す話を、いくつか書いてみる。



◆数年前、韓国に旅行に行った際に、テレビで頻繁に流れていたCMがある。

韓国の財閥であるヒュンダイ系の会社が、『ノーベルプロジェクト』という社会貢献事業を立ち上げたことをPRするCMである。
ナレーションを簡単に訳すと、以下のとおりである(筆者訳出)。
「昔は多くの子供たちが科学者を夢見ていました。ところがいつから子供たちは同じ夢ばかり見るようになったのでしょう。アイドルも必要だけれど、私たちには科学者がもっと多く居なければなりません。そこでヒュンダイモービスが『ノーベルプロジェクト』で科学の夢を再び育みます。子供たちに科学を返してあげよう。ヒュンダイモービス。」
韓国にとって科学分野でのノーベル賞受賞を輩出することは悲願であり、近年になって益々熱を帯びている。毎年のように、韓国民の候補者の名前を挙げ、その受賞可能性を分析し、そして毎年その悲願が打ち砕かれる、という図式が、それこそ毎年、韓国の新聞紙上で繰り広げられている。
近年多数のノーベル賞受賞者を輩出している日本の科学分野に対する比較分析もその論調に含まれる。「日本はこれまで約20人のノーベル賞受賞者を輩出したが、いまや韓国も日本に並び工業製品の輸出大国になったのに、未だに受賞者がいない、何が違うのだろうか」と。少々論旨は違うが本日時点で閲覧可能な記事をいくつか挙げてみる。ノーベル賞に絡めた隣国(旧宗主国)に対する対抗意識、やっかみや羨望の眼差し、というのは、『朝中東(朝鮮日報中央日報東亜日報)』と呼ばれる右系新聞で毎年秋に繰り広げられるおなじみの光景だ。
http://japanese.joins.com/article/329/191329.html
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2014100946238
(私は科学者ではないモロ文系の人間だし、その比較分析は専門家に任せればいいと思うし、評価は控えるが)近年の日本人受賞者の発生頻度を考えると、日本の大学や産業には科学分野でのノーベル賞受賞者を量産できるだけの積み上げ、基礎能力を持つ成熟期を迎えているということだろう。韓国のそれは日本に比べて、それには至らない、ということなのだろう。近い将来、韓国から科学分野のノーベル賞受賞者が輩出されることを、韓国民として願わないではないが、明治から脈々と積み上げられてきた日本の蓄積に、戦争で国土が破壊し尽くされ、数多の政情不安を経た韓国が追いつくのは、それこそ並大抵の話ではないと想像する。



◆日本と韓国・中国の『道路・トイレのキレイさ』は、街の成熟度を示していると思う。
日本も韓国も、繁華街やメインストリートはキチンと舗装され、行政やボランティアの清掃やメンテナンスは行き届いている。しかし一歩路地裏に入ると、その違いに驚くことが多い。日本は路地裏であっても、下町であっても、道路の舗装、清掃、メンテナンスに遜色がなく、住民自ら清掃し、通りを往く人もゴミを捨てないなどしてそれを維持しているのに対し、韓国のそれはなかなか厳しいものを目にすることが多い。歩道は至る所が陥没し荒れまくっているし、ゴミ捨て放題ゴミ箱溢れ放題に出喰わす頻度も、日本のそれと比較して格段に高いように感じる。
海外旅行で困るのがトイレだが、日本は公共施設やスーパー・コンビニに至るまで、トイレのキレイさはピカイチだと思う。それに対し、韓国・中国のトイレ事情はなかなか厳しい。トイレットペーパーを水洗トイレに流せるのは日本くらいなのでそれはいいとして、トイレ・便器の清潔さに欠けるのに遭遇する確率が、日本のそれと比較して格段に高い。私はトイレの快適度には敏感なほうなので、海外に旅行や出張で出かけると、決まって便秘になる。紙も悪いのでトイレットペーパーは日本から携帯用を持って出るが、紙云々以前に生理的にダメ、ということが多いのだ。
数年前、中国河北省のある都市に出張に行く機会があった。私は中国語ができないので通訳ができる同僚の女性に同行の依頼をしたのだが、「絶対にイヤです、男性の通訳を連れてってください」と断固拒否された。何でそこまで言うねん、と思ったが、行ってみて、なるほど。空港からその都市までの道路事情がとてつもなく悪く一発で車酔いし、電力事情・水道事情も悪くホテルは停電&断水のダブルパンチ、下水道が普及しておらず工場のトイレは簡素な囲いの中に用を足すための穴が縦長に3本掘られただけの造りで、穴には堆肥がうず高く積み上がって異臭を放っていた。その穴にまたがって用を足すのはどうしてもできなかった。結果やはり便秘になって帰ってきてしまった。
思うに、道路という社会インフラが街の細部にまで整備され、トイレのような汚れやすい場所の衛生状態が維持される、というのは、社会及びそこに棲まう人々の成熟度を示すものなのだろうと思う。
日本はやたらに高額なことを除けば安心してタクシーに乗れるが、中国では道路事情と公共マナーとが相まって、それこそスリリングなどという月並みな言葉で言い表せるようなものではない事態に度々遭遇する。トイレも、日本ではほぼどこでも安心して使えるが、韓国や中国はそうはいかずコンディションの良いトイレを見つけたらとりあえずやっとかなければならない。この辺が、日本と、中国や韓国の成熟度を示す一端に思える。



私は、海外(私の故郷は日本なので当然にこのように記すが)で行ったことがあるのは、韓国・中国・朝鮮のみだし、常時情報を取っている国も韓国・朝鮮程度なので、比較のサンプル数が少ないのは割り引いて読んでいただくにしても、近隣他国と比較して、日本の社会というのは、成熟した社会であると思う。個別に見ていけば韓国や中国のほうが秀でている部分もあるのだろうが、全体として見れば、日本のほうが成熟した社会であることは(私個人の意見を脱しないが)言える。医療制度、社会インフラ、水道水の安全性、あらゆるものの時間の正確性と遵守意識、人々のモラル、順法意識、公共心、、、それらを眺めても同じような印象を抱く。



しかし、である。
このような日本社会の成熟度、先進性を他国と比較して、「日本人に生まれて良かった」と言う者がいる。「幸運/不運」という仕訳で判断すること自体が相当に邪だ。その同じ舌が「韓国人・朝鮮人に生まれなくて良かった」「カンコク人は何でこんなにバカなんだ」とやっている。
はて、こいつらは精子卵子の段階で選抜試験か何かをパスして、晴れて優良民族たる「ニッポン人」になったとでも言うのだろうか?こいつらの理解では、私は選抜に漏れて、仕方なく『二等国民/賤民』たるザイニチとして生まれ落ちたとでも言うのだろうか?私の生まれがたまたま『在日朝鮮人』という特殊カテゴリーの人間だったように、こいつらはたまたま日本人だったに過ぎない。全くの偶然で取りついた自らの属性をひけらかし、他者の属性に文句を付けて、何かモノを申したつもりでいる。
何の資格で他者の属性を辱め貶めているのだろうか。まったく理解できない。
近年の為政者や国粋主義者が描き重ねた、純真無垢完全無欠の『ニッポン/ニッポン人』に自らを重ね合わせ、フィクションの『清潔性/高貴性』にすがり、それを補強するものをせっせとかき集める。逆に韓国や中国については、汚い・劣っている・醜い(フィクションや誇張や偏見を大いに含む)事象や証拠をかき集め、そのそれぞれのコレクションを眺めて悦に入っている。しかも、『ニッポン/ニッポン人』が値上がりするもの以外は『カンコク』か『ザイニチ』に認定して枠外に追いやる訳だから、その思考回路の都合の良さは飛び抜けている。
例えば、拙ブログや他の在日のブログ、2ちゃんねる等の掲示板には度々、先に例に挙げたノーベル賞の受賞者数の差を引き合いに、日本人と韓国人の優劣貴賤を説こうとする御仁が表れる。「日本人は20人もノーベル賞受賞者がいるが韓国人はひとり、しかもインチキで獲った平和賞だけだ、韓国人にはノーベル賞は無理、こんな劣等民族が獲れる訳がない」と。しかしノーベル賞受賞者の多寡で民族の優劣を語るという発想自体が剥き出しの差別主義であるし、例えばアメリカ合衆国ノーベル賞受賞者は優にその10倍を越えていたはずなので、この御仁の言説に従えば、日本人は米国人より遥かに劣るとんでもない劣等民族ということになってしまうが。誰に対しても失礼極まりない話ではないか。
自らのしょうもない自尊心の維持のために、自らと属性を同一にする何の脈略もない他者の功績を勝手にかすめ盗り、自分とは別の属性の者を貶めるために、これまた何の脈略もない者のところにわざわざ自分から出かけて行って因縁をつけている。ひとの手柄を勝手に振りかざし、それで勝手に勝負をはじめ、勝手に勝ち名乗りを上げている。自分を上げ、他者を下げるために。
迷惑どころの騒ぎではない。とにかく醜悪である。
そのような下衆で差別主義丸出しの言説を恥も無く曝け出す者が、その個人の人格・人となりを、他者がどのように見定め、蔑み、嘲笑うのかを顧みていないことが、根本の問題である。
「ナニ人」が偉大なのは分かった、お前個人はどうなんだ、醜くプライドの無い姿を晒して恥ずかしくないのか、と。
そしてこのような思考回路は、昨今の日本社会及び日本の政治シーン、教育界で跋扈している、歴史修正主義、強迫的愛国心と、根が直結のものである、ということは指摘しておかなければならない。