いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

『チョンのキチガイブログ』に寄せられるコメントについての考察

私は「いち」在日朝鮮人の考察、という立ち位置にこだわってモノを書いている。在日朝鮮人というカテゴリーの人間の考察や視点を発信することで、現状この社会で圧倒的に不足している、この人種との接触および理解に寄与する、という役割を担えれればと思っている。在日朝鮮人の視点を代表するつもりもないし、そんな資格も能力も無いが、「いち」在日朝鮮人の言説を晒すことで、凝り固まった在日朝鮮人観を氷解する役割に一端は担えると思っている。
とはいえ、私のブログは世の中に問題提起する的な大層なものではなく、そのような波及力も無いし、望んでいない。あくまで「いち」在日朝鮮人の視点で、とりとめもなく私見を述べるだけの、客数を気にすることもない、気ままなブログだ。自分の考えを研ぎ澄ます、勉強のタネを第一の目的に書いている。
だが最近になってやたらに『2ちゃんねる』からの訪問者の比重が増えた。これまで余り無いことなので調べてみると、私のブログが『チョンのキチガイブログ』だと紹介されていて、それがコピペで増殖しているようだ。どこがどう『キチガイ』なのかは言及されていなかったが。

別に私を『チョンのキチガイ』呼ばわりする人間がいること自体には、その人が見てそのカテゴリーなのだから、あぁそうですか程度の感想しか無い。問題は、私をキチガイ呼ばわりするに至る思考経路についてである。これまで私のブログに寄せられた否定コメントから、典型的な以下の二者を例示する。
A)朝鮮人のブログだというので覗いてみたら、日本人にはまったく理解し難いことを書き連ねているので、この朝鮮人を「キチガイ」と認定する。
B)チョンが何か書いている。内容はともかくチョンはキチガイである。
これら二者に対する考えを書く。

まずA)について。

私は私自身の良心の信じるままに書いている。自分の心に無いことは書かない。よって朝鮮という国家やそれに絡む機関に関わるすべてに同意するわけではないし、擁護するわけでもない。良心に基づき判断し書いている。
ここで私が良心と認識しているのは、無用な偏見や先入観を排し、人類が追い求めてきた、人権や民主主義、多文化共生の理念を追求する思考、言説、行動のことである。人種を問わず普遍的に価値が認められ、人類の歴史によって培われた財産として共有されており、会話の前提となっているものである。
社会問題を扱うブログのなかで多くは、立ち位置は左右あれど、書き手が日本人朝鮮人様々でも、このような前提が、触れることなく共有されている。だから些細な違いはあれど、互いに共感できるし、コメント欄で最初は論争になっても、立場の違いを埋めたり誤解を解いたりという、建設的な議論が可能となる。
しかし、A)に類すると判断される者のコメントはこのような『普遍的な価値』を前提として共有できてきない。普遍的な価値であるから言わなくても共有できている内容だと認識しているので、私はわざわざ断りを入れることもしていないのだが、そのような知識を吸収し培養する機会を持たなかった者にとっては、私の主張が特異なものに映っているのかもしれない。別に大学等で特別に習わなくとも、このような思想に触れる機会は十分に持ちうると思えるので、この種のブログのコメント欄でブログ主や常連さんから嘲笑されたり、コメントを承認されなかったりした経験を持つ諸氏は、先ずはこの辺の勉強から始めてみていただきたい、と老婆心ながら申し上げる。

次に、
私は、「在日朝鮮人とは日本社会の構成員の一部であり、在日社会とは日本社会の一部である。カテゴリーは違うが別個のものではない」と認識している。
在日朝鮮人という存在は日本の歩いてきた歴史と不可分のものである。縁もゆかりも無い朝鮮人が日本にいきなり降って湧いて来たわけではない。現在在日朝鮮人というカテゴリーの人間は60万人と言われており、当然60万とおりの姿、人生観があるのだが、近現代の日本の外交、福祉、外国人行政、教育、司法等々で日本が取捨選択したものによって、本人の意思と相容れぬところで多分に定義づけられ方向づけられており、それを踏まえずに価値判断することはできない(一例として、それ自体の価値判断にはここでは言及しないが、現在の在日朝鮮人を「日本人」ではなく「朝鮮人」だと決めたのも日本である)。
私のブログは、自分の属するカテゴリーである在日朝鮮人に関わる事象を抜き出して書いているが、日本社会の問題としてそれを書いているつもりだ。日本社会のこれまでの歩みが在日朝鮮人の諸問題に凝縮しているからだ。社会に横たわる思想が寛容か不寛容か、博愛主義か排斥主義かというのは、社会の有り様の根本を決めうるものであり、少数者のみならず多数者の生き方をも左右する。少数者の環境改善は取りも直さず多数者の環境改善に繋がる、と認識している。私は私と私の家族が生きて死ぬ日本社会がよりよい社会であってほしいと願う。当然に。日本社会で私や多くの良心ある方々の想いがより広く共有され、成熟した民主主義社会になることは、私たち在日朝鮮人にも当然に歓迎すべきことだ。だからこそ、私は在日朝鮮人にまつわる諸問題を、マジョリティーたる日本人の良心に問うているのである。
しかし、A)に属する者たちは、このような私の言説が、『朝鮮人の物乞い根性』『在日特権を要求する朝鮮人の醜い姿』に見えるらしい。何故に朝鮮人がわざわざ日本に大挙押し寄せて日本に義務もないことを要求して回るのか、カネが欲しいなら朝鮮に言えばいいしそんなに日本のやり方が気に入らないなら朝鮮に帰ればいい、と。このような言い草は在日朝鮮人という存在の成立経緯、及び成立から現在に至るまでの歴史的連続性が理解できていない。
我々在日朝鮮人の故郷は間違いなく日本であり、我々が帰れと言われて思い付くのは朝鮮ではなく自宅である。我々はほぼ間違いなく日本で死ぬ、日本社会の一員である。日本社会の中で、我々のアイデンティティーを守り、社会権を確保するために行動する対象は、日本社会以外にない。朝鮮や韓国に言っても仕方が無い。それを「朝鮮に帰れ」などと切って捨てるのは見当違いである。
日本の同化政策によって帰化する者が増え、「オールドカマー・外国籍の在日コリアン」は相当減ってきている。在日コリアンと日本人との国際結婚も年々増えてきている。しかしなお多くの在日が、ルーツを大切に思うがゆえに、国籍、名前、民族教育を守り通してきた。このような民族性を維持せんがためのささやかな行動にさえ、日本政府は敵意をむき出しに差別政策を掲げ、制度が日本社会の民心の敵意を煽ってきた。このようなマイノリティに対する不寛容性が残念ながら支配する社会が現在の日本社会であるが、マジョリティたる日本人自身にとって、それが「住み良いか/住みにくいか」を良心に基づき考えていただきたいと思う。
例えば、このように考えてみればどうだろうか?
あなたが不慮の事故によって障がいを抱えてしまった。その際社会の法制度、インフラ、人々の意識が、そのような自分の立場を慮らないものだったと、障がい者になってはじめて気付いた。「少数者のことも考えて欲しい」と社会に主張しても、社会はまったく受け入れない。何故なら多数者にとって、障がい者の為の法や社会インフラの整備、税制優遇や医療費免除などは必要ないし、無駄なコストでしかないからだ。なおも食い下がるあなたに「少数者は多数者の利益に従って何も言うな」「気に入らなければ日本を出ていってくれ」と罵声を浴びせられる。
少数者に思いを致せないとは、私はたとえこのような仕打ちを受けても文句は無い、と言い切れる、ということだ。言い切る人間が居ないとは限らないが、果たして、そのような社会は住み良い社会なのだろうか?考えてみてほしい。
付け加えておくが、我々は機会の平等を求めているのであって、特別待遇を求めているのではない。人間として当然に享受できるべき権利、地域住民として与えられるべき地位を求めているだけだ。

A)が思いのほか長くなってしまった。B)について書く。B)は短い。

キチガイのチョンが何か言っているぞー」という好奇心で見に来たり、キチガイが『湧いた』ことを嗅ぎ付けて嬉々として寄ってくる人間たちのことである。彼らは私の言説を咀嚼することもなく、「チョンのくせに…」とか何とか言って、恐ろしく狭いおのれの『内』の外側に居ることのみを認定し、落書きのような罵詈雑言コメントを残し去っていく。ピンポンダッシュのように立ち寄っては、的外れなことを言って去っていくのが常だ。ブログ本文とはまったく関係の無いコメントであることも特徴的だ。
ある程度読み込んで意見なり批判なりするのならむしろ歓迎するのだが、「チョンはやかましい」「なぜチョンはひとの国にまで来て文句を言っているのだ?」「チョンは帰れ!」などのヒステリーの類がほとんどだ(上記の程度ならまだ可愛い)。まったく議論にならない。おのれの見立てで反日親日か、日本人かチョンかとレッテルを貼るだけしか能が無い。
要は、朝鮮人は何も言うな、という言説である。劣等人種の発言には聞く価値が無い、ということである。ひとの人種や属性、職業の貴賎を仕分けし、賎しいと決めつけた者の価値を無視あるいは軽視するものの見方である。その人間の吐いた言葉にではなく、吐いた者の人種を問題にしている。
またB)は内容如何によっては日本人でも朝鮮人の仲間入りをさせてしまう。在日認定というやつだ。自分が少し読んで気に入らなければ朝鮮人にカテゴライズしてシャットダウンだ。
結局B)の特徴は、『思考停止』だ。妄想を膨らますが余り『チョン=キチガイ』の図式で頭の中が埋まっているので、『チョン』に遭遇した瞬間『キチガイ』と反射的に解答を拵えて思考回路が止まる。
私は確かに『チョン』だが、正論なのか愚論なのかで判断していただければ、と思う。『チョン』でもたまにはいいことを言うはずである。内容に踏み込んで読んでいただきたい。そのうえで、愚論だというのであれば「朝鮮人だから」以外の理由を明確に挙げていただければと思う。

『チョンのキチガイブログ』は不定期更新ながらまだまだ続けていきたい。あくまで自分の良心の赴くままに、自分を研ぎ澄ますために。在日朝鮮人を理解するために、交流を欲するためにお送りいただくコメントなら大歓迎だし、それなら批判にも耳を傾けられる。ただ上記A)B)に属するようなコメントには、これまでどおり温度の低い嘲笑を捧げたいと思う。