いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

朝日新聞の朝鮮高校無償化排除反対の社説 ― 0点の駄文

朝日新聞が、安倍政権の朝鮮高校無償化排除に反対する社説を載せた。
とてつもなく傲慢かつ稚拙な物言いに頭がクラクラがする。facebookや他の方々のブログで既に数多語り尽くされているが、私もブロガーの端くれとして突っ込んでおく。



朝鮮学校―無償化で改善の回路を
朝日新聞 2013年1月9日社説 http://www.asahi.com/paper/editorial20130109.html#Edit2

(引用開始)

安倍政権が、朝鮮学校を高校無償化の対象から外す方針を決めた。
家庭の経済力にかかわらず、安心して高校に進み、学べる社会にする。この無償化の趣旨を考えると、例外を設けるべきではない。
教育内容に朝鮮総連の影響が及んでいること、拉致問題の進展がないことなどから、現時点では国民の理解が得られない。下村博文文部科学相はそう説明している。
たしかに拉致に加え、事実上のミサイル発射実験などから北朝鮮への国民の不信は強い。
朝鮮学校も教育のあり方が疑念を招いてきた。北朝鮮指導者の肖像画を教室に掲げ、独裁体制を肯定するような授業をしているとすれば受け入れがたい。
ただ、制度の対象は生徒個人であって、学校ではない。卒業後は日本の大学に進学する生徒も多い。日本社会の一員となる子どもたちだ。
生徒たちの学びを保障し、かつ日本や国際社会の価値観をきちんと学んでもらう。両立の手立てを探りつづけるべきだ。
これまで文科省は、無償化を認める場合には「留意事項」をつけ、日本の政治・経済の教科書を教材の一つとするなどの自主的改善を促すとしてきた。
無償化の対象にして回路を保ちつつ、こうした改善を働きかける。その方が、社会全体にとって有益ではないか。
神奈川県は一昨年、県内の朝鮮学校に県として補助金を出すにあたり、拉致や大韓航空機の爆破事件をめぐる教科書の記述などの疑問点を指摘した。
その結果、十分でないにせよ記述は一部改訂された。横田めぐみさんを題材にしたドキュメンタリー映画を使い、拉致問題を教える授業も行われた。働きかけの回路をもつことで一歩前に進んだといえる。
朝鮮学校を対象から外す手続きにも疑問がある。
外国人学校への無償化適用は文科省令に定められている。そこから、朝鮮学校を審査対象とする根拠の条項だけを削除するというものだ。
この条項に基づいて、朝鮮学校からは2年以上も前に申請が出ている。ところが、その審査をずっと先送りした末に、条項そのものをなくして審査を打ち切る。これはおかしい。
ルールの変更を検討するにしても、まず審査の結論を示すのが先だろう。
民主主義社会の価値観に合う教育を求める側が、手続きの公正さに疑問をもたれることがあってはなるまい。

(引用ここまで)




>無償化の趣旨を考えると、例外を設けるべきではない。
と言っておきながら、早速
北朝鮮指導者の肖像画を教室に掲げ、独裁体制を肯定するような授業をしているとすれば受け入れがたい。
などと、朝鮮学校のみに、朝日新聞が認定した実態を取り出し、『例外的に』受け入れがたいなどとのたまっている。この時点で、のっけから根本的に徹底的にアウトである。

朝日自身も指摘するように、高校無償化法は、
>家庭の経済力にかかわらず、安心して高校に進み、学べる社会にする
という、子供達の学習権を担保する法律である。
「教育を受ける自由」とは、どのような教育を受けるかを選択し享受するという、学ぶ者の自由のことである。政治が定めた国是に基づく教育、すなわち『国定の主義・価値』に根ざす教育なら保障する、などという思想選別的な運用は導けない、社会の構成員に普遍的に適用されるべき法律である。
高校過程とは公立普通科ばかりではない。宗教科などの教育課程などは、英語や数学も教えつつも、宗教という独自の価値観を教えている。その宗教に価値を持たない者にとっては『訳のわからないこと』を教えているが、宗教者にとっては価値があり、その教えを尊ぶ者にとっては無くてはならない学びの場だ。その宗教に属さない者にとってはトッチャン坊やのイタコ芸にしか見えないものであっても、その学校での学びは社会的に保障されて然るべきである。
同じようにエスニックマイノリティを対象にした朝鮮学校であれば、特に『国是』『国定』と相容れない部分があることは自明であり、マジョリティから見れば相対的に価値が低いものであったとしても、それを選択し尊び学ぶ意志があるのであれば、尊重されるべきである。何を学ばせるかは、教育の享受者を慮り親や学校が決めることである。

それを、
>日本や国際社会の価値観をきちんと学んでもらう。両立の手立てを探りつづけるべきだ。
などと朝鮮学校のみ、教育の『価値観』を問題にし、
>これまで文科省は、無償化を認める場合には「留意事項」をつけ、日本の政治・経済の教科書を教材の一つとするなどの自主的改善を促すとしてきた。 無償化の対象にして回路を保ちつつ、こうした改善を働きかける。その方が、社会全体にとって有益ではないか。
などと朝鮮学校のみ『社会全体の有益性』という、マジョリティの腹具合ひとつでどこまでも変幻自在なモノサシを持ち出し、マジョリティに迎合しなければマイノリティの教育は(本来は)保障され得ない(けど特別に認めてあげる)、という独善的な物言いを成立させようとしている。
この変幻自在性は恣意性と言い換えることができるが、例えば今回朝鮮学校がマジョリティに安易に迎合して一旦は教育の実践を保障されたとしても、『社会全体の有益性』とやらが上下左右に変幻自在した際には、再び迎合し直さなければならない。声の大きな者(政治家、マスコミ、マジョリティの大勢の意見だと主張する者、等々、つまり言うたもん勝ち)が、様々な理由で『社会の有益性』を持ち出しさえすれば、いつでも、いくらでも、教育内容に口出しし、思想に介入できる、カネ出してるんだから当たり前だよね、という傲慢も甚だしい図式が現れる。そこには、マイノリティの自主性も無ければ、教育の自治も何もない。
極めつけは、
>民主主義社会の価値観に合う教育を求める側が、手続きの公正さに疑問をもたれることがあってはなるまい。
などと書いているが、この際の民主主義とは何を指しているのか?民主主義の手続によって決められた為政者によって、少数者の人権が、いままさにないがしろにされようとしている。民主主義とは衆愚主義や多勢専制主義ではない。民主主義について書かれる際、真っ先に「少数者の尊重」が書かれる。こんなものは少し勉強すればすぐに理解できることだし、民主主義の未成熟と不徹底こそが、今般の事象を生みだしているのだ。それをわざわざ『民主主義の価値観』云々とは、何を言っているのだ?同じ口が言っているとは到底思えない。

自民党政権は、教育内容云々についても勿論文句を言っているが、主には「朝鮮学校朝鮮総連すなわち北朝鮮と繋がっているから、政治的外交的理由を持って不支給」と言っている。政治目的のためにならマイノリティを排除できると確信する、人権感覚の劣化、憲法の不勉強、国際的な価値観への挑戦を見て取る。その不当性については先日既に述べた。
朝日は、政治目的外交目的で朝鮮学校の教育を云々するのではなく、教育内容を修正させる回路を保つ為にカネをやれと言っている。本質的には、マジョリティの腹ひとつで、マイノリティが何を学び何を尊ぶかを好き勝手決めて範囲を区切れると錯覚している時点で根は同じだ。その差別性、醜悪性を自覚していないうえでは朝日のほうがタチが悪い。
残念ながら、堂々の0点だ。