いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

雑感 ― 嫌い「である/になる」自由は当然ある。「嫌いだぁ」と叫ぶ自由は、、、無いこともあるよ。

私は大概のものは好き嫌い無く食べます。先日中国に仕事に行ったときには、取引先に食事に連れていってもらい、カエルとか何か分からないものとかいろいろ出されましたが、特に食べられないものは無く、普通に食事をできました。
しかし、私は生まれてこのかた納豆が大嫌いで、人生で2回しか食べたことがありません。
そのうちの1回が、私がトレーナーの立場で赴いた社員研修の会場で、朝食に出された紙コップ状の容器に入った納豆でした。食堂でこれが並んでいるのを見たとき、そして食事が始まり私を周りで割箸を手に手にみんなが納豆を掻き回し出したとき、私の脳裏を横切った言葉たちは(多少デフォルメしてるけど)おおよそこんな感じでした。
「おいおいここは関西やぞ、納豆嫌いが多いところで何でわざわざこれを出すんや?よりによってこんなもんを朝から出すなよ」
「みんな糸出しながら掻き混ぜてるけど、こんなんみんな食べれるんかなぁ?君らが食欲沸いとるのはわかるが、俺は完璧に食欲奪われとるぞ、これは軽いイジメやな」

明らかに食欲が減退している私を見て、同僚たちが言います。「金さん、それは食わず嫌いやから一度騙されたと思って食べて見てよ」と。勝手なことを言うものです。私の納豆嫌いは食わず嫌いなどではなく、子供の頃の初遭遇のトラウマで生理的なものです。身体が受け付けないのです。
半ば強制的な同僚の勧めで見様見真似で納豆を掻き回し口に運んでみましたが、やはり肉体が反射的に拒否反応を示し全く受け付けず、口からこぼれ出た納豆の粒とそれを追う糸がスーツにベットリ付く始末。最悪です。
「あんた達は納豆好きかも知れないけど、俺は嫌いなんだよ!食えないものはどうやっても無理なんだよ!強要するなよ!」という言葉が、口からほぼ出かかるところまでムカついたのですが、それを噛み殺し、ごはんを数口、味噌汁で流し込んで、そそくさと食堂を後にしたのでした。

ところで、
納豆が嫌いなことは当然他者に責められるような話ではなく、自分の内部の問題であり、自分の内部に留まる限りは、趣味嗜好をどうこう言われることも無いし、筋合いもありません。嫌いなものは嫌いです。同時に、他者の趣味や嗜好について、私のそれを引き合いに出してどうこう言って見下すような権利は私にはありません。私も勝手なら相手も勝手だからです。
もう少し深く考えると、こんなことが言えます。
大多数の人間が納豆を食っている場にわざわざこっちから出掛けて行って、自分は納豆嫌いだが、嫌いより好きのほうが良いことには違いないので、「こうやったら美味しく食べられるよ」的なアドバイスを授かろうとする、ということは、お互いが接近する機会であるから、相手がそのような姿勢を受け入れる限り、あってもいいでしょう。
そうではなくて、そのような場にわざわざ出向いて、自分の嗜好と違うから気に入らないから文句を言わせろ、などという稚拙ないさかいを振りに行くということは、普通に考えればいい迷惑で、招かざる客なわけで、許されないわけです。例えば、さきの例で納豆をみんなが食っている他のテーブルにわざわざ私が出向いて行って、「お前ら、こんなものを朝からよく食うよね、信じられないよ。お前ら臭いから研修には歯磨きして来てくれよ」などとほざくという行為です。恐らく場の空気は一瞬にして凍り、その場にいる全員が胸糞の悪い食事になるのは、想像に堅くないでしょう。
つまりは、いくら自分の納豆嫌いという嗜好が自由だとしても、その心情をTPO関係なく好き勝手に吐露していいわけではないのです。「○○が嫌いだ」というのは良心の自由です。内部に留まる限り当然に自由で他人の窺い知れない範囲なので侵されることもない。しかし「俺は○○が嫌いなんだよぉ!」と叫ぶなどという「表現」は、外部に発散された途端他人の心情と衝突する可能性があり、場の空気を変え、あつれきを生み、いさかいの種となりうることを知るべきなのです。嫌いという感情は侵されない(侵しようがない)が、その表現は他者の利益や感情とぶつかるボーダーラインとの兼ね合いで、制御し、制御されて然るべきなのです。

前フリがやたら長くなりましたが、翻って雑感です。
最近、「朝鮮人が嫌いなんだよぉ」「ゴキブリ朝鮮人は日本から叩きだせぇ」と街中で叫び回る行為を、「表現の自由」だと言って正当化しようという輩が増えてきました。おかしな話です。他人を侮辱する権利が保護され侵されない「野蛮」な国など聞いたことがありません。
・一部の日本人の「朝鮮人が嫌い」という嫌悪感情自体をとやかく言うつもりは無い。嫌いに至った経緯など知ったことではないし、いち在日朝鮮人の私に責任や原因があろうはずもない。勝手に嫌いになればいい。但し経験上その多くが無知と誤解に起因するもので、例えばリアルな在日朝鮮人との接触があれば容易に氷解するものではあるので、自分がその役割を果たせるなら、それはそれで良いことと思う。嫌いより好きのほうがお互い良い。
・かと言って、街中で「朝鮮人が大っ嫌いだぁ!」「ゴキブリ朝鮮人!」などと叫ぶ自由は無い。絶対に無い。誰しも差別感情剥き出しの嫌悪表現を聴かされるのは気持ちの良いものではないし、嫌悪感情をぶつけられ自尊心を大きく傷つけられたほうが、喧嘩を吹っ掛けるほうの自由のために、それを防御の機会もなくただ受け入れなければならない道理が無い。
・その表現行為は、多くの場合名誉毀損、侮辱という刑法の構成用件に該当しているし、事後には直ちに動画がアップされくだらないテロップ付きで肖像権を侵害している。しかしそれに対する責任については完全に放棄している。頭にすら無いようだ。責任を取れない表現行為なら最初からしないことである。

最近連中の「表現の自由」をカサにした行動が徐々にエスカレートし、挙句には、朝鮮学校や総連支部、水平社博物館など、本来その存在意義を肯定することを前提に、理解を深めるために来訪すべき場所にわざわざ出向いて喧嘩を売るという破廉恥行為に至っています。まさにみんなが納豆を食っているテーブルに納豆嫌いが喧嘩を売りに行く構図です。自分が相手を理解するつもりが無く、相手が自分の偏狭思想に迎合する可能性がないことを知りながら「おかしい」「話をさせろ」と無理を通そうとする。相手にはその批判(文句、言い掛かり)に取り合う義務も無いというのに。フレンチレストランにわざわざ行って、「ここは日本や和食を食わせろ」と無理難題言ってシェフを困らせるような、誠に味わい深いアホ行為なのです。

何某とかいう俳優の騒動を持ち出すまでも無く、昨今の韓流ブームは韓国の国家戦略も手伝ってはいるものの、多くの需要があって日本に浸透してきています。当然日本に住むすべての人が自然と受け入れられるなどある訳もなく、「合わない」と思うこともあるでしょう。受け入れるも受け入れないも自由です。K−POPが気に入らないならチャンネルを変えればいいし、韓国料理が嫌いならば食わなければいい。日本的なものにもっと触れたいのであれば、選んで触れたらいい。ここは日本なんだからいくらでも触れられるはずだ。しかし、韓流はじめ外国の文化を享受し尊ばんとする人々のなかに、わざわざ喧嘩を売るために入り込み、相手をキレさせて悦に入るという悪趣味は、恥を知るならば即刻止めるべきです。日本にはいろんな人がいるんだから、いろんな文化・嗜好があっていいじゃない?そこへの寛容性は社会生活によって色々なバックボーンの人たちと接触することで深まるものなのですが、ろくな社会性を持てず、知恵袋とコピペで居心地のいい思考回路を熟成してきた人間には、ちょっと難しいのかもしれません。
まぁ、もしも主義主張が自分と違うことで「叩きだせ」ると本気で思うのであれば、早速界隈の連中が先陣を切って日本の良識ある市民らの手によって叩き出されることを了とすべきなのですが、残念ながらそこまでの理解ができる連中ではありません。もちろん良識ある市民が「叩き出す」ことはありませんしね。私も界隈の連中が社会的に駆除される道を目指しますよ。

一応断っときますが、納豆に対して日頃からこんだけ憎悪心を燃やしているわけではないです。話をわかりやすくするためにデフォルメしてます。念のため。