(突然ですが)死刑と冤罪について考える
このブログでは、ずっといち在日朝鮮人のkinchanという立場で書いてきましたが、唐突に今回は死刑について書きます。
実は私、大学で法哲学を専攻し、死刑について研究をしていたのです。そのようなこともあり、いまでも死刑制度についての研究は私のライフワークとしてやっております。
■序
なぜに死刑制度を研究しているかというと、死刑囚をはじめ、懲役囚、未決囚などの被拘禁者の人権の深度を測ることは、取りも直さず日本の人権の深度を推計することになるからです。研究者のなかでは「塀の中を見れば人権の深度がわかる」とも言われるのです。なぜなら、彼らは最も「人権を軽んじられやすい存在」だからです。最も人権の光が届かない者とも言えるでしょう。そういう所にまで、法制度が目をやり、彼らが人格を尊重されるかどうか、それこそが日本の人権の深度を測る鏡になるのです。
障がい者、部落出身者、在日外国人、被拘禁者等の、種族や社会階層でマイノリティに分類される者の人権の深度は、マジョリティたる日本国民一般の理解がなければ深まりません。法制度を構築し彼らが住みよい環境を創るのもマジョリティであれば、彼らをネタにし笑って追いやるのもマジョリティです。生殺与奪はマジョリティにかかっている、というのは言い過ぎではありますが、実際にマジョリティの心積もり腹積もりで如何様にも転ぶのが、マイノリティへの施策なのです。
マイノリティは実際にこの社会に存在し、声をあげている。しかしマジョリティの視界には入っていないし耳には届いていない。目の前の人権侵害は紛れも無いこの世の現実だが、マジョリティの価値観によって「存在しないもの」「価値の無いもの」となっている。
究極のマイノリティである被拘禁者、特に死刑囚について、視野の外に追いやるのではなく、死刑制度も絡めてあるべきカタチを探求していくのは、先天的マイノリティたる私の立ち位置の再考にも通じるものなのかな、と思っています。
■犯罪とは「作られる」ものだ
逮捕権を持つ司法官憲は、原則丸腰の我々一般人とは比べものにならない強大な権限で被疑者の犯罪事実を認定して逮捕する特権を持っています。逆に我々一般人には現行犯人以外逮捕する権限は持っておらず、逮捕などすれば逆に逮捕罪で拘禁される可能性があります。私的救済は禁じられており、犯罪を犯した者を法的に犯罪者として処断できるのは司法のみです。
問題は、犯罪事実の認定が司法側の都合で行われることであり、犯罪の構成用件にあたるものであっても、司法の腹ひとつで、犯罪になったりならなかったりすることです。当然警察力の限界や採算性の問題があり、全ての犯罪事実を認知することは不可能だとしても、認知した犯罪事実を犯罪として取り扱うか取り扱わないかは警察の裁量に委ねられているということです。
例えば過去にオウム真理教事件があったとき、信者を徹底的に調べるために「任意」で車や居室や身体を調べ、カッターナイフを持っていたからといっては銃刀法違反で逮捕したり、共産党のビラを撒きにマンションのエンタランスに「侵入」したとして逮捕された人もいます。逆に反日外国人だと言い掛かりをつけ、日の丸片手に一般人をフルボッコにしても逮捕されず、逆にフルボッコに遭ったほうが暴行罪で逮捕されたりします。つまり、犯罪及び犯罪者は、司法が認知すれば自然にその法関係が成立するというものではなく、司法が認知した事実から「作られる」ものであり、その適用は司法の都合である、というれっきとした事実を確認しておく必要があります。そして司法がその気になれば、「ない」ものを「ある」ように「作る」ことができるということです。
(誤解を生みそうなので補足しますが、警察力を強化して認知件数を増やし、それら全てを徹底的に犯罪として立件せよと言っているのではありません。犯罪は摘発されなければ処罰対象とならず、摘発はあくまで警察のさじ加減だよ、ということを言いたいわけです。)
■刑事被告人に適用されるべき大原則
これから刑事被告人について書きますが、先にこのことを踏まえておかないと、「なんで犯罪者なのに云々」と変なところで怒ったりさせてしまいますので、先に書いておきます。いわずもがなですが。
以下は刑事訴訟において被告人に適用される大原則です。
・「推定無罪」…訴訟等で犯罪者として認定されるまでは、無罪と推定し取り扱うこと
・「疑わしきは被告人の利益に」…犯罪事実、証拠等に疑いがあるときは被告人に有利に取り扱うこと
刑事被告人は、刑事訴訟の一方当事者の都合で、犯罪者であると「疑いをかけられているだけ」の存在です。その疑いが事実であると、刑事訴訟手続によって認定されるまでは、「犯罪者ではない」のです。実際に客観証拠があるか、自白があるかを問わず、これがすべての刑事被告人に適用されます。これが大原則です。ところが実際の運用はかけ離れています。後に書きます。
■刑事訴追には徹底した手続の保証が必要だ
刑事訴追を受けた者は、刑事訴訟の過程で、「警察・検察」と対峙し自分の身を守らなければなりません。相手は国家権力であり、自分はいわば一般人です。普段法律のほの字にも触れる機会の無い者が、メンツにかけてあの手この手で自分を立派な犯罪者に仕立てようとする検察等から、何とか我が身を防御しなければなりません。言われの無い嫌疑なら無罪を勝ち取らなければなりませんし、仮に何らかの犯罪を犯して捕まったとしても、検察等の批判全部をありのままに受け入れるのではなく、一部でも事実と違うものがあれば違うと主張できる、その証拠も出すことができる、聞く耳を誰かが持ってくれる、という状態でなければなりません。
つまり、刑事訴追された者には、徹底した自己防御の手段を与えなければならない。またそのような自己防衛手段があるなら、あると理解し、選択し、活用できなければなりません。刑事訴訟の一方当事者である検察側の都合で犯罪の嫌疑をかけられたとしても、その疑いを、与えられた、あるいは自らが選択した手段で、十分に自己主張、防御ができる状態でなければなりません。そのような機会が与えられなければ、一方当事者の検察等に対して公平な裁判とならないからです。検察等が自分を責めるように、自分も防御するに十分な武器を持たなければなりません。
一部の金持ちや法律の知識を持つ者は、自前の敏腕弁護士や持っている知識を持って防御が可能ですが、そうでない者は警察の言いなりに「ハイ、ハイ」取調に答え、挙句に警察の作文と化した調書に署名したがために、それを根拠に被らなくてもいい誹りまで、ということにもなりかねません。「地獄の沙汰もカネ次第」では駄目なのです。
■これでは刑事被告人は絶対不利だ―冤罪が生まれるこれだけの仕組み
しかしながら、実際はそのような理想形とはかけ離れた状態であると言わざるを得ません。現在の司法制度及びその運用は、刑事被告人が自らを防御するには余りにも未整備で起訴されたら絶対不利です。一説には「99.8%」と言われる異常なほど高い有罪率がそれを物語っています。警察と検察とで、スムーズにさっさと犯罪者に仕立ててしまえる仕組みになっているということです。思いつく限り挙げていきます。
(1)代用監獄問題
被疑者を法務省管轄の刑事施設である拘置所ではなく、取調を行う警察の留置場に留め置き取り調べる問題。拘置所なら取調ができる時間は拘置所の規則で限られ、食事の時間も決まっているので、取調は都度中断されるが、警察署の留置場では署長の裁量でそれらが決められるので、それこそ「吐く」まで、捜査員が入れ替わり立ち替わりで、寝かさず、食事もやらずで追い込むことが可能になる。タイムリミットまでは23日間もあり、別件逮捕の乱発でどんどん伸ばされる。その間、面会不許にして社会との繋がりを徹底的に断ったうえで「楽になりたければ吐け」と迫られる。精神的に強い者でも相当追い込まれる。
送検後は拘置所を使うべきで、一方当事者の検察等に有利な警察留置場は使うべきではない。
(2)国選弁護人問題
自費で雇う私選の弁護士は、カネの積み方次第で優秀な者を何人でも雇え、いくらでも相談に乗ってもらえる。当然に有能な弁護士が付けばつくほど、裁判が有利に働く。逆に自費で雇うことのできない者は公費で弁護人が付されるが、これが厄介だ。まず国選弁護士は起訴された後にしか付けてもらえず、「逮捕〜起訴」の熾烈な取調が行われる時には付かない。国選に支払われる国からの対価は私選の標準報酬に比べると少額で、かつ無罪や執行猶予を勝ち取った際の成功報酬もままならない。多くの国選弁護人は弁護に燃えることなく、ひどい場合は、被告人との初対面が初公判の法廷ということもあるようだ。
国選弁護人であっても、十分な弁護を受けられるように運用の改善をすべきだ。
(3)取調の可視化問題
現状は、取調が可視化されていない。刑事訴訟の場で供述内容が確認できるのは調書だけということになる。調書に被疑者のサインが入っていれば立派な証拠になりうる。しかしその調書がどのような取調方法で作成されたのか、自発的な自供が元なのか、刑事が椅子を蹴りあげ机を叩き脅しまくって自供を誘発したのか、刑事の書いたシナリオ(作文)に、被疑者がただ言われるままに「ハイ、ハイ」と生返事して出来上がったものなのか、これらによって証拠能力は大きく左右されるだろう。取調の過程がどうであったか、どのように調書が出来上がったのか、事後に評価できなければ、調書の信用性は本来は分からないはずであるが、現状の刑事訴訟では自白偏重主義が幅を利かせ、未だに最重要証拠となっている。
取調を最初から最後まで録画し、後で修正やカットをできないように第三者機関で管理するようにすべきで、そのような環境の下で作られた調書でなければ証拠能力なしとすべきだ。
(4)最良証拠主義問題
検察等は被告人の犯罪を認定させるためにその犯罪事実を証明するに最良な証拠のみを裁判所に提出する。その他の証拠は裁判所に提出されず、被告人側(弁護士等)への開示も義務づけられていない。つまり、被告人側の無実を証明するような、検察側にとって不利な消極証拠は、その存在自体が隠蔽される可能性がある。被告人、弁護士等は、国の機関より著しく証拠収集能力が劣っていることは言うまでもないが、存在する証拠まで隠蔽されてしまっては、無実の証明は一層困難になる。
収集された証拠は中立的な機関で一元管理され、検察側、被告人側ともが自由に閲覧、調査でき、改竄や隠蔽ができないようにすべきだ。
(5)マスコミ・世間による「推定有罪」問題
前述のとおり、刑事訴訟にて有罪と認定されない限り、刑事被告人は検察等によって「犯人と疑われている」だけの存在であり、(その時点では)犯人ではない。それなのにマスコミは真犯人であることを決めつけて徹底的な人格否定を含めて「犯人憎し」と書き連ねる。松本サリン事件被害者の河野義行さんの実例を持ち出すまでもなく、まだ犯人であると決まったわけでもない人間を、実名や家族関係を晒し、勤務先や交友関係に押しかけネタを掘りだしにかかる。おおよそ関係の無い幼少時代のクラブ活動の写真や卒業文集の将来の夢まで垂れ流す。事件は報道の域を超え好奇のネタ(ワイドショーの大好物)と化す。これら一連の所業によって「被疑者=真犯人」の構図が世間で定着する(逆に無罪が確定した後は自分らが書き連ねた分の紙幅や時間を割いて報道被害の回復を行うわけでもない)。またこれが中立であるべき裁判官・裁判員への圧力、あるいは刷り込みになっているとも考える。
マスコミは推定無罪である被疑者・被告人の人権に配慮した報道を行うべきであり、感情的な報道性向や、興味本位の人格を無視した報道を排すべきである。少なくとも現在のマスコミは、公正公平な裁判が行われたのか検証批判する立場を忘れ、「犯罪者であるあいつ殺せ」という世間のヒステリーに扇動加担する役割しか果たしていない。
(6)裁判所の「疑わしくても罰する」問題
前にも揚げたが、日本の驚異的な有罪率99.8%は、裁判官の「検察は十分な捜査をして公訴をしている」という過信と、「被告人が無罪を主張しているのは命拾いをしたいからだ」という偏見に基づいていると見ている。確かに、証拠不十分や起訴猶予等で起訴に至らない者が半数近く居るとはいえ、公判が提起されれば、ほぼ100%で有罪と言うのは異常である。同じ公務員である検察を批判するような真似はできない、という空気感もあるのかもしれない。テレビでたびたびその異常な公判維持ぶりが注目された御殿場事件をはじめ、無罪にして批判を浴びるより「無難に」有罪にしておこう、という裁判所の意図を感じ取れる。
裁判所は「疑わしきは被告人の利益に」という刑事訴訟の大原則を、勇気を持って貫くべきだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%AE%BF%E5%A0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(7)その他
・警察の逮捕状請求が、裁判所にほぼ100%認められて発布される
・面会回数、一回当たりの面会人員に合理的でない制約が設けられ、被告人等に対する必要十分な支援が阻害されている
・否認をしている被告人には往々に保釈を認めないなど、保釈制度に不当な運用がある
・犯行を否認していれば「反省をしていない」と捉え、「被告人も死刑を望んでいるから死刑が相当」等、理屈が通らない不思議な思考回路で量刑判断されている(無実の人間は反省しようがないではないか?被告人が死刑を望むから死刑なのなら、減刑を望めば減刑にすべきではないか?)
■冤罪を生まない方策を徹底的に議論し導入することは民主主義の根底に関わる
「冤罪」と聞くと、多くの一般人には関係のないことと捉えられがちです。無理もありません。自分には身に覚えがないのですから。「疑われるようなことをするようなヤツが悪い」「俺には関係ない」と。しかし、犯罪者に仕立てるのは検察側の都合、検察等が思い込むかどうかがポイントで、何を疑うかも検察側次第ですので、一度疑われたら逃れられません。何を言っても「お前が犯人だ」と決めつけ自分の言い分には誰も聞く耳を持たず、孤独にされ、犯罪者へのベルトコンベアに否応なく乗せられるのです。「冤罪」は誰の身にも襲いかかる可能性があると考える必要があります。
刑事訴訟、そして刑罰は、社会が正義を実現する有効な手段であることは疑いがありません。しかし社会がそれを導入する際、優先的に構築しなければならないのは、「絶対に冤罪を生まない仕組み」です。
刑事訴訟の大原則を貫いた公正公平な裁判を受ける権利を、我々市民が共有すべき財産として認識し、それを作り上げていくことです。それには「加害者の人権保護がなんで必要なんですか?」等という批判は当たりません。犯人ではない者を犯人に仕立てないことは、他の犯罪の犯人を1000人取り逃がすことより余程に重要なことなのです。犯罪者を取り逃がし罰さない不正義のために、無実の者を罰する不正義が引き合いになるわけがありません。それどころか、まったく釣り合いません。
刑事訴訟における手続の保障は、「犯罪者のための権利」ではありません。民主主義を確立するうえで欠くことのできない、私たち自身の権利なのです。
■いくら法制度を拡充させても、人が人を裁く以上、冤罪は起こりうる
しかし、いくらこのような仕組みを構築しても、冤罪は起こりえます。それは人が人を裁く以上不可避のものです。後から真犯人や新たな物的証拠、アリバイ証人が出てくる可能性があります。足利事件の菅家利和さんのように、科学の進歩によって濡れ衣が晴れるということもあります。ですから、裁判が確定して刑に服していたとしても、積極的に再審の門戸を開き、無実の者を救済できるようにしなければなりません。
当然一事不再理の原則から、証拠証人の状況が変わらぬまま何度も裁判で蒸し返すことは無いにしても、被告人(受刑者等)に有利な証拠証言があるのであれば、有罪無罪や量刑判断が変わる可能性があるのだから、積極的に再審を実施し、冤罪から救い、あるいは不釣り合いな重刑から解放されなければなりません。
■殺した後では、冤罪は本当に取り返しがつかない
たとえば、足利事件の菅家さんは、17年以上も獄につながれていましたが、無実を訴える声がようやく司法に届き、冤罪が晴れました。下獄の17年間は取り戻しようがありませんし、支払われた刑事補償金が8000万円では最低時給にも満たず、それさえも弁護士への成功報酬に大半が消えていくというように、冤罪は晴れたにしても彼を覆う現実は余りにむごいのですが、それでも彼は、生きていたから冤罪を主張することができ、周囲も支援をすることができたわけです。そして冤罪を晴らすことができ、名誉を回復することができたわけです。
それこそ、国家が、彼のような冤罪被害者を作ってしまったことを徹底的に保障するべく、たとえば何十年も獄につないだ末に冤罪が証明された際には、莫大な刑事補償一時金と割増の老齢年金、住居や医療を終身で保障する等という手厚い保護があってもいいと思います。彼らはそのような特権を享受して然るべき不遇を理不尽に被ったのですから、それをひがむ人は一定数いたとしても、そのような制度はあってもいいでしょう。
ですが、死刑で殺してしまっては、冤罪は永久に晴れません。国家は無実の者を殺した埋め合わせができません。殺した後に遺族や支援者が晴らす可能性もありますが、殺した後では意味がありません。
人が人を裁く以上、間違いはあります。間違いを排す仕組みをいくら多重に構築しても、間違う可能性は残ります。間違ったと分かった時に、理不尽を負わせてしまった人が生きていれば、金銭と環境を揃えてその残りの人生を充実させていくらかでも取り返させることはできます。しかし、殺してしまっては、本当に、取り返しようが無いのです。
私はこの一点を最大の論点として、死刑の廃止を主張します。
■「冤罪による死刑」は現実にある問題だ
実際に死刑判決が下され、何十年も執行の恐怖に曝された末に、死刑台から生還した元死刑囚が、戦後既に4人も存在します。免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件の各元死刑囚です。また下級審で死刑になり、その後上級審で無罪となったケースも多数存在します。判断する裁判官によって、顕在化した証拠によって、いくらでも判断が変わりうるということです。冤罪による死刑執行は、現実に起こりうる可能性があり、それは本当に取り返しがつかないのです。
■では、「まず間違いなく犯人」である者への死刑適用はアリなのか?
当然、「ナシ」です。
「まず間違いなく犯人」であるかどうかは、神のみぞ知る、と考えるべきです。人間には証拠を持ってそれを「認定」することしかできないということを知るべきなのです。すべての刑事訴訟では事実認定を間違う可能性があることを前提にすべきで、間違ったことは修正され、失われた利益は回復されるべきなのです。死刑でそれを回復する途を断つのは誤りです。刑事訴訟の過程で、いくら厳格に「疑わしきは被告人の利益に」を適用したとしても、完全な事実認定が人間には不可能である以上、絶対的な刑罰である死刑は行うべきではないのです。
それこそ「間違いなく犯人」というのが客観証拠から100%立証可能な者のみ死刑にできるという運用にするとすれば、「鈍臭い殺人者」より、完全犯罪を計画的に実行し「上手く立ちまわった殺人者」のほうが有利に扱われることになります。それは不公平が過ぎるというものでしょう。何のための刑罰なのか分からなくなってしまいます。
これに関連して。郷田マモラさんの「モリのアサガオ」というマンガでは、死刑囚と新人刑務官との友情が描かれているのですが、主人公の新人刑務官が死刑囚との交流を通じて様々な葛藤をした挙句、最終的には死刑を肯定するようになります。そしてあるべき死刑の運用について、主人公が以下のように主張するのです。
「わずかでも冤罪の疑いがある者は死刑囚舎房に閉じ込めてはいけないんやないやろうか…彼らはすべて一般の房に戻し…早急に審理のやり直しをするべきやと思うんや」(双葉社『モリのアサガオ』第7巻207頁)
私はこの主張がどう考えても理に合わないと感じています。この「わずかでも冤罪の疑いがある者」を、誰がどのような基準で判断するのか、全く示されていないからです。仮にこれが死刑囚の主張であると仮定すると、死刑囚の多くがおのれの延命のために絶えず再審請求を続けているということはよく知られていますが、これを全部受け入れて再審を乱発せよということになります。おのれの犯罪行為を早い段階で認め犠牲者の命に向きあい真摯に反省する「素直に刑に服そうとする者」に対してはスムーズに死刑執行できる、反面おのれの犯罪行為を最後まで認めず反省もしない「最後まで悪あがきをする者」には死刑執行できない、ということになります。刑罰が真に必要とされるのは比較して後者と考えられるが、運用は真逆になります。さては裁判官等の司法司直の判断を想定しているのかもしれませんが、「最初から公正な裁判をしておけ」という文句を喚起する以外ありません。いずれにしてもよく分からない主張であると言わざるを得ません。
結局、冤罪なのかそうでないのかは、本人以外誰にも分からないのです。人は証拠を積み上げ事実を推定し、認定するしかできないのです。それは間違う可能性があるのです。取り返しのつかないことを制度構築すべきではないのです。
■kinchanが死刑廃止を主張するその他の論点
(1)毎日毎日おのれの死に怯えさせることは「残虐な刑罰」ではないのか?
憲法では残虐な刑罰を禁止している。確かに死刑囚は残虐に人の命を奪ってその立場にいる訳だが、毎朝9時に訪れるかもしれない「お迎え」の恐怖におびえながら、それこそ死ぬ朝まで繰り返しその恐怖を味わわなければならない、というのは「残虐な刑罰」ではないのか?
もっとも、死刑囚は絞首刑こそが刑であって、それまで拘置舎房に繋がれているのは、その執行を担保するためのものであり、「刑罰ではない」。執行のその日まで心身健康体で生かしておきながら、突然に不意打ちのように吊るして命を奪い取るという死刑の性格から、お迎えの苦悩が死刑という刑罰には絶えず付随することになるが、それは人間の尊厳を考えるとき、死刑の非人間性を如実に示しているように感じる。このような野蛮な制度は人間の英知をもって止めるべきである。
(2)死刑制度とは、国民が人殺しを誰かに強要する制度である
死刑は執行する者があって初めて成立する。日本ではそれを拘置所の刑務官に行わせている。ある意味家族より長い時間、日々苦楽を共にし、死刑囚の生活指導をしたりで情を行き交わせている刑務官に、最後はその者を縛り上げ吊しなさい、ということを国民は命じているのである。死刑制度を存置すべきだというのであれば、彼らの苦悩に想いを馳せていただきたい。このことは多くの書物になっているので、是非とも読んでいただきたい。
(3)すでに多くの国が死刑を廃止している
死刑とは刑罰の手段の中で最も古いと言われている。最も原始的であるとも言えるだろう。しかし21世紀になった今、死刑廃止は世界の潮流である。国際人権規約、死刑廃止条約、死刑執行停止を求める決議など、近年になって世界は、「人間の尊厳」「生命権」「民主主義」に人類共通の普遍的な価値を見出し、その具体化として死刑を廃止しているのである。
現在の世界の潮流、死刑廃止に向けた考え方は、こちらのエントリーが分かりやすいので参照願いたい。
『死刑廃止は世界の流れ』小川原優之弁護士編 http://www.morino-ohisama.jp/about/doc01.pdf
(4)「量刑ギャップ」を狭めることで、段階的な死刑選択の縮小が可能である
死刑は絞首刑への片道切符なのに対して、それの一段緩い無期懲役は制度上10年以上服役すれば仮釈放が可能である。この「量刑ギャップ」が大きすぎることが、日本で死刑をなかなか廃止できない一因であると考える。より仮釈放を厳格化する、あるいは恩赦以外に釈放の途がない終身刑の運用により、死刑の廃止が見えてくるのではないかと考える。
日本では世論の圧倒的多数が死刑存置を肯定していると言われているが、私はこれを大いなる疑いを持って見ている。
・どんな場合でも死刑は廃止すべきである → 6.0%
・場合によっては死刑もやむを得ない → 81.4%
・わからない、一概に言えない → 12.5%
どう考えても設問がまずい。「どんな場合でも」と死刑廃止票の投票口を非常に狭く設定し、「場合によっては」と死刑存置票を大風呂敷で囲えるようにしている。法務省はこの世論調査を死刑存置の大きな拠り所とし、ことあるたびにこの調査結果を引っ張り出して世論を誘導しているが、仮にこの世論調査の設問を、「終身刑など死刑に代替しうる制度を創設すれば死刑を廃止してもよい」「どんな場合でも死刑は存置しなければならない」の択一にすれば、票の配分が相当変わるのではないかと考えている。
(5)死刑制度は、権力が国民の口を塞ぐ制度になりうる
殺してしまえば、その者の口は永遠に塞がれてしまう。死刑制度は国民の口を塞ぐ最終手段を国家権力に与えることになる。解放されたリビアの政治犯収容所で1000を超える人骨が発見された。権力が国民を殺すことを正当とするとき、そこに生きる国民もまた同じように口を塞がれうるということを理解すべきだ。我々が生きる社会の、民主主義の深度を定義する制度とも言えるだろう。
■結
私の考え方は少々理想論が過ぎるかもしれませんが、「人間の尊厳」「生命」に重きを置いて考えるとき、私は死刑に対して、現時点でこのような考えを抱いています。
終身刑とは、その者の存在は認めつつ留まる範囲を限定するものであるのに対し、死刑とはその者の存在自体を完全排除するためのものであると言えます。この社会の構成員が、ひとを「我ら」と「彼ら」に分別し、「彼ら」を邪魔で不要な存在として排斥していく過程の、最も究極なカタチとして死刑が存在するのです。
この世には本当にいろいろな人がいて、それがこの世の多様性、面白さになっているのですが、そんな中から悲しいかな犯罪者が一定数出てしまいます。それは「我ら」の中から発生したのであって、「我ら」の有り様が原因の一端であることを知るべきなのです。急に「彼ら」がどこからか降って湧いてくるわけではないのです。
「彼ら」の存在を駆逐しなければならない、徹底的に排除しなければならない、そうでなければ安心して過ごせない、という強迫観念にも似た発想は、「我ら」の価値基準や環境の変化、権力や声のでかい者の扇動と集団心理の盛り上がりによって、如何様にも駆逐対象の上下左右のラインが変わり、加えて大衆の熱中と猜疑心を喚起する危うさを持っています。
そうではなく、「彼ら」も我らの一部であり、共に社会で幸福を追求する権利を持っていることを、私は大切にしたいのです。「彼ら」が刑罰による矯正で更生し、ペナルティを終えさえすれば、また戻って来れることを前提とした社会でありたいと願うのです。我ら次第で彼らが受け入れられ、変わって行けることを理解できれば、我ら自身がその有り様を変えることになる。それは取りも直さず我らが住みよい社会なのではないか、と思うのです。
誰ひとりとして、殺してはならない。殺されてはならない。たとえ殺人を犯した者であっても、殺してはならない。殺されてはならない。
そう思うのです。