いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

いち在日朝鮮人のkinchanが日本に帰化しない理由

よく職場の同僚や日本人の友達に、「何で日本に帰化しないの?」と聞かれます。

帰化しません。これは自分自身の生き方の問題です。
祖先から受け継いだ自分のルーツ、自分の名前、それを元に形成された己の人格、アイデンティティを、ちょっとした社会環境や、煩わしさを避けんとする思惑で、やすやすと絶やしてしまうのはどうか、と思うのです。

まず第一に、そもそも、名はルーツを映し、人格を表すものです。日本はコリアンネームそのまんまの帰化を原則認めませんので、私は帰化するには名を変える必要が出てきます。「林(りん)」さんが「ハヤシさん」になるのは認めるのかも?ですが、私はモロ「金さん」ですから、「カネさん」というわけにはいきません。ですから出だしから躓くことになります()。

もちろん、私が帰化しない理由は、「カネさん」という名の日本国籍保有者になれないから、ではありません。
日本への帰属が、朝鮮の否定、それを通じた私の人格の否定、私のルーツの否定へと直結するのを危惧するからです。(上に書いたのはオマケの話)

日本が、もともといろいろなルーツがあることを前提にし、「日本」という国籍が、同じ土地に集う者同士の統合の符号であり、ルーツや血統を意味しないものであって、加えて民族の名をそのまま使えるのなら、たぶん普通に帰化してると思います。
当然そのようなことが認められる土壌では、価値観・主義主張の多様性を相互に認めるという考え方はコミュニティ内の前提条件としてあるものです。「人の価値観はそれぞれ違う」というのが大前提なわけです。
例えばアメリカには当然にそのような前提があります。自分の意見を押し付けて屈服させようとしたり、数のチカラでねじ伏せたりということではなく、お互いを理解し、譲り合いながら妥協点を探っていく、という発想が成り立ちやすい土壌です。
「I'm OK , and You are OK」が前提なのです。二者の主張は違っても、それは基本的に両方OKなわけです。そこから共通点と相違点を明らかにしながら、議論をしながら落としどころを探っていくのです。

でも、日本はそうは行かない。
「人の目をうかがう」的、「横に習え」的、「とりあえず合わせとく」的、「空気を読めないやつはダメ」的発想が非常に強い。
かつ、「日本人であれば○○であるべきだ」的、押し付けナショナリズムも、やたらに強い。
「I'm OK , so You are not OK」的な、欧米では鼻で笑われ子供扱いしかされないような、子供の喧嘩のような稚拙な発想が、政治やマスコミや人々の中に当たり前のようにはびこっているわけです。

人間には多様な人間があり、いろいろな主義主張がある。そんななかでみんなが知恵を出して、みんなの意見が少しずつでも反映された、みんながそれなりに生き心地のいいコミュニティをつくる、という発想が、残念ながら日本は乏しい社会だ、と私は感じています。
そんな日本社会で、もし自分が日本に帰化して、なお「私は朝鮮系日本人です」などと自分を名乗って、日本への帰属と、おのれの民族意識を同時に主張して、それが自然に受け入れられるとは、どうしても思えない。
「は?おまえは日本なん?朝鮮なん?はっきりしたら?」と二者択一を求められるのがオチ。

だから、日本・日本人・日本文化に対する愛着は人並みに普通にあるけれども、「日本人ではない」という符号として、国籍を変えていないわけです。

あ、誤解が無いように言っておきます。
これは私が少数者だから、「特権与えてくれ」と無理強いしている、なんてしょうもないレベルの話ではないです。日本社会一般の空気感として普遍的に言える話だと考えています。早合点しないでね。



たぶん余り理解されないだろうからもう少し噛み砕きます。

帰化というのは端的には、この人の帰属は昨日までは朝鮮(あるいは韓国)だったけど、書類の都合で今日からは日本だという理屈の制度なんですが、
自分は、昨日と今日ではなーんにも変わってないわけです。書類が通ったか通らないか、だけが変わるだけの話。

昨日までは朝鮮人であるという理由だけで「ゴキブリ」とか「三国人」とか「帰れ」とか言われてた。それが当然であって、それに抗う空気すら否定され、それを問題にする人間は一緒にゴキブリ扱いされたりもした。
でも書類一枚通った今日からは「僕たちの仲間だから」なんて急になれなれしくなっちゃって、今まで突きつけられていた拳を下ろし、握手しようと差し出してくる。挙句には「日本人なんだから○○しなきゃダメ」なんて、よくわからない「日本的な」いろんなこと押し付けられちゃう。

何なんや、これは、と。

たった書類一枚通るか通らないかで、本当にくだらない理由で人格を否定して続けていた人間に、「ゴキブリ扱いされたくなかったら国籍変えておいで」「日本国籍になったらおれたちの仲間だから仲良くしてやってもいいよ」なんて。そんな人間の言葉なんて絶対に信じないし、仲間だと差し出された手を思いっきり蹴飛ばしてやるしかないでしょう。アホかと。こちらから御免こうむりますわ、と。

差別は人としてイカンが、多様性は認めてもらわなアカン。つまり己の信じることを押し付けることなく、誰と彼とを互いに尊重することは絶対に無いとアカンわけです。

それがなかなか理解されないのです。

(もっと言うと、差別者からしてみたら、帰化したところで、もうひとふんばり「自分との差異」を掘り起こして差別するでしょう。差別者にとっては、些細なことでも自分との差を見つけて差別をすることが目的なんであって、理由は何であってもいいわけです)

在日朝鮮人という生き方は確かに、ちょっと生き難いし、日本では奇異にみえる存在かもしれません。
でも「ふーんそうなんだ」と周囲が何のわだかまりもなく自然と受け入れ、その存在を認め合い、(触れないのではなく)踏まえながら理解しあえるのが当たり前のコミュニティーでないといけないと思うわけです。そうならない限り、帰化という選択肢は生まれてきません。将来的にはそんな社会で生きたいと願い、手の届く範囲で話し、理解をしてもらいながら過ごしているところです。



昔、こんなCMありましたよね。

日本に帰化したブラジル人のサッカー選手が、洋風なものを食ってる子供を見つけて怒ってるの。
「こらぁ、日本人ならお茶漬けやろう!」って。
私は、これは日本でポピュラーな外国人観や民族観をよく表しているなぁ、と思うわけです。

日本国籍であれば、イコール日本人なんだから、大和魂なんだと。
その人自身がそうかそうでないかはともかく。
日本国籍であれば大和民族なんだから、日本の思想・様式に倣え」という臭いがプンプンして苦笑いをしたのを覚えています。

「いやいや、その人は、日本国籍やけど元はブラジルやで。大和民族ではないで」と思わず突っ込んだものです。
それが私にしてみればごく普通の考え方なんです。でもそんな会話は成立しづらい。理解されない。
書類一枚通って日本国籍になったからって、その人が培ってきた民族意識やライフスタイルまで、手のひら返すように瞬時に変わるかいな、と。加えて、日本国籍になったから、日本人としての考え方・主義主張・行動様式(これらは声の大きいヤツの共同幻想なんだが)に同意するのが当然で、そうでなければ「おまえは反日」「偽装帰化や」「やっぱり帰れ」と。

日本における帰化には、そういう危うさを感じるのです。
だから帰化しないのです。
なかなか理解できないかとは思うが、こんな感じです。



20140922追記)

現在の運用では、コリアンネームでの帰化申請も(漢字の綴りに関しては)原則認めているようです。
帰化制度という設計自体が、民族浄化(同化)の思想が根底にあるということ自体は変わっていないようですが、従来のように、日本風の名字を作らなければ審査が通りにくい、というのも無くなってきているようです。
実際に帰化申請をした方の詳細なレポートを紹介します。

白頭山さんのブログ、『文武両道を目指す!〜ペンは剣より強し〜』
帰化申請も大変だ(笑) http://ameblo.jp/whitewoods220/entry-11445447585.html
帰化申請も大変だ・続編 http://ameblo.jp/whitewoods220/entry-11507460035.html
帰化申請も大変だ・続々編 http://ameblo.jp/whitewoods220/entry-11546119711.html
帰化申請も大変だ 最終章 http://ameblo.jp/whitewoods220/entry-11675497220.html
ネタ晴らし http://ameblo.jp/whitewoods220/entry-11675515472.html
帰化して変わったこと http://ameblo.jp/whitewoods220/entry-11895222882.html