いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

義務は「日本人同様」、権利や保障は「朝鮮人を除く」。今も昔も一緒。 ― 朝鮮人元BC級戦犯の悲哀を描いた良質記事

良心的な記者による、鋭い洞察の記事があったので、記録の意味も含めて紹介したい。

 

 

日本人であることを強要された「元BC級戦犯」の苦悶

いつ命を奪われるか分からない日々に…
栗原 俊雄
現代ビジネス 2019.02.03
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59623

(引用開始)

(前略)

■今も続く「戦争」

「ああ、すっかり変わってしまいましたね。私の宿舎はあそこにありました」。東京屈指の繁華街・池袋、サンシャインシティの公園で、李鶴来さんはそう話した。2015年、8月のことである。

李さんは1925年、朝鮮半島南西部の全羅南道で、小作農の長男として生まれた。郵便局員などとして働いた後の1942年、17歳で軍属、捕虜監視員となった。前年の開戦間もなく、日本軍は東南アジアで占領地を拡大していった。それに伴い、連合国軍の捕虜が増えた。それを監視する人員が必要になり、植民地の朝鮮や台湾で募集していたのだ。

成績優秀だった李さんは、村役場から受験するよう勧められた。「拒否することはできませんでした」。役場ごとにノルマがあったという。

その後2カ月間、釜山で捕虜監視員としての訓練を受けた。「声が小さい、姿勢が悪い」などの理由で、上官から何度も殴られた。「立派な日本人にしてやる」と。命令は絶対。「生きて虜囚の辱めを受けず」=捕虜になることを厳しく戒める「戦陣訓」を暗唱させれらた。

戦時下とはいえ、国際法によって捕虜には人道にかなう待遇が保障されていた。しかし「捕虜になるくらいなら死ね」と教えた大日本帝国は、それを捕虜監視員に教育していなかった。李さんはまったく知らされていなかった。
訓練を終えた李さんは、泰緬鉄道で働く捕虜の監視員となった。タイとミャンマー(現ビルマ)を結ぶ鉄道で、映画「戦場にかける橋」の舞台として知られる。劣悪な衛生環境と過酷な労働、食料事情などで捕虜およそ1万人が死んだとされる。

連合国軍捕虜は大柄だった。少年の面影を残す李さんは「最初、怖かった」。しかし「なめられてはいけない、と思いました。そういう教育を受けましたから」。

泰緬鉄道は、ビルマを守りさらにイギリスの植民地インドをうかがう日本軍にとって、死活的に必要なもので、建設を急いだ。鉄道を敷設する部隊は毎日、労働に必要な人員を出すよう捕虜監視員に命じた。李さんは捕虜側の責任者にそれを通達する。捕虜たちは疲弊しており、病人も多い。

捕虜側が、求められた人員を出せない、と言ってくることもあった。しかし「上官の命令は絶対」とたたき込まれた捕虜監視員たちは、病気の捕虜らを作業にかり出すこともあった。

非情である。しかし日本軍の命令体系の末端にいた李さんたち捕虜監視員に、その非情な措置の意志決定権はない。多数の捕虜を死に追いやった責任は意志決定権を持つ軍体系の上層部にこそある。さらに言えば、戦争を始めた為政者たちにこそあった。

しかし、そうした国家意志決定者たちが李さんたちのように最前線に立つことはなく、したがって捕虜たちと接する機会もなかった。捕虜たちの憎しみは、直接接していた捕虜監視員に向かったのだ。

■「日本のため」だったのに、死刑

1945年夏。大日本帝国の敗戦で、ナチスドイツのポーランド侵攻以来6年に及んだ第二次世界大戦は終わった。しかし李さんたちにとっては、2019年の今日まで続く、別の戦争の始まりでもあった。

李さんら監視員は「捕虜虐待」の疑いで逮捕され、シンガポールの刑務所に入った。李さんは一度、解放された。日本に向かうべく香港に移ったところ再び拘束され、裁判を受けることになった。元捕虜9人から告発されていた。全員帰国しており、反対尋問はされなかった。つまり、告発者の証言に記憶違いや虚偽があったかどうかを確かめる機会はなかった。

さらに判事、検事とも戦勝国のオーストラリア人。およそ人道的とは言い難い裁判で下されたのは、「死刑」。「まったく予想していませんでした」。李さんはぼうぜんとした。「手錠をかけられて、その冷たさで我に返った」。
敗戦後、「捕虜虐待」などの理由で朝鮮人148人が「戦犯」とされた。そのうち23人が処刑された。李さんは、処刑されてゆく仲間を見送りながら考えた。「どうして、日本の戦争のために自分が死ななければならないのか」。納得できるはずもなかった。処刑に値する罪はない。そして、いつ命を奪われるか分からない。どれほど苦しんだのか、想像しがたい。

告発した9人の中には、ダンロップ軍医がいた。泰緬鉄道の現場で、仲間の捕虜を守るために軍医は、李さんと厳しく対立した。そのダンロップは、李さんの死刑に反対した。そこまでの罪ではない、という判断だ。李さんは懲役20年に減刑された。2人は1991年、豪州国立大のセミナーで再会し和解することになる。ぎりぎりのところで、人道の輝きがあったというべきか。

東西の冷戦が本格化する中、「戦犯」たちも翻弄された。1951年8月、李さんは東京の巣鴨プリズンに移された。今は東京・池袋のサンシャインシティ、都内屈指の繁華街だ。

翌年4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たすと「戦犯」たちの扱いは緩やかになった。外出ができた。プリズン内で新聞が発行された。収容所の中で自動車の運転免許を取ることもできた。

「著名な芸能人やスポーツ選手が慰問に来ていましたね。私たち朝鮮人の所には来ませんでしたが」

「戦犯」たちの釈放が続いた。しかし朝鮮や台湾の出身者、大日本帝国時代の「日本人」たちにはさらなる不条理があった。意志を聞かれることなく、一方的に日本国籍をはく奪されたのだ。

戦争にまみれていた大日本帝国には軍人恩給があった。だが、連合国軍総司令部GHQ)はこれを軍国主義の温床として停止させた。日本政府は独立した1952年、これを復活させた。前年には戦傷病者戦没者遺族等援護法を施行している。いずれも、対象は日本人だ。李さんら旧植民地出身者は、「日本人」として大日本帝国戦争犯罪を背負わされた。そして「日本人ではなくなった」ため、「日本人」が受けている補償から切り捨てられた。

55年4月。獄中にあった李さんら韓国人元BC級戦犯が「同進会」を結成した。「戦犯」や家族らが支えあうための団体だ。さらに日本政府に対する援護請求などの拠点となった。李さんは56年10月に巣鴨を出所した。仲間とともに首相官邸前に座り込むなど、補償を目指して運動を続けた。

 

■故郷にも帰れない

 

さて冒頭で見た通り2015年夏、李さんは今は公園となった巣鴨プリズン跡を訪れた。筆者の取材の依頼に応えてくれたのだ。公園はコスプレをした若者たちが集う場所で、この日もにぎわっていた。
「出所して、故郷に帰ろうとは思わなかったのですか?」。そう問うと、李さんは60年前を思い出すかのように、遠い目をした。

「1日でも早く帰りたかった。でも仲間に聞くと「『対日協力者として風当たりが強い。とても住めない』」と言われて、あきらめたんです」

日本に残ったものの身よりはない。仕事のあてもなかった。「戦犯」のレッテルは重く、就職もままならない。生活苦で出所した仲間2人が自殺した。

李さんたちは、タクシー会社の創業を目指した。肝心の資金はない。支援者が現れた。東京・江戸川区耳鼻咽喉科開業医、今井知文さん。すでに日本人戦犯の支援をしていた今井さんは、巣鴨で李さんと面識があった。「日本人として恥ずかしい」と思い、200万円を李さんたちに無担保で貸した。国家公務員6級職(後の上級職)の初任給が8600円の時代である。200万円は、自宅を担保に入れて工面したものだった。

李さんたちは懸命に働き、借金を返済した。今井医師は1996年、92歳で永眠した。「自分の息子のように助けてくれました」李さんはそう振り返る。

日本人として「戦犯」になった李さんたちの同進会は、日本政府に補償を求めた。だが政府は動かない。65年に日韓基本条約などが結ばれると、日本政府は「補償問題は解決済み」と、いっそう頑なになった。歴代首相に要望書を出し、首相官邸前での座り込みも行った。国会議員への陳情も。しかし、事態は改善しなかった。

同進会は、司法による問題解決を求めた。1991年11月。李さんら7人が日本政府に謝罪と計1億3500万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。「戦時中日本人として国の責任を肩代わりさせられ、戦後は日本国籍を失って補償を受けられないのは正義・公平の原理(条理)に反する」と主張した。日本にとって都合のいいときだけ「日本人」として利用し、都合が悪くなると「日本人ではない」として切り捨てる。そういう態度は、不正義、不条理であり、人道に反するものだ。そういう主張である。

96年9月、東京地裁は原告の請求を棄却した。判決は一方で「わが国の元軍人・軍属、遺族に対する援護措置に相当する措置を講ずることが望ましい」と指摘。ただ「どの範囲でいかなる救済を行うかは国の立法政策に属する」とした。

東京高裁も原告の訴えを退けた。ただ、注目すべきは「戦犯者控訴人らについてみれば、ほぼ同様にあった日本人、更には台湾住民と比較しても、著しい不利益を受けていることは否定できない」という指摘だ。

日本政府は1987年、台湾人戦没者と遺族に慰問金を支給している。だが、朝鮮出身者にはしない。高裁は、同じ植民地出身者でありながら日本政府が差別していることを指摘したのだ。その上で「国政関与者において、この問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講じることが期待される」とした。

そして99年12月、最高裁で敗訴が確定した。李さんたちの被害を認定しつつ、「立法府の裁量的判断にゆだねられるものと解するのが相当」とした。

被害を認定しつつ、解決は立法にゆだねる。李さんたち植民地出身の「戦犯」だけでなく、民間人の空襲被害者やシベリア抑留被害など、戦後補償訴訟で裁判所が繰り返し述べている「立法裁量」論である。

 

■命を削った闘争

 

被害者たちは、その立法ができる政治や行政に長年、しかるべき対応を求めてきた。らちがあかないからこそ、司法に救済を求め命を削って闘争をしているのだ。裁判が続く中で、亡くなる人もたくさんいる。そうした事例を取材している私は、裁判所の裁量論は、立法という権限へのたらい回しであり、虐げられた人権の救済という役割を放棄した判断にみえる。

司法のたらい回しにあった李さんたちは、立法による解決を目指した。これに応じたのが、野党時代の民主党議員だ。2008年5月、議員立法を目ざし「特定連合国裁判被拘禁者特別給付法案」を通常国会に提出した。だが翌年の衆議院解散で廃案となった。翌年、民主党が政権を取っても成立しなかった。

民主党時代の法案をたたき台に、朝鮮や台湾出身で、BC級戦犯として有罪になった人や遺族ら計321人に対し、1人当たり260万円を支給することを柱とする内容だ。予算総額は2億5000万円。対象者全員が請求し認められれば総額はもっと多くなるがが、当事者の高齢化が進んでいること、また当事者側が手を挙げなければ支給されないことなどから、総額を下回る見込みとしている。

2億5000万円は、巨額ではある。しかし日本人の元軍人、軍属らに行われてきた補償や援護の累計60兆円にくらべたらどうだろう。あるいは日本政府が1機100億円以上するアメリカの最新鋭ステルス戦闘機F35を100機以上買おうとしていることも考えたら。1人260万円は、戦争=国策と差別によって人生を狂わされ、かつ戦後74年苦しんでいる人たちへの支給として高額とはとうてい言えない、あるいは信じがたいほど低額だと、筆者は思う。

「低額すぎるのでは?」。そう問う筆者に、李さんは「お金は象徴であって、それが目的ではありません。『戦犯』として亡くなった仲間たちの名誉を回復するため。私たち生き残った者の責務です」と話す。

かつて70人いた同進会の仲間で、存命なのは3人だけ。ここ数年、動けるのは李さん一人だ。国会が開かれる度に、議事堂の向かいにある議員会館で支援者らが集会を開き、李さんが立法を訴える。つえをつき、時には車いすで。

集会に何度も参加する議員は、戦後補償問題に意識の高い人たちだと思う。「日本人として恥ずかしい」と話す議員もいる。筆者も「日本人として恥ずかしい」と思う。

また議員は、「今度(の国会で)こそ(立法を実現する)」などと話す。しかし、実現に至っていない。「シベリア抑留や台湾出身者戦犯への援護などは、議員立法で成立しています。なぜ私たちだけが……」。李さんはそう話す。「同情はいらない。求めているのは日本政府の謝罪と補償です。私が言っていることは理不尽でしょうか。日本人と正義と道義心に訴えたい」。

 「日本人はいい民族だと思うんですよ。勤勉、まじめで……」。李さんはしばしば、そう話す。今井医師以外にも、李さんたちを支援した日本人はたくさんいたし、今もいる。しかし結果として、私たちの日本社会は李さんたちの願いに応えていない。

強靱な精神力と体力で生きてきた李さん。しかし近年は入退院を繰り返すなど、万全の体調ではない。彼の日本人観を裏切らない結末、法案の成立が待たれる。李さんは今、93歳だ。


(引用ここまで)



この記事を見て、どのような感想を持たれるだろうか?


自分の意思とは関係なく、労苦や義務は「日本人として」果たすことを強いられ、刑罰も「日本人として」裁かれた。しかし権利や補償、恩給は「朝鮮人だから」除け者にされた。この不条理を埋める試みは、政治や社会の側からはまったく乏しく、司法にかけ合っても「立法に期待」して主体的な判断を示そうとしない。今も昔も、まったく一緒である。情けない気持ちを抑えることはできない。

過去の植民地政策とその残滓にろくに向き合ってこなかった日本政府によって、搾り取り・辱め・貪った人々への戦後保障は、最悪の解決策によって終結しようとしている。

つまり生命の途絶、という終結である。従軍慰安婦のハルモニたち同様、李さんも長くはない。どうか生命の灯が消える前に、日本政府や日本社会の、誠意ある『戦後補償』を求めたい、と思う。

 

改めて、問う。

 在日朝鮮人が、いまだに「ザイニチチョーセンジン」として存在し続けているのは、日本社会の責任である。

 上記命題の意味するところ、理解ができるだろうか?



(追記)

何の保障も受けられない朝鮮人の元日本兵が『醜い』姿を晒して世間に訴える姿、それを他人事のようにスカす政治家と、何とも冷めた目線で遠めに見る市民の姿を映した記録映画を紹介する。