いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

桜宮高校事件に、朝鮮学校事件との同一性と再生産性を見る。

大阪市立桜宮高校で起こった体罰事件を巡り、嫌な予感が的中したのが橋下大阪市長の政治ショーだった。
体罰容認論者の氏は、自身が行政の長であるにも関わらず行政機関の不祥事とわめきたて、入試を止めろ教師を全入れ替えだ言うことを聞かなければ予算凍結だとやりだした。体罰を無くす目的と手段の不一致による違和感、在校生卒業生保護者の置いてきぼり感が甚だしい。

大衆迎合型論調を磨くのに余念がないマスコミ各紙も、さすがに今回は一部批判めいたことを書いていた気がする。しかし何とも手緩い。氏への批判が、大勢「これで体罰が無くなるか/無くならないか」の次元に終始している。そうではなく、法の理念をねじ曲げ、民主主義の手続や既成の意思決定機関を軽視し、(法が予定しない)認可や予算執行への口出しをもって、既存の秩序や予定調和を乱暴に破壊していること、これこそに及ぶべきだ。これは大阪で幾度となく繰り広げられ、数多の犠牲者を生んできた手法だからだ。「俺は選挙で選ばれた=俺のやることは即ち民意」という、何とも苦しい正統性の図式を唯一最大の武器に、自らの権限を振りかざし、見せつけ、あらゆる機関や機能を自らの支配下や影響下に置いてきた。今回の事件が政治事件化したのも、この問題でもうひとつ旗を揚げようとする、氏の「嗅覚」によって創り出されたと捉えるべきなのだ。この政治手法に対する、根源的な批判こそが求められるのだ。このような政治手法が否定されない限り、同じ問題は繰り返される。

氏が教育に好き勝手にモノを言った際の負の効果については、既に大阪市民は経験済だ。朝鮮学校補助金を削る際、氏が朝鮮学校に突きつけた『4要件』がそれだ(※)。民族教育の意義を根本からひっくり返す要件を突きつけられた側からすれば、何故にこれに遵守義務や法的拘束力を見出ださなければならないか皆目見当が付かないし、憲法や国際人権法の法理からすれば、到底受け入れられないものだ。自らに都合の良く変形する「民意」(そもそも「世論」「民意」が常に正しいというのは幻想に過ぎない)を振りかざす橋下市長が相手ではいかにも相手が悪い。法治主義は人治主義に姿を変え、憲法や国際人権法や教育基本法は条例や訓示を前にひれ伏し、まさに氏の言うたもん勝ちで補助金は打ち切られ、大阪の民族教育はまさに危機的状況に瀕している。

このときの経験を、大阪市民が我がものとして捉え咀嚼し、あるべき批判や総括が加えられていれば、今般の政治的横暴は繰り返されなかったのではないか、という思いが私にはある。氏の政治的横暴が(自分たちにではなく)朝鮮学校に向いていたから、社会は取り立てて問題にせず、批判も向けなかった。しかし、その時はたまたま朝鮮学校朝鮮人が対象であっただけなのだ。攻撃対象は氏の「民意」の解釈、つまり政治的な思惑によって変幻自在なのだ。そしてこのように「民意」による横暴が、同じように繰り返されたのだ。次も同じ手法で、槍玉に挙げ、無慈悲に葬られる橋下政治の犠牲者が必ずや現れるだろう。自らの政治権力の行使の為には、民主主義の手続や少数者の意見をスットバし、数十年かけて営々と築かれてきた秩序を破壊することを屁とも思わない、衆愚政治を極める氏の手法こそに、あるべき批判が向けられるべきなのだ。『チョーセン』だから私は関係ない、ではないのだ。



ところで、
今般の事件の当事者たる桜宮高校の保護者からは、当然に批判が噴出している。以下記事を引用する。

桜宮高校保護者“意見交わす場を”
NHKニュースウェブ 1月30日 19時0分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130130/k10015175271000.html

(引用開始)

大阪市立桜宮高校で体罰を受けた男子生徒が自殺した問題を巡り、在校生の保護者らが教育委員会を訪れ、「体罰をなくすために力を合わせたい」として、学校の改革に向け、ともに意見を交わす場を設けるよう要望しました。

要望を行ったのは、在校生の保護者や卒業生などが今月27日に結成した「桜宮高校から体罰をなくし、改革をすすめる会」で、メンバーの代表らが30日、大阪市教育委員会を訪れ要望書を手渡しました。
この中では、「学校から体罰をなくすために教職員と在校生や保護者が力を合わせるべきだが、意見を述べる機会が与えられていない」として、教育委員会に対し、ともに意見を交わす場を設けるよう求めています。
また、在校生が体罰を容認しているかのように誤解されたり、通学中に悪口を言われたりして傷ついていると訴えています。
さらに、すべての運動部の活動停止や教師の総入れ替えは、体罰の防止や学校の改革には結びつかないとして、見直しを求めています。
自殺した生徒と同級生の息子をもつ保護者の男性は記者会見で、「子どもは仲間を失ったことを深刻に受け止めているのに、見知らぬ人からバッシングを受け、運動部の活動も奪われてひたすら耐えている。そんな子どもたちの思いを分かってほしい」と述べました。

(引用ここまで)



引用記事には出ていないが、NHK大阪のローカルニュースでは保護者の声として、「生徒たちは誇りにしていた制服や校章がバッシングの対象になり恐怖している」と涙ながらに訴えていた。

体罰問題の批判対象は、第一義的には当該教師及び学校の管理監督者たる校長、教育委員会、その上位の行政機関であり、拡大的には日本のスポーツ現場で伝承されているいわゆる体育会系的風土である。今般の事件の犠牲者たる生徒に、批判や誹謗中傷を向けるのはお門違いにも程がある。生徒の一部が体罰のプラス的効果に一定の理解を示したにしても、それに誹りを向けることはあってはならないし、しかもそれが、同一の「タグ」が付いているからと、生徒一般に向けられる理由は何もない。
学習蓄積による見識涵養の効果として、あらゆる事象に問題意識を落ち、それに批判的立場を表明することは、民主主義社会の健全な姿と認識するが、その批判は、問題の解決を司り判断の主体を担う者や機関に対し、適切なルート及びサイズで届けるべきである。事象が発生した主体と同一の「タグ」が付いているだけで、意思決定に参画もしない影響力もない、それこそ『知ったこっちゃない』者に、その誹りを、ルールも無く徒にぶつけることは、逆に民主主義を破壊するし、甚だしくも暴言や暴力に晒すという愚は、断じてあってはならないことだ。

しかし振り返れば、これは朝鮮学校の関係者からすれば「どこかで見た光景」だし、過去から現在にかけて「繰り返されてきた光景」だ。朝鮮学校の生徒は朝鮮半島情勢や朝鮮人関連の事件が起こるたびに標的にされ、暴言を浴び、暴行を受け、チマチョゴリが切り裂かれてきた。いつしか彼女らはチマチョゴリで通学ができなくなり、ジャージのゼッケンを取り外し、常に心の片隅に警戒心を抱きながら通学しなければならなくなった。
朝鮮学校ではことある度に繰り返される、ある種『お馴染み』にまで堕ちてしまった光景が、いままさに桜宮高校の周辺で起こっているのだ。

朝鮮学校及び生徒に向けられていた、犠牲者非難、幼児的思考による暴力という「愚」が、社会的な問題にされ、評価なり批判なりに晒されなかったことが、今日の桜宮高校に表れている。そのときたまたま朝鮮学校及び朝鮮人が攻撃対象だった、『朝鮮人だったから』問題にならなかった、だけのことなのだ。朝鮮人が攻撃されているのを、そのときマジョリティが我が社会のこととして認知し、批判し、その「愚」を共有できなかったことが、このように再び問題として現れたのだ。そして、今般この「愚」に社会的な評価が向けられ、根源的な総括がなければ、第二第三の朝鮮学校、桜宮高校が「再生産」されるだろう。

これまで見てきたように、今般の桜宮高校事件に見る様々な事象は、朝鮮学校が過去形及び現在進行形で経験しているものだ。日本社会のマジョリティの視野狭窄によって問題になっていなかっただけなのだ。問題の発生原因の根本を治癒しない限り、同じ問題が再び巻き起こるだろう。朝鮮学校にまつわり発生する様々な問題は、日本社会自身の問題であるという着眼点を、いま改めて提示したいと思う。



(※)橋下知事(当時)が大阪朝鮮学園への補助金の交付要件として提示した『4要件』
 1.日本の学習指導要領に準じた教育活動を行うこと
 2.学校の財務状況を一般公開すること
 3.特定の政治団体と一線を画すこと
 4.特定の政治指導者の肖像画を教室から外すこと
この制定後に、多数派を握った「大阪維新の会」の議員らが、この要件に、より具体的かつ緻密な要求(ケチ)を付け加え、府議会等で強硬に反対論を繰り広げた。結果として、朝鮮学校への補助金は完全に打ち切られた状態で現在に至っている。