いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

ビジネス講習のディベートネタにレイシズムを使うって、どういう神経をしているのか?

サラリーマンである私は、企業内研修を受講する立場になることもある。流石に新入社員ではないのでビジネスマナー的な研修はもう流石に回ってこないが、例えば交渉術とか論理的思考力とか、外部講師によるビジネススキルの研修というのは、人事課から多頻度に「受けろ」と案内が回って来る。

スキルを与えてもらえるのはありがたい。しかしここ数回の受講では、教材の記述や講師の言動に、ビジネスはともかくとして、普遍的な価値観、即ち人権感覚とか互いの自尊心を尊重するとか人間としての基本的な価値に対して挑戦していることが目につき、とても気になっていた。私は、たとえ利益を追求するでも、そこに関わるひと同士、相手をいたずらに貶めたり、白を黒と言い包めたりというのは、いくら企業を代表して交渉し、看板を背負って名刺を切るとしても、決してやってはならないものだと考えてきた。松下幸之助の「スーパー正直」を信奉するようなピュアなビジネスマンなどでは決してなく、薄汚れた仕事も散々重ねてきた私だけれども、仕事に人間性を奪われてはならぬ、とずっと考えてきたから、正直何度かの受講で辟易していたのだった。

先日、その何度目かのビジネススキル講習があった。そこではディベートの実地講習ということで、あるいはの立場というのを、受講者がランダムに当てがわれ、その立場で理由提示をしたり反論したり納得させたりして、説得力ある交渉を行う、というものが行われた。自分の嗜好や主義主張とは関係なくがランダムに当てがわれ、それに基づいて即興でディベートを行い、最後に受講者全員の挙手によって、どちらに説得力があったかの投票が行われて対戦が終わる。個人の思想信条を脇に置いてでも会社の立場で交渉しなければならないビジネスマンとしては、一応は必要なスキルなのだろうか。よくわからないが。

最初は「旅行をするならA海外旅行か、B国内旅行か」「食べ盛りの息子をレストランに連れて行くならAバイキングか、B爆盛定食屋か」的な、和やかなネタで始まり、だんだん「早期定年制度の導入にA賛成か、B反対か」などとビジネスライクな設問に移行していったのだが、そんななか同僚に出された設問に、私は言葉を失った。

 

「これからの店舗スタッフはA外国人も採用すべきか、B日本人に限定して採用すべきか」

 

掲げられた設問は、一言で言えば人種主義・レイシズムを選択するかどうか、である。

店舗スタッフをガイジンだからと一律に間引くか、(まともな)ガイジンも採用していくか、という二者択一の設問である。こんなものは議論するまでもなく、結論は当たり前に瞬時に出る。国籍や人種で一律に採用を制限するなど、21世紀の社会、しかも先進国たる日本に属する企業(それも零細企業ではない)で、議論する余地があろうはずがない。ビジネススキルだディベートだ以前、常識以前の問題である。

 

それぞれの立場を当てがわれた同僚らによって、ディベートは始められたが、私はとてもまともに聞いていられなかった。自分も気づかぬうちに「ありえない」「余りに馬鹿げている」と独り言を重ねていた。周りの同僚も私の変化に気づいて心配していたが、根本的に何に私が怒っているのか理解していないようだった。

 

このディベートを、レイシズム側にも発言権を平等に与えて議論を深める、ということは何を意味するだろうか。

「日本人に限定して採用すべき」理由、「外国人は採用すべきでない」理由を、知的バックボーンもろくに無い人間が、いたずらに羅列することを意味する。何をどう工夫しても『選別主義』『人種差別主義』に帰結するしかない議論。それを軽々に。しかもガイジン(私)を前に行うことになる。たかがビジネススキル講習のネタとして。

実際を当てがわれた同僚が、ガイジン採用のリスクがどうだ、日本人だったら安心がどうだと、苦慮しながら、ではあるが愚にもつかない理屈を並べていた。まさかレイシズムの正当化を即興でさせられるとも思っていなかったようで苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。対戦は当然にに軍配が上がって終了したが、講師が「に説得力を持たせようと思ったら、これだけ小売業に外国人が増えている中で、ホスピタリティやおもてなしの視点から主張したほうがよかったかもしれないね」「日本語もままならず教育コストが増えるとか」などと、が勝つためのディベートの方策を得意げに解説して見せたが、ただ単なる差別の方便、である。

醜悪そのもので、その光景をまともに正視できなかった。

 

また朝鮮人が重箱の隅を綿棒でほじくり返してイチャモンをつけていると思われるかもしれない。しかし想像してほしい。これが仮に「障がい者も採用すべきB健常者のみ採用すべき」「A女性も採用すべきB男性のみ採用すべき」「被差別部落出身者も採用すべき被差別部落出身者は採用すべきでない」だったらどうか。これをディベートだ頭の体操だと切り分けてまともに進行できる人間がどれだけいるか。こんな愚かなディベートを掘り下げて選別・排除する理由をいたずらに積み上げることに何の価値があるのか。議論のネタなら、技術の試行なら、知的探求のための材料であれば、あるべき倫理観や踏み外してはならない常識も脇に置いていいのか。

 

私はそうは思わない。

 

この愚かな試みが眼前で繰り広げられていたとき、私は以前youtubeで見た、ある動画を思い返していた。https://www.youtube.com/watch?v=Pi2rHOhPZZ4


知的興味を培養していく過程で、痛覚が無い人間が頭を使って歩くという「気持ち悪い」CGを作った技術者に対し、宮崎駿監督が「私の知り合いの身体障害者を思い出す」「痛みに対する想像力が無い、極めて不愉快だ」「生命に対する侮辱だ」と喝破する場面である。ビジネススキルとか知的興味とかを追求して、人間性を失ったのなら、それに何の価値があろうか、と言っていると理解する。この怒りに、私もまったくもって同意する。

 

知識や技能を持つ者が繰り出すネタの、知性と想像力の無さに気づくことが多い。

差別主義をダダモレにして、それでもビジネスが大事だと胸を張る。

私はそうありたくない。御免被る。