いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

相模原障がい者殺傷事件 ― 何故ヘイトクライムとして論じられないのか?(20160806追記あり)

神奈川県相模原市で、障がい者に対する大量殺傷事件が起こってしまったことに対して、ブロガーの端くれとして書き残しておく。
昨日からの報道やワイドショー、新聞の書きっぷりは、違和感というか、備えるべき視点を欠いた筆致ばかりで、相変わらずだな、と思った。
この社会で決定的に欠く、「他者からの眼差し」という視点だ。「他者への眼差し」、ではない。少数者がこの社会をどのように捉えているのか、という視点である。



相模原事件は、「障がい者に対する嫌悪」「障がい者の生命や尊厳の軽視」を原因としたヘイトクライムである。
彼が事前に衆院議長に充てた手紙からも、彼が措置入院に至った経緯からも、それは明らかである。「愛する日本国、全人類のために」、障がい者安楽死させるべきだと確信を持っていたのである。
ヘイトクライムとは、ある属性(国籍・民族・肌の色・性別・宗教・障がいの有無・出身地や居住地など)を持つことを理由として、それに対する憎悪や排除意識から、それを標的にした犯罪行為・迫害行為、と一般的には定義されよう。
今般の彼の行為は、障がい者に対する憎悪や軽視の意識から、専らそれを標的にすると宣言し、そしてそれを実行したわけであるから、全くブレずにヘイトクライムそのものと言えよう。
彼の思想は、ナチが障がい者二十万人の命を奪った時に振りかざされた文句そのものである。https://www.ushmm.org/wlc/ja/article.php?ModuleId=10005200
彼の事件を考察するに真っ先に出てこなければならないのは、この思想自体が、これまで人類の歴史のなかで幾度となく持ち出され、振りかざされ、そして生命が奪われ続けたという事実であり、第二次大戦後の世界は、ナチをはじめとした人権軽視の思想がもたらした悲劇を繰り返さないという人権基準から発進しているなか、彼の行為は、この人類の価値基準に対する挑戦である、という指摘であるべきである。



ひとりの犯罪者の行為なのに何を大層なことを言っているのか、と思う人がいるかもしれない。
しかし、彼の行為は、以下の事項を改めて明らかにした。これまで人類が幾度となく経験してきた事項である。
*差別心は人を殺しうる、ということ
*差別心の前では人間性は奪われる、ということ
*差別心の標的は悉く社会的弱者に向かう、ということ
池田小事件を引き合いに出すような視点があったが、ふたつの事件は背景が異なる。おのれの劣等感からエリート層の子弟を狙った池田小事件と、マジョリティ(社会的強者)の専制という立場から価値判断をして歪んだ正義感を振りかざした今回の相模原事件とは、事件の効果は全く異なるのである。



障がい者の存在を軽視し、尊厳を無視し、社会の隅に追いやり、社会と接触しないようにし、結果社会的な偏見、差別心の芽を徹底的に育んできたという土壌があって、今般の事件は、起こるべくして起こったのである。
この事件の評価で目が向けられるべきは、この思想そのものの危険性であり、差別と訣別するという社会的な宣言の必要性こそに言及されねばならない。単独犯ではなく複数名の行為であれば、あるいはこれがより強固な社会的排斥の対象になっている属性に向かったならば、犠牲がより甚大になっていた、ということが推定されるに過ぎない。
それなのに、彼の行為に対する評価は、ただの奇人の行為と矮小化され、彼が衆院議長宛の手紙に込められた『政治的主張』は、この思想が歴史的にどのような系譜の中にあるのかという評価に付されぬまま、無批判且つ興味本位に垂れ流された訳だから、その目的すら達成されてしまったのである。



この報に触れた昨日、自宅に戻ってから夫婦で交わした会話の第一声は、奇しくも、しかし必然として同じ言葉だった。
「ウリハッキョ(私たちの学校の意、朝鮮学校のこと)、大丈夫かなぁ」
差別の愚かさに対する言及が乏しいまま、それによって繰り返されてきた被差別者の悲哀が省みられぬまま、今般の事件すらも、ひとりの奇人の犯罪行為とでしか消費されないのであれば、第二第三のヘイトクライムの犠牲者が発生するのは必然である。社会的な偏見に常に晒される朝鮮人家族にとってこれは、まったく他人事ではない。模倣犯の発生は早速、体力の弱い女子供に向けられるのは世の常である。セキュリティもままならない朝鮮学校の教室に、妄想発信の憎悪を発散させる輩が現れないとも限らない。




http://www011.upp.so-net.ne.jp/kamogawa-lo/hate_pyramid/pyramid_updown.html
これはヘイトクライムを論じる際に引き合いに出される「ヘイトのピラミッド」である。現近代の日本社会が、悉く社会の差別に対して鈍感であり、差別的な言説に対して一定の親和性を保ってきた、そして近年の排外主義の台頭についても政治家が「表現の自由」をタテに護ってきたことが、ゆるゆるとピラミッドを登ってきたのである。いままさに頂点近くまで登ってきてもなお、そのことが社会的に総括されないのであれば、残るはジェノサイドか制度的な排斥である。そこまで社会が堕ちぬよう、差別が社会悪であるというコンセンサスが、まともに形成されなければならない、と思う。



(追記)被疑者がザイニチだという、いつもながらの言説がネット上を回っているようである。
良いことをする人は日本人、あるいは日本/日本人が大好き。
悪いことをするのはザイニチ、韓国人、あるいは韓国か中国の云々。
…どうでもいい。
飽きないのだろうか?



(20160728追記)私が言わんとすることを補強する意図で、きょう掲載された記事を紹介する。

相模原殺傷 尊厳否定「二重の殺人」全盲・全ろう東大教授
毎日新聞 2016年7月28日 13時14分(最終更新 7月28日 18時57分)
http://mainichi.jp/articles/20160728/k00/00e/040/221000c

(引用開始)

相模原市の障害者施設殺傷事件を受け、障害者の関係団体が相次いで声明などを発表する中、全盲と全ろうの重複障害を持つ福島智・東京大先端科学技術研究センター教授から「暗たんたる思いに包まれています」というメールが27日、毎日新聞に届いた。福島さんが「今回の事件から考えた原理的な問題」をまとめたという原稿を紹介する。

「重複障害者は生きていても意味がないので、安楽死にすればいい」。多くの障害者を惨殺した容疑者は、こう供述したという。

これで連想したのは、「ナチスヒトラーによる優生思想に基づく障害者抹殺」という歴史的残虐行為である。ホロコーストによりユダヤ人が大虐殺されたことは周知の事実だが、ナチス知的障害者らをおよそ20万人殺したことはあまり知られていない。

一方、現代の世界では、過激派組織「イスラム国」(IS)の思想に感化された若者たちによるテロ事件が、各地で頻発している。このような歴史や現在の状況を踏まえた時、今回の容疑者は、ナチズムのような何らかの過激思想に感化され、麻薬による妄想や狂気が加わり蛮行に及んだのではないか、との思いがよぎる。

被害者たちのほとんどは、容疑者の凶行から自分の身を守る「心身の能力」が制約された重度障害者たちだ。こうした無抵抗の重度障害者を殺すということは二重の意味での「殺人」と考える。一つは、人間の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」。もう一つは、人間の尊厳や生存の意味そのものを、優生思想によって否定する「実存的殺人」である。

前者は被害者の肉体を物理的に破壊する殺人だが、後者は被害者にとどまらず、人々の思想・価値観・意識に浸透し、むしばみ、社会に広く波及するという意味で、「人の魂にとってのコンピューターウイルス」のような危険をはらむ「大量殺人」だと思う。

こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、今の日本を覆う「新自由主義的な人間観」と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。

しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。つまり、ごく一握りの「勝者」「強者」だけが報われる社会だ。すでに、日本も世界も事実上その傾向にあるのではないか。

障害者の生存を軽視・否定する思想とは、すなわち障害の有無にかかわらず、すべての人の生存を軽視・否定する思想なのである。私たちの社会の底流に、こうした思想を生み出す要因はないか、真剣に考えたい。

(引用ここまで)



(20160729追記)



(20160730追記)

相模原市障害者殺傷事件に対する抗議声明
特定非営利活動法人DPI(障害者インターナショナル)日本会議

20160727_seimei.pdf 直



(20160806追記)

共に生きる・トブロサルダ 大阪コリアンの目/183 /大阪
毎日新聞2016年8月5日地方版
http://mainichi.jp/articles/20160805/ddl/k27/070/443000c

(引用開始)

◆相模原殺傷事件 「ヘイトクライム」広がらぬよう 犠牲者に自ら重ねる障がい者
暗たんたる気持ちだ。抹殺したいと考えるほどの憎悪とは何か。相模原市障がい者施設「津久井やまゆり園」で起きた事件が、社会に大きな衝撃を与えている。これから真相がさらに明らかにされていくだろうが、それにしても語る言葉を失う。
逃げられない心身のまま、致命傷を負って犠牲になった方々は何を思い、どのような言葉を残したか。入所者たちが味わった恐怖、驚がく、絶望は想像を超える。施設を利用していたご家族もまた、奈落に突き落とされた悲しみの中におられることであろう。
容疑者は今回の事件前から、障がい者への憎悪に満ちた言動を周辺に繰り返していたという。「抹殺」のための手順を記した文書を作成し、他者にも伝えている。
それらからこの事件は「ヘイトクライム」だと私は認識している。「ヘイトクライム」とは特定の集団や民族を憎悪し、社会から排除、抹殺を目的とする犯罪行為のことを言う。昨今深刻化した「ヘイトスピーチ」が広く知られるところとなったが、「ヘイトスピーチ」を放置すれば、次に「ヘイトクライム」が社会をおおうことを私たちは今一度深く受け止める必要がある。
案の定、SNSには今回の犯罪に共感する書き込みにあふれ、その内容を見れば第2、第3の事件すら危惧される感覚を持つ。
この事件は東京の都知事選挙のさなかに起きた。ヘイトスピーチを繰り返すグループのリーダーが立候補し、選挙中にも特定の集団や民族を排斥する言動を繰り返していた。それでも投開票の結果、この人物に11万票が投じられた。
国会でのヘイトスピーチ対策法の成立を受け、街頭での差別的な演説は多少なりとも難しくなっている。しかし、各種選挙に立候補し、選挙戦を利用して差別的な言動を繰り返すなどの事例も増えている。今後、選挙を隠れみのとした扇動にも注意し、その実態を明らかにしていく必要がある。
今回の「津久井やまゆり園」事件について、容疑者の背景や深層心理を徹底的に究明し、事件を未然に防止できなかったのかの検証、憎悪発言の果てに起こった「ヘイトクライム」の可能性を追及し、社会の病理を鋭くただすことが求められる。何より処罰感情が高まり、異常者による異常な出来事だと片づけて、真実が未解明のまま極刑を急ぐ世論にならないよう呼びかけたい。そのためのメディアの役割は大きい。
わが家族で、この事件の報道をもっとも見入っていたのは私の妻だ。妻には肢体不自由の障がいがある。感情を押し殺し無表情を装ってはいたが、深く傷ついていた。いや多くの障がいを持つ人々が、自分が殺されていたかもしれないと犠牲者に自らを重ねている。<文 金光敏(キムクァンミン)>
■人物略歴
1971年、大阪市生野区生まれ。在日コリアン3世。特定非営利活動法人・コリアNGOセンター事務局長。多文化共生、人権学習の教育コーディネーターを務め、さまざまな子どもたちを支援するソーシャルワークにも取り組む。

(引用ここまで)