いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

「従軍慰安婦」を眺めるもうひとつの着眼を提示したい ― 日本の裁判所では日本軍の加害事実が認定されている

(20130601タイトルを変更し、一部記述を修正しました)

私は、日本と朝鮮半島との間に跨る領土問題、及び過去の歴史に関する修正主義に対する着眼というのは、余り表だって書いてこなかった。
理由は、不勉強だからだ。詳しくないからだ。

竹島(独島)の領有権の問題については日韓双方とも「一理ある」と思う。日本側が言うように韓国側が提示する古地図からのアプローチはかなり無理があるものが多い。しかし韓国側が言うように竹島島根県編入した時期は日本が韓国の主権に干渉を始めた時期であり、無主地と言い立てて文句を言うべき国は日本に主権を奪われていたのだから、という歴史的アプローチも頷ける。ここで不勉強な私がいろいろ書いて無知を晒し、つまらないいさかいを再生産する気には正直なれない。領土問題の解決は専門家に任せておけばいいと思っているし、そんなことより領土問題で国家間が揉めたのに乗じてシモジモ同士が一緒に揉める愚に対する反省をこそ、周囲の日本人とともに共有したいと思っている。
日韓間の近代史に対する、世界で共有されている認識に、(日本国内で内向きに)破壊に挑戦しようとする歴史修正主義に対しても基本的にその姿勢は変わらない。私自身が日韓の歴史的産物であり、自分史を紡ぐ中で自分が理解し学習してきた内容に照らして、明らかにおかしいことについては異を唱えてきた。しかしそれとて歴史家の積み上げに比べれば取るに足らない知識量だし、ひけらかすほどのものではないので、わざわざ自己の歴史観をクローズアップし、修正史観に対する学術的な批判をし、などは行ってこなかった。コメントもエントリーもしてこなかった。私の学習量ではその資格がないという認識であった。
私の着眼、守備範囲は、ザイニチに対する差別主義植民地主義がいまだに解消されないことに対して、当事者として、生活者の視点で声を挙げることと、いまも思っている。

そんな私が、先日、私は橋下徹発進の「従軍慰安婦」騒動について、敢えて書いた。彼の当初の発言からの変遷に次ぐ変遷、自己防衛、詭弁、支離滅裂、八つ当たり、軽口と減らず口、そしてこの根底に流れる醜悪な差別性、攻撃性、非理性的態度、、、これが公党の党首、大都市の首長、政治家としての適格性を大いに欠くと指摘した。そんな自己防衛他者攻撃に終始する卑劣な者に会うために、歴史の証言者としてハルモニが遠路お越しになっても、この者に響くことなどある訳はないし、逆に政治パフォーマンスの具にされ、セカンドレイプに弄ばされるのは目に見えていると指摘した。朝鮮学校は言うに及ばず、文楽協会、大阪市音楽団、桜宮高校、大阪市職員と、憲法の理念と多様な価値観を破壊しながら、次々に攻撃対象を定め、下げることで、多勢の歓心を買うという下賤な政治手法の犠牲となる者が、これ以上増える前に、その本性に覚醒した人々の声でこの者の政治生命を終焉に追い込むという流れに、私も大阪市民として加勢したい気持ちで書いた(当然、拙ブログにそんな影響力などチリも無いのは千も承知だが)。
しかし、ある程度予定されていたことであるが、劣化版の国粋主義者(護国ゴッコ主義者GKG@白頭山さん)が多数、もう既にネット上でコピペしまくられている、歴史修正主義者の言い分をわざわざ書き連ねに現れた(中にはただの朝鮮人嫌いが「朝鮮人はきらいだー」と書きに来たりもしたが、犬のマーキングのようで実に微笑ましい)。非常にコメ欄が荒れたのもあり、私もブログ主として修正なり反論なりをすべきなのだが、いかんせん多事抱える私にはその時間が無かった。明確な反論には文献の閲覧を要すものも含まれたが、私の日頃の不勉強も手伝って手に負えない。ひとつひとつに反論することは控える。ご容赦願いたい。このように不定期にしか自分のブログに出没しないブログ主であるにも関わらず、定期的に巡回し明確な反論を展開なさってくれた皆様にはこの場を借りて感謝申し上げたい。

ところで、こんな不勉強な私であるが、歴史を学ぶ上での基本的な姿勢について、少し考えてみたい。
ある時代の歴史を検証しようとするとき、検証の素材となる文献、新聞記事、証言、証拠物件等は、それ単体はパズルのピースに過ぎず、それひとつを取り上げて歴史的事実全体を語ることはできない。素材をかき集めればかき集めるほど、歴史的事実の全体像が、壮大な絵画として眼前に現れるものと考える。当然にパズルのピースそれぞれは、時間経過によって精度を失っていることがままあるので、信頼度はそれを踏まえた割り引いたものとなることは論を待たないであろう。しかし信頼度がゼロになることは捏造や偽装でもない限り無いのであって、絵画全体を語る素材として重要なピースのひとつであることに変わりはないのである。歴史研究とは、このような素材の積み上げと、それを想像力と洞察力でもって前後左右の関連性をひもときながら、パズルのピースを繋げていくことが肝なのだろうと思う。
この点において、「この証言は○年ズレてるから信頼度ゼロ」「この資料は△が矛盾しているから信憑性ゼロ」というカタチで、ピースの価値を、一部の瑕疵の指摘でもって完全否定し、結果として歴史的事実全体を否定しようとする姿勢は、歴史的事実の検証という目的からは大きく逸脱するものであり、そもそも歴史・先人に対する畏敬や畏怖というあるべき姿勢から大きくかけ離れた姿勢であるというべきだろう。そして、この姿勢こそが、歴史修正主義者の執る常套手段であることを指摘しておかなければならない。
つまり、歴史修正主義者とは、歴史をひも解くのとは別の、目的や価値を追い求めているのであって、逆説的に言うと、歴史修正主義者が葬ろうとし、あるいは持ち出してくるピースこそを、つぶさに検証しながら、歴史を正しく学習していくべきだろう。

さて、今般議論になっている、いわゆる「従軍慰安婦」というものに対する価値判断をするうえで、私はもうひとつの着眼を提示したいと思う。
ネット上ではそのことに着目している記述は多くないような気がするが、多くの元「従軍慰安婦」からの訴訟の提起が、日本の裁判所に行われている。裁判結果はいずれも敗訴で確定している。多くは国家間の平和条約締結に際して、『その間の違法行為に対する請求権は相互に請求しないという条項が付されており決着している』という日本側の抗弁に基づく判示による敗訴である。しかしながら、裁判所はその事実認定の中で、朝鮮人や中国人、またはオランダ人を拉致して連行したりだとか、甘言を弄んで連れ出したりとかして、強制性をもって「慰安婦」に就かせたことを認めている。しかも、その多くについて国側は争っていない。争わなかったのは、前言の通り、原告側に請求権がないことによる「門前払い」を求めようとしたからであるが、これら訴訟によって、多くの「慰安婦」が、決して自発的に、高給を貰えるからと、好き好んで売春に走ったのではなく、人さらいや監禁や脅迫から、強制的に性奴隷として凌辱を受けた、ということを、裁判所という国の機関が認めた、という事実があるのだ。
これら訴訟の事実認定には、原告らによる多くの「ピース」の積み上げと、そこから真実を導き出そうとする裁判官の時間をかけた検討がある。元「慰安婦」の証言のほか、多数の公文書等を精査したうえで、判決文にそのような事実認定を盛り込んだのである。少なくとも歴史修正主義者などよりは中立的かつ客観的に、国家の司法が事実であると認定したのだ。
この意味をどう考えるだろうか?

私は、この司法の判断についても学習中であり、私自身がその個別の判示について見解を示すのはおこがましい話なので止めておく。しかし、少なくとも、橋下徹をはじめとした変な政治家や、バイアス発進のネタ収集とコピペにしか能の無いネトウヨ諸氏より、ずっと資料の量が多く、頭脳の質も高い歴史的事実の検討であることは、言うまでもないだろう。

最後に、裁判所による事実認定を簡略に紹介したブックレットがあったので紹介しておきたい。価格も安価なので、興味がある人は手に取ってみていただきたいと思う。一応言っておくが、私には一銭も入らないです。

司法が認定した日本軍「慰安婦」―被害・加害事実は消せない! (かもがわブックレット)

司法が認定した日本軍「慰安婦」―被害・加害事実は消せない! (かもがわブックレット)