いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

朝鮮学校の補助金の代わり、「拉致本」の次は「切手」? 埼玉県知事の人権感覚に恐怖する。

高校無償化から朝鮮高校の正式排除が決定されるやいなや、全国各地の朝鮮学校へ支給されていた補助金もどんどん打ち切りが決定されている。反チョーセンで一気に盛り上がる「世論」や、青いバッジの集団にツベコベ言われる前に、ややこしいことから身を引いておこう、という為政者の焦りが垣間見える。

それに関して、先日私は川崎市長の「拉致本」支給の愚を書いたが、上には上がいたようだ。しかも市長レベルではない。知事だ。
埼玉県の上田知事の発言が、日本政治のおぞましい現状をわかりやすく映し出している。



知事「我慢にも限界」 朝鮮学校補助金、県予算に計上せず
埼玉新聞2013年2月14日
http://www.saitama-np.co.jp/news02/14/10.html

(引用開始)
上田清司知事は13日の定例会見で埼玉朝鮮初中級学校(さいたま市大宮区)の運営費補助金を2013年度の一般会計当初予算案に計上しない考えを明らかにした。知事は「日本人拉致問題が何ら進展がなく、度重なるミサイル発射や核実験など、もう我慢にも限界がある。国民感情や県議会の決議もある。総合的に考えて計上しないことを決めた」と述べた。
県は10、11年度分の補助金約900万円は予算計上したが、「学校の財政健全化が図られていない」などとして、ともに交付を凍結。同じく予算計上している12年度分について、知事は「財政の健全性が確認できる状況に至っていないので凍結のまま終わる見込み」との認識を示した。
(引用ここまで)



埼玉・上田清司知事 補助金の代わりに切手?
2013年2月24日 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130224/stm13022408000000-n1.htm

(引用開始)
「知事の会としてどうするか知恵を絞り、効果のある方法を打ち込みたい」
北朝鮮による拉致被害者を救出する知事の会会長の上田清司知事は20日、「拉致された日本人を救出する埼玉の会」から早期解決を求める要望書を手渡され、こう決意を述べた。
その後、朝鮮学校への補助金問題で川崎市補助金の代わりに拉致被害者家族の著書を支給することについて記者から問われた上田知事。「補助金を出すには問題があるということを全国にアピールできた。とてもいいこと」と賛同した。
埼玉県は補助金を予算計上しなかったが、上田知事は13日の記者会見で「なぜ予算が計上されないか、ぜひ本国に伝えていただきたい」と朝鮮学校側に要望を寄せていた。それだけに川崎市のアイデアを聞いた後には「(本国に手紙を送るための)切手でも支給しますか」と冗談を飛ばした。
(引用ここまで)



もう我慢にも限界がある
と言って朝鮮学校への補助金を打ち切るというのは、どのような思考回路なのか?
これまで、キタチョーセンが気に入らないから支給したくなかったのを『我慢して』支給してきたとでも言うのだろうか?憲法や国際人権法で当然に要求されている普遍的な権利である「学ぶ権利」を担保するために、埼玉県の住民である朝鮮学校生徒児童に、自治体として行うべき教育扶助を、福祉の系譜から理解せず、法的に理解・判断せず、『我慢』などという感情に任せて判断されてはたまったものではない。エスニックマイノリティに対するアイデンティティ涵養の意義にまったく想いが至らないネット住民がヤジ馬的にケチを付けるのと、まったく見分けがつかないレベルの物言いを、マスコミを集めた定例会見で述べるのだから。こんなものは法治国家の為政者の物言いでは断じて無い。

そして、川崎市長が補助を凍結したカネで「拉致本」を送りつける愚を働くことについては、
補助金を出すには問題があるということを全国にアピールできた
とてもいいこと
などと諸手を挙げて賛意を示して見せた。
いち市民である朝鮮学校の子供たちの学習権を、本人らに責任のないことへの言いがかりでもって狙い撃ちで侵害して、おのれの政治主張のアピールを働くという、為政者として最悪レベルの差別主義者・川崎市長に、同じ差別主義者としての賛辞を惜しまないという、見事な連携プレーだ。反吐が出る。

極めつけは、産経の記者との阿吽の呼吸で繰り広げられたこのクダリ、アタマがクラクラする。

川崎市のアイデアを聞いた後には「(本国に手紙を送るための)切手でも支給しますか」と冗談を飛ばした。
マイノリティの子供を相手に政治攻撃を仕掛けることを恥とも思わない愚を、『イデア』などと呑気に評価してしまう産経新聞に水を向けられて、「本国に手紙を送れ」と筋が悪い妄言を飛ばす知事。本当に凄まじい。
この発言は前週の定例会見で「朝鮮学校の皆さんには気の毒な部分もある。なぜ予算が計上されないかを本国に伝えていただきたい」という旨の、自身の発言を受けてのものだ(http://sankei.jp.msn.com/region/news/130217/stm13021708000000-n1.htm)が、自らが判断した差別政策の犠牲者に向かって、まともな説明を面と向かってすればいいものを、朝鮮学校の生徒は本国に手紙でも書いて、自分らの不遇の原因は祖国だと嘆いて見せろ、自らの手前勝手な言いがかりに加担して見せろとは、本当に「悪い冗談」である。

仮に、同じようなやり取りが、仮に欧米で繰り広げられていれば、早速マスコミに吊るし上げられて職を追われるか、役所が抗議の波に囲まれるだろう。しかしその肝心のマスコミすらもこの差別政策を追認あるいは静観することで気楽に構え一緒に思考が停止し、「世論」に乗って厄介を取り込まない姿勢を崩さない。このような、為政者とマスコミとの『ぬるーい』空気が共犯関係になって、野蛮な差別が、さして大きな批判にさらされることなく、言うたもん勝ちでまかり通ろうとしている。

昨今の日本の為政者はじめ、余りにも気づいていない人が多いようなので敢えて書くが、朝鮮学校の無償化や補助金をどう扱うかをはじめ、自らの現代史によって取り込み、自らの社会に内在するエスニックマイノリティ及びその教育機関を、どのように処遇するかというのは、専ら、日本社会が、おのれの社会がどうあるべきかを鑑みて、自らが掲げた法律の理念に基づき判断することである。「キタチョーセン」「核」「ミサイル」「拉致」が何であろうとどうあろうと関係なく、自らが掲げた憲法はじめ諸法規、加えて民主主義の理念、現代的人権感覚、国際的ポジショニングから、日本社会が主体的に判断するべきものである。我々在日朝鮮人は日本社会の住民である。朝鮮に税金も収めていなければ、朝鮮で働くこともなければ、朝鮮に骨を埋めることもない。ほぼ全員。ただ自らのルーツ、アイデンティティを堅持し、そこから発進した教育を受けたい、受けさせたいだけである。それを自分らの外交が頓挫しているからと、我々を人質に取って妨害するな、と言っているのである。
在日朝鮮人は、訳のわからない国の言葉と妄想を持ち込んでいるわけではない。日本社会の住民として、日本国が掲げる法及び民主主義の理念に基づき声を挙げている。それに対する反証は、当然に日本国の法及び民主主義理念から発進したものでなければならない(民主主義は『多数決』に収斂されるようなペラッペラな理念ではないことくらい、少し勉強すればすぐに分かることだから、勉強してみてください)。
それなのに、為政者はすべて「キタチョーセンが○○」と、朝鮮政府の所業を持ち出しては、日本社会の『世論』とやらを自分勝手に抽出して正当化している。法に基づかず、自分らが決めた手続すらも放り出している。これは多数者による少数者への私刑(リンチ)である。こんなものは法治国家でも民主主義国家でも何でもない。先進国であり国連人権委員会の理事国だとどの口が言うのか心配になるくらい野蛮な行為だ。『チョーセン』を敵対的あるいは下位層的ポジショニングに据えたまま思考停止し、その危険性を気づく能力の無い人間集団が、自らの法治主義と民主主義を殺している。

現代の立憲主義法治主義では、まったくもって説明がつかないのが今般の朝鮮学校にまつわる政策だが、これに対する警鐘は、地方紙等小マスコミ以外からは聞こえてこない。

日本はいま、『チョーセン』が、個人レベルでは自尊心を保持し自らの醜悪さを正当化する記号として重用され、社会レベルでは共同体の一体感や改憲の衝動を語る記号として活用されている。まさに『チョーセン依存症』に取り憑かれている。早くこの呪縛の構造から抜け出せない限り、この社会における『他者への猜疑心』が加速度的に増幅して際限がなくなるだろう。その後の社会はどのような社会か、想像するだけでおぞましい。そのような社会に墜ちぬよう、どこかで歯止めをかけなければならない。