いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

「高校無償化」は朝鮮学校には結局不支給 ― 子供たちへの差別の固定化を憂う

(2012年12月27日に、タイトルを変更し、大幅に加筆修正を行いました)

民主党政権が、無惨に終焉を迎えた。
いまから思うと、政権に就く前に、小沢氏の(終わってみるとただの言いがかりだった)一連の事件で、彼自身が首相をやれなかったことが一番大きかったのではないかと思う。彼を差し置けば、後から出てくる政治家はどうしても決断力がないし、小粒にならざるを得なかった。現に統治能力の低さを晒すようなレベルの低い失策を積み重ねた。小粒の周りは強者に擦り寄る習性以外に政治家の素質などなく、矜持など持ち合わせていないのだから、何を言ってもわざとらしいし、説得力がない。映えない。響かない。
次に首相をやるのが、よりによってあの安倍ちゃんだ。再び腹痛で投げ出したりしないか早速心配になるが、新薬が開発されたらしいから大丈夫なんだって、安倍ちゃん。もう、どうでもいい、このレベルでは。
私は現代の政治家には(程度の差はあれ)ロクなのがいないと繰り返し言ってきた。日本に限らず、どこであっても。本当にそのようだという確信を強く抱く。



ところで、民主党政権の三年余りを振り返ると、エラーばかりが目立ち、これと言って成果を挙げた政策は思い付かないが、ひとつ挙げるとすればやはり高校無償化政策だろう。これだけ、法の下の平等・人権がないがしろにし、政治理念の浅さを露呈して余りある政策は無い。これは日本の政治史に未来永劫刻まれるべき愚だと言えるだろう。もちろん、これは朝鮮学校に関わる一連の馬鹿騒ぎに関して言及している。

まず、高校無償化法立法の背景を確認する。
日本における高等学校と同一ランクの教育過程が無償化(実質含め)されているのは、世界の趨勢であり、国際的な人権上の要求でもあった。国際人権規約にも中等教育過程を漸進的に無償化して、社会の全ての者の学ぶ機会を確保することが、普遍的な権利として明記されているなか、日本は、規約を批准しながらも当該項目の留保を外せずに長らく来ていたのであり(http://www.gov-online.go.jp/useful/article/201005/6.html)、ここでは深くは触れないが、奨学金制度の未整備などと合わせて、先進国の教育保障レベルとの比較では後進性が際立っていた。高校無償化法は、これを是正する策であった。
民主党が『高校無償化』を主要な政策としたことを、本来であれば日本の基本的人権のレベルを世界標準にボトムアップしようとする系譜のなかで理解するべきであり、決して当時下野した自民党が吠えていたようなバラマキ政策として理解するのは正しくない。
同法は、これまで公共事業や企業向けの景気策ばかりが目立ってきた日本の政策の中で、珍しく社会の責任で人を育てることに目を向けた策であったと言える。知的な刺激を受ける時間が長ければ長いほど、ひとの創造心や探究心は成長する。中卒より高卒、高卒より大卒、と、より長く学問に触れる機会を保障することは、社会の構成員一般にとって有益であることは疑いが無い。特に経済的理由で進学を断念せざるを得なかった世帯にとっては大きな福音となったに違いない。その意味では、同法は民主党が誇るべき政策であった。
と、ここまでなら一応言える。

しかし、この政策の思惑は、本当に単なる人気取りのバラマキであったようだ。その化けの皮は早速綻びを見せる。
高校無償化法の成立過程と、朝鮮学校に絡む騒動を振り返る。
公立高校は授業料を不徴収とし、いっぽう私立高校は公立高校の授業料相当額を還付する。そして(これまでの日本政治の状況からすれば)画期的だったのは、インターナショナルスクールや中華学校韓国学校朝鮮学校に至るまで、外国人を対象にした高校教育過程まで対象に含めたことだった。『家庭の状況にかかわらず、全ての意志ある高校生等が安心して勉学に打ち込める社会をつくるため、公立高校の授業料を無償化するとともに、高等学校等就学支援金を創設して、家庭の教育費負担を軽減する』という立法趣旨から考えれば、社会の構成員に誰区別なく同法が適用されるのは当然のことである(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/mushouka/__icsFiles/afieldfile/2010/04/20/1292454_4_1.pdf)。しかしながら、主要な財政を父母の月謝や寄付で賄いながら地方自治体からの補助金も少なく窮々としていた朝鮮学校の関係者が、日頃より日本の住民としてあらゆる義務は区別なく全うさせられながらも、何かにつけては当たり前のように差異のある取扱を喰ってきたのに、今回ばかりは差別なく法が適用されるという初報に接し、諸手を挙げて歓迎したのは言うまでも無い。ようやく日本政府は我々を平等に扱ってくれるのだ、と。

しかしこの歓喜は、早晩糠喜びとなり、人々は悲哀に暮れることになる。
早速、謀ったかのように朝鮮学校のみにケチがつく。朝鮮学校の成立過程とか専門的なことを知らないまでも、少なくとも日本に存在するエスニックマイノリティに対し、学習、接触、行動なりをしてきた人間ならまだしも、それに一切の価値を持たずに来た人間らが、『あの』学校にだけはカネを出すな、とあらゆる屁理屈を持ち出して排除を試み、朝鮮学校にあることないことを一斉に書き立て始めた。自民党の元ヤンキーの元教育者、ネトウヨアイドルのオバチャン、青いバッチを付けるだけが取り柄の恥知らず政治家、壁新聞並みのクズ宣伝を垂れ流す日刊紙、そして朝鮮学校の内情を点も知るわけがない外野の野次馬、などが続々参入してきて、朝鮮学校のあり方はけしからんなどと文句を言い、重箱の隅をほじくり返し、ワイドショーのネタにしては、「朝鮮学校北朝鮮」の証拠物を探し出して発狂して見せた。
この際、理念ある政治家なら、法律が大学生並にでも読める政治家なら、『日本社会に住まう全ての高校生が受益者だ、朝鮮学校の生徒だけを排除できるわけがない』『教育の自由、思想良心の自由を政治が歪めてはならない』『そんなことをしたらこの法案は世界の笑いものになる』とかなんとか言えそうなものだ。当時の中井拉致担当相が「救う会」にけしかけられてしょうもないことを言い出した時点で、党なり内閣なりの主要人物が、彼のおでこをペシッして釘を刺せば、それで済む話だった。しかし残念ながら当時の鳩山首相をはじめ、それを表だって言えるだけの肝の据わった政治家が、民主党に、本当に誰ひとりとして居なかった。

そのあとに起こったことは私が敢えて振り返るまでもない。
朝鮮学校は『高校無償化』どころか、なけなしの補助金までもが難癖を付けられて、各地方で次々カットされた。それには震災で被災した東北の学校も含まれた。高校無償化法の代わりとして、高校生の年齢層を対象にした特定扶養控除の上乗せ控除が無くなったので、朝鮮高校に子供を送る親は、本来受けられるべき福祉や扶助からは軒並み排除されながら、負担だけが増えるに至った。
一応言うと、民主党政権下では、朝鮮高校の生徒を高校無償化の受給対象から排除するという「結論」は出していない。朝鮮高校を無償化の対象にするかどうかの「審査」とやらを延々と続けていたという。たった10校の実態調査をするのに2年を費やしてもまだ結論が出ないとは、これを額面通り受け取ると絶望的に仕事ができないボンクラ役人ということになるが、何のことは無い。ただ単に支給をしたくないから延々と審査をして時間を引き延ばしていたのだ(在日筋の情報では、産経の内部告発記事が出るたびに自民党から文科省にクレームが入って「審査」が延長されるとのこと。審査対象になっているのは実質朝鮮高校だけだから、結局は理屈を付けて支給を引き延ばしているのと同じことだ)。
支給する気が無いならさっさと朝鮮学校を不支給にする、と言えばよさそうなものだが、なぜか政府はその「結論」を出さなかった。なぜ出せなかったのだろうか?
簡単だ。「全ての高校生」から朝鮮学校の生徒のみを排除する屁理屈がどうしてもひねり出せなかったからだ。朝鮮学校を排除する屁理屈は、声なきマイノリティや思考停止のマジョリティには一応通じても、司法の前では屁理屈に屁理屈以上の価値は無い。訴訟沙汰になった際に司法で勝てるだけの道理が無いから、「審査中」にしていたのだ。
露骨に差別をしておきながら、差別政策の謗りを免れようという工作だけは抜かりない。卑怯だ。

振り返ってみると、結局、「高校無償化法」に、社会や未来に対する理念など無かったのだ。人気取りと打算で走った政策だったのだ。その政策の効果で、切り捨てられ、泣き、心を痛める人間がいても関係ないのだ。高校生を泣かすより、「なんでチョーセンにカネ出すんだ」とマスコミに指弾され、国会で吊し上げられ、青いバッジの集団に追いかけまわされるのが恐怖なのだ。彼らには自分らの初志を振りかざす勇気すらもなかったのだ。なんとも志の乏しく、心の貧しい政治集団ではないか。
それこそ、己の政策に自信があるのなら「全ての意志ある高校生たちが、国家の意思に沿うカリキュラムで学ぶことは支援する/国家の気に入らないカリキュラムはカネも出さないし知りません」と胸を張って言えばよかったではないか?それもできない姑息な態度こそが、この政権の姿だったのだ。最初から期待するほうが馬鹿だったのだ。



さて、政権は自民党に戻った。
早速、自民党は朝鮮高校への無償化法不適用を決定した。

朝鮮学校、授業料無償化適用しない方針…新政権
2012年12月26日07時12分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121226-OYT1T00014.htm

朝鮮学校、来年度から高校授業料無償化適用外に
2012年12月28日12時02分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121228-OYT1T00416.htm

本当に恐れていた事態が現実になった。日本という国は、このように高らかに宣言したのだ。
「自らの政治目的の為になら、高校生を泣かそうが、知ったことではない」
「自らの外交目的の為に、国内の少数者への差別は是認される」
「法を捻じ曲げ、少数者の人権をないがしろにしても、国民の人気、大衆の喝采のためなら問題ではない」
もう、日本の人権意識は、堕ちるところまで堕ちて、掘り進めている感すらある。



もう、この際、はっきり書いておこうと思う。

まずは、ここ十数年の日本社会に横たわっている空気感をまずは指摘しておく。
日本における『チョーセン』という記号の利用法によって、それを把握してみたい。
拉致事件以来顕著になったが、それ以前よりも、日本社会は、(北)朝鮮政府に関わる・親和性があると認めるものを、すべて悪魔化し、何が何でも対極・敵側のポジショニングに置いてきた。これによってテコでも動かない『チョーセン』という敵対階層が国内に固定化されてきた。日本は、これをガス抜きの道具にしたり、外交の無策の穴埋めに使ったり、公安機関の飯のタネにしてきた。
当然、これに加担あるいは迎合してきた、簡単にいうと楽をしてきたマスコミの思考停止は特筆に値すると指摘しておかなければならない(かのミサイル騒動で、ロケットではなく『ミサイル』と書いていたのは日本のマスコミのみで韓国ですら『ロケット』であることからも顕著に言える)。マスコミの固定化された論調は、朝鮮およびその関連物の価値観を固定化することに大いに寄与し、ナショナリズムの高揚や、改憲気運の口実や、ニッポンという共同幻想に個人を同一化させるという成果物を着実に量産した。

平易に換言すれば、『日本』なのか『反日』なのか、『日本人』なのか『ザイニチ』なのか、『味方』なのか『敵』なのか、『我』なのか『彼』なのかという、二極単純分離の、最もポピュラーかつ実効的なものとして、『チョーセン』という記号を用い、圧倒的少数の『チョーセン』と、圧倒的多数の『チョーセン以外』との間にぶっとい線を引き、『善』と『悪』を固定化したわけだ。当然、何があっても『チョーセン』は『悪』だ。結果、『チョーセン』はいくら叩いても免罪されるし、『チョーセン』の側からの声は『チョーセン以外』には全然響かないし問題にならない。『チョーセン』は悪だから考える必要が無いのだ。思考が完全に停止しているのだ(※)

今般の高校無償化騒動にも、この図式が例外なく見出すことができる。
日本政府、および補助金支給を云々した自治体が持ちだしたロジックがこれだ。
朝鮮学校北朝鮮と繋がっていない証拠を出せ/北朝鮮と繋がっているならカネは出せない/北朝鮮との繋がりを断てばカネをくれてやる」と。つまり朝鮮学校が『チョーセン』でないことを、朝鮮学校自らが証明せよ、と。
これ以降、反朝鮮学校の立場からは、民族学校の意義や在校生卒業生の姿はスットバシて、朝鮮学校の朝鮮政府との繋がり、および朝鮮の指導者を礼賛する教育内容のみを俎上にあげ、北朝鮮と繋がっているからけしからんと云々したわけだ。
これに対し、朝鮮学校を擁護する立場は、この口撃に抗う手段として、朝鮮学校の経営、カリキュラムの独自性、教育の実態を示し、「朝鮮学校北朝鮮」という図式の希釈を試みる方法を採った。言い換えれば、朝鮮学校が『チョーセン』であるかないかというロジックに、朝鮮学校を擁護する立場が、いちいち付き合ってしまったと言える。

しかし、このロジックこそが根本的におかしいということが、もっと声高に主張されなければならなかった。
つまり、朝鮮との親和性の程度が俎上にあがること自体がおかしいのだ。極言すれば『なぜチョーセンならダメなのだ?』という根源的な部分の問いかけを前面に打ち出さなければならなかったのだ。
言い換えれば、日本国憲法及び国際人権関連の諸法規並びに理念を根拠に、政治や外交の具として朝鮮学校の教育が云々されることを真っ向から否定しなければならなかった。

朝鮮政府と敵対し、あらゆる人的物的交流を断つというのが今日の日本の政策だ(この政策の是非自体大いに議論があるべきだがこの際置く)。問題は、政治的に作り上げたこの図式を、民間レベルに、教育の現場に、子供たちの中に持ち込んで、政治の無策を子供への差別で埋めようとする愚、外交的対立項をどうすることもできない者に転嫁する愚、これこそを語らなければならなかったのだ。
何を学び、何を尊ぶか、何を話し何を読み書くかという、人間の人格形成の根本に属することに、国家の意思や政治家の思惑国際的な力関係がやすやすと入り込み偉いさんが好き勝手言うという愚、他者に対する重大な人権侵害を『チョーセン』か『チョーセン以外』かのみで価値判断し、自分が『チョーセン以外』の側にあると言うだけで何の抵抗感も感じず逆に美徳か何かと勘違いするという愚、この日本社会の感覚がここまで劣化したという愚こそが、最大の問題にならなければならなかったのだ。



第一に、はっきり言うが、朝鮮学校は朝鮮と繋がっている。当然に繋がっている。それはそれは強い繋がりである。朝鮮学校の関係者は全員知っている。その支援者も全員知っている。敢えて言うまでも無いぐらいの周知の事実である。
日本は過去の朝鮮植民地支配によって朝鮮系住民というエスニックマイノリティを国内に内包する原因を作りながらも、住民として満足な地位を与えず、慰謝も引き受けようとしない。そればかりか、自らが内包したエスニックマイノリティが、日本国内で維持発展されることに価値を一切認めず、エスニックマイノリティ自らが行おうとする、民族的価値観に根ざした教育を否定し、その維持を阻害している。(他にもアイヌ琉球が存在するにも関わらず)単一民族を語り、国民教育のみを肯定している。過去から現在に至るまで一貫している。
その日本で、在日朝鮮人自らが興したのが朝鮮学校だった。植民地支配からの解放後、バラック建てで机や椅子も満足に無いところから、私財を持ち寄り「国語講習所」というカタチでスタートした。左翼系運動との結び付きが強かったことから当初より日本政府とGHQの目の敵にされ閉鎖令が出、関西では少年が警察の銃弾で葬られても、同胞たちが命がけで守った。それが自分たちの手で作った学び舎、すなわち「ウリハッキョ」だった。
日本は旧植民地出身者及びその子孫に、植民地主義丸出しの同化政策のみを押しつけ、朝鮮学校は当初「各種学校」としてすらも認める意義は無いとされた。当然に公共財産としての整備や財政的な支援は皆無であった。
そこに支援の手を差し向け、教育援助費や奨学金や数々の物資を贈り、教師や学生を報償するなどして、多面的に関わり支えてきたのは、他でもない朝鮮政府だった。戦災復興ままならぬ1950年代から数百回にわたり支援金が贈られ続けている。これに朝鮮学校の関係者、支援者が歓迎し歓喜し、祖国の愛情を感じたのだ。
朝鮮学校に集う者が、朝鮮政府に対する親和性を抱き、教育内容にも繋げ、継承していったことは、どこまでも自然な話である。特に、朝鮮人への差別が今よりも遥かに激烈だった時代に朝鮮学校で育った世代は、韓国ではなく朝鮮こそを「ウリナラ(わが祖国)」と呼ぶ。それは取りも直さず、自らのアイデンティティの確立が、朝鮮学校での学びなしでは成り立ち得なかったことの自覚をこめて言っている。
日本の地において朝鮮人で生まれてきた者が朝鮮人として成長できる場所は、多くの朝鮮人には朝鮮学校以外に無い。そして朝鮮学校が歩んだ歴史と、朝鮮政府との関わりは分離できるはずが無い。朝鮮学校エスニックマイノリティたる我々在日朝鮮人にそれだけ価値があるから、60年以上も維持され、現在でもそれを選択し集い学ぶ者がいるのである。

それが今になって「朝鮮と縁を切れ/縁を切ればカネをやる」とはよく言ったものだ。いままでエスニックマイノリティの民族教育に価値を見出さなかった日本が、そんなことを言えた道理ではないのだ。
しかも在日朝鮮人の運動の結果各自治体の補助金が出るようになったのは、朝鮮学校成立のずっとずっと後のことではないか?それも私学助成金などよりウンと少ない額ではなかったか?元々保障されるべき民族教育の権利を回復しただけではなかったか?今更『チョーセン』は気に入らんから改めろ、とは図々しい物言いではないか?
はっきり言う。「どの口が言うねん」である。

当然、朝鮮学校の朝鮮政府との親和性と、現在の朝鮮学校に関わる者それぞれの現在の朝鮮政権の評価や立場距離感は別個のものであるし、草創期からの朝鮮政府と朝鮮学校との強固なつながりのみで、朝鮮学校の関係者の心情が、それに集約される訳でもない。
エスニックマイノリティとしてのアイデンティティは世代が継がれる度に希薄化していくだろう。その中で、朝鮮学校のあり方、朝鮮政府との親和性の度合いや教育内容は緩やかに変遷していくものと考える。しかしそれは朝鮮学校を維持する者が考え、行動する話であり、私も朝鮮学校は朝鮮政府に対し翼賛的に構えるのではなく距離感を保って是々非々にやることが自治として必要だと考えているが、政治家が好き勝手に云々して、関係ない者が喝采を送る話では断じて無いと断言する。



第二に、改めてもう一度言うが、朝鮮学校は『チョーセン』である。現在日本政府と敵対している朝鮮政府と強い繋がりを持った学校である。事実である。
しかし、それがどうしたのだ?開き直っているのではない。『チョーセン』の学校であれば、差別は是であるのか?それが問われているのだ。
政治的に関係が冷めきっている『チョーセン』相手には、日本の憲法や、国際人権法はどうでもいいのか?法治国家の役人とやらはそれでいいと思っているのか?自分らの掲げる憲法とやらは、政治家一人の思惑や文科省役人通達程度で吹き飛ぶペラッペラなものなのか?を問うているのだ。
我々はカネを恵んでほしくてケチを付けているのではない。我々自身の尊厳を踏みにじる政治の暴挙に声を挙げているのだ。

憲法14条は、法の下の平等を規定し、人種、信条、あるいは社会的関係を以て差別されない旨を定めている。よく「法の下の平等は外人は対象外である(だから差別は是認される)」という俺様解釈をかます言及を見かけるが、公民権や公権力などの行使に関し市民に限定する等の極めて狭い適用のみが妥当と考えるべきである。
憲法98条は憲法最高法規性と、日本が批准した条約や国際法規の遵守義務を規定する(憲法と国際条約等とを比較してどちらが優位かは、本論においては重要ではないので置く)。換言すれば、憲法や日本が批准した条約等に定める法理を、それより下位の国内法や条例や政令や局長通達等で歪めるのは言語道断ということである。
「教育を受ける権利」とは、国際人権規約にも規定される普遍的権利であるが、この普遍的権利の享受に必要な要件は「人であること」であり、外国人だろうが犯罪人であろうが無国籍者であろうが差異が無い(内外人平等原則、世界人権宣言・国際人権規約等を参照)。付言すれば「教育を受ける権利」とは教育を受ける個人が適切な教育を享受する権利のことであり、教育を施す側の権利ではない。ましてや官が認めた教育を無条件に受け入れる義務などは断じて導けない。
そして、エスニックマイノリティのアイデンティティ維持のために民族教育は不可欠であり、日本を原因にして日本に居住するに至ったエスニックマイノリティたる在日朝鮮人が、おのれのルーツに根差した教育を選択し享受する普遍的な権利を保持していることは自明である。

私は法律の専門家ではないし、これ以上の深い言及の為には私自身により深い学習が必要であるので参考文書に詳細は委ねるが(参考URL:http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2004-02.pdf#search='%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3+%E6%95%99%E8%82%B2+%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1+%E5%85%83')、法律や国際人権の法理をどう読んでも、朝鮮学校だけに法を適用せず、政治や外交を理由に切り捨てる理由が見当たらない。自民党は今回の方針決定で、当然にそれに対する説明義務を負ったわけであるし、橋下などの政治家も、条例訓示で憲法条約を覆して補助金を打ち切ったわけであるから、同様に説明責任を果たさなければならない。感情論や屁理屈ではなく、法律論で。どのように説明するのだろうか?ある意味楽しみである。



恐らく今後、日本各地で、朝鮮学校を無償化法から排除したことに抗う訴訟の提起が行われると思われる。早い段階で訴訟に至った大阪の「無償化連絡会」を紹介したい。
http://www.renrakukai-o.net/index.html
多くの在日同胞、及び理解ある日本社会の住民により、朝鮮学校を支える取組みが支援され、朝鮮学校の生徒に対する法的な差別が固定化されないようにすることが、大人の務めであると考えている。これからも、いち朝鮮学校の卒業生として、大いに語り、差別に抗わなければならないと思っている。
何も心配はない。我々は道の真ん中を堂々と歩けば、必ず道は開ける。日本が成熟した法治国家であれば、の話だが、必ず開ける。



少し脇に逸れるので最後に書くが、
教育とは世代を後進に継ぐ際に最も根源的に関わるファクターであるので、政治家が教育に対して云々言いたくなる気持ちは分からなくはない。
但し、政治家ができる仕事とは、「教育費に対する家計の支出をいかに軽減するか」「教育に触れる機会をいかに確保させるか」程度だと考える。間違っても「○○を教えるか」「個別の教育成果がどうだったか」という細かい話に政治家が首を突っ込む類の話は断じてあってはならないと考える。例えば日本の教育は、小中高の流れの中で編成されるものであり、最低でも3年なり6年なりの間は、変更されることのない方針なり到達目標設定なりの下で与えられるべきである。継続、積み上げの中で、経験則から少しづつ修正していくものである。
それを政治家が当選した途端に「○○を教えろ」「○○など教えるな」と口を挟み、塾の競争みたいに点数の優劣に噛みつき、個別の思惑を持ちこませたらどうなるだろう。教育の現場はすぐに混乱し疲弊する。政治家が代わる度に右に左に教育内容が修正され収拾が付かなくなる。最大の犠牲者は生徒であることは言うまでも無い。
教育というのは世代のまとまりがどのように成長したかで遠因的に語られ測られるべきで、教科書記述の子細が云々、どこの学校がテストで何点などと、地点地点の事象に政治がしゃしゃり出る話ではないのだ。
そのようなことも想像し理解ができない連中が、浅知恵で教育現場にいろいろ持ち込んで仕事をやっている気になっている。その過程で、朝鮮学校も犠牲となっているのであり、その意味でも日本の教育は衰退の一途を辿っているのである。



(※)ここで言う『チョーセン』とは、地理的種族的なカテゴライズである「朝鮮半島朝鮮民族」そのものではなく、それを日本社会の先入観偏見差別意識というフィルターを通して生成し、日本社会のマジョリティー(という資格を振りかざす者)が、実態とは関係なく、独自の認定によって取り付ける、「レッテル・タグ」である。
つまり、例えば実際は日本人であっても、在日朝鮮人の主張に少しでも理解したりそれと交流を持っていたりすれば、その者は『チョーセン』である。つまり悪である。この空気感を正確に把握してほしい。