いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

아이들아 이것이 우리 학교란다(子供たちよこれがウリハッキョだ)

朝鮮学校で広く愛されている詩を紹介したい。
『아이들아 이것이 우리 학교란다(子供たちよこれがウリハッキョだ)』という詩だ。

「ウリハッキョ」とは、「私たちの学校」という意味だ。
朝鮮学校の関係者は、他でもない在日朝鮮人のコミュニティが、作り、守っている、という自負と愛着を込めて、朝鮮学校のことをこう呼ぶ。これは自分の母校だけではなく、どの地域の朝鮮学校であってもそのように呼ぶ(例えば大阪在住の同胞が新しく起った京都朝鮮初級学校を「京都のウリハッキョ」と呼んだりする)。




아이들아 이것이 우리 학교란다

비오는 날엔 비가 눈내리는 날엔 눈이
때아닌 모진 바람도 창을 들이쳐
너희들의 책을 적시고 뺨을 때리고 할퀴고
공부까지 못하게 만들어도

아이들아 이것이 우리 학교란다
초라하지만 단 하나뿐인 우리의 학교
아이들아 이것이 우리 학교란다
니혼노 각고우요리 이이데스

큼직한 미끄럼타기 작은 그네 하나 없어
너희들 놀곳 없는 학교지만
조국을 떠나 수만리 이역에서 나고 자란
너희에게 조국을 배우게 하는

아이들아 이것이 우리 학교란다
서투른 조선말로 웃으며 희망을 품는
아이들아 이것이 우리 학교란다
니혼노 각고우 요리 이이데스

아이들아 이것이 우리 학교란다
초라하지만 단 하나뿐인 우리의 학교
아이들아 이것이 우리 학교란다
니혼노 각고우 요리 이이데스

아이들아 이것이 우리 학교란다
서투른 조선말로 웃으며 희망을 품는
아이들아 이것이 우리 학교란다
니혼노 각고우 요리 이이데스

니혼노 각고우 요리 이이데스



子供たちよ これが ウリハッキョだ

雨の日には雨が 雪降る日は雪が
強い風も窓から吹き込み
君たちの本を濡らし 頬を叩き 引き裂き
勉強までも できないように しようとも

子供たちよ これが ウリハッキョだ
みすぼらしいけど ただ一つの 私たちの学校
子供たちよ これが ウリハッキョだ
ニホンノガッコウヨリイイデス

大きな滑り台も 小さなブランコひとつ無い
君たちの遊ぶ場もない学校だけれども
祖国を離れ数万里 異郷で生まれ育った
君たちが祖国を学ぶための

子供たちよ これが ウリハッキョだ
たどたどしい朝鮮語で 笑い 希望を抱く
子供たちよ これが ウリハッキョだ
ニホンノガッコウヨリイイデス

子供たちよ これが ウリハッキョだ
みすぼらしいけど ただ一つの 私たちの学校
子供たちよ これが ウリハッキョだ
ニホンノガッコウヨリイイデス

子供たちよ これが ウリハッキョだ
たどたどしい朝鮮語で 笑い 希望を抱く
子供たちよ これが ウリハッキョだ
ニホンノガッコウヨリイイデス

ニホンノガッコウヨリイイデス

朝鮮語詩は韓国のサイトより引用し引用者にて一部修正、日本語訳詩は引用詩を元に筆者にて訳出。そのためYou Tubeサイト内の訳詩と若干異なる部分がありますがご了承ください)



私が現役の朝鮮学校の生徒だった時代には、正直この詩の存在すら知らなかったのだが、社会人になって、朝鮮学校に再び出入りし、現役の生徒や教師らと交流を深める中で、この詩が現在の朝鮮学校内で広く愛されていることを知った。私はこの詩の由来を知らず、特に印象的な『니혼노 각고우 요리 이이데스(ニホンノガッコウヨリイイデス)』というフレーズが、どのような背景でこの詩に込められたのか、分からなかった。誰の心情により生まれ、誰の口から発せられたのか。どのような時代に、このコトバが世に出たのか。

それを辿るために色々なサイトを見たり、書棚の埃まみれの本を調べたりしていると、この詩は元朝鮮初級学校の校長であり著名な詩人である許南麒さんの手により1948年に著された、『시골 교원의 노래(田舎教員の歌)』が元になっていることが分かった(1948年といえば、日本政府が朝鮮人が民族教育を行うことを否定し公立学校に就学するよう命じる通達を出し、それに抗う朝鮮人を武力で弾圧した時期と重なる)。
その原詩を次に紹介する。元は朝鮮語らしいが見つけることができなかったので、日本語の訳詩のみの紹介である。



これが おれたちの学校だ

子供たちよ
これが おれたちの学校だ、

校舎はたとえみすぼらしく、
教室はたった一つしかなく、
机は
君たち 身をよせると
キーッと不気味な音を立て
いまにもつぶれてしまいそうになり、
窓という窓には
窓ガラス一枚ろくにいれられなくて
長い冬は
肌をさく北風で
君たちのさくらんぼのような頬を
あおざませ、

そして雨の日には雨が、
雪の日には雪が、
そして一九四八年 春三月には
ときならぬ嵐がふきすさび、
この窓をたたき、
君たちの本をぬらし、
頬をうち、
あげくのはては
学ぶ自由まで奪いあげようとし、

見渡せば
百が百
何一つ満足なもののない
おれたちの学校だ、

だが 子供たちよ、
君たちは
ニホンノガッコウヨリ
イイデス、と
つたない朝鮮語
おれたちも祖国が統一しさえすれば
本の学校より
何層倍も立派な学校を
建てることができるじゃないかと
かえって
この涙もろい先生をなぐさめ、

そして また きょうも
カバンを背負い
元気一ぱい
学校に来るのだ、

子供たちよ、
これが おれたちの学校だ、
校舎はたとえ貧弱で
おはなしにならず、
大きなすべり台一つ、
ぶらんこ一つそなえられなくて
君たちの遊び場もない
見すぼらしい学校ではあるけれど、

ああ 子供たちよ、
これが ただ一つ
祖国を離れた遠い異国で生れ
異郷で育った君たちを
ふたたび祖国のふところにかえす
おれたちの学校だ、

ああ
おさない 君たちよ、
朝鮮の同志たちよ。



印象的な、この詩の性格を決定づけているとも言えるフレーズ、『ニホンノガッコウヨリイイデス』というコトバは、当時の朝鮮学校に通う生徒の心情を表したものであると読み解くことができる。

自分の民族の言葉を学んだり、自分の民族の名前を名乗ることを禁じられた在日朝鮮人が、祖国の解放を受け、我先にと日本の各地で開いた寺子屋的教育施設が朝鮮学校の原点である。朝鮮語を学ぶこと、教えることは即ち、自らのコミュニティが民族性を取り戻すことであった。日本政府は敗戦後も日本に残る朝鮮人に同化主義を継続しようとして、朝鮮人の子孫らへの民族教育を否定したのだが、教育の受け手である朝鮮人の子孫自身が、自らの言語、文化に触れ、それを貪り食うことを欲したのである。
その価値は、いまになっても色褪せることは無い。
朝鮮学校に子供を送る私の友人に、「何故朝鮮学校に送るのか」を聞いてみたことがある。彼の回答は即答だった。そしてシンプルだった。
「日本の学校の教育は、日本人のための教育や。朝鮮学校朝鮮人のための学校や。俺らは朝鮮人や。それは変えようがないやろ?」

朝鮮学校は、巷の『普通の』学校より、貧弱でみすぼらしいものかもしれない。しかし朝鮮学校にしか与えられない教育がある。それに気づき、その価値を尊ぶ者が、いまもなお、この強い自覚を持って、自らの子を朝鮮学校に送る。
自分の子供に与える教育は朝鮮学校の教育でなければならない。だから朝鮮学校は『ニホンノガッコウヨリイイデス』。



(付記)

草創期の朝鮮学校について描いた『朝鮮の子』という映画を、参考に見てもらう為に紹介する。