いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

この国のマスコミの良心は死んだ ― 金正日総書記の死去に伴う朝鮮学校への取材について

金正日総書記の死去の報から数日が経過した。
これは私の知り合いの朝鮮学校の教員、あるいは私の周りの関係者から総合した話だが、総書記死去の報から、やたらにマスコミや市民団体や右翼系?団体とかから頻繁に電話がかかってきたり、警察のパトロール頻度が増えたり、職員室に警官が(監視の意味も含めてだろうけど)訪ねてきて「変なのが来たら110番してくださいね」と言ってまわったり、とにかく鬱陶しいらしい。

マスコミは必死になって各地の朝鮮学校に取材をかけている。中級学校の生徒にマイクを向けて「金正日さんが死んだんだけどどう思う?」などと見当違いなインタビューを仕掛ける馬鹿もいるらしい。「悲しいことです」とかいうコメントを引き出して洗脳教育の証明だという戦果を勝ち取りたいのだという意図が透けて見えるような話だ。人の死を悼むという当然の感情を中学生相手に弄ぶ、恥さらしにもほどがあるというものだろう。
特に産経新聞は、ここぞとばかりに取材攻勢をかけていて、片っ端から各地の朝鮮学校のインターホンを押しまくっている。MSNのニュースサイトで検索すると、彼らの取材が逐一上げられているのだが、当然のこととして「何もお答えすることはありません」と突っ返されている。東京朝鮮第一初中級学校のインターホンを押したら、「産経新聞の記者はお断り」と言われたらしい。余程悔しかったのか、そのことも含めて詳細に書き連ねている。痛々しい。http://sankei.jp.msn.com/world/news/111219/kor11121913090017-n1.htm
産経新聞は、朝鮮学校が高校無償化の俎上に上がってから今日に至るまで、ずっと朝鮮学校を「下げる」ためのキャンペーンを全社を上げて必死になって行っている。そんな産経新聞がこの期に及んで「取材に応えてくれ」とは虫が良すぎる。どの面を下げてきたのか、ということだ。朝鮮の諺で「行く言葉が綺麗なら、来る言葉も綺麗だ」というのがある。産経新聞はその諺が言わんとすることを身を持って体感したわけであるが、彼らには余り学習能力は期待できないから、何を言っても無駄だろう。この際の朝鮮学校の対応は全く正しい。

現在の日本社会では、「朝鮮学校北朝鮮の学校」というやたらに短絡した図解の中に位置づけられているから、マスコミの連中が、身近な、取材しやすい、ネタになりやすい取材対象として、朝鮮学校に取材をかけるというのは、分からなくはない。私が学生だった時代に金日成主席が死去した時も同じようなことがあった。マスコミは全然進歩していない。そんなもんだろう、とは思う。
しかし、私の学生時代、特に高校時代は、JRの通学定期券がセコイ額だけ高かったのが正規の高校料金になったり、朝鮮学校高体連加盟が認められたり、朝鮮学校の環境改善が少しづつ陽の目を見るようになった時代だった。マスコミは我々の学び舎に度々姿を見せ、我々の心境を取材し、それを新聞の記事にしたり、ドキュメンタリーを撮ったり、雑誌のコラムにしたりして、少しでも私たちの立場を理解しようと入りこんで取材していたように思う。当然に立場が違うことはあっただろうけど、まだ入り込んで取材された分、感情的な障壁を取っ払って記事を書いてくれていたように思う。

ところが、今はどうだろう。超法規的措置によって朝鮮高校「だけ」高校無償化除外が決まった去年、彼らは同じように朝鮮学校の実情を知ろうと、各地の朝鮮学校に入りこんで取材したのだろうか?受益者である朝鮮学校の生徒が、受益対象から自分たち「だけ」外されるという事態をどう思うか、朝鮮学校の生徒に「日本政府の決定についてどう思いますか」とマイクを向け、彼らの想いに寄り添おうとしただろうか?私はそのような取材をした記事を見た記憶がほとんどない。マスコミが、日本政府の繰り出す理屈もへったくれも無い差別政策に、朝鮮学校生徒がどう向き合ったか、どのように心境の変化があったか、という彼らの内面に迫ろうとしたことは一切無かった。
それこそ極右政治家の見解に従って朝鮮学校を『洗脳教育機関』などというのなら、そのような教育を行う学校に通うことをどう思うか現役の生徒に聞いてみればいいし、そのような洗脳教育を受けた卒業生がどんな生活をしているか卒業生を追いかけてみてもいい。しかしそんな取材も見たことは無かった(胡散臭い出所不明の内部告発的な記事は産経新聞で腐るほど見たが)。それが今となって、金正日総書記の訃報があって、好奇心旺盛に下衆根性丸出しで追いかけまわしに来るのだ。日本政府の差別政策の効果と、為政者の死に対する(あくまでも好奇か怖いもの見たさ発進の)反応と、どちらの事象にニュースとしてのバリューがあり、深い分析が求められ、”第四の権力”としてのマスコミの役割が期待されるだろうか、私に言わせれば明らかであるが、実際は見事なまでの真逆であった。

本来のあるべき姿(それは耳障りが良いとか大衆に都合が良いとかではなくて、法理念とか民主主義とかから発進した姿)が何であり、そこから離れた事象の原因を読み取り、事象の補正の道筋を説く、それこそがマスコミの役割であると見る。日本政府の大衆人気取り型差別政策に迎合し、一緒に喝采を送るのは、マスコミの役割では決してない。大衆に迎合し、大衆の熱狂に”受ける”ための記事を書くしか能の無いマスコミ人とやらに、腹の底からの軽蔑を覚える。

今日のマスコミは、現状への批判能力を持たなくなって久しい。大衆のケチ付け、ヒガミに応えるワイドショー的記事しか書けない。真理を探究しその道筋を追求する能力は、残念ながら期待できない。金正日総書記の死去と時を同じくして、この国のマスコミの屍も至る所に転がっている、と思うのは私だけだろうか?