日本国は殺しかけた袴田さんを前に、なお「死刑存置」と言い続けるのか?
私はライフワークとして死刑廃止を訴えている。私の死刑廃止に関する考えはこちらのエントリーに纏めているのでご一読願いたい。
(突然ですが)死刑と冤罪について考える
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20111110/1320936511
先日、無実を訴え続けながら48年間も投獄され、長きにわたり「明日殺されるかもしれない」という恐怖と戦い続けていた袴田巖さんへの再審が認められ、拘置が解かれ釈放された。
マスコミは死の淵から生還した袴田さんと、袴田さんの無実を信じ戦い続けたお姉さんを追いかけ、「美談」として持て囃しているが、それに比べ、無実の人間を半世紀に渡り獄に繋ぎ続けた検察等国家権力の横暴に対する糾弾、及び日本の刑事訴訟制度、そして何より死刑制度に対する批判的な考察はほとんど見かけなかった(見かけたかもしれないが何とも手ぬるい)。
今般の再審開始に関わる報道を眺めるに、見込み捜査・拷問・隠蔽・捏造という手段で、無実の人間を殺そうとした国家権力への批判から始めなければならないことは言うまでも無い。
司法権を握る者は、己の保身や自己顕示欲や組織の都合や過失等々、つまり「司法の都合」で、無実の人間を犯罪者に仕立てることができる。
私たちには、司法権の恣意的な運用の可能性を極限まで少なくさせ、誤判を生まないための「仕組み」が必要だ。そうでなければ、いつ「司法の都合」で身に覚えのない嫌疑をかけられ「犯罪者」に仕立て上げられるか分からない。
刑事訴訟の手続保障は「犯罪者」の権利ではなく、この社会に住まう者全ての、初歩的な権利だ。
しかし、今日の日本では袴田事件再審開始の報に触れてもなお、日本の司法制度の後進性についてはピンと来ていない人が多いようだ(代わりに「袴田さんは真犯人かどうか疑いが残っていたから処刑されずにいた」というピントのズレた話が漏れ伝わってくる)。
「この国の警察・検察の現状は信頼に足りるのか?」を、もっと批判的に議論されなければならない、と感じる。
私は更に、一歩進めた議論をするべきだと考えている。
即ち、仮に本当に袴田さんを「殺してしまった」後だったら、国家権力はどうするつもりだったのかを、もっと掘り起こして議論しなければならないと考えている。
冤罪被害者を出すことと、真犯人を取り逃がすことの、どちらが真に不正義であるかは論を待たないであろう。
冤罪は何の罪もない人間に国家権力の都合で罪を被せる不正義であるが、冤罪の被害者が生きていれば、国家は後から幾らでもその誤りを正すことができるし、贖うこともできる。
しかし死刑は、その不正義の回復可能性すらも永久に閉ざす、不正義を固定する、究極の不正義に繋がる制度だと考える。
『疑わしきは罰せず』。それが刑事司法の大原則だ。科学の進歩によって、新しい証言や証拠の出現によって、真犯人の出現によって、司法の判断が後になって揺らぐ可能性は、幾らでも想定できる。
それが仮に、冤罪被害者を殺した後になって判明して、国家は、司法は、その罪をどうやって贖うのか?幾ら大金を積んでも、殺した者は甦らない。
私は、死刑制度とは人間の「おごり」「傲慢」が凝結した、現代に残る最大級の野蛮だと考えている。
死刑制度は、「人間は誤ることがある」という揺るがぬ真理を無視した、極めて分かりやすい重大な欠陥を抱えた制度だと考えている。
民主主義の成熟度は『民』が決めるというのが私の持論だが、この国の刑事司法の後進性を、それに気づき取り囲んだ市民の感度で改め、この国の民主主義を一歩でも先に進めてほしいと願う。
そうでなければ、いつかまた、第二第三の「袴田さん」が生まれないとも限らない。
なお、この稿は、「飯塚事件」の再審請求棄却の決定を前後して書いた。
仮にこの決定が「飯塚事件」の犯人とされた方の処刑前の判断であったなら、多少なりとも司法が導いた結論は違ったのではないか、と勘繰っている。
仮に、この国が罪の無い者を『本当に殺した』後で、その判断が誤りだったと判明したなら、幾ら人権後進国ニッポンであっても、死刑廃止論がにわかに盛り上がるのは明らかだろう。
今決定は、密行主義と世論操作で死刑に対する情報や知識を制御し制度を維持しようという、この国の為政者の意図をなぞったものだと考えるのは私だけだろうか?