「差別」と「区別」の違いについて、kinchanも考える。
私がいつも勉強させていただいている、白い森改め白頭山さんのブログ、『文武両道を目指す!〜ペンは剣より強し〜』で、興味深い論考、『「区別」と「差別」の違い』がアップされ、私も勉強させていただきました。
http://ameblo.jp/whitewoods220/entry-11270602961.html#cbox
早速私なりの感想や考えを書こうと思いましたが、思いのほか長ーくなってしまいました。自分の考えを短くまとめられない私の悪いところです。
クソ長い文章をコメント欄に差し込むことは失礼にあたると思い、自分のブログに挙げさせていただきます。ごめんなさい。
以下、私の考えです。
「差別」とは、民族や性別や社会的属性を根拠に、社会制度や資源の交流、分配の適用において、多数者と異なる(主に不利な)扱いをすることを指し、「区別」とは、一定のカテゴリーに分け隔て、それを踏まえてそれぞれに応じた取扱を成すことを指すと理解しています。
日本においては、憲法はじめ各法典で、差別を是としているものは無いはずです。「差別をなくそう!」と(形骸化した文句ではあるものの)各役所にはスローガン出てますしね。
社会権の一部や公務員の任免権に、国籍条項による制限の明示がある以外は、「ガイジンだからダメ」的な法適用は真に合理性が無い限り認められるべきではなく、それを正当化したり扇動したりする行為も、社会的に否定されなければならないと思います。
それは、先天的に朝鮮人とか女性とか障がい者とか、(敢えてこう書くが)ハンディを背負って生まれてこようと意図して生まれてくる者などおらず、本当にどうしようもない。それを攻撃の対象とするのは民主主義と絶対に相容れないのですから、そのような法適用、及びそれを正当化するような所業は、法律で以って制御すべきと考えますし、差別をなくすための実効的な教育、社会整備は必要と考えます。
しかし、「区別」は必要です。
民族や性別や身体特徴、身体能力には、明らかに差があります。この差を認めず画一的に法を適用する、あるいは社会的なシステムを描くと、一方の者に大きなハンディとなり得るので、ある時は平準化したり、ある時は一方を保護したりハンディキャップを埋めたりして、それぞれの人間を「区別」をして法適用するのは、絶対に必要です。
例えば、
性差を認めず、銭湯は全部混浴、肉体労働できぬ者が悪い、生理休暇も要らぬ、とやりだすと、女性にとってはとんでもない社会です(極端すぎますが)。
障がいによるハンディキャップを認めず、保護法制を執らず、社会のインフラも整備せず、法適用も健常者と差を設けないとなると、障がい者は生きていけません。
保育園の保育料や、所得税の徴収なども、それぞれの収入に応じて区別してやらないと、貧富の差がそのまま生死に関わってきます。
このように、ひとには様々なタイプがいて、それぞれ差があるのですから、画一化されず、区別され、尊重される社会は絶対に必要です。それは互いの多様性を認め合える社会、と言い換えられるかもしれません。全部をいっしょくたに取り扱うのではなく、個人差を踏まえた法適用や社会的な取扱が成されて当たり前だ、という前提条件がないと、一部の者には極めて酷な社会となると言わざるを得ないでしょう。
ここから私の個人的な所感に落とし込みます。
在日朝鮮人という社会的属性に基づく、差別的な法適用や、蔑み、憎悪、その扇動は断固拒否します。
しかし私は私としての「区別」も要求します。思想信条や生活習慣、氏名の慣わしなどについて、日本人のそれ(正確に言えば声のでかいヤツ発進の共同幻想)と同様であると仮定され、その前提を基に画一的に法制度を適用されたり、そのようなものだと勝手に決め付けて発想されたりする「区別のない社会」を強いられたくありません。私の「個」は日本的なものと韓国的、朝鮮的なものをごちゃまぜにして形成されていますが、そのようなオリジナリティを、マジョリティのそれと区別されず、結局は異端児だとして多勢に迎合しないといけない社会は、断固拒否します(それは日本人個々の多様性も認めないことであるから、日本人個々も隣を覗いながら多勢に靡かなければならず、結局日本人自身も住みにくい)。
当然、こちらから特別扱いや独り善がりな無理を強要するようなことはあってはならないが、法制度や社会システムの構築、人々の発想や行動様式の中に、ひとの個性、多様性を認められるだけの「余裕・溜め・遊び」がある、それが前提として認められる社会であるべきだと思っています。
日本が、朝鮮の旧宗主国である立場を意図的に忘却し、在日朝鮮人の同化のみを強要する「区別のない社会」を意図し、それに抗う者の差別を扇動しているのが残念でなりません。
日本社会が、日本とその他多くの『日本でないもの』のごちゃまぜで形成されるに至った歴史的連続性と必然性を踏まえること。そしてあらゆる人種やバックボーンの差異について、それぞれの個性として寛容であることは両立すべき課題であると考えます。
そのためにも、「差別」は否定されるべきであり、「区別」は肯定されるべきだと考えます。
えらく長々書いてしまいました。白頭山さん読んでいただければ幸いです。