いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

朝鮮学校に関する質問爆弾に回答する

皆様、あけましておめでとうございます。更新頻度がタイトルどおり「かなり不定期」なブログ主のkinchanです。正月休みもなくクソ忙しくやっております。コメント返しは基本的に「したいと思うものに」+「できる時だけ」にさせていただいております。お許しを。
そんな拙ブログに頻繁に巡回くださり、的確なコメントや批判やご教示を下さる諸兄に改めて感謝申し上げます。いつもありがとうございます。

私が細々とブログを更新し始めてから4年以上ですが、たまたま検索で拙ブログを見つけたであろう訪問者から、(コトバを選ばずに言うと)不躾に興味本位な質問爆弾を投下されることが、そこそこの頻度であります。その後、私や常連の皆様が訪問者の質問の真意を探ったり、有益な議論や会話を試みたりしようとすると、一方的にやる気を失い、「これだから朝鮮人は…」的捨て台詞と共に去っていくことがほとんどです。(常連様は親切に応対なさるか、的確な批判をなさるか、いずれにしてもしっかり応対なさっていることには敬意を表したいと思いますし、ある意味それに甘えてしまっているのは申し訳なく思います)。

そもそも、の話として、
「ザイニチチョーセンジン」という人種の存在そのものに対する歴史的な経緯や連続性、それがいまなお「ザイニチチョーセンジン」という記号で存在しつづけるのは何故なのかに対する理解、加えて世界人権宣言や国際人権規約など、国際的に共有されている普遍的価値に対する根本理解、これらの理解が無いなかでの『ザイニチ問題』に対する議論は、人種(≒よそ者)に対する好き嫌いの話でしかなく、つまり私からしたら議論の価値は無いし、そのような態度で臨まれる『ギロン』などは迷惑でしかありません。正直大マスコミ様の取り上げるザイニチ問題もつまりこの程度であって、私にとっては迷惑でしかありません。

朝鮮学校に関する問題も然り。朝鮮学校の存在そのものの歴史性と特異性(例えばそれは『インターナショナルスクール』とか『上海日本人学校』的な学校とは根本的に違うものである)に対する理解、種族的マイノリティに対する民族教育の意義、及び国際人権上の解釈では民族教育を受ける権利がどのように捉えられているか、という系譜からあるべき姿を探求する、という視点が必要と考えますが、そのようなものを持ち合わせてお越しになる訪問者は残念ながらほぼ皆無と言えます。

「それを提示せよ」という言説が国士界隈から聞こえてきそうですが、議論の土俵に上がる前提は『学習』していただくしかありません。マワシを締めずに相撲を取ろうとする者には「帰れ」と言うしかなく、こちらでマワシを用意する理由はありません。言っておきますがこれは別に難解な学説でも、私個人の偏屈な視点でもなく、どこまでも普遍的、一般的なものです。但し日本の公教育や公共宣伝(笑)ではそのことに価値を持っていないためかなかなか提示されていないものですので、書籍で自己学習なさってください。時間があるときにでも参考図書を提示しようかとも思っておりますが。

そして、私が思う最も大切なことを申し上げるならば、
エントリに提示する問題に対する連帯を相互に共有するか、あるいは認識の差異を埋めようとするか、批判するにしても同意点と相違点を明らかにして同意点については連帯しうる姿勢を示すか、いずれにしても私がブログにアゲて問題提起した意義程度は相互に認識できる程度の、訪問者の姿勢、態度は必要だ、ということです。私にとっては、質問者の質問にどう回答するかより、質問者がその回答をどう咀嚼しその質問者発進でどのように伝播するかこそが大事なのであって、それこそ何でもかんでも嫌韓の燃料として回収するような者に、わざわざ新たな燃料をくれてやる必要は無いわけですから。そのような建設的な姿勢を感じとれる方の訪問には、喜んで議論を進めようと思っております。しかし残念ながら少数派ですね。

さて、かなり前置きが長くなってしまいましたが、
恐らく拙ブログで最も多く読まれているであろう、3年以上前のエントリである、『朝鮮学校について、親の立場で考えてみる。http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20110906/1315331441』に対して、HNさくらさんから結構な量の質問爆弾を頂きました。http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20110906/1315331441#c1420266266

冒頭に書いた話から考えて、私がHNさくらさんの質問に回答をしたとしてもどのように咀嚼されるのかは正直未知であり、興味本位であるような質問であることは否めません。実際常連様であるrawan60さんや普段はROMですさんは、この種の質問者の着地パターンに対する体験的学習から、早速批判(嫌悪感含む)を与えていらっしゃいます。
しかしながら、あと数カ月で息子を朝鮮学校に入学させる親である私は、『何故(日本の公立学校や一条校の私立学校ではなく)朝鮮学校に入れる(た)のか』、これからも幾度となく自問し、あるいは他者から訊かれ、それを表明する機会が出てくるかと思います。
当然、個人的見解を脱するものではありませんが、少し書いてみようと思います。



1.住んでいらっしゃる地域は在日朝鮮人の方が多い地域でしょうか?
そのとおりです。大阪市在日コリアンが多く住む地域の在住です。元々は郊外在住だったのですが、友人も多く住むコリアン集住地域の「どまんなか」に結婚を機に越してきました。
2.在日朝鮮人の方がたは、ある地域に固まって住む傾向はありますか?(在日の方々同士だから住みやすいという面はあるのでしょうか?)北米では、日本人はある程度まとまる傾向がありました。
在日の渡日の歴史的経緯から考えて、いわゆる都会に住んでいるコリアンが多いです。大半のコリアンが出稼ぎで渡日しており、仕事がある場所にコリアンが集住し、コミュニティを形成する、という流れです。例えば大阪には済州島をルーツに持つコリアンが多く住んでいます。定期航路があったためですが、それらコリアンの多くは、河川敷など環境の悪い場所にバラック建てで集住しました。多くが大阪生駒間の鉄道トンネル敷設工事や、平野川という河川の整備工事に従事したと聞いたことがあります。

3.日本で生まれ育ったのだと思いますが、子供のころご自宅では何語を話していらっしゃいましたか?(お兄様や妹様も朝鮮語を話されていたのでしょうか?)
日本語です。母語が日本語だから当たり前です。

4.オンラインではそれほど資料が見当たらないながら、自分なりに一生懸命調べたつもりなのですが、朝鮮学校の教科書に載っている「ウリマル」は、第一言語というには少し発達が遅いように感じたのですが、どうでしょうか?
初級部の口語教育では、「ハムケ ノルジャ(一緒に遊ぼう)」(初2)、「ピョル マシヤ(とてもおいしいね)」(初3)など身近な生活の一場面を切り取った、ストーリー性のある基礎的な会話が中心。
中級部では「自己紹介」「電話のかけ方」などの応用編、高級部ではさらに進んだ「より効果的な話し方、聞き方」など、年齢に合った場面の展開から、「話し方、聞き方」技術の向上を目指した。
児童・生徒がより身近に活用できる「生きた朝鮮語」を学ぶことが可能な教科書に改編された。
と書いてありました。やはり日本語の中で生活していくうえで、朝鮮語第一言語として保持していくのには難しい面もあるのでしょうか? 私自身、言語にとても興味があるので質問している次第です。悪気は本当に全くないのですが、もしもこの中でお気を悪くするようなことがございましたら申し訳ありません!
繰り返しますが母語が日本語である朝鮮人生徒は、朝鮮学校朝鮮語を「国語」として習いますが、実質「外国語」であることに違いは無いわけで、日本語で理解しながら朝鮮語を習得することになります。当然、周囲に溢れる日本語より習熟速度が遅いのは致し方ないでしょう。しかしながら、初級部(小学校に該当)の低学年で、徹底的に朝鮮語を習い、他教科も朝鮮語で行い、日常生活も朝鮮語で会話するようにする、という圧倒的な言語的環境が朝鮮語の習得速度に貢献していると言えます。

5.差別にあった経験はありましたか?
それを差別と認識するかどうかは、それぞれの人の感受性にも依りますし、私はある種免疫がついていますから(笑)、少々朝鮮人がどうのと言われた程度では屁とも思いません。
しかし電車で通っていた初級学校当時、電車の中で「この朝鮮人の子供が!」と絡まれたり、高校生にシバかれたり、変な名前だショボイ学校だと笑われたり、近隣の小学生にBB弾で狙われたり、ということはよくありました。それを「そんな人もいるよね」「そんな人はいるけど多くの理解ある日本人と共に生きよう」と思えているのは、朝鮮学校で育ったお陰だと思っています。仮に朝鮮学校朝鮮人というルーツと長期間向き合う機会を持てなかったとしたら、私はその運命を呪い、「朝鮮」「朝鮮人」という記号を忌避する生き方をしていたかもしれません。

6.国民の意識、という面での改革が必要なのはわかります。しかしそれはとても時間のかかる問題です。実際に、政策としてどんな政策があれば在日朝鮮人の方々の生活がよりよくなると思いますか?
オールドカマーの朝鮮人が何故に日本にこれ程に住んでいるのかということを、日本では公教育なり歴史的な総括なりで、コンセンサスが形成されていません。つまりこの国自身の歴史的な事実が、日本社会で共有されていないということです。昨今の国士様及び大マスコミ週刊誌は、この国の歴史が内包した我々のような「植民地政策の残滓」を、クソミソ突っ込んで社会のお荷物的に好き勝手物申しているわけですが、朝鮮を植民地に仕立てて一世紀以上経過しておきながら、未だに「ヨソモノ」扱いしているというのはどうなんでしょうか?日本が歴史的事実として朝鮮及び朝鮮人を内包したのであれば、その結果も引き受けなければならない。歴史を国家として総括し、公教育や政策に反映させなければならない。それを分離したり遮断したりするのは誤りです。それが正されれば、朝鮮学校に対する差別政策も、政治家の繰り返される妄言も、自ずと解消されるはずです。

7.上の質問の続きですが、もしもメディアを通して国を変えていくとすればどんな策がとれるでしょうか?
私のような庶民が取り得るのは、声を挙げ続けること、おかしいと思うことをおかしいと言い続けること、抗うことです。

8.学校での民族教育において、自分のアイデンティティを確立するうえで具体的にどんな授業やアクティビティがありましたか?(できれば歴史の授業以外のものを教えていただきたいです)この質問は、私自身もっとも興味のある部分です。授業内容や課外活動など、いくつか例を挙げていただけないでしょうか?
私が思う朝鮮学校の存在意義は、一にも二にも朝鮮語に触れられる環境です。言語は文化の最たるものです。自分のルーツに通じる言語に触れることができる。この体験機会は人格形成上何事にも代え難い。例えばテレビで韓国の街並みや、ハングルの看板、韓国語での会話が流れてきたとき、そこに自分のルーツを感じるか、よく分からない外国を感じるかは、朝鮮人として生まれてきたという運命と向き合えるかどうかという根本に繋がることです。

9.自分の文化を「誇り」に思うには、どんな授業が必要なのでしょうか?ただ自分の文化を知るだけでは、誇りに思う事とは違うことはわかります。例えば、今日本人の若者の多くが日本文化に誇りを持っているかというとそうではないと思います。
誇りに思うかどうかは「受け手」の問題もあるので一概に言える話ではないですが、我々在日朝鮮人は、朝鮮語も朝鮮の食事も、風習風俗衣装流行歌謡遊びその他諸々、文化と言えるものに触れるためには、意識して取りに行かなければならない、ということです。そのための環境としての民族学校です。学んで多くを享受して、その中から誇れるものがあるならば誇ればいいだろうが、触れてもいないものは誇れるはずもない。誇るかどうかは次の段階です。

10.自文化を誇りに思う上で、自文化を批判できることが、とても重要なんだな、とこのページを読んでいて実感しました。朝鮮学校自身が、日本の現状を受けたうえで歩み寄るためにまだ変えていける部分はあると思いますか?それともあとは日本人のみの問題なのでしょうか?
「歩み寄る」というのがどのような事象を想定しているのかよく分からないので答えられません。民族学校としての自主性及び自治の観点から譲れない線があることは理解できるかと思いますが、それを知ってか知らずか、脂っこい政治家の連中が、朝鮮学校の教育内容が気に入らんと朝鮮学校のみに難癖をつけている現状からして安易に「歩み寄る」云々などという言説は私には受け入れがたいものがあります(この辺は他のエントリで散々書いているのでそちらをご覧ください)。最も、朝鮮学校は歴史的に教授目標が受け手のニーズに応じて大きく変遷しているということです。これは私の理解ですが、草創期は許容されていなかった朝鮮語・朝鮮文化を回復するための教育、その後帰国を想定した教育から、永住を前提にした民族的自覚を重んじる教育、という風に変遷を重ねています。教科書も数年おきに改定されています。

11.地域の日本人の学校とはどのような交流がありましたか?
12.また、在日朝鮮人の多い地域では日本人の学校内でも両者の交友関係を保つための試みは何かありましたか?
朝鮮学校は近隣の学校や地域住民との交流は盛んです。自分たちの学校や学生が地域や同世代の日本人と交流を重ねるのは、民族的自覚を養いながら地域の日本社会に貢献する人材となる、という自らの教育目標とも重なります。私が現役の時は、学校同士の交流会や、クラブでの練習試合や交流練習、文化祭に生徒会の代表が相互訪問したり、というのがありました。

13.あなたは朝鮮語を聞き、話す力と読み書きする力、また日本語を聞き話す力と読み書きする力、それぞれどれ程進んでいるのでしょうか?流暢な人と比べてお答えいただきたいです。また、もちろんこういった能力は家庭環境などに左右されるでしょうから、全体的な傾向も教えていただけたら幸いです。
私が朝鮮学校で養った日本語能力が如何程のものか、ブログで散々長文書いていますので、ご自由にご判断いただければ。幸い、朝鮮学校を出て以降、大学や会社や個人的な付き合いで日本語能力を低く見積もられたことはありません。朝鮮語の能力は、自分では高いと思うことはありません。朝鮮学校での評点も低かったです。しかし、韓流ドラマのセリフは字幕なしでおおよそ汲めますし、韓国旅行で日常会話は不自由しませんし、時間をかければ専門用語が入らなければ翻訳もできます。繰り返しますが、我々在日朝鮮人母語が日本語ですので、日本語は流暢で朝鮮語がたどたどしいのは当たり前です。

いまの私の考えを、率直に、余り深く考えずに書きました。ご覧の方々の、朝鮮学校を知る一助になれば幸いです。



【蛇足】学者さんならでわ、ですね。
「わかっていないことに首を突っ込むべきではない」という言説について
http://togetter.com/li/765128