いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

『黒い彗星』に連帯します

昨年の12月4日、渋谷駅付近で発生した民族差別デモに単身抗議した『黒い彗星』が、レイシストたちに集団暴行を受け、全治3週間の大けがを負ったあげく、警察に「暴行容疑」で逮捕される、という信じられない事件が起こりました。

彼は、横断幕を掲げるという非暴力抗議行動で、通りを警官に包囲されながら我が物顔で歩くレイシストたちに抗議の意思を表しただけでした。それに対してレイシストたちは殴る蹴るの暴行を加えたのです。警官たちはそれを見ているのに彼を守ろうともしませんでした。
それどころか、渋谷署はレイシストたちの言い分のみで彼のほうを逮捕し、暴行の加害者を充分に調べることもせず帰宅させたのでした。
50時間の拘束ののち彼は釈放されました。検察は起訴猶予での不起訴処分としました。
まったくの被害者である完全無罪の彼に玉虫色の処分を下し、レイシストたちはまったくおとがめなしでした。
彼は現在、ネット上でいわれのない攻撃にさらされ、いまだに不利益を被り続けています。

ことのいきさつはこの記事が詳しいので、ぜひ一読してください。そして実際に起こった出来事を映像で確認してください。
http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110109/1294546371

以下には、この事件を通じて私が感じたことを記しておきます。
このことを問題と感じるか感じないか?何が問題なのか?
私は世間の良識を問いたいと思います。



まず現在の背景の話、
*いまの日本では朝鮮人への迫害行為に対して何でもアリになっている
言うまでもないことですが、北朝鮮による拉致に関与したと認められた人間は当然にその誹りを受けなければなりません。しかし拉致に関与した人間は数えるほどだと思います。絶対的大多数の在日コリアンにはまったく関係がありません。韓国にミサイルを打ち込んだことにも関与があるはずがありません。非難されるべきは犯罪者や独裁者であり、在日コリアン一般ではありません。
それなのに「在日は拉致を引き起こした日本人の敵だ」「在日はあのミサイルを打ち込んだ北朝鮮を支持している」という壮大な論理飛躍で、在日コリアンに対する様々な攻撃が、行政、マスコミ、民間団体を主体にしてあらゆる単位で行われています。
またそれに対する一般市民の反応も一緒になってそれになびくか、「あいつらなら仕方ない」と傍観するか、それに抗うことで一緒にされたくないので無視を決め込むかのいずれかです。
いまとなっては、朝鮮人は「ケガレモノ」であり、侮蔑なり迫害なりを受ける理由があるから、何を言っても、何をやってもOKだし、それに抗うのは一緒に「ケガレモノ」なので、一緒に何をやってもOK、という空気感です。絶望的です。
ですがネット上で探せば、少数派ではあるが、これらの迫害行為に疑問を持たれていたり、これら行為に抗う人々の姿を発見することができます。私にとっては非常に救われる気持ちになります。



*現在の日本では在日コリアンを公然と侮辱し、暴力を振るう自由がある
よくこの手のレイシストたちは、自分達の吐く言葉を「表現の自由」を盾に正当化しようとします。しかし、あることないこと並び立てて、我々在日コリアンを公然と口汚く罵って歩くのは、在日コリアンの人格権を著しく損なっています。
ものの道理として、他人の権利を侵害する権利はない。自己の権利行使が、他人の権利と衝突するばあいは、おのずと制限を受けるのです。
それなのに、彼らの行為は一般市民によって放任され、警察からは保護されています。マスコミも彼らの主張を無批判に垂れ流しています。
しまいにはそれに平和的に抵抗する者に対して集団で暴行を加えても見て見ぬふりでお咎めなし、暴行を加えられたほうが逮捕される始末です。
異常です。これを異常と思わないこの社会の現状が何よりも異常なのです。
相手が「ケガレモノ」であるから、社会的に「ケガレモノ」とされた者であるから、どれだけ迫害しようともOKだし、周囲もそれに対する侵害行為は額面よりは相当割り引いて見る、という姿勢です(※)。



*集団リンチの被害者が逮捕されるというとてつもない事件が社会的問題にすらなっていない。政治もマスコミもただただ無関心である。
通常の健全な社会であれば、このような事件が正当化されるわけがありません。集団リンチの被害者を逮捕する理屈は、法律をどう読んでも出てこない。明らかに不当逮捕です。言うまでもなく警察官は現行犯以外では一般人に認められてない逮捕権を有するわけですが、逮捕は私人の権利を大きく制限するわけですから、その適用は法令に則り、かつ慎重でなければならない。今回の逮捕は、妥当性も手続の適正も欠いた、全く不当な行為です。これを問題にしない政治とは、マスコミとは、いったい何なのでしょうか?何の価値があるのでしょうか?私はこのことで、現在日本の「感覚の劣化」を問題にしないわけにはいきません。
(ちなみに今回の逮捕は現行犯逮捕だったらしい。保護と偽ってデモ隊と引き離しておいて数時間後の逮捕である。現行犯逮捕の要件すらも具備していないのではないか?令状取れないから無理やりそうしたのか?)



*「迫害行為の肯定」「暴力の肯定」「警察の不当逮捕」が、自分たちの人権の範囲を侵しているということに、気付かない人があまりにも多い。
目の前で迫害行為が行われているのに、それが排除されずに放置されている。衆人環視の中で集団リンチが繰り広げられているのに、警察は見て見ぬふりをしている。警察は、ただレイシストの行進に抗議の意を表明しただけで集団リンチの被害に遭った者を暴行罪で逮捕した。この事態は、何を意味するのでしょうか?
私は、この事態を、「日本の人権の及ぶ範囲が狭まっていくことを目撃した由々しき事態」と把握するのです。
目の前で行われている基本的人権への挑戦行為が野放しになっているということは、それによって迫害を受ける者の権利は侵害されてもいい、という社会の見識の表れです。暴力行為が警察の目の前で行われたのに保護されなかったということは、警察にとって、その者の権利は、レイシストたちの袋叩きによる「表現の自由」よりも劣るということを表しています。集団リンチの無抵抗の被害者が暴行罪で逮捕されたということは、警察は罪刑法定主義に基づかず、証拠主義、令状主義をもかなぐり捨てて、レイシストたちに加担したことを示しています。
司法官憲の恣意的行動によって、本来、国籍とか社会的所属とかを関係なしに、人が当然にして持っている人権の及ぶ範囲が、確実に狭まっていることを示しています。日本社会を構成する人たちの感覚の劣化によって、これが担保されています。
現状その刃が在日朝鮮人という「ケガレモノ」認定された者に向いているから、自分たちは安心と考えている人がいれば、それは甘いです。
今回はたまたま自分の思想信条と違う者を標的に迫害行為が行われたけれども、次の機会に自分のところに向いてこないという保証はどこにもありません。今回はたまたま自分が攻撃の対象ではなかった、ということだけです。
・法の適用が恣意であり、
・それを下支えする人々の見識が、先人が追い求めてきた民主主義や人権、共生という理念から乖離した、人の優越・劣後を定義し選別を扇動するものである以上、
ちょっとした空気の流れや、為政者の思惑や、声のでかい者の先導によって、矛先はどうとでも変わります。
今日は攻撃の対象が朝鮮人であったが、明日は違うかもしれない。今日はたまたま多数派であったが、明日は少数者かもしれない。少数者はその標的にならぬように、自己の言論を封じ、多数者になびく。行きつくところは民主主義とはかけ離れた、多数者の専制社会です。

私は今回の事件を通して、現状の日本社会が陥っている現状を、この社会の病巣を真底憂い、手の届く範囲から自分の思うことを伝えていこうと思い立ちました。このブログがその一手段であり、ひとりでも多くの方の、「この種の人間の理解」に資することを願っています。
私の意見は、タイトルの通り「いち在日朝鮮人」の視点に過ぎません。しかしそれでも、日本社会で、ネット上で、固定観念と偏見で凝り固まった「在日コリアン」観に一石を投じられればと思っております。



(※)このような現象は、他にもよく見かける光景です。例えば警察に逮捕された時点では、司法に疑いをかけられている被疑者に過ぎませんが、日本では逮捕されたその時点で「ケガレモノ」認定され、社会の好奇の生贄、人民裁判型集団リンチのサンドバックとして献上されてしまいます。「司法手続の一方当事者に疑われているだけの人間」「司法の都合で身柄を押さえられているだけの人間」なのに、あたかも既に真犯人に確定したかのように、マスコミに面白おかしく取り上げられ、プライベートやおおよそ事件に関係の無いところまで掘り下げられ、追いかけ回されます。ネットの住民も一緒になって吊るし上げにかかります。たとえその者が真の犯人であったとしても、責められるべきはその者の犯罪行為のみであって、その家族や、趣味嗜好や、容姿や、卒業文集に書いていたことなどは本来責める対象ではないのです。この辺も、この日本社会の「横に倣って多数者になびく」「異端者への不寛容」「自分と違う者への拒否反応」を如実に表すように感じています。