いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

雑感 − 極端な二極対立、こじれて陳腐な愛国心

正月は寝正月で、相当ヒマでしたので、ネットでいろいろなブログを覗いたりしていたのですが、
どうもこの頃、ものごとを「二極対立」で捉えたがる人が多くて、「こっちがシロなら、そっちはクロ」みたいな、なんでこんなに単純化しちゃうんだろ、みたいな思考回路の持ち主が非常に多いのが気になりました。

ほとんどの人は、いろんな意見を兼ね持っているんだと思うんですよ。
自己の努力や学習で形成した自我であれば、判で押したような、単純な思考回路にはならない筈なんです。
(ネットとかでウマの合う意見を表層だけつまんできたなら、こんな単純な思考回路になっちゃうのかも)
たとえば、ある人の意見に対して、「A・Bについては同意するが、Cについては激しく不同意」的なのが普通だと思うんですよ。それが、ある種の人には理解ができない。
自分の主張に一つでも沿わないと、「左翼」とか「ネトウヨ」程度ならぐらいならまだいいほうで、「反日」「ゴキブリ」「帰れ」と、気持ちの悪い言葉の集中砲火を受けることとなる。
どうやら、この種の人は、人々が自分とおんなじ価値観で画一化された世の中でなければ気に入らないようです。
己の醜さと無恥を晒してまで、自分と違う主張をする者を罵り、追いかけまわす有様は異様そのものです。

この人たちが目指す社会とはどのような社会なんでしょうか?にわかに想像がつきません。この種の人が徹底的に嫌っている、あの金父子の王朝ぐらいしか思いつかないのは私だけでしょうか?

この種の思考が極端になった例が、「日本(大和)民族は優等民族、だから朝鮮民族は劣等民族」みたいな。その種のカキコミが、ネット上に探さなくても至るところに溢れています。
日本が優等民族である「証拠」と、朝鮮民族はいかにそれに劣っているか、あるいはそれから恩恵を受けたかという、日本に比べて劣等であるという「証拠」を、血眼になって捜して貼り付けている。「だから我々日本は素晴らしい」「だからお前ら朝鮮はどうしようもない」と。

私はこう思うわけです。「ふーん」と。「どっちが優等かはどっちでもいい」と。ある人の評価で朝鮮民族が劣等民族であったとしても、はっきり言ってそうであってもそうでなくても、どっちでもいいです。当然それに負けないように朝鮮が優れている証拠を捜し回ろうという気も全然起こらない。どうでもいいことです。
私はこのような他者を落としてでしか成立しないような陳腐な民族愛や愛国心を競うより、私自身が(他との比較を必要としない)アイデンティティを確立し、周囲の人から理解され、尊敬され影響を与えられることに価値があると信じるので、そのようなものには与しません。
学問の性格上、歴史的な評価なり優劣なりをつけないと気が済まないのはある意味仕方ないとしても、それがそのまま、歴史の末端でその流れを受け継いだ子孫たる、私、我々、あるいは彼らの人間性の比較や優劣には、何の関係も影響も無いわけです。逆にそのようなものを持ち出さないと己の自尊心が保てない人こそを疑い、哀れみか蔑みを持って見るしかありません。

この際はっきり言っておきましょう。
日本が歩んできた歴史は素晴らしい、かもしれない。
日本は先進国となり、世界の中でその存在感を示せる立場になった、かもしれない。
そのことを誇りに思う、良いことでしょうよ。
でもそれを、自分の優越性に転化し、他者・他国を貶める手段として用いる以上、あなたの根に宿る劣等意識から解放されることはないでしょう。
常に自分より下劣なものを設定し、妄想とともに憎悪心を増幅させ、それを恥と共に発散させたとして、その後のあなたに何か残るのでしょうか?自慰の後の虚しさしか残らないのではないのでしょうか?

少なくとも、国は「愛国心」に応えるよりも、利用するほうが多いのです。多くの国で、歴史がそうだし、現在もそうなのです。愛国心を燃やし、その反動として他国や他者を侮辱・蔑視するのであれば、それよりも、友人・知人や周囲の人に優しさや愛情を分け与えながら、愚直に、ひたむきに生きてください。その際には、こんな二極論法や他者との比較はもはや価値を持たないと知ることになると思います。
そのほうが、あなたは周囲から尊敬されるでしょうし、日本がそのような人間の集合体になれば、良いコミュニティになると思いますよ。