いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

雑感:ガイジンと共存する気が無いのなら何故受け入れるのか?

今日、大阪国際女子マラソンをテレビでやっていて、ぼおっと見ていた。

終盤、アフリカの選手と日本の選手が一騎打ちになったが、アフリカの選手が先行し、日本の選手にはほぼほぼ勝ち目がない、という状況になった。それでもテレビは、その日本選手の過去の試合や生い立ちを取り上げながら、ほぼその日本選手のみをカメラで抜いていた。日本選手が遠くなっていくアフリカの選手を追いかけるさまを、日本選手の背中から前方に向けたカメラで抜き続けていた。『残念なことに』先頭のアフリカ選手がゴールテープを切るさまを5秒ほど映したが、再びカメラは日本選手にズームを向け、2位でゴールをしてからも、ほぼ当該日本選手に画面を割き、インタビューもアフリカ選手を差し置いて当該日本選手のインタビューを先に流していた。
遠い日本にわざわざ招かれて来て、クソ寒い中にもかかわらず1位でゴールテープを切ったアフリカ選手を満足に讃えることも無く、番組はほぼ日本選手のみにクローズアップして終わっていった。


大相撲初場所も、何年も綱を守ってきたモンゴル人の両横綱はそこそこしか取り上げず、日本出身(笑)横綱の充実ぶりがどうだということを場所前に散々取り上げた(残念ながら引退してしまったが)。優勝争いも、初優勝がかかるモンゴル人小結の何倍も、二連覇がかかる日本人関脇を持ち上げる論調であふれ、現場の歓声もモンゴル人小結の対戦相手に対するものばかりで可哀そうな限りであった。

 

思えば、大坂なおみ選手の全豪オープンテニスでの活躍に合わせ、スポンサーの日清食品がアニメで大坂選手を取り上げたが、明らかに白人に寄せたキャラで表現されており、瞬く間に批判が集中して取り下げられた。

 

スポーツの世界では、自国の選手に限らず、外国人選手も多数参加する。
誰それを応援するという次元で日本人を応援するのは勝手だが(身内びいきなのはどの国の媒体も一緒)、対戦相手たる外国人をリスペクトできないような姿勢はいかがなのかと思う。あくまでプロレスで言うところのヒール役でしか、外国人選手を捉えられないのであれば、それは相手に失礼だろう。

大相撲は国際試合でも何でもない。スポーツとして日本以外の普及も盛んではない。それこそ日本の伝統芸能(←と敢えて書く)に、日本語も何も分からずに身体一つで飛び込んできた外国人の若者たちが、ここ20年の大相撲の屋台骨を支えている。多くの外国人無しには立ちいかなくなっているのに、その現状をそれが悔しかったのか何なのかは知らないが、日本出身力士を待望し、日本出身力士がようやく活躍してくれた、と手放しで持て囃しているメディアというのは、どういう神経をしているのだろうか、と思う。

大坂なおみ選手の件などは典型だ。大坂選手が『日本人』であるから、その活躍や優勝を祝福するのであって、彼女が二重国籍だったり肌が褐色だったりという彼女の個性(日本人的でないこと)は露骨に切断しても良いと思っている。それが差別であるということに気づくことすらできない『世界的企業』。重症である。

スポーツを主催する、あるいは観る、映す目線として、スポーツには相手があり、相手も味方同様プライドや人生がある、という当たり前の前提を共有できていないことが多いのではないか、これでオリンピックをやるつもりなのか、冗談ではなかろうか、と思う。

 

 

 

翻って、昨年末、政治の世界を大いに盛り上げ、私がその政治に新たな絶望感を覚えたのが、外国人労働者受入拡充に関する、出入国管理法の改正法案だった。

安定の適当な審議による強行採決だった。安倍は立法機能を素通りすることなど屁とも思っていない。経団連の人件費削減のリクエストに応えるためにはなりふり構わず、というところだろう。慣れとは怖いもので、強行採決程度では既に驚かなくなってきた。

 

恐ろしいのは、この法案の中身がスッカラカンなことである。敢えてスッカラカンにした、と言っていい。ガイジンを単純労働者として大量に受け入れる、ということだけが決まっていて、その中身は省令で決めていく、という。そして、これらガイジンは移民ではない、という。雇用が(安い給料だから)安定しない分野にのみ調整弁として導入し、調整が済んだら帰ってもらうのだ、という。

 

外国人も人間である。機械を導入するかのように気に入らなくて取り換えるとかはできない(するかもしれないが)。子供を産むなとか恋愛をするなとかコミュニティを作るなとか、それは大きなお世話であり、不可能な話である。人間なのだから。

 

大量に流入した外国人は、その地域で、その種族で、コミュニティを形成するだろう。子供もどんどんできるだろう。親は子供に自らの文化や言語を授けようと思うだろうし、子供も日本社会と自らのコミュニティとのギャップに苦しみながら、日本人のそれとは違う自我を形成するなかで、それを欲するだろう。

 

皆まで言わなくてもわかるだろうが、外国人を労働力として受け入れるということは、この社会で根付き繁栄し死ぬということである。日本の産業界は上から目線で、外国人の人間としての営みを制限する気でいるようだが、絶対にそうはならないしできない。心配しなくてもコミュニティを形成するし、子々孫々繁栄するし、それに見合うだけの教育機関が要る(当然民族教育機関である)し、医療や公的扶助も、彼らの事情に特化したそれが新たに必要になるし、多文化共生や(外国人を含めた)基本的人権や民主主義に対する理解も、社会全体で進めていかなければならない。それを踏まえる気が無いなら、受け入れる資格が無い。

 

ところが安倍政権、そのことに想いが至らないのか、あるいはどうでもいいと思っているのか、現在に至るまで表立って触れようとしない。社会においても、多くの外国人が大量に流入したら、安い給料で単純労働を担うようになったら、どのような未来が待っているのかを想像しようともしない。

 

私の眼前には、非常にわかりやすい未来社会が広がる。それはサッサと切り捨てるつもりで無闇矢鱈に外国人を雇って収拾がつかなくなった労働市場と、低賃金競争でいつの間にか足元を脅かされる日本のサラリーマンたち、そして蔓延するレイシズムエスノセントリズムの空気、その期に及んで被害者ヅラする善良なる日本市民の皆様と、半笑いでそれを眺める私の姿、である(必ずそうなるから魚拓でも取っておいてください)。

 

外国から労働力を導入しようとして、その生活や人生を受け入れる気が無いのなら、最初から導入すべきではない。少なくとも現在の日本社会には、外国人との共存生活、多文化共生の価値観は浸透していない。それは既に100年以上前に、自国の都合で受け入れはじめた朝鮮人との共生に、未だにろくな回答を導いていないことからも明らかである。

 

誤読する者が多い(それほど国士界隈には短絡的な者が多い)から付け加えるが、これはガイジンを受け入れるな鎖国しろ、というバカげた主張をしているわけではない。外国人との共生は余程の未開の地でもない限り、避けられない時代的趨勢である。日本が先進国であればなおのこと、である。

つまらない自国優先主義・外国人嫌悪主義・宗主国根性・差別主義・選別主義を後生大事に抱えるのではなく、日本の民族意識や文化や言語は大事にしながらも、他国・他者のそれも隣人として尊重する思考の醸成と、日本に移住しようとする者を日本社会のメンバーとして受け入れる社会的インフラと法制度の構築に早急に取り組むべきであり、それに価値を持つ政治勢力を政治風景の中心に据えるべきである。少なくとも他国への嫌悪を煽って支持率を保とうと画策するような政治屋連中に、外国人を安易に受け入れる資格がないことは明らかである。