いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

いま思うこと。

ブログ主、kinchanです。お久しぶりです。

もうかれこれ5年ブログをやっているので、エントリーが多岐に亘るので、検索に引っかかりやすくなっているのでしょう、それなりにコメントも入るようになりました。それなのに毎度巡回や更新が少なく、申し訳なく思います。こんな更新が恐ろしく不定期なブログに頻繁に寄っていただいている常連様、いつもありがとうございます。

このところ更新していなかったですが、第一には、
このブログは、ブログ主である私の、心と身体のキャパシティがあるときのみ更新、というスタイルでやっておりますが、最近それがまったく無いからです。サラリーマンは身体が資本ですので。拘束時間長いですし。すいません。コメントについては、最近ほぼ返信しておりません。これもまたすいません(余り返信の意義を感じられないのは元々返す気がありませんが)。
しかし、それ以上の理由があります。少し書いてみます。

在日朝鮮人問題を、日本社会の問題として可視化する、というのが当ブログを立ち上げた一番の趣旨でした。
為政者の選別・排撃の矛先が在日朝鮮人に向いている、この社会のマジョリティは、その非対称性ゆえに問題にしていないし、見えてもいないが、それはこの社会の問題であることに違いはないので、その問題の当事者自身が、それを可視化するために書いてきました。
在日社会とは日本社会の一部であり、在日朝鮮人の問題は、日本社会の問題の一部である』という考えからです。
『この社会は、何かオカシイぞ、いまは圧倒的なマイノリティであるザイニチが排斥対象だが、そのうちあなたたちにも矛先が向くぞ』と。

在日朝鮮人差別と障がい者差別、高齢者差別、女性差別、沖縄差別、挙げ出せばキリが無いですが、あらゆる差別は攻撃の対象は違えども『主義』は同根、というのが私の考えです。差別主義・選別主義・排撃主義というのは、ひとの属性をあげつらって「我」と「彼」に分け、少数者・弱者を貶める行動様式・思考回路ですから、多勢者の腹の虫、声のでかい者の匙加減によって、次々にその攻撃対象は変遷・拡大するものだ、と思っています。
根が繋がっている以上、『ある差別・選別・排撃』は、常に新たな対象を生み出すことを宿命とし、いずれいかなる者にも矛先が向くはずだ、だから我々は、あらゆるそれら攻撃に抗い、その『主義』を討たなければならない、と。この社会の一員として、この社会を良くするために、先ずは自分らの手の届く範囲で、その事象を可視化することを意図して書いてきました。

言い古された話ですが、『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』という有名な詩があります。ナチスが排斥対象を徐々に拡大していく過程で、自分に矛先が向いていないからとそれを傍観していたら、遂には自分に矛先が向いた。共に抗う者は既に駆逐されていて、周囲におらず、気づくのが遅すぎた、という話です。
在日朝鮮人だから差別はオーケー」ではないのだ、在日朝鮮人排斥に用いられた方法・論理は、そのまま他の差別に転用される危険性を感じないといけないのです。社会的排斥の最前線の当事者の声を、この社会の問題を眺める事象として見てほしい、と。そのような想いから書き続けてきました。



しかしどうでしょう。
現在のこの社会は、既に私が細々とブログを更新して警鐘を鳴らさなくても、一部の上記『主義』の者以外には、社会の劣化具合がとことん顕在化・可視化するところまで来ています。この社会は綻びどころか、止めどなく血を流しながらふらついている、ということが誰の目にも明らかになってきました。
民主党政権が失敗に終わってから、立憲主義法治主義を踏みにじっても屁とも思わない政治勢力が台頭してきて、法で予定している手続や議論をないがしろにし、次々と民主主義・人権主義を破壊して回るようになりました。
それは最初、政権発足直後の省令改正による朝鮮高校の無償化排除から始まりました。マジョリティからしたら小さな問題で、自分たちには関係が無く、「キタチョーセンの学校にカネをやるな」という集団ヒステリーに迎合した、『世間的には歓迎された』策でした。しかし私は、朝鮮学校生徒を政治のダシにする差別政策に憤慨するのは当然でしたが、同時に、法の精神を無視して差別政策を強行し、涼しい顔で言い訳を繰り出す為政者の厚顔無恥のさまに、この政権の本質、そして未来の暗雲を見たのです。

その後、この政権の行ったことは、私が書き連ねるまでもないでしょう。秘密保護法、派遣労働法改正、沖縄への蹂躙、そして安保関連法、、、人々の権利を侵害し、平和主義を脅かし、前近代復古主義とも言えるような愚策のオンパレードです。違憲と言われようが人権無視と言われようがお構い無しに、(議会の)少数派の意見を一顧だにせず、手続を放り投げて、悪法を次々と通しています。全国的に反対運動が巻き起こり、数々の有名人が声を挙げ、世論調査で「説明不足だ」「拙速だ」「違憲だ」という意見が大多数を占めても、「モチ喰ったら忘れる」と言ってのける始末でした。政権発足と同時にマスコミが懐柔され、まともな批判能力を持たなくなったこともまた、政権を援護していました。

それでもなお、この社会は、この為政者を追い出し、普遍的価値を追求するべく学習や観察を行おうという気概を持たない。
呑気な社会の空気を前に、危機感を共有できないのです。
こんなに分かりやすい危機状態でこうなのだから、私がこのブログで言い重ねる些細な「危機感」など、蚊の鳴き声よりも弱く、鴻毛より軽い。価値が無いのです。

現在のこの社会を眺めるうえで、私が感じるのは、とてつもない「脱力感」と「無力感」です。
数年前から、民主主義・立憲主義・人権主義が、これほどもわかりやすいカタチで破壊されているのに、この社会はどこまでも呑気であり、未だに内閣支持率は不支持率を上回り、国会は開かれずとも大した問題にはならず、あれだけ熱中した民衆の『怒り』はさっさと鎮まり、来年の国政選挙で現在の為政者を追放しようという気概が野党からも感じられない。
相変わらず為政者は、マスコミは、その支持者は、「カンコクガー」「ザイニチガー」と見当違いな敵を吊るしあげることに熱中するか、少数者や弱者を叩くことで仕事をした気になっている。このままでは恐らく、来年の国政選挙で、彼らはさらに大きなチカラを得て、差別主義・選別主義・排撃主義に磨きをかけるでしょう。

この期に及んで、私がブログで書くことなど、本当に何の価値も持たない。
それこそ、この社会は徹底的に堕ちないと、民衆は覚醒しないのではないか、と思っています。
例えば、現憲法自民党憲法草案の如く個人の権利が国家公権力の前にひれ伏すことを是とし、マスコミは戦前よろしく国家の広報機関と化し、当たり前のように「国益」のために身体の自由が侵され、学ぶこと一つひとつに国家がちょっかいを出し、個人の生き方一つひとつに「国家のために」「国民のために」と枕詞を付けなければ価値が軽んじられるような社会になって、はじめてようやく、この普遍的価値の『価値』を認識し、『墓碑』に成り下がったこの時代の良心的な書き手の文書を、先に述べた『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』を著した詩人のような心境で眺める日が来るのではないか。そう思っています。

暫くは休筆しようか、あるいは「社会派ブログ」的筆致ではない、ユルくて何の意味も無い戯言を書き連ねようか、いずれにしても「ザイニチ」当事者の声を挙げる価値を再認識できるようになるまで、いまのような筆致で書くのは止めておこうと思います。
また心変わりするかもしれませんが、現在の率直な心境です。

コメント欄は常に開放していますし、議論も自由に行っていただければと思いますが、また暫く留守にすると思います。
勝手をお許しください。

韓国領事館による在日分断・選別の愚劣

私は普段、自分自身のことを「在日朝鮮人」と称しているが、国籍上は韓国であり、大韓民国の旅券を所持している。何故「朝鮮人」なのかというと、私にとってルーツの地である祖国はいまは分断国家となっているが元々南も北も無く、民族としての総称としての「朝鮮」を使いたいというのが気持ちとしてある。また「韓国人」よりも「朝鮮人」のほうが下劣に聞こえ、反応次第で対話相手の腹のうちが見えるというのもある。だから「在日朝鮮人」と自らを称している。このことは本稿の本旨ではないのでこの程度にしておくが。
在日同士の繋がりでは断片的に漏れ聞こえてきていた話題であるが、どうやら本格的な流れになって来ているようなので書いておく。

韓国のときの政権によって、対在日僑胞政策が大きく変遷する。そのことによっては韓国渡航ができなかったり、韓国籍であっても旅券発給が受けられなかったり、僑胞生活に実害が発生する、ということが起こっている。
私の知るいくつかのエピソードを記そうと思う。個人的なエピソードを含み、一部団体名や地域名ははぐらかすがそこは了承いただいて読んでもらいたい。



■叶わなかった韓国渡航

韓国籍者は申請によって韓国パスポートが発給され、現地在住の韓国人と同じゲートを通ってすんなり韓国に入国できるが、国交の無い日本は勿論、敵国である韓国でも当然通用しない朝鮮パスポートしか持たない(そもそも旅券を持たない朝鮮籍者が圧倒的に多い)朝鮮籍者が、墓参とか学術上の招聘とかその他諸々、正当な事情を持って韓国に入国しようとする場合、どうするのかというと、一般的には、韓国領事館に日本の役所が発行した外国人登録証明書とかを提出して身元を確認してもらったうえで、渡航目的とかを証明して「旅行証明書(通称臨時パスポート・臨パス)」の発給を受けて渡航するのである。

十数年前、私の知人が属する朝鮮総連系の文化団体が韓国内の団体に招かれた。韓国のパスポートを持つ者の渡航には制約は無いが、朝鮮籍のメンバーの渡航が問題になった。朝鮮籍者は韓国領事館に赴き、招聘元の招聘状を示して「韓国民と在日僑胞との交流」を目的に渡航したいと理由を明示して旅行証明書の発給を申請した。
結果はYesだった。申請から旅行証明書の発給まで1週間程度だったという。窓口でも一つ返事で「いついつ来てくださいね」的な簡単な受け答えで、本当にすんなりと旅行証明書の発給を得て、韓国内での文化交流も成功裏に終えることができたという。
ときは金大中政権下で、南北融和ムードの中にあった。長らくイデオロギーの対立で閉ざされていた南北間(そして「北韓系」同胞にとっては日韓間の)境界が、ようやく取り払われ、寸断されていた人々の流れ、それに伴う対話や文化交流が活発になっていったのが、まさに金大中政権下での動きであった。いくら「北韓系」「朝総聨系」の在外僑胞であっても、正当な目的での韓国入境を拒むということはなかった。植民地支配による民族の大移動、解放と時を同じくしての領土分断、戦争、殺戮、家族離散…様々な紆余曲折を経た我が民族の苦悩や葛藤は、立場や依って立つ思想心情は違えど、南北そして海外の僑胞同士、共有しうるものであった。そして実際に韓国と「北韓系」の僑胞はそれまでの分断・断絶の時間空間を埋め合わせるように、数々の交流事業を企画し、多くの人々が閉ざされた境界を渡り、民族愛・同胞愛を行き交わしたのである。

ところが、近年、つまり、李明博朴槿恵という右派政権になってからというもの、同じように朝鮮総連系の団体が韓国の団体から招かれ交流を行おうとしても、状況は全く異なっている。
前掲の同じ朝鮮総連系の文化団体が、韓国内の別の団体から招待を受け、文化交流をするということが企画された。十数年前の経験があったので、同じような手続を踏むべく招聘状を出してもらい、韓国領事館への申請に赴いてみると、以前の時とは比べ物にならないほど詳細の「身元申述書」の提出を求められたという。事細かな経歴や家族構成、そしていわゆる「朝総聨」での活動歴、「北韓」への渡航歴、朝鮮学校での民族教育歴等を記入する欄があり、のっけから大きく躓いたという。

 参考:駐大阪大韓民国総領事館ホームページで紹介されていた朝鮮籍身元申述書の記入見本
 身元申述書%28見本%29.pdf 直

それらの書類を整えて再度赴くと、次には領事との面談が待ち構えていたという。そこでもいわゆる「朝総聨」での活動のことを根掘り葉掘り探られたらしいが、朝鮮総連の幹部でない、ただ朝鮮学校を卒業して、朝鮮総連系の文化クラブに属しているだけの当人からすれば、文化交流のために数日韓国を訪れるだけなのに何故にそこまで詮索されねばならないのか、皆目見当が付かなかったという。旅行証明書の発給可否の判断には最低1カ月を要するということだったが、数週間経ったところで領事館から電話連絡があった。結果はNoだった。
その報を聞いて、そこから私もいろいろと情報をあたったりしたのだが、どうやら朝鮮籍者の韓国渡航は、これまで各地の領事がそれぞれの裁量で判断していたところ、全て本国での判断となったこととか、「朝総聯」での活動歴がある者、朝鮮学校との関係を持つ者、すなわち「北韓系」と看做された者は、全て原則Noとする、というのが、近年の運用となっている、ということを知った。朝鮮総連の中央幹部、すなわち朝鮮政府の代議員となっているような者ならいざ知らず、ただ単に、いわゆる在日僑胞の二大大衆団体のひとつである朝鮮総連と関係を持っているとか、朝鮮学校で学んだとかいうだけで、一方祖国から「スパイ予備軍」「危険分子」の烙印を捺されるわけだから、当人らの韓国政府に対する幻滅加減というのは相当なものであったが、国が決めることだから個人がとやかく言って始まるようなものではない。当人らは断念せざるを得なかった。欠けたメンバーを他の者でフォローしつつ騙しだまし何とか文化交流自体はカタチにしたらしいが、渡航したメンバー、迎え入れた文化団体、双方に癒えぬ疵を残した出来事となってしまった。
(後日談として聞いた話だが、文化交流を終えてから程なくして、別の総連系文化団体から「よく実現できましたね」と驚きの便りが来たという。その文化団体は韓国領事館や韓国当局からの『圧力』によって交流会自体がキャンセルになったらしい)



朝鮮籍韓国籍の多難と思想教育

実は、私は幼少期は朝鮮籍だったが、国籍変更によって一家全員で韓国籍になったという経歴を持っている。ここで朝鮮籍というものの性格を一応説明すると、朝鮮籍者とは日本の朝鮮植民地化に伴い日本国籍とされていた朝鮮人のうち、朝鮮の解放後も引きつづき日本に居住した者が、日本から日本国籍を剥奪されて外国人登録制度の対象になったことに伴いつけられた便宜上の籍、つまり記号である。このうち、韓国との国交回復によって「韓国籍」が日本で認められ、韓国の国籍を取得した者は「朝鮮籍」から「韓国籍」となったが、それをしなかった者は「朝鮮籍」のまま残った。何故それをしなかったのかは、分断国家を認めたくないという者や、統一祖国を見るまでは一方国家に帰属したくないという者、朝鮮政府への支持あるいは韓国政府との敵対という意図で「韓国籍」を取得しない者など、それこそ様々なケースがあるが、我が家族がそれまで「韓国籍」を取得しなかったか理由は、恐らくこれが最も多いケースなのだが、「めんどくさかったから」である。そう、本当に面倒なのである。

その当時、韓国にも日本同様戸籍制度があり、韓国籍を取得するというのは、ニアイコール韓国での戸籍を整理するということであった。私の母は我が息子ら(つまり私や兄妹)と親子であるということを証明する「公的なもの」が何もない、ということが、大きくなっていずれ家を出て行くことを思うとやるせなくて韓国籍に変更したいと言い出したのだ。朝鮮には戸籍制度が無く、朝鮮総連には公的に家族事項を証明するような「領事館的機能」を果たす性格は無いし、当時日本の法律下でも外国人には戸籍が無かったから、『親子の証明』の為に韓国戸籍を整理しようということになったのである。

さて、戸籍を得るためには、祖父・祖母(つまり植民地下の朝鮮から渡ってきた在日一世)の戸籍を回復し、そこに父母そして私ら兄弟の戸籍をぶら下げる必要があるが、父母そして私ら兄弟は、日本の役所に出生届や婚姻届は出していても、韓国領事館にはそれら届出をしていなかったわけであるから、父母に関してはそれら届出事実から何十年も経ってから今更で出生届等を韓国領事館に出さねばならず、その為には届を出した役所(私の父母であれば広島西部の役所)に赴いてその当時に出した書類の写しを得て、それを翻訳しては韓国領事館に持参して届出事実を確認してもらう、という気の遠くなる作業を、家族全員分延々行い、果ては届出遅延の過料(一件12000円程度だったと記憶するが、通常出生後2週間以内に出すべき出生届を50云年経ってようやく出すわけだから仕方がないと言えば仕方がない)を支払ったりして、ようやく我が家族の戸籍は整理され、韓国籍となったのである。戸籍の整理には都合一年以上を要し、私の母はいまでもその苦労を話したりするが、ようやく家族全員の名が入った韓国領事館発行の戸籍謄本を手にして微笑む母の姿は、我が家族のいい思い出話である。

しかし、最近の「朝鮮籍韓国籍」の国籍変更は、事情が異なるようだ。戸籍整理のために日本の役所を巡って書類をかき集めないといけないのは同様だが、前述のケース同様に詳細な申述書を出さなければならないらしい。小学校から最終学歴に至るまで事細かに書かされ(つまり朝鮮学校での学習歴を掘り下げている)、勤務経歴、その役職、職務の詳細、交遊関係の詳細、いわゆる「朝総聨」歴も事細かに申述させられる。審査は領事館によって要する期間が異なるようだが、私の家族の時のように書類の不備が無ければフリーパス、という運用ではなく、いわゆる「危険分子」を排除するための、『実質を伴う』審査が、長くて3カ月を要し行われ、ひとによっては領事との面談もある。

長い時間をかけて審査され、韓国籍への国籍変更が認められた後も関門が残る。『大韓民国国籍取得説明会』と呼ばれる、朝鮮籍から韓国籍を取得した者専門の、「韓国籍取得の意味を理解し、韓国民としての義務を学習する」説明会への参加が義務付けられている。これは事情通の知人に聞いた話なので正確性がイマイチだが、中身はビデオ等を用いて、「朝鮮籍であったあなたたちはいかに愚かな選択を続けていたか」「韓国は韓民族唯一の正当な政府である」「韓国民となったあなたたちは朝総連と訣別しなければならない」「北韓はどんなにデタラメな政権で人権を蹂躙し云々」という、韓国礼賛以上に「北韓憎し」に凝り固まった思想教育の場であるらしい。その後『誓約書』を取られ(どんな中身かは分からない)、やっと領事館での手続は終わる。朝鮮籍だった者の思想や社会的背景を十分に把握し、しっかり『ふるい』にかけようという強い意志が垣間見える。



■「北韓系」僑胞は韓国旅券の取得・更新も大変だ

韓国籍になった後、海外渡航の機会があり、韓国領事館に旅券を申請しに行った。2000年ごろだったと記憶する。韓国戸籍謄本を手に、旅券申請書やら兵役免除の書類やらをいろいろ揃えて窓口に行った。その際、元朝鮮籍の韓国籍者だというのが照会で分かるのだろうか、窓口の担当者に口頭でこのような質問を向けられた。

窓口:「あなたの出身大学はどこですか」
私:「○○大学です」
窓口:「あなたの出身高校はどこですか」
私:「大阪朝鮮高級学校です」

それで質問は終わった。朝鮮学校出身であること、(修学旅行で)朝鮮に渡航した経験があることをもって、まさか旅券発給を拒否されることはないだろうとは思っていたが、予定通りの期日ですんなり発給された。質問の意図は分からないが、「北韓のスパイ」の可能性を探るというタテマエの形式的なものなのだろう、と思った。いずれにしても、まったくもって調査らしきものは何もなしに、韓国の旅券を手にすることができた。
ところが今の状況は、まったく異なるらしい。これまで見てきたと同様、「北韓」「朝総聨」「朝鮮学校」の陰を探り、選別忌避する性格になっている。その辺の実態を書いた記事を引用する(在日朝鮮人国籍選択が、専ら思想や所属に基づいていると思い込んでいるフシがあるのは気になるが)。



在日コリアンらにパスポート更新拒否、内部情報の提供要請――強まる韓国領事館の“圧力”
週刊金曜日公式サイト 2015年9月3日12:14更新
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=5455

(引用開始)

在日コリアンに対する韓国領事館の“圧力”が強まっている。朝鮮総聯在日本朝鮮人総聯合会)系の商工会の役職についている者に「役職を降りろ」と言ったり、北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)を訪問したメンバーのリストを渡すよう求めたりするケースが多いようだ。子どもを朝鮮学校に通わせる親には「なぜ朝鮮学校に通わせるのか、日本の学校に通わせろ」と指示したり、「大学は日本の大学に行くように」と進路先に言及することもあるという。領事館から諸々の指示をうけた複数の者たちの証言によると、多くの場合「(指示通りにしないと)パスポート更新できない」「これから不都合なことがおきるよ」と“脅し”めいたことを言われたという。
日本で暮らす在日コリアンの中には、朝鮮民族という立場を重んじる在日朝鮮人と、大韓民国(韓国)のパスポートをもち、韓国人として生活している在日韓国人とに大別される。しかし、韓国籍をもつ人がすべて韓国支持を表明しているわけではなく、ビジネスや海外渡航に制約が生じることから韓国籍は取得しつつ、朝鮮人として生きる人も多い。韓国領事館が“圧力”を加えている対象は、後者の人たちだ。
日本国内には朝鮮総聯系の商工会が各都道府県に百数十あり、それぞれの地域に暮らす朝鮮人の経済活動、市民活動を支えている。各々にいる会長、役員の数は1000人を超える。韓国領事館が焦点を定める一つがこの商工会の役職につく人間たちだ。商工会関係者はこう話す。
「韓国領事館は『総聯は反国家団体なのだから総聯とかかわっていると法律に抵触する可能性が出てくる』と言ってくることが多い。商工会の役職を降りなければパスポートを更新しないぞ、ともよく言ってきます。商工会の内部情報を提供しろと求めてきたこともありました。とりわけ若い世代が中心の青年商工会に対する圧力が強く、総聯の人的基盤を崩すことが狙いなのだと思われます」
【20年前の仕事にも言及】
横浜市に住む男性は2010年、韓国に留学している娘に会いにいこうと韓国領事館にパスポート申請に行くと、「総聯で働いたことがあるだろう」と言われたという。男性はたしかに20年前まで朝鮮総聯で働いていたことがあった。
領事館職員はさらに「働いていた期間の中で1年間、北朝鮮に行っていたはずだ」と続けた。さらに、5年前に他界した男性の父親の経歴や、兄の現在の役職など、次々に指摘したという。男性は「領事館職員は、私の家族の役職を正確に把握していました」と話す。
男性が「20年前のことを言われてもどうしようもない」と反論すると、職員はこう言ったという。
「シベリアに抑留されていた日本兵の中には、帰国後しばらくは何も行動をおこさず、25年たった後に(スパイ行為を)働き出した例がある」
1950年に勃発した朝鮮戦争は53年から「休戦状態」にあるが、北朝鮮と韓国の緊張状態は続いている。男性がこうした“尋問”を受けたのは、10年11月に韓国の延坪でおきた延坪島砲撃事件朝鮮人民軍と韓国軍による砲撃戦)の直後のことだった。
韓国領事館が韓国籍をもつ在日朝鮮人に“圧力”をかける法的根拠は国家保安法だ。48年に制定された治安法で、韓国内の共産主義者親北朝鮮派とされる人間を取り締まる権限を韓国政府に与えている。
それでも金大中政権(98年〜03年)、盧武鉉政権(03年〜08年)時代は今のような緊張状態にはなかったという声が多い。「ふたりの大統領は融和ムードづくりに尽力していたが、08年に李明博政権が誕生してから一気に圧力が強まった」というのだ。13年にはやはり保守派の朴槿恵大統領が誕生し、「韓国領事館からの圧力はピークに達している」と朝鮮総聯関係者は抗議の声をあげている。
小誌は韓国領事館に事実確認を求めたが、「この案件での取材はうけない」ということだった。
(野中大樹・編集部、8月21日号)

(引用ここまで)

旅券の更新拒否をタテに、「北韓系」僑胞に恫喝を加え、『実害』が発生している。旅券の更新でこれだけやられるのだから、新規取得だったらいかばかりか、想像に難くない。



これまで見てきたように、韓国の政権のスタンスによって、韓国籍在日朝鮮人に対する政策が大きく変遷する。
左派政権下では、南北融和ムードが醸成されることも手伝って、韓国と「北韓系」僑胞との間での交流も活発になる。韓国領事館での旅券発給も、寛容かつスムーズに事は進む。筋違いな「大きなお世話」やプライベートへの干渉や詮索は無い。
ところが右派政権下では、早速に「北韓系」僑胞に敵対的立場を鮮明にし、素性や交友関係を調べ上げようとし、国家保安法をタテに、日本での領事事務を使って恫喝・脅しを加え、結果、「北韓系」とされた僑胞は韓国内の家族に会いに行くこともできなくなり、韓国民と「北韓系」僑胞との交流もおぼつかなくなる。南北交流が頓挫するのと同質の動きである。

私は、韓国の政権が採るスタンスによって、在日の実生活が右往左往するのを様々見てきた。いつも思うことがある。
在日コミュニティの多くは、携帯する外国人登録証の国籍欄が「韓国」であろうと「朝鮮」であろうと関係なく、それこそ日本に帰化した「元ザイニチ」も含めて、共に語り、歌い、踊り、奏で、呑み、民族愛・同胞愛を交わし、人生を謳歌している。
しかしそこに分断国家の構図や国家間対立の構図を持ち込み、人々を分断しようとする勢力が現れる。「我」と「彼」を選別・分断しようと躍起になる。コミュニティは分断され、交流は打ち消され、対立や苦悩が広がる。

「融和」と「分断」、どちらが平和に近づき、どちらにコストがかからず、どちらが人々を幸せにするか。私には答えが明瞭に出る。
しかし今日も明日も、分断主義者はせっせと敵を拵え、枠の外に押しやることにあらゆる資源を費やしている。
そして、この「敵を作り、枠で囲い、選別して争わせ、貶める」という行動様式は、どこか間近で何度も見てきたお決まりの光景にも思え、私には既視感が拭えない。

フジ住宅差別事件 ― 典型的なヘイトハラスメント(20151003追記)

先に一応言っておくが、このテの事象(事件化されていない『ありふれたこと』という意味で)は掃いて余りある程あり、私自身及び私の周りの友人知人内では茶飲み話で出る程頻発しているような話であるが、今回、勇気ある女性の告発によって「氷山の一角」が明るみに出た。
ザイニチにはありがちな話ではあるのだが、その規模と手口が醜悪であるので、短く書いてみようと思う。

記事を3点引用する。



民族差別:職場で文書配布は精神的苦痛、勤め先に賠償提訴
毎日新聞 2015年08月31日20時00分(最終更新08月31日21時44分)
http://mainichi.jp/select/news/20150901k0000m040060000c.html

(引用開始)

◇大阪地裁支部在日韓国人の40代女性が3300万円求める
民族差別の文言を記した文書が職場で繰り返し配布され、精神的苦痛を受けたとして、在日韓国人の40代女性が31日、勤め先の住宅販売会社「フジ住宅」(大阪府岸和田市)と会長(69)に計3300万円の損害賠償を求める訴訟を大阪地裁岸和田支部に起こした。
訴状によると、女性は2002年からパート職員として同社に勤務。13年以降、「韓国の国民性は大嫌いです」「うそが蔓延(まんえん)している民族」などと従業員が記した業務日報を、会長が全従業員に配ったなどとしている。
女性は「韓国人などへの憎悪感情や差別意識を従業員に広める意図があるのは明らか。パワハラで人格権の侵害だ」と主張している。今年3月に大阪弁護士会に人権救済を申し立てたが、8月上旬に同社から退職勧奨されたという。
大阪市内で記者会見した女性は「自分を否定された気がして本当に残念」と訴えた。
同社は「訴状が届いておらずコメントできない」としている。【堀江拓哉】

(引用ここまで)



「社内でヘイト内容の文書を大量配布」従業員が会社を提訴
毎日放送ホームページ 更新:08/31 20:31
http://www.mbs.jp/news/kansai/20150831/00000051.shtml

(引用開始)

「韓国は嘘をついても責任をとらない」など、ヘイトスピーチに該当するような社内文書を配布され、精神的苦痛を受けたなどとして、従業員が勤務先の会社に損害賠償を求める裁判を起こしました。
訴えを起こしたのは、大阪府内の不動産建設会社に勤務する、在日韓国人のパート従業員の女性です。
訴状などによりますと、女性の勤務先では数年前から、業務内容とは関係のない書籍や新聞記事などのコピーが連日、社内文書として配布されるようになったということです。
配布を指導しているのは会社の会長で、業務日報には書籍などを読んだ社員の感想文を抜粋し、「韓国は嘘をついても責任をとらない民族性だと思った」などと書かれていました。
「『在日は税金を払わない』とか、自分の上司が『元から韓国、中国は嫌いで』というようなことを書いているのを見てショックを受けた。『売国奴』とか『国賊』とか、なんで会社でこんな言葉が飛び交うのかが分らない。」(提訴した女性)
女性は今年1月、会社に改善を申し入れましたが状況が変わらず、「社内文書で配布された内容はヘイトスピーチに該当するものであり、こうした行為はパワーハラスメントにあたる」などとして、8月31日、会社と会長に対し3300万円の損害賠償を求め、提訴しました。
訴えに対し会社側は「訴状が届いていないのでコメントは致しかねます」としています。

(引用ここまで)



ヘイトスピーチ」文書を社内で大量配布 パート社員が提訴
関西テレビホームページ 2015年9月1日3時12分更新
http://www.ktv.jp/news/date/20150831.html#0511952

(引用開始)

大阪府岸和田市の住宅メーカーで、いわゆる「ヘイトスピーチ」を含む文書が大量に配布され精神的な苦痛を受けたとして、在日韓国人のパート社員が慰謝料を求める裁判を起こしました。
訴えを起こしたのは、岸和田市の住宅メーカーのパート社員で在日韓国人の女性(40代)です。
訴えによると、住宅メーカーの会長は韓国人などへの差別的な表現、いわゆる「ヘイトスピーチ」を含む文書を数年にわたって全社員に大量に配布していました。
女性が会社側に改善を申し入れたところ退職を迫られたということで、女性はパワーハラスメントに当たるとして、慰謝料など3300万円を求めています。
【原告の女性】
「なんでこんなことを会社の中でされないといけないのか分からない」
会社側は「訴状が届いていないのでコメントできない」としています。


(引用ここまで)



典型的なヘイトハラスメントだ。欧米では「レイシャルハラスメント(Racial Harassment)」という呼称が一般的だが、日本では人種差別扇動を「ヘイト」と呼ぶことが定着しつつあるので、このように呼ぶことにする。

私の視点を説明するために、セクシャルハラスメントの症例を揚げることにするが、職場でヌードポスターを張り出したり、ヌード雑誌を配ったり、その感想文などが平気で流通するようであれば、それは典型的な環境型セクシャルハラスメントだ。

今般の記事や、まとめサイトhttp://matome.naver.jp/odai/2144104433160825901)をナナメ読みする限り、この会社では、会長主導で日常的に業務に関連性があるはずもない『嫌韓本』や排外主義を主張する雑誌などが配布され、その感想文が日報に載せられ、韓国をこき下ろすようなことを書き連ねることが奨励されていたらしい。典型的な環境型ヘイトハラスメントと言えるだろう。

何とも下劣な話だが、この会社のホームページを視て納得する。
https://www.fuji-jutaku.co.jp/
早速社長が、排外主義と反知性主義の象徴ともいえる青いバッジを得意気に付けてニッコリ微笑んだかと思えば(https://www.fuji-jutaku.co.jp/corporate/message.html)、別のページではいまや皇族嫌韓芸人となり下がった例の恥知らずが社長と対談している模様を取り上げている(http://yomiuri-osaka.com/fuji/)。
創業者は、育鵬社の教科書普及にご尽力され、社員を動員して各方面に働きかけを行っているとのこと。華麗なる公私混同である。

サラリーマンである以上(私も常日頃そうであるように)、空気も読まなければならないし、太鼓も叩かなければならないし、ゴマも擂らなければならない。しかし、絵に書いたような排外主義思想にまみれた経営陣が、おおっぴろげに自らの思想の布教活動を、職場の正業時間に持ちこんでくるわけで、付き合わされる従業員はたまったものではない。
そしてその活動によって、辱めを受け、貶められる当事者たる当該女性は、毎日生きた心地がしなかっただろうと推察する。視るのも吐き気がするヘイトスピーチが、職場で奨励されているわけだから。

この問題の最大の核心は、この会社の経営者と構成員が、セクハラであれば恐らく想像できたであろう被害者の苦悩を、圧倒的な非対称性を持つ「日本/非日本(韓国・ザイニチ)」の中では想像すらできずに放置され続けてきたことであろう。先の例に挙げた環境型セクシャルハラスメントの例に当てはめて考えてみればいい。当該女性の苦痛や苦悩がいかばかりであったかと。

加えて、この会社が既に「ヘイトクライム」と呼べる段階にまで踏み込んでいる可能性があることは同時に指摘しておかなければならない。当該女性は、再三会社に対する改善要望や、弁護士会に対する人権救済を訴えている。先月に当該女性はこの会社に退職勧奨を受けている。当該女性のヘイトに抗う声が、退職勧奨に繋がったことは想像に難くない。排外主義的社風がザイニチ従業員を合理的理由なく退職に追い込む、という犯罪的行為にまで垣根が低くなったものだと想像する。嫌韓の流布と奨励というヘイトスピーチという状況から進んで、具体的な迫害行為にまで及んでおり、「ヘイトクライム」とも言える深刻な状況に陥っている、と言える。

参考:ヘイトのピラミッド(http://archive.adl.org/education/courttv/pyramid_of_hate.pdf内のピラミッド図参照(英語))



(20150902追記)

この稿の冒頭、ザイニチにとっては「ありふれた話」だということを言った。
ネット上で紹介されている事象と、私自身のエピソードを紹介しようと思う。

(1)大学におけるレイシャル・ハラスメント
Whoso is not expressly included(関西学院大学金明秀教授の公式ブログ) 2015年5月27日06:35
http://han.org/blog/2015/05/post-156.html

(2)『きむさん』に対する露骨な拒否感
これは私自身の経験である。新卒採用で内定を得た会社から、入社に備えての関係書類が送られてきた。住所や氏名等個人情報を記入する欄の下に、『通名がある際は併記してください』と書かれてあった。私には『金○○』という名前しかない。出生と同時に親から与えられた通名は、使わないから(使わないと決めたから)外国人登録証からも削除した。それが「通名を書け」と、私のためにわざわざ様式を改訂してまで、そんな書類を寄越してきたのには閉口した。元々、朝鮮人の名前で最前線で仕事をさせてくれるような、国籍や民族で変な障壁を設けない場所でなければ入社しないつもりだったのに、入社前からこんな書類が送られてきたのだから、入社が不安で仕方がなかった。
その不安は入社早々に的中する。入社時研修のトレーナーから「お前、すごい名前やなぁ」と開口一番ヘラヘラと嫌味を吐かれ、配属先では何故『きむさん』なのか根掘り葉掘り聞かれ「帰化しないのか」「日本が嫌いなのか」と言われ、客からは「おぅ何でこんなところで朝鮮人が働いとるんや?日本人なめとったらあかんぞ」とケンカを売られたりした。私は入社初期の段階でこの会社に入ったことを心底後悔したりもしたが、そのような嫌味や差別言動を言うような上司や同僚が早々に転勤したり、運良く水の合うポジションに就けてもらえたり、何よりも仕事をする過程で私が奇人変人の類でないことが理解されて、何とか今でもその会社でやれている。事業展開で外国人の採用が増えたり外国との付き合いが増えたこともあるが、少しづつ『きむさん』に対する拒否感も薄れつつあるのかなぁと感じながら仕事を続けている。

私の周りの友人には「通名なら採用する」と言われた者や、スポーツや政治の日韓間の話題を吹っかけられてけなされた経験を持つ者、その他大小様々エピソードには事欠かない。
このような社会背景が凝縮されたようなエピソードがある。
朝鮮学校に子供を送る親である友人は、経営する会社では通名を使っている。彼の朝鮮民族としての自覚が人一倍あるように感じていた私は「本名で仕事しないの?」と彼に訊いてみたのだが、表情が一変した。そしてそれまでの会話では聞くことの無かった低い声で、ポツリと言った。
「お前な、朝鮮人にすんなり仕事をくれるほど、この社会は甘くないで」
そのときの彼の表情が忘れられない。



(20151003追記)

『ヘイトハラスメント裁判を支える会』が発足し、各種広報が配信されているので掲載する。

facebookページ:https://www.facebook.com/HateHarassment?sk=info&tab=page_info

twitterページ:https://twitter.com/HateHarassment

パンフレット(PDF):http://www.taminzoku.com/wordpress/wp-content/uploads/2015/09/7f5fd55eb4872c12b3908519ee9b27432.pdf

雑感だが、この稿を書く際、この愚行をレイシャルハラスメントではなく『ヘイトハラスメント』と書いた。一般呼称ではなく、日本で差別扇動を意味する言葉として定着しつつある『ヘイト』を使うことで、この愚行の醜悪性をより多くの方に共有してもらいたい、という思いだった。
今般『ヘイトハラスメント』という言葉を掲げて会が発足したことは、この会が、日本全国で展開されるアンチヘイト活動と歩調を合わせるにも意義があると思うし、支援の輪が広がりやすいと思う。会の名が体を表し、分かりやすくていいと思う。
今後も、何か動きがあるようであれば、追記するか新たに稿を設けることによって、側面支援ができればと考えている。

「ニッポンは素晴らしい」に関するいち考察

サラリーマンである私は、ブログの更新はアタマとココロのキャパシティがある場合のみ、と決めているのだが、ここ最近は巡回もままならなかった。久っさしぶりに巡回に訪れてみると、毎年ながらの夏休みクオリティだ。まだ年端も行かないであろう新入りレイシストのオボッチャンとオジョウチャンが、『在日朝鮮人』の検索に引っかかってお越しになる。まぁ、見事に出来上がっている。これについての言及は、既にエントリーがあるのでそれに譲る。

毎年、夏休みになると、ビギナーネトウヨ在日朝鮮人ブログにわざわざ文句を垂れに来る件
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20140807/1407424211



久しぶりの更新だが、安倍の談話について書こうと思ったが、何が言いたいのか分からない余りにしょうもない言い訳がましい駄文だったので書く気が失せた。そのうち気が向いたら書こう。たまにはユルい話でも。

「ニッポンは素晴らしい」と、拙ブログのようなザイニチのブログのコメント欄に頻繁に書きにくる者がいる。巷では「日本が大好きな外国人が日本を続々訪問」だの「日本人妻が辺境の地に嫁いで尊敬されている」だの、「ニッポン大好き系番組」が幅を効かせているので、それに感化される者は量産されるだろうし、「ニッポンは素晴らしい」という感想を持つこと自体について特段の感想は無い。わざわざ拙ブログのような在日朝鮮人のブログにマーキングしに来るのはどうかとは思うが。
(もっとも、昨今のニッポンスゴいブームに乗るために、そのような結論を導けるような取材をして、摘まんで番組にしているのだから、「ニッポンってすごいんだ♪」という結論に達するのは当たり前なのだが。日本に親しみや好奇心を持っているのだから日本に来るのだろうし、現地人から広く軽蔑されている日本人妻など取材対象になるわけがない)
しかし、まぁ、たまには、ちょっとそのようなノリにノッてみて、韓国や中国と比較しての「日本の成熟度」を示す話を、いくつか書いてみる。



◆数年前、韓国に旅行に行った際に、テレビで頻繁に流れていたCMがある。

韓国の財閥であるヒュンダイ系の会社が、『ノーベルプロジェクト』という社会貢献事業を立ち上げたことをPRするCMである。
ナレーションを簡単に訳すと、以下のとおりである(筆者訳出)。
「昔は多くの子供たちが科学者を夢見ていました。ところがいつから子供たちは同じ夢ばかり見るようになったのでしょう。アイドルも必要だけれど、私たちには科学者がもっと多く居なければなりません。そこでヒュンダイモービスが『ノーベルプロジェクト』で科学の夢を再び育みます。子供たちに科学を返してあげよう。ヒュンダイモービス。」
韓国にとって科学分野でのノーベル賞受賞を輩出することは悲願であり、近年になって益々熱を帯びている。毎年のように、韓国民の候補者の名前を挙げ、その受賞可能性を分析し、そして毎年その悲願が打ち砕かれる、という図式が、それこそ毎年、韓国の新聞紙上で繰り広げられている。
近年多数のノーベル賞受賞者を輩出している日本の科学分野に対する比較分析もその論調に含まれる。「日本はこれまで約20人のノーベル賞受賞者を輩出したが、いまや韓国も日本に並び工業製品の輸出大国になったのに、未だに受賞者がいない、何が違うのだろうか」と。少々論旨は違うが本日時点で閲覧可能な記事をいくつか挙げてみる。ノーベル賞に絡めた隣国(旧宗主国)に対する対抗意識、やっかみや羨望の眼差し、というのは、『朝中東(朝鮮日報中央日報東亜日報)』と呼ばれる右系新聞で毎年秋に繰り広げられるおなじみの光景だ。
http://japanese.joins.com/article/329/191329.html
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2014100946238
(私は科学者ではないモロ文系の人間だし、その比較分析は専門家に任せればいいと思うし、評価は控えるが)近年の日本人受賞者の発生頻度を考えると、日本の大学や産業には科学分野でのノーベル賞受賞者を量産できるだけの積み上げ、基礎能力を持つ成熟期を迎えているということだろう。韓国のそれは日本に比べて、それには至らない、ということなのだろう。近い将来、韓国から科学分野のノーベル賞受賞者が輩出されることを、韓国民として願わないではないが、明治から脈々と積み上げられてきた日本の蓄積に、戦争で国土が破壊し尽くされ、数多の政情不安を経た韓国が追いつくのは、それこそ並大抵の話ではないと想像する。



◆日本と韓国・中国の『道路・トイレのキレイさ』は、街の成熟度を示していると思う。
日本も韓国も、繁華街やメインストリートはキチンと舗装され、行政やボランティアの清掃やメンテナンスは行き届いている。しかし一歩路地裏に入ると、その違いに驚くことが多い。日本は路地裏であっても、下町であっても、道路の舗装、清掃、メンテナンスに遜色がなく、住民自ら清掃し、通りを往く人もゴミを捨てないなどしてそれを維持しているのに対し、韓国のそれはなかなか厳しいものを目にすることが多い。歩道は至る所が陥没し荒れまくっているし、ゴミ捨て放題ゴミ箱溢れ放題に出喰わす頻度も、日本のそれと比較して格段に高いように感じる。
海外旅行で困るのがトイレだが、日本は公共施設やスーパー・コンビニに至るまで、トイレのキレイさはピカイチだと思う。それに対し、韓国・中国のトイレ事情はなかなか厳しい。トイレットペーパーを水洗トイレに流せるのは日本くらいなのでそれはいいとして、トイレ・便器の清潔さに欠けるのに遭遇する確率が、日本のそれと比較して格段に高い。私はトイレの快適度には敏感なほうなので、海外に旅行や出張で出かけると、決まって便秘になる。紙も悪いのでトイレットペーパーは日本から携帯用を持って出るが、紙云々以前に生理的にダメ、ということが多いのだ。
数年前、中国河北省のある都市に出張に行く機会があった。私は中国語ができないので通訳ができる同僚の女性に同行の依頼をしたのだが、「絶対にイヤです、男性の通訳を連れてってください」と断固拒否された。何でそこまで言うねん、と思ったが、行ってみて、なるほど。空港からその都市までの道路事情がとてつもなく悪く一発で車酔いし、電力事情・水道事情も悪くホテルは停電&断水のダブルパンチ、下水道が普及しておらず工場のトイレは簡素な囲いの中に用を足すための穴が縦長に3本掘られただけの造りで、穴には堆肥がうず高く積み上がって異臭を放っていた。その穴にまたがって用を足すのはどうしてもできなかった。結果やはり便秘になって帰ってきてしまった。
思うに、道路という社会インフラが街の細部にまで整備され、トイレのような汚れやすい場所の衛生状態が維持される、というのは、社会及びそこに棲まう人々の成熟度を示すものなのだろうと思う。
日本はやたらに高額なことを除けば安心してタクシーに乗れるが、中国では道路事情と公共マナーとが相まって、それこそスリリングなどという月並みな言葉で言い表せるようなものではない事態に度々遭遇する。トイレも、日本ではほぼどこでも安心して使えるが、韓国や中国はそうはいかずコンディションの良いトイレを見つけたらとりあえずやっとかなければならない。この辺が、日本と、中国や韓国の成熟度を示す一端に思える。



私は、海外(私の故郷は日本なので当然にこのように記すが)で行ったことがあるのは、韓国・中国・朝鮮のみだし、常時情報を取っている国も韓国・朝鮮程度なので、比較のサンプル数が少ないのは割り引いて読んでいただくにしても、近隣他国と比較して、日本の社会というのは、成熟した社会であると思う。個別に見ていけば韓国や中国のほうが秀でている部分もあるのだろうが、全体として見れば、日本のほうが成熟した社会であることは(私個人の意見を脱しないが)言える。医療制度、社会インフラ、水道水の安全性、あらゆるものの時間の正確性と遵守意識、人々のモラル、順法意識、公共心、、、それらを眺めても同じような印象を抱く。



しかし、である。
このような日本社会の成熟度、先進性を他国と比較して、「日本人に生まれて良かった」と言う者がいる。「幸運/不運」という仕訳で判断すること自体が相当に邪だ。その同じ舌が「韓国人・朝鮮人に生まれなくて良かった」「カンコク人は何でこんなにバカなんだ」とやっている。
はて、こいつらは精子卵子の段階で選抜試験か何かをパスして、晴れて優良民族たる「ニッポン人」になったとでも言うのだろうか?こいつらの理解では、私は選抜に漏れて、仕方なく『二等国民/賤民』たるザイニチとして生まれ落ちたとでも言うのだろうか?私の生まれがたまたま『在日朝鮮人』という特殊カテゴリーの人間だったように、こいつらはたまたま日本人だったに過ぎない。全くの偶然で取りついた自らの属性をひけらかし、他者の属性に文句を付けて、何かモノを申したつもりでいる。
何の資格で他者の属性を辱め貶めているのだろうか。まったく理解できない。
近年の為政者や国粋主義者が描き重ねた、純真無垢完全無欠の『ニッポン/ニッポン人』に自らを重ね合わせ、フィクションの『清潔性/高貴性』にすがり、それを補強するものをせっせとかき集める。逆に韓国や中国については、汚い・劣っている・醜い(フィクションや誇張や偏見を大いに含む)事象や証拠をかき集め、そのそれぞれのコレクションを眺めて悦に入っている。しかも、『ニッポン/ニッポン人』が値上がりするもの以外は『カンコク』か『ザイニチ』に認定して枠外に追いやる訳だから、その思考回路の都合の良さは飛び抜けている。
例えば、拙ブログや他の在日のブログ、2ちゃんねる等の掲示板には度々、先に例に挙げたノーベル賞の受賞者数の差を引き合いに、日本人と韓国人の優劣貴賤を説こうとする御仁が表れる。「日本人は20人もノーベル賞受賞者がいるが韓国人はひとり、しかもインチキで獲った平和賞だけだ、韓国人にはノーベル賞は無理、こんな劣等民族が獲れる訳がない」と。しかしノーベル賞受賞者の多寡で民族の優劣を語るという発想自体が剥き出しの差別主義であるし、例えばアメリカ合衆国ノーベル賞受賞者は優にその10倍を越えていたはずなので、この御仁の言説に従えば、日本人は米国人より遥かに劣るとんでもない劣等民族ということになってしまうが。誰に対しても失礼極まりない話ではないか。
自らのしょうもない自尊心の維持のために、自らと属性を同一にする何の脈略もない他者の功績を勝手にかすめ盗り、自分とは別の属性の者を貶めるために、これまた何の脈略もない者のところにわざわざ自分から出かけて行って因縁をつけている。ひとの手柄を勝手に振りかざし、それで勝手に勝負をはじめ、勝手に勝ち名乗りを上げている。自分を上げ、他者を下げるために。
迷惑どころの騒ぎではない。とにかく醜悪である。
そのような下衆で差別主義丸出しの言説を恥も無く曝け出す者が、その個人の人格・人となりを、他者がどのように見定め、蔑み、嘲笑うのかを顧みていないことが、根本の問題である。
「ナニ人」が偉大なのは分かった、お前個人はどうなんだ、醜くプライドの無い姿を晒して恥ずかしくないのか、と。
そしてこのような思考回路は、昨今の日本社会及び日本の政治シーン、教育界で跋扈している、歴史修正主義、強迫的愛国心と、根が直結のものである、ということは指摘しておかなければならない。

雑感:「差別語」と「差別表現」の区別がつかないで、どうやって差別やヘイトスピーチを議論するのだろう?

先日、NHKの番組で、女優の市原悦子さんが、まんが日本昔ばなしの、「やまんば」のキャラクターを愛する、というトークのくだりで、『片輪』『毛唐』という、いわゆる「差別語」を連発したことに関して、後でNHKのアナウンサーがお詫びのコメントを入れる、ということがあった。

(問題となったトークのくだりは、37:00ごろから、アナウンサーのお詫びは1:28:39ごろから)


聞けば分かることだが、市原さんは、いわゆる『昔話』のシーンの中で『片輪』や『毛唐』という「社会から疎外された人」が出てくる、それの典型としての「やまんば」を話しているだけで、現在の社会における障がい者や外国人を指して、『片輪』や『毛唐』と悪罵を投げているわけではない。
つまり、「差別語」を用いて話をしているが、(物語に出てくる人物を含めて)誰かを貶めたり下げたりという意図を持って話している、つまり「差別表現」をしているわけではない。
しかし、NHKに抗議の電話が入ったか、NHKの上層部が問題視したかしたのだろう、その言葉を用いたことが「体の不自由な方々や外国人の方々を傷つける発言だった」とお詫びコメントを入れるに至る。聴く側が意図を踏まえられないのか、「差別語」と「差別表現」の区別がつかないのか、奇妙な出来事だと思う。仮にも公共放送なのに、何とも稚拙なコトバの取扱である。


先の話を分かりやすくするために、私が思うところの言葉の定義を揚げておく。
「差別語」…ある属性の者、あるいはその集団を、貶める、侮辱する、排除する、という差別の意図を持って用いられたという『歴史』を持つ言葉。その言葉には『歴史性』が備わる、という部分が重要。
「差別表現」…ある属性の者、あるいはその集団を、貶める、侮辱する、排除する、という差別の意図を持って発せられた表現。差別語を用いるかどうかを問わない。


今回俎上にあがった『片輪』に始まり、『キチガイ』『チョン』『エッタ』などは、これまで被差別者が、そのコトバによって虐げられ辱められた歴史を持つ「差別語」である。この語を、その歴史性に無知・無頓着にして用いると、その虐げられた歴史を持つ属性の者あるいは集団は、そのコトバの持つ歴史性によって、そのコトバによって虐げられ沈黙を強いられたという、熾烈な差別がその場で再生産されることになる。つまり、少数者の側からすれば、そのコトバで責められ、生存権を奪われてきた、という歴史的事実及びその関係性が、そのコトバで甦るということである。「差別語」を使用するということは、この意味においてあってはならない。


しかし、会話や議論というものは、表現者の発する言葉にどのような意図があるかを踏まえなければならないのは言うまでも無い。
「差別語」を用いていても、差別の意図などまったく無く、逆に差別の現実を討っている場合もある。例えば漫画『はだしのゲン』には、『きちがい』『こじき』等といった、数多の「差別語」が登場する。しかし作者に差別をする意図などまったく無く、逆に戦争・戦災によって人間性が、人間の尊厳が、そして生命が、それこそ『虫けら』のように奪われていくことを表現し、それに反対するという姿勢で、一貫して描かれている。そこには描かれた当時、そして現在の『きちがい』『こじき』を嘲り嗤う意図などは、この作品を、『別の意図』で斜視しない限り酌み取れない。


差別に抗い、それを討とうとするとき、敢えてそのコトバを晒し、そのコトバの暴力性・不当性を問う、ということが、表現世界において時として選択すべきであることは、容易に想像ができるかと思う。しかし、日本では「差別語」が出た瞬間に、「タブーのコトバだ/抗議が来る」と一律に予防線を張って間引いてきた。これが、日本における差別問題への理解の後進性に一役買ってしまっている、というのが、私の理解である。


もっと言えば、醜い差別心の吐露たる「差別表現」には、差別語の有無は必須性の要素ではない。街頭におけるヘイトデモの、醜悪なシュプレヒコールとして、「日本が大っ嫌いな、クソチョンコ!おまエラは、今すぐ日本から、でぇていけぇー」というのがある。差別主義者が、自らのコトバの攻撃性の燃料として、敢えて「差別語」を多用することはよく知られているが、これを仮に「差別語」を全く用いず、やたら上品にして、「日本のことがお嫌いな、在日朝鮮人の皆様は、一刻も早く、祖国にお帰りくださいませぇー」とやり直したとしても、寸分狂いも無くそれはヘイトスピーチだし、差別の意図や、差別扇動の熱量が、塵ほども減じられることはない。極右論壇の登場人物たちも、言葉尻は上品であっても、吐く内容は差別主義排外主義そのものであったりするが、コトバ尻の上品さで、受ける側のダメージが減じられるわけではない。


別の例示をする。「朝鮮人」という言葉自体は朝鮮民族の構成員を指す記号でしかないが、この社会においては至る場面で『賤民』を指す象徴的記号として用いられている。
例えば、犯人不明の動機不可解な猟奇的犯罪が起こったとする。ネット上では早速「朝鮮人の犯罪のような気がする」的な見解で埋め尽くされる。程なく犯人が捕まって朝鮮人ではないことが明らかになっても、「あれは元在日朝鮮人」とか言い出す。この際「朝鮮人」は、「正常/異常」「日本人/日本人以外」の識別記号として使用され、『チョン』だのなんだのコトバにせずとも、この地に土着するエスノセントリズムが滲み出ている。一言とも「差別語」を使わなくとも、寸分狂わず「差別表現」であることは誰でも分かる。
逆に、『在日特権』などという、在日朝鮮人へのヘイトスピーチの典型のコトバをぶつけられても、それが出自を辱める意図ではないと、会話や議論のなかで理解できるものであれば「差別表現」ではない。例えば日本人の友人とコリアンタウンで飯を喰っていて、その友人が、「ザイニチのメシってほんまにうまいよね、こんなメシばっかり喰ってるなんてほんまに『在日特権』やね!」と言われて、怒りだすザイニチは居ない(これは実話でもある)。


差別批判の対象となるべきは、コトバの字面ではなく、コトバの意図である。
討つべきは「差別語」そのものではなく、差別や、その扇動の意図を持って吐かれた「表現」であり、そのコトバの背景にある、差別が蔓延る土壌、それを容認し親和性を保つ社会の意識である。
発話者の意図というのは、内面に迫れば自ずと透ける。
表層のコトバを狩るのではなく、差別主義者の内面から滲み出る、辱め貶めるというココロを問題にし、討たなければならない。


このことを理解せずして、差別やヘイトスピーチに向き合うのは、いささか思慮不足と言える。思慮の至らない差別考の行きつく先は、いわゆる「言葉狩り」とか「揚げ足取り」とか「屁理屈」とか。まぁ良いことはない。
今年の国会で、ようやくヘイトスピーチの法規制に関する議論が俎上に登るようになった。歓迎すべき動きではあるが、本稿に書いたような憂慮が、面子が面子だけに垣間見える。極右界隈と親和性の高いことを恥じようともしない安倍ちゃんとそのお友達内閣に、まともな議論ができるとも思えない。やはり理解ある市民によって、あるべき姿の探求が続かなければならない。

朝鮮学校について、改めて親の立場で考える。

拙ブログのエントリーのなかで、恐らく最も読まれているであろう、『朝鮮学校について、親の立場で考えてみる。』をアゲて3年が経過した。http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20110906/1315331441
いままさに、今月から息子を朝鮮学校に送る親である私が、これを書いた3年前と比較して、息子を朝鮮学校に付託する上での、心境の変化や動揺や迷いがあるかどうか自問してみた。
正直、全くない。
むしろ、私のこの選択は正しいものだと、確信すら覚える3年間だった。
元に書いたものと性格が変わっているわけではないのだが、改めて、朝鮮学校について、親の立場で考え、残しておきたいと思う。



朝鮮人として育つための朝鮮学校

何故私は自分の息子を朝鮮学校に送るのか。答えは至って単純だ。
私も、私の息子も、朝鮮人だからだ。
日本に住む日本人は、何の不自由もなく「日本人」として育つ。自然と日本語を見、読み、書けるようになる。日本の風習や唱歌に触れ、慣れ親しむようになる。日本食を喰うことにも不自由は無い。
しかし日本に生まれた朝鮮人である我々は、朝鮮人として育つためには環境が必要だ。環境が無ければ朝鮮の文化、風習には触れることができないし、朝鮮由来の食事にもありつけない。
そして成長期にある子供にとって、『環境』の最たるものが、私は教育環境だと思っている。子供が活動時間の大半を過ごすのが学校であり、何を、誰から、誰と共に学ぶか、その環境が大事だと考えている。

日本の公立学校は、日本人のための教育機関である(いわゆる一条校の私立学校もそれよりは漏れない)。
在日朝鮮人のための教育を施しうる機関は(何校かある韓国学校を除けば)朝鮮学校しかない。
朝鮮語を日常のあらゆる場面で読み、書き、掲げ、自分のルーツの象徴である朝鮮由来の名前を堂々と名乗り、それを堂々と呼びあえる場所である朝鮮学校は、朝鮮人朝鮮人として育つための環境である。



■自文化を身に付けるための朝鮮学校

文化とは、その大部分が文字や言語を介して表現される。文化に触れるうえで、言語を習得しているかどうかは、その文化に対する理解、親和性を決定づける要素となる。理解できないものは、触れることも難しく、親しむことなどなおのこと難しい。コミュニケーションも然り。人とひととの交流は、言語を介して行われる割合がほとんどで、身振り手振りや空気読みが占める割合が前者と比較して少ないことは言うまでもない。
例えば、
我が息子がテレビの画面から流れてくる韓国の街中の風景、そこに並ぶハングルの看板、スピーカーから漏れ聞こえる韓国語のセリフを目や耳にして、「読めない文字の看板」「よく分からない外国の風景」「訳の分からないコトバ」を感じるのか、それとも「あれはキムチチゲの店だ」「自分のひいおじいちゃんが生まれ育った場所だ」と捉えられ、セリフの意味も理解できるのか。
あるいは、
韓国や朝鮮から来た旅行者から道案内や困り事で話しかけられたとき、たどたどしいながらも自分の習ったコトバでコミュニケーションを取って、在日嬌胞と本国人との、いわゆる同胞愛を行き交わすのか、それとも「あんにょんはしむにか」と挨拶する程度しかできないのか、日本人のフリをしてその場をやり過ごすのか。
これら例示で伝わるかどうかは、紡ぐ言葉が拙く自信が無いが、自分のルーツ由来の言葉や文化を、学習によって能動的に自分のものとして獲得し、ルーツの本元からは薄まったり変形したものであったとしても、それを他者に表現しうるものとして活用できるかどうか、これは自分のおのれのルーツと真正面から向き合ううえで決定的な要素となる、と考えている。

自らのルーツ発進の文化に親しみを持つことは、自らのルーツを肯定的に捉えるうえで、最も重要な要素のひとつだと思う。そのためにも先ずは言語をしっかりと習得させたい。朝鮮学校朝鮮語教育能力は概して高い。幼い頃に徹底的な学習によって獲得した言語的素養は、一生の財産になると考えている。



■運命を悲観しないための朝鮮学校

私はよく、ひとの属性のことを、値札や荷札などを意味する『タグ』という言葉で表現する。ひとが品定めをし、値踏みをする記号として、ある種の皮肉も込めて、これを用いている。
私や私の息子は、「朝鮮人」というタグが取りついた人間、という運命を背負って生まれ落ちた。
言うまでもないが、私はこの運命を選んだわけではない。しかし先天的に取りついたこの『チョーセン』というタグのみによって、ひとは好奇や軽蔑を向け、私個人の思想信条や行動様式まで、そのタグを見て勝手に決めつけようとする。私個人に取りついたタグを見つけては「ザイニチは○○だ」とレッテルを貼り付け、ザイニチ認定作業のみに熱中し、思考は停止し、自らに疑問符を挟み込む気もない。
『チョーセン』『ザイニチチョーセンジン』は現在の日本では最大級の蔑みの対象となるタグのひとつであり、問答無用の『負』の記号、『劣悪なものの象徴』に堕ちている。しかし、私が、あるいは私の息子が『チョーセン』であることは、当然すぎるほど当然に、自分は悪くないし、『チョーセン』という民族自体も悪いわけではない。
しかし、ネット上で、週刊誌で、街頭で、我々『ザイニチチョーセンジン』は、「反日」「臭い」「殺せ」「死ね」「生きる価値もない」「日本人に感謝しろ」「社会のゴミ」と悪罵を叩かれ、剥き出しの差別意識や嫌悪感の発露が手軽な娯楽に化し、優良コンテンツになり、それを開陳しながら練り歩くことを『表現の自由』と社会が認め、警察官が護り、それに抗う者は逮捕されている。挙句に、気づいてみれば政権中枢は排外思想にまみれた政治勢力に固められてしまっている。

この社会がここまでに劣化した際、この『チョーセン』というタグが取りついた者が、自らの運命を、呪わずに生きることはできるだろうか。この剥き出しの社会的な排除に対して、「自分に除け者にされる理由があるのではないか」「生まれてきた時代を間違えたのではないか」と思い定める人間がいても決して不思議ではない。「チョーセンジンは日本人より人間としてのランクが下なのか」「自分はただ日本で生まれただけなのに何の罪を背負っているのだ」と。40年程生きた私でも、現在の日本の状況に息が詰まるのだ。何の免疫も持たない我が息子が、程無く自分に『チョーセン』というタグが取りついているということを自覚した時に、「チョーセンジンをぶっくぉろせー!!」を見て聞いて、果たして自分の運命を肯定的に捉えることができるだろうか。
できるわけがない。

自分が何故にこのような運命を背負って生まれてきたのか、つまり『ザイニチチョーセンジン』という人種の誕生過程について社会的な総括がされていない(言い換えればザイニチ当事者自身に、自身の存在理由の説明責任が課されている)日本の今日の状況にあって、 当事者自身がそれをしっかりと学び、生きる武器とし、タグを攻め(責め)る者に、自分の言葉で語り、理解を取り付け、あるいは抗い、自らの立場を守ることは、この社会で、この運命とともに生きるための能力である。



■シェルターとしての朝鮮学校

上記のように、現在の日本においては『チョーセン』こそが負の記号の最たるものに堕ちている。「反日」「嫌韓」「売国」という知性の欠片も感じられないコトバが平気で流通するようになった。一時期より薄まったとはいえ『在日特権』デマもネット上では根強い。そして悪いことに『嘘も100回言えば』信じる者もいる。拙ブログでもそのような言説に毒された小学生が度々訪れては「在日は出てけ!」とか書き込んで去っていく。40手前のオッサンである私にとっては、クソガキの『月光仮面ゴッコ』を見るようで微笑ましい限りだが、免疫を持たない我が息子にとっては、笑いごとではない。我が息子がザイニチであることは紛うことなき事実であり、我が息子にとって『ザイニチは死ね』『ザイニチを殺せ』は、まさに自分自身の全否定に他ならない。

仮に日本の学校に我が息子を送ったとして、そのような排撃に無縁でいられるだろうか。何故にザイニチという人種が存在するのかを教わることもないクラスメートが、ネットや週刊誌、書店に溢れる嫌韓本、街頭に繰り出した恥知らずなレイシストの言説、果ては現状の政治勢力の右傾思考を真に受けて、我が息子をイジメの対象にしたり、つまらない諍いを吹っかけたり、(義務もないのに)日韓対立の代理戦争の相手を買って出るように挑発したり、などということが起こらない保証はない。いや、そのような事態は容易に想像ができる。
自分のルーツを探求するという学習が一定の成果を挙げ、自己のルーツを卑下する理由が無いことが理解できるまで、このような扇情的、反知性的言説や、デマやクソミソを撒き散らすような馬鹿げた連中に触れさせる訳にはいかない。その点、朝鮮学校は、少なくとも「朝鮮人だから」と排撃に遭うことはない。朝鮮学校は、我が息子の心が育つまでの間、我が息子を守ってくれるシェルターである。



■コミュニティとしての朝鮮学校

『ザイニチチョーセンジン』という、同じ運命を背負い生まれた学友と、ともに机を並べ、人生観や悩みも散々語りあいながら成長していく。在日朝鮮人が、自分の運命と真正面から向き合うことのできる環境、それが朝鮮学校だ。その朝鮮学校の卒業生らが、卒業後も学び舎に戻ってきて後輩らと交流を重ね、大人になったら教員や保護者として戻ってきて次の世代を支える。このように、朝鮮学校は世代を超えての民族的アイデンティティの継承に寄与しており、地域の在日朝鮮コミュニティの維持発展は、朝鮮学校の存在がカギを握っていると言っていい。
朝鮮学校でのイベント、例えば運動会や、納涼大会、バザーなどの催しは、地域の在日朝鮮コミュニティの住民にとっても貴重な同胞交流の機会となり、学校の卒業生や、卒業生でない地域の同胞も駆けつける。学校の施設は、近隣在日同胞のサークル活動の拠点としても利用され、おじさんソフトボールのチームや、おばさん合唱サークルなどが集まっては練習に励む。
このように、朝鮮学校は教育施設であると同時に、地域の在日朝鮮コミュニティの中心地である。



以上のように、私が、いち在日朝鮮人の親の立場として、朝鮮学校の存在意義を、思うままに書いてみた。あくまで私個人の考えである。
私がこのように書くと、「朝鮮学校にも悪いところがあるのではないか」などと書きに来る人がいる。「自分たちを美化し過ぎだ」と。
当たり前だが、朝鮮学校にも改善すべき点はたくさんある。しかしそれはどのような学校、組織にも言える話で、それぞれが関わるなかで、それぞれが改善のための行動をすればいい話で、朝鮮学校が完璧ではないこと、朝鮮学校に対し多種多様の意見があることは、それこそ幾らでも何とでも言える話である。果てはその「完璧でないこと」「自分の意見とは違うこと」を理由に、朝鮮学校への現在進行形の差別が正当化されたり、その差別性・犯罪性が希釈免罪されることは、まったく無い。
他にも「そんなに朝鮮が好きなら朝鮮に帰ればいいではないか」と言って落書きして帰って行く『おなじみの方々』も必ず現れるが、私がどこで住もうが、大きなお世話である。

ところで、
私は、ここで散々、「ルーツに根差した教育」「ルーツと向き合う」という具合に「ルーツ」を連呼した。種族的アイデンティティの涵養というのは、国際的な人権宣言やこどもの人権条約にも謳われた初歩的な権利であり、私も人格の根源に関わる重要なものだと認識している。しかし私の息子がそのことに価値を持たないこと、あるいは朝鮮学校を途中で辞めたり、在日朝鮮コミュニティと距離を置いたり、帰化したり、日本名を拵えて名乗ったりすることは、彼が『十分な知識と見識を持ち得た後に』そのような判断をしたのであれば、私はそれを尊重したいと思っている。しかし、そのような判断をするための知識・見識を持ち得るには、やはり「ルーツ」に触れるための教育を与える必要がある、と思っている。
元々、人間関係や社会性を構築する上で、言い換えれば同じ目的や趣味嗜好で協働したり理解しあったりする上で、「ナニ人か」「ナニ民族か」というのは、それ自体に価値があるわけではない。国籍や民族などというのは、重層な人間関係の前では「取るに足らない」ものである。しかし、そのような重層な人間関係や社会性が希薄であったり、瑣末な優劣や貴賤を競い合うような貧しく表層的な関係性しか構築できていない場所に、「お前の名前は…」「お前の肌の色は…」「お前の国籍は…」と、それが問題として『持ちだされる』。
よく差別者が自らの原罪を希釈する意図で「差別される側にも問題がある」と言う場合がある。大きな間違いであり勘違いだ。差別する「お前」が悪い、それが差別のすべてだ。アメリカ合衆国の多くの場所で黒人が差別されるのは「肌が黒いから」ではない。黒人は、自らが多勢であるアフリカ諸国では皮膚の色で差別されていない。多数者が少数者の「自分との差異」をあげつらって貶めるのが差別であり、米国における黒人差別は、多数者の白人が、皮膚の色という差異を『持ちだしている』のが原因である。多数者が何をあげつらうかを、少数者の側が選んで決めているのではない。多数者が、熱狂や鬱憤晴らしや都合付けの過程で、少数者との差異を、探し、見つけ、『持ち出している』のである。

問題は、それが『持ちだされた』時に、自我のそれを引っ込めるのではなくきっちりそれを晒したうえで、不当性・暴力性に抗えるか、それを差別だと明確に主張できるか、それができるかどうか、それこそが自らの人格を守るうえで、最も大事だと思う。そのために、少数者自身が、自身の立場から発進した、気づき・問題意識を持ち得るか、がその成否を分ける。朝鮮学校の教育は、その意味でも意義が大きい。多数者発進の、排除や選別が支配する教育が与える視座は、決して少数者の立場を擁護はしてくれないのである。
そしてそのように獲得した視座は、自らが多数者や強者の立場にあるときに(例えば障がい者に対する健常者、LGBTに対するセクシャルマジョリティー、女性に対する男性、貧困層に対する富裕層、等々)、少数者や弱者を慮る視座となって、彼ら彼女らと連帯し得る価値観となる。その視座・価値観・人権感覚を持ち得るかどうかは、この社会を豊かで多様性あるものに変え得る力になり得るかどうか、ということである。



長々と書いたが、いままさに朝鮮学校児童の保護者になった私が、いま思っていることを率直に書いた。私の息子が将来、自分の与えられている教育について考えるとき、この文章を見てどう思うだろうか。それは当然に、最終的には息子に委ねられるものだが、息子には真正面から向き合って、それを伝えたいと思う。そのために残した次第だ。

아이들아 이것이 우리 학교란다(子供たちよこれがウリハッキョだ)

朝鮮学校で広く愛されている詩を紹介したい。
『아이들아 이것이 우리 학교란다(子供たちよこれがウリハッキョだ)』という詩だ。

「ウリハッキョ」とは、「私たちの学校」という意味だ。
朝鮮学校の関係者は、他でもない在日朝鮮人のコミュニティが、作り、守っている、という自負と愛着を込めて、朝鮮学校のことをこう呼ぶ。これは自分の母校だけではなく、どの地域の朝鮮学校であってもそのように呼ぶ(例えば大阪在住の同胞が新しく起った京都朝鮮初級学校を「京都のウリハッキョ」と呼んだりする)。




아이들아 이것이 우리 학교란다

비오는 날엔 비가 눈내리는 날엔 눈이
때아닌 모진 바람도 창을 들이쳐
너희들의 책을 적시고 뺨을 때리고 할퀴고
공부까지 못하게 만들어도

아이들아 이것이 우리 학교란다
초라하지만 단 하나뿐인 우리의 학교
아이들아 이것이 우리 학교란다
니혼노 각고우요리 이이데스

큼직한 미끄럼타기 작은 그네 하나 없어
너희들 놀곳 없는 학교지만
조국을 떠나 수만리 이역에서 나고 자란
너희에게 조국을 배우게 하는

아이들아 이것이 우리 학교란다
서투른 조선말로 웃으며 희망을 품는
아이들아 이것이 우리 학교란다
니혼노 각고우 요리 이이데스

아이들아 이것이 우리 학교란다
초라하지만 단 하나뿐인 우리의 학교
아이들아 이것이 우리 학교란다
니혼노 각고우 요리 이이데스

아이들아 이것이 우리 학교란다
서투른 조선말로 웃으며 희망을 품는
아이들아 이것이 우리 학교란다
니혼노 각고우 요리 이이데스

니혼노 각고우 요리 이이데스



子供たちよ これが ウリハッキョだ

雨の日には雨が 雪降る日は雪が
強い風も窓から吹き込み
君たちの本を濡らし 頬を叩き 引き裂き
勉強までも できないように しようとも

子供たちよ これが ウリハッキョだ
みすぼらしいけど ただ一つの 私たちの学校
子供たちよ これが ウリハッキョだ
ニホンノガッコウヨリイイデス

大きな滑り台も 小さなブランコひとつ無い
君たちの遊ぶ場もない学校だけれども
祖国を離れ数万里 異郷で生まれ育った
君たちが祖国を学ぶための

子供たちよ これが ウリハッキョだ
たどたどしい朝鮮語で 笑い 希望を抱く
子供たちよ これが ウリハッキョだ
ニホンノガッコウヨリイイデス

子供たちよ これが ウリハッキョだ
みすぼらしいけど ただ一つの 私たちの学校
子供たちよ これが ウリハッキョだ
ニホンノガッコウヨリイイデス

子供たちよ これが ウリハッキョだ
たどたどしい朝鮮語で 笑い 希望を抱く
子供たちよ これが ウリハッキョだ
ニホンノガッコウヨリイイデス

ニホンノガッコウヨリイイデス

朝鮮語詩は韓国のサイトより引用し引用者にて一部修正、日本語訳詩は引用詩を元に筆者にて訳出。そのためYou Tubeサイト内の訳詩と若干異なる部分がありますがご了承ください)



私が現役の朝鮮学校の生徒だった時代には、正直この詩の存在すら知らなかったのだが、社会人になって、朝鮮学校に再び出入りし、現役の生徒や教師らと交流を深める中で、この詩が現在の朝鮮学校内で広く愛されていることを知った。私はこの詩の由来を知らず、特に印象的な『니혼노 각고우 요리 이이데스(ニホンノガッコウヨリイイデス)』というフレーズが、どのような背景でこの詩に込められたのか、分からなかった。誰の心情により生まれ、誰の口から発せられたのか。どのような時代に、このコトバが世に出たのか。

それを辿るために色々なサイトを見たり、書棚の埃まみれの本を調べたりしていると、この詩は元朝鮮初級学校の校長であり著名な詩人である許南麒さんの手により1948年に著された、『시골 교원의 노래(田舎教員の歌)』が元になっていることが分かった(1948年といえば、日本政府が朝鮮人が民族教育を行うことを否定し公立学校に就学するよう命じる通達を出し、それに抗う朝鮮人を武力で弾圧した時期と重なる)。
その原詩を次に紹介する。元は朝鮮語らしいが見つけることができなかったので、日本語の訳詩のみの紹介である。



これが おれたちの学校だ

子供たちよ
これが おれたちの学校だ、

校舎はたとえみすぼらしく、
教室はたった一つしかなく、
机は
君たち 身をよせると
キーッと不気味な音を立て
いまにもつぶれてしまいそうになり、
窓という窓には
窓ガラス一枚ろくにいれられなくて
長い冬は
肌をさく北風で
君たちのさくらんぼのような頬を
あおざませ、

そして雨の日には雨が、
雪の日には雪が、
そして一九四八年 春三月には
ときならぬ嵐がふきすさび、
この窓をたたき、
君たちの本をぬらし、
頬をうち、
あげくのはては
学ぶ自由まで奪いあげようとし、

見渡せば
百が百
何一つ満足なもののない
おれたちの学校だ、

だが 子供たちよ、
君たちは
ニホンノガッコウヨリ
イイデス、と
つたない朝鮮語
おれたちも祖国が統一しさえすれば
本の学校より
何層倍も立派な学校を
建てることができるじゃないかと
かえって
この涙もろい先生をなぐさめ、

そして また きょうも
カバンを背負い
元気一ぱい
学校に来るのだ、

子供たちよ、
これが おれたちの学校だ、
校舎はたとえ貧弱で
おはなしにならず、
大きなすべり台一つ、
ぶらんこ一つそなえられなくて
君たちの遊び場もない
見すぼらしい学校ではあるけれど、

ああ 子供たちよ、
これが ただ一つ
祖国を離れた遠い異国で生れ
異郷で育った君たちを
ふたたび祖国のふところにかえす
おれたちの学校だ、

ああ
おさない 君たちよ、
朝鮮の同志たちよ。



印象的な、この詩の性格を決定づけているとも言えるフレーズ、『ニホンノガッコウヨリイイデス』というコトバは、当時の朝鮮学校に通う生徒の心情を表したものであると読み解くことができる。

自分の民族の言葉を学んだり、自分の民族の名前を名乗ることを禁じられた在日朝鮮人が、祖国の解放を受け、我先にと日本の各地で開いた寺子屋的教育施設が朝鮮学校の原点である。朝鮮語を学ぶこと、教えることは即ち、自らのコミュニティが民族性を取り戻すことであった。日本政府は敗戦後も日本に残る朝鮮人に同化主義を継続しようとして、朝鮮人の子孫らへの民族教育を否定したのだが、教育の受け手である朝鮮人の子孫自身が、自らの言語、文化に触れ、それを貪り食うことを欲したのである。
その価値は、いまになっても色褪せることは無い。
朝鮮学校に子供を送る私の友人に、「何故朝鮮学校に送るのか」を聞いてみたことがある。彼の回答は即答だった。そしてシンプルだった。
「日本の学校の教育は、日本人のための教育や。朝鮮学校朝鮮人のための学校や。俺らは朝鮮人や。それは変えようがないやろ?」

朝鮮学校は、巷の『普通の』学校より、貧弱でみすぼらしいものかもしれない。しかし朝鮮学校にしか与えられない教育がある。それに気づき、その価値を尊ぶ者が、いまもなお、この強い自覚を持って、自らの子を朝鮮学校に送る。
自分の子供に与える教育は朝鮮学校の教育でなければならない。だから朝鮮学校は『ニホンノガッコウヨリイイデス』。



(付記)

草創期の朝鮮学校について描いた『朝鮮の子』という映画を、参考に見てもらう為に紹介する。


大阪の民族教育を支える教職員の生活が脅かされている ― 私学共済への保険金滞納

期限つきの記事であったため、記録と言う意味で短く記す。

私ももうすぐ、朝鮮学校生徒の保護者になるが、大阪の朝鮮学校は橋下一派の差別政策によって、補助金の不支給が続いており、一部のカンパ等を除けば保護者の月謝しか資源が無いという状態が続いている。
以前、他のエントリで書いた(http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20130820/1376958063)ように、公の支出の約1割は教育関連に費やされ、日本にあるほぼすべての学校は公の負担あるいは公的扶助を受けながら運営されている。しかし大阪における朝鮮学校の学びは、(都合のよい)『民意』の寵児とも言える橋下に、極めて政治的な理由によって、「全く価値が無い」と言われているに等しいわけだが、その策を取り囲む『民意』も、相変わらず鈍い。
朝鮮学校に子を送る親としてもいまの状態には暗澹たる思いを禁じ得ないが、学び舎を最前線で支えてきた当事者たる教職員の疲弊感は極限に達している。
元々支給額自体が恐ろしく少ないうえに、補助金の全面カットによって2、3カ月程度の給料の遅配が当たり前に起こっている。単身者でも厳しいのに、世帯持ちは本当に生活が成り立たない。そして、大阪では心配されていた事態が起こっている。




大阪朝鮮学園:社会保険料滞納、2億円
毎日新聞 2015年02月11日 東京朝刊
http://mainichi.jp/shimen/news/20150211ddm012040095000c.html

(引用開始)

大阪府内の朝鮮学校10校を運営する学校法人、大阪朝鮮学園日本私立学校振興・共済事業団(私学事業団)に支払う社会保険料を約2億円滞納していることが10日、大阪府への取材で分かった。
保険料は私立学校の教職員の健康保険や年金などを賄うためのもの。同学園も私立学校教職員共済法で加入が義務付けられているが、府私学・大学課によると、近年、定められた保険料の一部しか支払っていないという。同学園は府に対し、滞納の事実を認めた上で、「事業団とつくった計画に基づき、納付を続けている」などと説明しているという。
府は同学園に毎年約2億円の補助金を交付していたが、在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)などとのつながりを否定できないという理由で、2011年度に中止した。学園側はこの決定を不服として12年9月、大阪地裁に提訴。訴訟の中で「補助金不交付によって、私学事業団の掛け金が払えず滞納している」と主張している。

(引用ここまで)



教職員なくして学校は存続し得ないし、教職員の世代間の連続が保たれてはじめて、教授ノウハウの伝承が成り立つ。世帯持ちの世代が生活のために教師を辞め、教職員が親元から通う独身者のみで構成される、などというのは全く笑えない話なのだが、実際は、本当にそれが目に見えるところまで来てしまっている。
現在行われている、補助金回復の訴訟、及び「高校無償化法」適用の訴訟が、多くの理解ある人々に支えられ、成果を挙げられるようにしなければならない。
私も保護者になるにあたって、公立に送るよりも遥かに多くの金銭的肉体的負担をしなければならない、という一種の『覚悟』を決めているわけだが、家計にも限界があるのは当然なわけで、早くこの不正常な状態が解消されなければならない、と改めて思う。

(参考)朝鮮高級学校無償化を求める連絡会・大阪のホームページ
http://www.renrakukai-o.net/

「あなたたちのことを快く思っていない人もいるんだからね」に思う。

朝鮮学校の『無償化』適用問題が議論(というか文句言い)の最中にあった際、よく言い捨てられた言説に、「朝鮮学校ももっと情報公開して疑念を払拭すべきだ」「朝鮮学校がもっと身近な存在になれば差別もなくなるんではないか」というのがありました。

ところが実際は、朝鮮学校は授業も教科書も公開していますし、財務状況もWeb上に晒しています。近隣の日本の学校との交流も盛んです。校庭で実施される納涼大会やバザー等の催しは近隣住民にも開放されていますし、大学のゼミの研究対象になったり、マスコミが入り込んで取材対象になったり、多くの出版物や映画の舞台になったりと、外部からの眼は幾らでも注がれています。また、朝鮮学校の生徒がクラブ活動で様々な活躍を見せる姿は、いまや非常に手軽に感じとることができるようになりました。ラグビーやボクシングの全国大会に出場するのに始まり、文化系のクラブもコンクールに出場したり、発表会や展示会を一般に公開したりしています。
全国に100校前後しかなく、国庫扶助も一切無く財政的に窮々としている朝鮮学校が、自らの限られた資源の中で、やれることはとことんやっている、というのが実際なのです。

結局のところ、これは『キタチョーセンのよく分からない学校』である朝鮮学校に公金を投入するなら、根掘り葉掘り晒さなければ納得ができない、という欲望所以の言説なのですが、もっとも、「情報公開」だの「身近」だのというのは、他の学校には何ら求められていないことです。それこそ、みなさんの近隣の学校がどのような教育方針で、授業を一般に公開しているかどうかなどに、いちいち関心を向けている人は少数派なはずです。それが朝鮮学校に関しては特別に情報を求めようとし、各人が好き勝手に情報公開のラインを設定し、そのラインに届かないか、自分が気に入らないものなら、税金は投入するな、という屁理屈なのですから、何重にも醜悪です(一応朝鮮学校以外の小中高の教育課程には年間でどれほどの額が投じられているかは、他にエントリがありますから参照してくださいhttp://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20130820/1376958063)。

繰り返しますが、朝鮮学校は日本のいわゆる一条校ではないという特殊性から「謎の学校」扱いされていますが、相当に開かれた学校です。その気になれば、幾らでも情報に触れることができます(但し「その気になる」とは、週刊誌やワイドショー的な怖いもの見たさ発進の下衆根性ではなく、民族教育の意義や歴史を踏まえて理解、研究する意志のこと)。是非、朝鮮学校のことを知りたいのであれば、実際に手を伸ばして触れてみてください。朝鮮学校の敷居はそんなに高くはないのです(但しセキュリティーのことがあるので勝手に侵入してはいかんし、中で学校の意志に反して暴れまわるのは業務妨害ですよ、言わずもがなやけどね)。



毎度のことながら、前置きがかなり長くなりましたが、
先日、大阪の朝鮮学校の、文化系クラブの発表会があって、私も仕事を終えるが早いか真っすぐ大急ぎで会場入りし、じっくり鑑賞してきました。別にホールの入口で入場券や身分証の提示を求められるわけでもなく、入場無料ですんなり入り、朝鮮学校の現役生徒たちが、一生懸命ハツラツと歌ったり踊ったり奏でたりする姿を見て、純真かつひたむきな姿に感動を覚えたひとときでした。

ところが、ちょっとした出来事がありました。事件というわけではない、ほんの小さな出来事でした。
しかし私のアタマのなかに小さなシコリとして、いまも残り続ける出来事です。

その催しが好演で非常に盛り上がったこともあり、予定より少し遅れて終わりました。ホールの退去時間を過ぎてもまだ完全に撤収できておらず、関係者も撤収を手伝っていました。私も知り合いの学校関係者に呼ばれて撤収を手伝っていました。
そこにホールの警備担当者(たぶん市の職員とかではなく委託の民間業者の職員)が苛々した表情を浮かべながら近寄って来ました(ホールの退去時間を過ぎているのだから当然です)。私がスーツ姿だったからか私を学校の教職員だと勘違いしたのでしょう。私も一応関係者のような感じになっちゃってたので、会釈のつもりで「すいませんねぇ」と声を掛けました。するとその方が、私に話しかけてきました。

職員:「困りますよ、規則を守ってもらわないと。早く退出していただけませんかねぇ」
私:「すいませんねぇ、もう少しで出れると思いますんで」
職員:「あなたたちのことを応援してくれる人たちばかりじゃないんだし、快く思っていない人もいるんだからね。こんなんじゃ余計に反感を持たれちゃうよ、早くしてください」
このように言い残すと、彼は再び持ち場に消えて行きました。

私はその後、その職員に言われたコトバが脳味噌の奥底で反響し続けるのを確実に認識しながらも、それを誰にも言えずに元の手伝いに戻りました。無事に帰途につく生徒と職員を笑顔で見送り、私も帰りの車に乗り込んだのですが、帰りの道中でも、家で晩酌しながらも、寝床についても、そして現在に至るまで、私の脳裏での反響は続いています。

「あなたたちのことを快く思っていない人もいるんだからね」



上手くは言えないのですが、
今回、何故朝鮮学校側が予定を超過してしまったのか、原因は知る由もありませんが、ホールの退去時間を超過してしまったことは朝鮮学校側に非があります。それはそうです。しかし朝鮮学校が今回キマリを守れなかったことで、朝鮮学校及びその生徒が、『余計に』反感を持たれる、というところまで、直ちに同意しろ、というのは謂れがないことだ、と正直思いました。

今回はホールの利用時間をキマリより超過してしまった、ということですが、私はこれまでに仕事やプライベート、種々のしがらみを抱えるなかで、公共のホールや会議室を借りる機会が何回もありました。結構利用時間は守られていないことが多いです。ときには前の団体が何十分も時間が延びて、結果自分らの会合を繰り下げて実施しなければならない、ということもありました。そんなときに施設の職員が、その団体の出自や属性をあげつらって皮肉を言う、なんてことは勿論ありませんでした(例えば「あんたらジイサンらが遅れたから、高齢者みんながそんなだらしない人らだと思われちゃうよ」みたいなことを吐いたら、それこそ大問題になりますよね)。

非があることはそのとおりなんだけれども、
在日朝鮮人朝鮮学校のそれは、他の数多あるそれとは違い、その出自や属性と結び付けられ、それらに対する反感を呼ぶことになる。
これってなんだか、ヘンじゃないでしょうか?

翻って、
京都朝鮮第一初級学校の事件を追った、中村一成さんのルポによると、今日現在でも校庭が無く、或いは狭く、公設の公園を授業等で使用している京都市内の小中学校が複数あるそうです。しかし、行動する保守界隈の面々は、見事に朝鮮学校のそれだけを問題にし、暴虐の限りを尽くし、その爪痕は今も幼き生徒の胸に暗い影を落としています。幼児帰りをし、夜泣きや夜尿症を起こし、大きな音に怯え…
校庭が無い、公園を校庭代わりに使う、ということは、勿論教育環境や周辺住民のことを考えるとベストな選択ではないにしても責められる話などではない。それなのに「朝鮮学校も悪いんだから仕方が無い」「在特会の主張は正しいが方法が悪い」などという理屈が幅を利かしている…

私たちは「朝鮮人だから」「朝鮮学校だから」と無理を通したりしているわけではなく、あくまで法に基づき主張し、あるいは多数の日本人と同様の利益しか得ようとしていません。それなのに、周囲はことあるごとに「朝鮮人なのに」「朝鮮学校なのに」と、特別視し、知恵を絞って差異を設けようとする。

私たちは聖人でもなければ優秀なエリート集団でもない、いわゆるコテコテの関西人であり、ルーツを朝鮮半島に持つという共通項で、共に学び、コミュニティーを形成した集団です。ときにはうっかりミスもするし、キマリを守れなかったりもするし、ときには犯罪者も生まれます(笑)。しかし我々のそれは殊更に大きな拒否感や嫌悪感を生み出し、「朝鮮人のDNAが」「朝鮮学校反日教育が」と、非科学的かつ感傷的な反応を返され、ネットで吊るしあげられ活字が躍る。
朝鮮学校の生徒は、いつでも好奇や嫌悪の眼差しで見られ、普通の高校生なら他愛もないことで片づけられることも朝鮮学校生のそれとして取り上げられる。
朝鮮人が…」「朝鮮人のくせに…」



いまも私の脳裏に響くあのコトバは、「あなたたちヨソモノがルールを破るなんて何事だ」「のび太のくせに生意気だぞ」の異音同義語のように思えてきます。
ただの警備員のオッチャンの皮肉なのだが、その類のコトバや経験が私と周囲で積み上がっている現在、『皮肉』としては額面どおり受け取ることができず、このように悶々と長文を連ねています。


「あなたたちのことを快く思っていない人もいるんだからね」

みなさんはどう思われるでしょうか?

「モノ言えない社会は息苦しい」 ― ネトウヨが自らの自業自得を社会の狭量として嘆く笑える記事

数日前、ネトウヨのある所業を取り上げた記事が、twitterでちょっとした話題になった。
名誉棄損の加害者が多額の慰謝料にビビっている哀れな話だが、ネトウヨにかかれば社会の不寛容性を嘆く材料になるようだ。これは笑える。記念にお持ち帰りしたうえで、若干の所感を示す。



「モノ言えない社会は息苦しい」名誉毀損で訴えられたネトウヨ大学生の告白
DMMニュース 2015.01.24 08:50
http://dmm-news.com/article/911752/

(引用開始)

「ネットで書いてることをいちいち信じるヤツってホントのバカだと思うんです。僕もネトウヨをやってるけど、『誰かを釣って、叩いて、はい、おしまい』の世界。特に芸能人やマスコミ関係者、政治家がTwitterで本気になって議論もどきをして熱くなっている。それをみて楽しむこと。それだけが目的なのに……」
都内の私立大学に通う大学3年生・大澤元輝さん(仮名・21歳)はこう話す。中学時代からネットに親しんだ大澤さんは、2ちゃんねる掲示板、TwitterといったSNSに親しんできたが、最近ではもっぱらTwitterを中心にパトロールしたり、書き込んでいる。

■ターゲットを釣って祭りにすることが目的

「匿名の2ちゃんねる掲示板だと誰が参加しているのか目に見えない。でもTwitterだと実名や顔を晒してやってるのも多い。そんな連中を釣るんです。で、ボカスカに叩いて、“祭りにしちゃう。一連の流れを作ることができたらもう最高っすね!」(大澤さん)
ネトウヨ”を自称する大澤さんだが、実は政治や社会問題には何の興味も関心もないという。Twitter上では、次世代の党副代表で元航空幕僚長田母神俊雄氏を支持する発言を繰り返しているが、これは、「ファッションというか流行に乗っているだけで、本当に田母神さんを支持しているわけではない」(同)とか。
「政治家が『ネット世論で高い支持を得た』と話すのを聞くとバカだと思いますよ。あれは俺たちの責任のない書き込みで盛り上がってるだけですから」(同)

とはいえ、マスコミへの敵対心のようなものと自民党と次世代の党以外の政党への不信感は拭えないと内面を明かす。
「左翼の連中(註:この場合は自民党と次世代の党以外の各政党支持者を指す)やマスコミの奴らは、捏造で視聴率やアクセスビューを稼ぐことしか頭にない。だからこういう連中が顔出しで書き込みしていると、どこかで揚げ足取って“祭り”にしてツイートを削除させ、酷ければアカウント削除まで追い込む。ま、ゲームですよ。著名人をアカウント削除まで追い込んだ後の達成感はハンパないっすね!」(同)
大澤さんは過去、ネット上で槍玉に挙げたのは歌手・やしきたかじんさんの未亡人を取り上げた『殉愛』(幻冬舎)の著者・百田尚樹氏、ニューヨークタイムズの田淵広子記者などなど。その対象は保守論客からリベラル記者までと節操がない。Twitter上で話題になった人物の他、タレントやマスコミ関係者、女性アナなどもターゲットにする。
「著名人や政治家からTwitterでブロックされたら逆に闘志が湧いてきますね。あらかじめ持っているTwitterの別アカウントを使って、何か揚げ足を取るネタを探す。時にはこちらも捏造画像を用いたりして“祭り”に仕立てて仕返しする」(大澤さん)
大澤さんによると、何がしかの事件の当事者や政治家、マスコミ関係者などがTwitter上で何かコメントしたり、資料を出すと、たとえそれが正しい内容であってもまず、「捏造だ!」と書き込み、Twitter上の仲間や自らが持つ別アカウントを用いて拡散していく。そしてターゲットとなっている人物の過去ネット上での書き込みから、「行動パターン」「交友関係」「自宅住所」までネット上に晒す。

■損害賠償1500万円を求められた!

数年前、あるタレントのTwitter上での書き込みが気に入らなかった大澤さんは執拗にこのタレントの書き込みを揶揄する発言をTwitter上で繰り返し、その内容を纏めたブログも立ち上げた。
しばらく経ったある日、大澤さんにとってはそのタレントへの中傷行為が過去のものとなった頃、プロバイダーから「発信者情報開示に係る意見照会書」という書類が送られて来た。平たくいうと「この書き込みをした人の住所や連絡先を聞いている人がいますが教えていいですか?」というお伺いだ。もちろん開示拒否と回答して送り返した。
だが、しばらくするとプロバイダー側から、「発信者情報開示を求める裁判に負けましたので発信者情報を開示します」と連絡が来た。やがて弁護士名で「名誉毀損による損害賠償を求める。1500万円支払え」という内容を示した内容証明郵便が届いた。
「芸能人やタレント、マスコミ関係者、政治家、顔晒してる仕事の人がネットでちょっと書き込みされたくらいで……という気持ちはあります。言いたいことがいえない社会って息苦しいですね
目下、相手方のタレントと弁護士を挟んで示談交渉中という大澤さん。4月からは大学も最終年次、就活に励む時期だが、示談交渉の行方が気になり、就活にも身が入らない日々を過ごしている。

(引用ここまで・強調は引用者)



ネット空間は、意見発信や議論の空間として非常に有益であり、実際私のようなただのサラリーマンが、いち在日朝鮮人として社会に問いかけができるのもネット空間のお陰であるが、匿名で顔や素性が見えないことをいいことに、残念ながら有名人や特定の属性を持つ者に対する、悪趣味な者どもの誹謗中傷や集団リンチが往々にして起こる。枝葉末節をあげつらい、義務のない謝罪や、強いられる謂れのないタテマエを吹っかけられ、疲弊していく被害者が日々量産される。
この者からしたら、『祭り』にして相手が困惑し、逃げ惑い、サイト閉鎖等に追い込まれていくのを楽しみたい「だけ」だと、自らの行いを過小に評価し、そんな「些細なこと」で訴えるなよと言わんばかり。それをもって、「言いたいことが言えない」「息苦しい」と嘆いて見せている。
しかしこれは端的に言うと、『大いなる勘違い』である。彼の攻撃相手には、人格・名誉という、容易に侵害することが許されない初歩的な権利がある。それを自分から出向いて、デマ、クソミソ含め攻撃するのだから立派な侵害行為だ。
「言いたいことが言える社会」とは、社会的少数者や他者と異なる意見の持ち主であっても、自分の立場を表明でき議論の俎上に乗せられる社会のことでではなかろうか。他者に対する誹謗や罵詈雑言を好き勝手言える社会のことではないだろう。そんなものを安易に許せば、社会的議論は低劣化し、多勢の攻撃に無勢が沈黙を強いられる。
在特界隈と保守速報を訴えた李信恵さんの例を挙げるまでもなく、彼の行為は『立派に』生身の人を傷つける。彼はパソコンの画面を相手にキーボードを叩いていることとしか認識していないかもしれないが、その言葉は確実に精神を蝕み、沈黙を強いる。ひとの生命をも奪う威力をも持った、立派な暴力である。
彼の行為は誹りを受けるべき行為であり、何を言おうと後の祭りである。自らの愚かさに気付き、悪い趣味と訣別する日が来ればいいのだが。

こんなことを書けば、必ず何人かの、彼の『同業者』が来訪してきて、「お前もニッポンを誹謗中傷している」「お前の反問も俺の名誉を毀損している」「お前も訴えてやる」「死ね」「帰れ」と書き捨てていく。件の彼の所業と、私のブログ本文及びコメントの、根本的な質的差異を、わざわざ説明してやらなければならず、そしてそれも理解できないほど、この界隈の脳味噌は腐敗が激しい。そんな腐敗した脳味噌の持ち主にわざわざ説明をくれてやるほど利益が無いことは無い。