いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

フジ住宅ヘイトハラスメント裁判の反論文書 ― 稚拙な言い訳

フジ住宅によるヘイトハラスメント事件については、拙ブログにおいても取り上げた(http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20150901/1441121840)が、フジ住宅がホームページに、訴訟提起に対する反論を掲載した。少し考えてみたい。


 
訴訟に関する弊社の基本的考え方
2017年06月16日 フジ住宅株式会社ホームページ特設ページ内
https://www.fuji-jutaku.co.jp/blog/



(引用開始)

(1)フジ住宅株式会社は、弊社ホームページに掲載した『訴訟に関する弊社の考えと原告支援団体の主張に対する反論』について、その原文をここに再掲載する共に、追加すべき主張を、本ページで今後展開してゆくことにいたしました。
もとより弊社は、起こされている裁判が弊社のパート社員により、弊社に対して起こされた裁判である事に深く留意し、また、原告が裁判を続けながらも弊社従業員として正常に勤務を続けてくれていることを斟酌して、原告のプライバシー保護の為にも、不必要に当訴訟に関する情報が社外に拡散しないように最大の配慮をしてまいりました。
ところが、原告を支援する団体は(当然、原告の了解の下と思いますが) 当訴訟に『ヘイトハラスメント裁判』との呼称をつけて、フェイスブックのページを立ち上げ、 『ヘイトハラスメント裁判を支える会ホームページ』(https://www.facebook.com/HateHarassment/)で、彼らの一方的な情報を拡散し、ついに本年平成29年に入り、3月末に向けてインターネット上で裁判所提出の為の広範な署名活動を行うに至りました。
つまるところ、弊社が対応せねばならない相手は、原告である一人のパート社員ではなく、広く情報を拡散して大衆運動をする「支援団体全体」の様相を呈して参ったわけです。

(2)ところで、弊社はそれでも、当該パート社員のプライバシー等を配慮して、弊社としてインターネット等での一般への情宣をしない方針を続けてまいりました。
しかしながら、残念な事に、そのような弊社の自重はまったく意味がありませんでした。いくら弊社が自重していても、原告を支援する団体の活動は益々エスカレートするばかりで、ついには、平成29年3月26日、南海電車難波駅前と、弊社が本社を置く岸和田駅前の両方で「フジ住宅ヘイトハラスメント裁判を支える会」などの横断幕を掲げて、大々的な署名活動、チラシをはさんだポケットティッシュの配布などを彼らは行い、ツィッターでの彼らの報道ではポケットティッシュは2000個以上配布したとの事です。
彼らのツィッターの記事と、当日の写真はここ(https://mobile.twitter.com/hateharassment?lang=ja)にあります。3月26日までスクロールしていただくと当日の様子を彼らが写真つきで報道しています。
この状況を見て、弊社としてはこれ以上一方的で、誤った情報が拡散されることを放置はできないと決意いたしました。その訴えられている内容があまりに一方的で、常軌を逸した判断に基づいていると思われるからです。弊社はこのような彼らの活動から、単に弊社に損害が及ばないようにする必要があるだけでなく、むしろ、弊社と、弊社の社員、そして弊社を選んでくださった顧客、株主はじめ、全てのステークホルダーの皆様の尊厳を守りたいと願っています。

(3)もしも万が一、ほんの少しでも弊社が当裁判で負けるような事があれば、事は一企業である弊社の問題に留まらず、その弊害は我が国全体に及び、大げさではなく、我が国の尊厳を根こそぎ否定されるような大変な事態になる可能性があります。
もしも弊社が当訴訟で負ければ、「中韓等、外国の国家、あるいはその国民性を批判する内容が含まれる、広く書店で市販されており、誰でもすぐに買う事ができる書物を、1読む事を強制せず、かつ、2受け取る事も強制せずに、参考までに社員に広く配布しただけで」それは「ヘイト行為」であるとされ、私企業の運営に国家が介入して、我が国の言論、出版の自由を大きく侵害する判決になる事が予想されます。また、現在書店に並んでいる多くの優れた書籍が、「ヘイト書籍」とされ、「出版停止」となる事にまでそれは繋がっています。
原告の訴えが全部認められれば、そういう事態になり、我が国は「暗黒時代」になると思われ、弊社は決してこの裁判に負ける事はできない責任を感じております。
そういう判断に基づき、弊社は、今後、裁判の進行に伴って、原告を支援する方々の情報発信に応じて、その誤りを正す情報を過不足なく、また不必要に原告の女性を傷つけることなく、当フェイスブックのサイトで発信してまいりたいと思っております。 どうか皆様のご理解を賜りますと幸いです。

(4)なお、念のためにここに記しておきますが、弊社の今回の対応は、この対応事態が「ヘイト行為である」と原告に受け取られる可能性がある事を、弊社は認識しており、(何が「ヘイト」なのか弊社も分かりませんが)、そのような発想こそが原告をして弊社を訴えるに至らしめたと認識しています。
一般論として、海外に住み、そこで外国企業に勤務する我が国の国民は、誰もがその国で、多かれ少なかれ我が国への批判を伴った文書、発言、行為に直面する事があると思います。中国では、何年か前に、デモによって本邦企業の多くが暴力的な破壊に晒され、日本人社員は身の危険に実際に晒されたのであり、韓国においても、我が国の国旗を踏みつけられ、火をつけられる映像が、全国的に放映された事がありました。もちろんそれらの企業の中に在るディスプレイにもニュースの度にそれらの映像が映し出されたに違いありません。
原告の考え方で行くと、韓国に住む日本人は毎日、今もあの「撤去されない慰安婦像」によって韓国と言う国家から「ヘイト行為」を受けていることになります。しかしそんな訴訟を韓国政府相手に起こした日本人はいません。 一体全体、弊社が原告に対して何か一つでも違法なことをしたでしょうか。何一つ、そのようなことはなく、ただの一度も原告は社内で「民族差別、人種差別」を受けた事はありません。
逆に、ベストセラーになったような書籍を配布しただけなのに、その中に原告の気分を害するような記述があったという理由で、言論の自由が保障されている社会では、大人であれば引き受けなければならない当然の常識をわきまえない原告によって、当社は「ヘイトハラスメント企業」だと原告と、原告を支援する人々に糾弾され、難波や、岸和田で、一方的な批判の街宣をされ、困惑しているのです。

(5)この稿の最後に、弊社として 原告に望む事を公に述べておきます。弊社は、原告がこのような支援団体のロジックで、ご自身をさらに苦しめたり、追い込んだりすること無く、弊社社員としての本来のプライドを思い出してくださり、弊社は日本の企業であり、原告は日本社会で暮らしているのだと言うことを再度よく認識して、むしろ逆に、今も「慰安婦像撤去」の国家間の約束を守らない韓国政府に、日本に住む韓国人として、母国に注意を促すような人物になって欲しいと願っています。もちろんこれは思想信条の自由に属することなので、それを会社が原告に強要するのではありません。ご自身がどんな思想をもたれようとそれは完全に自由である事は我が国の憲法が保障するところです。ところが、逆に弊社の方が、大多数の日本人が、日本人として当たり前と考える上記の「慰安婦像」に関するような発想を、広く社員に伝え続けていることを「ヘイトハラスメント」だと言われ、それをやめるように原告とその支援団体に「強要されて(訴訟を起こされて)」困惑しているのです。
原告は今も弊社のパート社員であり、大切な従業員でもあります。そして弊社従業員である限り、今も弊社社員教育の対象でもあります。社員教育は物事の発想法全般に及びます。そこで、弊社としては原告が一刻も早くご自身の誤りに気づき、訴えを取り下げられることを期待しています。
(付記)裁判の進捗についての情報は追ってここにアップして行く予定です。
(責任編集 フジ住宅株式会社)

(引用ここまで・パラグラフ冒頭の数字は引用者にて加筆したもの)



突っ込みどころ満載だ。もしこれが会社の裁判弁護士の監修によって行われているのであれば、「論拠が破綻しているから弁護士を雇いなおしたほうがいい」と老婆心を向けたくなるほどの支離滅裂だ。日本語の能力、文書構成の稚拙さも、誇り高き日本人が云々の前にその心配をしたほうが良さそうな気もする。
もちろん原告の全面勝訴を求める筆者としては好都合ではあるのだが。
順に反論を示していこうと思う。



(1)で認識している事項、すなわち、『弊社が対応せねばならない相手は、原告である一人のパート社員ではなく、広く情報を拡散して大衆運動をする「支援団体全体」』であるという認識は、方向性としてはそのとおりなのだが、認識する規模・スケールが小さすぎる。
差別とは、社会構造が発生原因である。女性・被差別部落障がい者・外国人・宗教者など、社会構造上非対称あるいは社会的影響力の差異があり、被差別の対象とされている者に対し、差別者がその社会的属性を貶めるという意図をもって行われるものであるために、ひとつの差別事象が許容されるということは、その社会のマジョリティによって、変えることのできない属性をあげつらい、『差別/被差別』という対立項を持ち出して貶めるという意図によって、幾らでも拡大・再生産されるものなのだ。
差別事件は当事者間の係争ごとに収まらない。差別事件の発生は、即、その同一の被差別属性を持つ者共通の傷となり、その差別事件の解決は、その共通の傷を癒し、差別構造の解消という社会正義の実現に直結する。その訴訟で示された判例は、即、『社会規範の確立』にもつながれば、逆に『差別のお墨付き』にもつながる。
これまでの就職差別事件、入居差別事件、セクハラ事件等々は、裁判沙汰になったら広範な市民により支援団体が組織され、社会的な関心のもとで進行されたものが多いのはこのためだ。フジ住宅の認識は、甘過ぎると言わざるを得ない。



(2)は、フジ住宅がさも被害者であるかのように振舞って開き直っている部分である。拡散されたくなければ、稚拙な反論をすることなく、不法行為を認めて、謝罪し和解することである。和解すればさっさと裁判は終結する。ステークホルダー(早い話が株主・株価)の心配をするならば、最初から不法行為をしなければいいだけの話である。



(3)は、前段では、中韓の国家・国民性を批判する本を流布する行為が裁判で負けたら最後、「我が国の尊厳を根こそぎ否定される」と大仰に構えているが、本訴訟で争われているのは、『職場内でヘイト本を広く奨励し配布する行為』である。職場外でやることは誰も止めようがないが、職場では物理的に拘束されており逃げようがない。会長の尊厳を重んじるが余り、その他大勢、一人ひとりの良心が阻害されていることを問題にしているのだ。
例によってヘイトハラスメントをセクハラの症例に置換して説明すると、「職場でエロ本を広げて見るな、目障りだ」と言っているのに、「エロ本を発禁処分にしようとしているのか、表現の自由の侵害だ」とレベルの異なる話を意図的に混同して煙に巻いていると言える。
後段、私にはまったく理解不能なのだが、おおよそ以下のような主張であると思う。

  a)ヘイト本は読む事を強制していない
  b)受け取る事も強制していない(参考図書として配布しただけ)
  c)しかしこれを「ヘイト文書」の配布だとして禁止等する旨の判決が下ると私企業の運営に国家が介入する『暗黒時代』になる

私が冒頭に示した拙稿でも言及したとおりだが、本訴訟におけるフジ住宅の不法行為は、『環境型ヘイトハラスメント』といえる行為である。ヘイト文書を配布することで職場環境を害した、ということを不法行為だと評価してのものである。
またセクハラに置換するが、直接的に手を下す『強制猥褻行為』、地位に乗じて減給や解雇をチラつかせるなどして間接的に行為を強制する『対価型セクハラ』とは違う、『環境型セクハラ』のヘイトハラスメント版だと言える行為である。
業務必要性が無いのに職場にヌードポスターを張り出したり、エロ本を衆人環視の下で読みまわしたり、そのエロ本の感想文がおおっぴらに流通したり、という具合に、性的羞恥心・嫌悪感を惹起させるような環境を拵えて職場環境を害する行為が『環境型セクハラ』である。『強制猥褻行為』『対価型セクハラ』の不法性は論を待たないが、『環境型セクハラ』は、被害者によって感度が異なるため、軽んじて評価される恐れがあるところに注意が必要だ。
これをヘイトハラスメントに置換すると、直接「○○人は帰れ!」と面罵したり、○○人であることを理由に職務上の差異を設けたりはしていないが、職場内に○○人を罵倒する言葉が溢れていて結果就業するうえで苦痛を感じるような環境が出来上がっている、これをハラスメント=嫌がらせ、という不法行為と評価しているわけだ。圧倒的少数者たる○○人には苦痛そのものだが、圧倒的大多数の日本人には、思想の差異強弱はあっても、自分が迫害対象ではないからそれほど苦痛も感じない、この『感度の差』が肝と言えるだろう。
さて、a)b)が、フジ住宅が主張するように、読んだり受け取ったりが強制されず、あくまで参考図書として配布しただけ、というのが実際の運用であるなら、確かに違法性が阻却される可能性はあるかもしれない。しかし実際はどうだったか。冒頭に示した拙稿も参照してもらいたいが、当時の報道資料を見る限り、会長が、盛んにこれら図書を読むことを奨励し、会長が配布する業務日報には、図書を読んだ社員の感想文(しかも下劣なレイシズム言句丸出しの)が並んでいたとされる。業務日報は、いくら当該原告がパート従業員とはいえ読まないわけにはいかないだろう。これで「任意だ」と強弁するのは流石に無理がある。
そしてc)の主張だが、a)b)では「任意だ」「参考図書だ」と業務関連性を否定しているのに、c)では唐突に「私企業の運営に国家が介入する」と、これまた壮大な評価を加えることになる。これはどうしたことか?
a)b)では仕事とは関係が無い、と言っているのに、c)では図書配布は企業活動だ、企業運営に国家が口出しするな、と言っている、ということは、フジ住宅が社の方針・業務として当該図書を配布していた、何を配布しようと我々の勝手だ指図するな、と主張していることになるではないか?
このように、こんな短文で、何度も論理が破綻している。



(4)も文章の稚拙さゆえに前後脈略が読み解きにくいのだが、一般論として多かれ少なかれ我が国への批判を伴った文書、発言、行為はあると前置きしたうえで、中国や韓国では日本に対するデモが酷いがそれでもそれら国家に対して日本人は訴え出ていない、と日本人の慎ましさを誇っているようなことを言ったかと思えば、唐突に、「弊社はベストセラー図書を配っただけ」「原告に対して違法なことはしていない」「原告は社内で民族差別人種差別を受けた事はない」「大人であれば引き受けなければならない当然の常識をわきまえない」と、原告に対する恨み節を書き連ねている。
パラグラフ前段で「中韓は毎日、日本人に対して酷い批判を行っている」と主張し、後段で「我々のそれはベストセラーにもなるくらいポピュラーなものを配布しているだけなのに何を神経質なことを言っているのか」「大人であればそれくらい甘受しなさい」と主張する。その前後の落差、つまり中韓は人種差別まがいの日本批判をしていて酷いが、日本の緩いそれは表現の自由の範疇だと、というコントラストを見せることで、おそらく説得力めいたものを持たせようとしているのだろうと思うが、失敗している。
本事件が問題としているのは、フジ住宅という『会社の中の行為』である。会社の中でヘイトをおおっぴろげにやるな、人種差別を扇動するなと言っているだけである。会長が中韓のデモが気に入らないのはともかく、それを批判する図書を会社に持ち込んで、会社が奨励して、結果それら人種への憎悪を煽ることは、集団で少数者の民族性を貶めることになるではないか。
仮に中国内の企業で、就業している日本人に対し、反日デモをネタにして、日本人という属性をあげつらうような形で侵害行為が行われたのであれば、堂々と「レイシズムだ」「民族差別だ」と主張すればいいだけの話である。社業と人種を貶めることに関連性などないのだから、慎ましく構える必要などない。
それを中国や韓国の街頭でデモが行われているからと、日本人へも外国法人企業内でヘイトが向けられているはずだと想像力を巡らせるのは勝手だが、まったく無関係なことを比較対象に無理やり持ち出しているだけであり、お門違いもはなはだしい。



(5)は、(4)でも挙げた『中韓の酷さ』を再度焼き直しつつ、
>弊社は日本の企業であり、原告は日本社会で暮らしているのだと言うことを再度よく認識して
と、ネトウヨが「郷に入れば郷に従え」とアホの一つ覚えのように鳴くのと瓜二つの言説をひけらかしている。
フジ住宅にも表現の自由はあろうが、企業という公器である以上、個人の良心の自由の侵害(しかも属性を貶めるという人間の根本に対する愚劣な侵害)という就業環境を侵してまで、社業という経済的自由(しかも社業とは直接関係しないオーナーの勝手を通す自由)を推進できるとは考えない。家族のみで切り盛りする企業、パパママショップならともかく、東京証券取引所にも上場するような、社会的影響力のある企業であれば、尚更、社員個々人の心情的安寧は慮られて然るべきであろう。
それを「我が社は日本企業」「日本人と共に暮らすのだから」と、独善的で排他的なナショナリズムを押し付ける、(当該女性にとってみれば)職場に針の筵を敷くような行為は厳に慎まれなければならないだろう。
極めつけは、
弊社従業員である限り、今も弊社社員教育の対象でもあります。社員教育は物事の発想法全般に及びます。
と、今般係争が原告女性の『魂の悪さ』にあり、それに対する矯正も行わんとするような、恫喝とも取れるような物言いをしているが、この一言がフジ住宅の企業としての姿勢をありありと見せつけているような気がする。慰安婦像をどのように評価しようと会長の勝手だが、それを社業に持ち込んで、社員を巻き込んで、それを経営者の自由だとふんぞり返って、結果良い家が建つのだと踏んでいるのであれば、余程に勘違いをしていると断じざるを得ない。会長に表現の自由があるのは認めるが、社員にはそれとは別個に、個人の表現の自由・良心の自由・良心への侵害行為を拒絶する自由がある。



実は、この稿は、当該訴訟の公判日が近づいていることもあり、自分なりに側面支援をする意図で書いた。

この訴訟が、圧倒的な人々の良心によって支えられ、誰も職場で、『自分の血をあげつらって貶められない』という権利を確認する判例が出ることを期待したい。
原告女性の勇気ある行動に心から敬意を表するとともに、これからも少しでも支援の輪が広がっていくことを望んでいる。
まずは今月29日の公判で、大きく前進を勝ち取ることを祈っている。

ヘイトハラスメント裁判を支える会ホームページ:http://moonkh.wixsite.com/hateharassment
facebookページ:https://www.facebook.com/HateHarassment?sk=info&tab=page_info
twitterページ:https://twitter.com/HateHarassment

朝鮮学校の教育内容を批判するのに、補助金支給如何を云々するのは卑怯ではないか。

前稿に引き続き、Yahooニュースに掲載された記事について、思うところを書いてみようと思う。



朝鮮学校の「教育」とは 公費投入のあり方を問う
https://news.yahoo.co.jp/feature/589
2017年4月28日11:39 Yahooニュース



冒頭の萩原遼氏の見解に大いに違和感がある。
萩原氏は朝鮮学校の民族教科の一部で、朝鮮の指導者の礼賛や、日本とは違う立場を教えているのに対し、

「でも、嘘八百を教え、個人を崇拝する教育を行い、挙げ句、反日感情を煽る。そんな今の朝鮮学校補助金を出すということは、そういう教育を大いにやってくれ、という意思表示でしょう? それはおかしい」

と断じている。

確かに、現在の朝鮮学校の教材として使われている『現代朝鮮歴史』系統の教科書については、朝鮮政府が推進する金一族の個人崇拝的プロパガンダが色濃く反映されている。このようなプロパガンダ教科は初・中級学校ではほとんど扱われないが(私が現役の時は初級学校4年からあった)、高級学校では週2限程度の時間を割いて、金一族の正統性を説く授業が行われている。あるいは、朝鮮政府の見解を反映して、歴史科目で教える事象(朝鮮戦争は韓国側が先制した、とか)が、日本や国際社会のそれと異なることもある。それについて、氏は心底気に入らないらしく、補助金はやるな、と言っているのだ。



第一に、民主党政権下での拉致問題相の難癖を発端にし、政権交代後は安倍政権による無償化法からの完全排除、果ては地方自治体の補助金に難癖を付けて不支給にする、という一連の流れは、(表向き)『教育内容』を問題にしているのではない。『朝鮮学校朝鮮総連が運営していて、朝鮮総連北朝鮮と一体であり、拉致問題が解決しておらず国民の理解が得られない』から無償化から外す、補助金も払うな、と政治が、政策として、朝鮮学校の子弟を狙い撃ちしたものである。朝鮮学校は『キタチョーセンだから』ダメだとされ、それを国民は『キタチョーセンだから』問題にしなかったのである。決して在日朝鮮人子弟への教育内容を『心配』して、それを是正しようと始めた話ではなく、ただ単に『キタチョーセンだからカネをやりたくない』のである。
  パブコメ結果.pdf 直
  日本政府、朝鮮学校への補助金交付に『留意』を通知 ― 朝鮮学校生徒へのレイシズムそのもの - いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記
その後、橋下をはじめとする排外主義を是とする首長が、政府の朝鮮学校排除にチカラを得て、教育内容『も』問題にしだしたのは確かだが、当初のこの判断が無ければ、このような雪崩を打ったような公的扶助からの排除もなかったのである。それまではほぼ何の争いもなく補助金等は支給されて続けてきたわけであるから。

そのうえで、
朝鮮はあのような国家体制であり、国体の護持のために指導者を神格化しているなか、正統性を取り付けるべく、かのようなプロパガンダ教科を設けているわけだが、前稿にも示した私の見解に沿わせて見れば、日本における民族教育にそのようなプロパガンダ教育を挟み込まなければならない必要性は、(私の現役時代、20数年前と比較して格段に軟化しているのだが、それでもなお)はっきり言って無い()。
それはそのとおりなのだが、氏の言うように、そのような教育施設に補助金を給付することは、その教育の主義に賛同し「大いにやってくれ」という意思の表示と言えるのだろうか?例えばトッチャン坊やがイタコ芸をやっている宗教法人が学校を持っている(http://happy-science.ac.jp/)が、そこにも当然に補助金は支給されている。学校法人格を持っている中等教育機関だから当然である。ではこのような学校に補助金を出していることは、イタコ芸を「大いにやってくれ」と認定したということになるのだろうか?明らかに違う。
自分の価値観(国定の価値観、でもいい)に『合致している』かどうかという話と、異なる立場や主義が存在するということを『認める』という話は、根本的に異なる。

言っておくが、韓国学校は独島(竹島)を韓国領と教えているし、中華学校は釣魚島(魚釣島)を中国領と教えている。『慰安婦』や『南京大虐殺』についても堂々と実態を教育している。現在の権力中枢が神経質になって教科書会社やお友達を巻き込んで教育内容にズケズケとモノを言っている領土問題・歴史問題であるが、心配しなくても韓国学校中華学校では、(日本の公立学校における教育現場への政治の介入、それに伴う現場の疲弊とは対照的に)自分らの立場を堂々と教育している。それでも今般の補助金云々無償化云々の議論で、このことが俎上にはまったく上がっていない。立場が違うのだから教育内容が違うのは当然だから、それで正常である。
もっと言えば、(実態は知らないが)アメリカンスクールにおいて、原爆投下を、加害の立場から、日本のあまねく市民の歓心を買えるべく教えるべきだ、そうでなければアメリカンスクールなど認めない、などというトンチンカンな話は誰も言いださない。そんな話が成立するわけがないことも、誰にでも分かる。

国家の政治的な主義や歴史的な見解は国家間で異なる。自分たちとは異なる立場が存在するというのは国境や歴史観や文化を跨げば幾らでもある。日本には朝鮮学校以外にも多くの外国人学校が存在し、それらの教育は日本の公教育の教える主義・価値と相いれないものも、それこそ幾らでもある。そして、政府はこれらほぼ全ての初中等教育外国人学校に高校無償化法を適用し、地方自治体は補助金を払っている。当然である。
それなのに朝鮮学校だけは、『拉致が解決していないから』『キタチョーセンだから』と言って問題にする。通達まで出して徹底的に朝鮮学校を『拒絶』するように圧力をかける。その圧力は今年に入って、これまで細々と補助金を支給し続けてきた自治体にまで及び、実際に打ち切られ、あるいは打ち切りが軽々しく企図され、そしてそのことに喝采が浴びせられるなど、それこそ完全排除が実現するまで、収まる気配を見せない。数ある外国人学校の中で、朝鮮学校の子弟のみが、自分らにはどうしようもない政治事件、あるいは首長の政治信条を口実に、不遇を被らされているのだ。それこそ、朝鮮学校から補助金を取り上げる理由は何でもいい。ある首長は生徒が描いた『慰安婦像の絵』をネタにし、ある知事候補は『治安対策』を理由にする。それこそ、何でもいい。普通これだけ理屈が立たないことは良い大人なら言い出さないはずだが、『キタチョーセン』に対しては、どんな支離滅裂なことでも言っていいし、やっていい。それについて取り囲む市民が喝采すら送る。『チョーセン』を前には、完全に人間としての知性や感覚が麻痺しているのだ。

このような状況を知らないわけではなかろう萩原氏が、朝鮮学校への補助金の是非を問う文脈で、愚かな政治家連中と一緒になって「嘘八百だ個人崇拝だ」と教育内容を批判するのはどのような効果をもたらすだろうか?朝鮮学校補助金等から排除することの是非、公金を支出することの是非について問われたのであれば、少なくとも識者として意見するのであれば、まずは、補助金等から排除されるに至ったことの経緯を踏まえ、このような政治判断、政治手法の在り方、そしてこのような政治を諸手を挙げて支持する国民の感覚について、まずは言及すべきだろう。それを、事実としての流れを汲むことなく、新たに自分の『朝鮮学校にカネをやりたくない理由』のネタを開陳するというのはどういう了見なのだろうか。自分の意欲をダダモレさせて悦に入るのは、実際にその政策の効果を被っている当事者たる朝鮮学校生徒子弟を前にして、いい大人がやるべきではないと思うがどうだろうか。

朝鮮学校『のみ』が除け者になっている補助金給付の記事のインタビューで、その教育内容が気に入らんと批判することは、日本政府の狙い撃ちの差別政策を補強することにしかならない。キタチョーセン憎し、個人崇拝憎しの個人的信条は大いに結構だ。では補助金不支給という差別はOKなのか、何故OKなのかという着眼がスッポリ抜け落ちている。
いい大人なのに。

エクスキューズ程度に「民族教育は大事」というのであるならば、アリバイを作ったような言い方をするのではなく、民族教育の保証は存分に行われるべきで、朝鮮学校への差別には反対だが、朝鮮学校の○○は是正されるべき、程度は言わなければならないのではないだろうか?(当然その物言いに朝鮮学校側が聞く耳を持つのかは別次元の話であるが)
キタチョーセン憎しの『具』にされて泣いているのは朝鮮学校の学生児童である。教育内容(しかもそれは朝鮮学校の教育のごく一部分のみである)にモノを言うのはいいとして、それで子供を泣かすのはいいのだろうか。それをいい大人が理解できないのだろうか?

これは別に私が朝鮮の個人崇拝に親和性を抱いている、というしょうもない話をしているのではない。私は金正恩は早く死ねばいいと思っている。朝鮮が民主化し、軍事優先ではなく融和主義であって欲しいと願う者の一人である。自由な批判ができない空気感は確かに良くない。しかし当事者には全く手の届かない政治的な思惑を背景に、見せ金をちらつかせて「俺らが気に入るように教えろ」とやるのは明らかに間違っている。そのような態度では、教育方針を頑なに守ろうという発想にはなっても、逆には絶対に流れない。私の現役時代と比較して、教科書も教育内容は格段に改善されていることから考えて、朝鮮学校も頑固ではなく、現場や社会の声を拾いながら変わっていきつつあるのに、政治がその態度を硬化させるような露骨な圧力をかけるのだから。やるせないことこのうえない。

マイノリティを対象にした民族学校なのだから、国民全体から見れば相対的に価値が低い、その意義を理解しづらいのは当たり前である。歴史や民族的アイデンティティの理解もなく、国際的な人権基準への理解もなく、そのことに想いが至らないいい大人たちが、『私は朝鮮学校のここが気に入らない』『私はこれが』『私はここが』と、好き勝手な議論をはじめ、勝手に学び舎に持ち込み、それに否応なく付き合わされる朝鮮学校の関係者に身にもなってみればいいだろう。

もっとも、
反日』などという非科学的反知性的な言句を言いふらしている人間だ。まともに付き合うような対象ではない。しかしこのようなまともでない言論がまき散らかされている現状に、しっかり対抗言論を張っていかなければならないことも、また事実だろう。



朝鮮学校の学生たちはテレビ・新聞・書籍等で、学校で吹き込まれる「北朝鮮礼賛」に相反する情報にも、幾らでも接する。そしてそれら情報を比較検討する程度の能力や知見は、生徒には概ね備わっている。それは日頃から政治的攻撃や差別・偏見に晒され、結果社会問題に関心を持ち、自らの立場を守るために勉強せざるを得ない、という境遇が大いに影響している。実感だが、プロパガンダ教科の字面や意図を真に受ける学生はほぼ皆無である。あくまで朝鮮の国家体制が要求し、朝鮮総連の翼賛体制がそれを拒否できずにいるプロパガンダ教科であるということは、教える側・教わる側、それぞれが十分に分かっていて、お題目の暗唱程度に認識しているのが実際のところである(これは本国も本質としては一緒だろう)。
日本社会をはじめとした民主主義の価値についても十分に理解し、その尊さを朝鮮のそれと比較してもいるが、同時に現在の日本社会の民主主義の危うさ、何故自らがその仕組みから構造的に排除されているのかも鋭く洞察しているのだ。
私は常々言っているのだが、いちど政治家は機会を作って朝鮮高校の生徒と膝を交えて「自らの朝鮮高校の排除政策についてどう思うか」聞いてみればいいと思っている。彼らのほうが、日本の呑気な民主主義の構成員より、遥かに日本社会の本質を見抜いているというのが分かるはずだ。

朝鮮学校の朝鮮支持は、韓国の否定に繋がってはならない

前エントリを受け継いだ稿として、前稿で紹介した、Yahooニュースの以下のエントリーについて、思うところを書いてみようと思う。



朝鮮学校のいま 「在日」生徒たちの胸の内
https://news.yahoo.co.jp/feature/586
2017年4月27日11:38 Yahooニュース



朝鮮学校は、終戦直後から在日のコミュニティ内で、禁じられてきた朝鮮語を子弟たちに教えるために発生した寺子屋教育機関である『国語講習所』がその起源である。朝鮮語を知らない世代が生まれていた在日朝鮮コミュニティにとって、朝鮮語を教えることはすなわち、在日コミュニティが民族性を取り戻すことであったのだ。
朝鮮戦争を経て、韓国政府が在日を棄民扱いする中、朝鮮政府は戦災復興の最中から金銭的支援を含む援助を現在に至るまで朝鮮学校に行ってきた。このことにより朝鮮学校は、韓国ではなく朝鮮との、強固な親和性を獲得してきた、という歴史的な経緯がある。
その歴史的な連続性を無視して現在の朝鮮学校を語る愚について、私は十分に理解している(そして朝鮮学校を外部から語る人間、及び朝鮮学校に何らかの指図をして政治的アリバイを拵えようとする人間の多くが、この愚に落ちている)。
南北朝鮮に対して完全なニュートラルの民族大衆団体が存在しない中、朝鮮民族の一方当事者たる朝鮮政府の影響下にある朝鮮総連が運営している朝鮮学校が、朝鮮政府に比重を置くのは当たり前であるし、ある程度の『肩入れ』も理解する。

しかしこのような前置きを置いてもなお、この記事で校長が言う朝鮮政府への過度な恋慕や、生徒が朝鮮(のみ)を祖国と感じる(が韓国はそうではない)、という文脈については、私個人が現役の学生時代から、変わらず違和感を覚えているものと重なる。
私は朝鮮学校の存在意義はどこまでも「民族教育を施しうる教育機関であること」「自らのルーツを学べること、それに繋がるコトバと文化を学べること」「同じ境遇の生徒と机を並べること」「自らのルーツが否定されないこと(自己肯定)」にあると考えている。朝鮮政府一方への盲目的な賛意、政治体制への従属的な賛同に重心を置くべきではないと考えている。それをやりだすと、もう片方には敵対や不賛同を置くことになる。単純な二極対立で捉えるべきではないし、日本も韓国も朝鮮も中国も米国も正しいこともあるし間違うこともある。それは自分がナニ人ということとは別個のものである。朝鮮にも韓国にも是々非々で付き合え、両方と交流でき、行き交いができるのがザイニチである。分断国家の一方当事者の息がかかっているとはいえ、わざわざこの「ザイニチのメリット」を投げ出すような姿勢、わざわざ積極的に国家体制に従属するような態度は、正直感心しない。

もっとも、韓国学校は韓国民団の影響下で韓国に比重を置き、韓国の立場で教え、朝鮮政府・朝鮮総連朝鮮学校をこき下ろしている。朝鮮学校が、民主党政権下で高校無償化法や自治体の補助金から排除されようとしていた当時、日本政府と一緒になってその排除に賛成していたのが彼らであったし、その際の言説は日本政府のそれより苛烈に、イデオロギー対立や思想選別を煽るような、下劣極まりないものだった。朝鮮総連同様、(小規模ではあるが)民族学校を運営してきた韓国民団が、民族学校の意義に共感するどころか、「朝鮮学校に通わせている韓国籍者は、朝総連は反国家団体だからさっさと縁を切れ」と斬って捨て、朝鮮学校を中心としたコミュニティーを分断しようとさえしていた。http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=13172
民団側が、一生懸命に在日社会内に分断国家の構図を持ち込んで、朝鮮的なもの排除・切り捨てするなど、『北韓憎し』に躍起になっている事実がある。
総連側は、自らの体制の否定をしない限りは、だが、寛容的に韓国の勢力を内包しようとしている。朝鮮は、自分の体制に敵対的でなければ、だが韓国籍者でも入国させる。逆に韓国は、朝鮮籍者は一律に朝総連・敵対勢力であるとして(余程のことが無い限り)入国を拒んでいる。日本における朝鮮籍者とは『北朝鮮国籍保持者』ではないにもかかわらず、である。http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20150908/1441724199
このように、ほんの一時期左派政権下で融和的であった他は一貫して、朝鮮総連朝鮮学校に対して敵対的排除的である韓国政府・韓国民団の状況を踏まえれば、朝鮮学校が少々朝鮮贔屓であっても決して不思議ではない。

いずれにせよ、

「生まれて初めて、心置きなく朝鮮人として堂々と街を歩けて、自分の国の言葉を使えて。日本人なら(日本で)当たり前のようにできることが、(自分たち朝鮮人は)実は踏みにじられていて…。自分は朝鮮人だったという認識を深めることができ、とてもうれしかったです。(北朝鮮の)生活水準は高くなかったけど、みんな幸せに見えた。そういう人間味を感じることができて、日本ではできない体験をしたな、と」

と生徒がインタビューで述べているように、日本で肩身の狭い思いを散々してきた生徒は、朝鮮での修学旅行で市民から歓待を受け、これまで習ってきた朝鮮語を堂々と話し、日本では通学途上着られなくなったチマチョゴリで街を闊歩できた、という体験によって、自己肯定は最高潮に達し、生徒が自分らの学校を支えている朝鮮政府に愛着や敬意を感じたわけだ。これは何ら不思議な話ではないし責められる話でもない。生徒らは、日本政府の自らに当てつけられた露骨な差別政策や、日本社会のヘイトスピーチヘイトクライム等、自らへの排撃を卑屈に感じてきたなか、朝鮮政府は自分らの存在を理解し支援し温かく迎えてくれたのである。自分らが自分らの運命に向き合えるようにしてくれたのは、朝鮮学校の存在及び朝鮮政府の後ろ盾があるからに他ならないのだ。

しかし、である。それでも、である。
韓国は間違いなく朝鮮と共に我が祖国である。朝鮮籍韓国籍関係なくザイニチの殆どが朝鮮半島南部をルーツに持つことを引き合いに出さずとも、朝鮮と韓国は我が民族の国である。分断された一方当事国を賞賛し、他方の国を切り捨てる発想は、ザイニチ当事者こそ自制的でなければならないと思う。分断を欲せばいさかいが生まれる。両者の主義や違いを認め、取り持ち、共生し乗り越える発想が大事だ。北とも南とも付き合えるような人材、北と南をつなぐような人材こそ、ザイニチには育てることができるはずだし、ザイニチだからこそ北にも南にも一歩引いた、バランスを備えた視点を携えて付き合えるはずだ。
理想を語れば、ザイニチ社会が先に『統一』し、南北の本国とは離れて独自に是々非々で判断できる大衆団体を立ち上げ、民族教育施設がそれにぶら下がることが、余計な政治性を廃した民族教育に踏み出すことになるだろう。その際、両国の政策・挙動に翻弄されることは目に見えているが、その都度是々非々を旨としつつも、抑制的・寛容的に接すればいいではないか、と思う。
ただ、このようなプランは私などが言い出さなくても何度も企図され試行され挫折してきたものである。理想が過ぎる。現実的ではない。難しいことは分かっている。しかしながら、そうであるべきだ。
付言すれば、朝鮮総連朝鮮学校が、朝鮮政府に対し翼賛的に構えるがあまり思考停止しているように、私には見える。朝鮮も韓国も否定せずに両方に向き合って、相互に交流できる道を探求できないものだろうか。元々、ザイニチに本国の政治など左右できるはずもない、わざわざ両国の政治意図に律儀に付き合わなくてもいいのだ。

誤解や曲解を産まないように書き添えるが、
国家体制・イデオロギーで朝鮮と対立している日本・韓国の側から見れば、「日本国内におけるキタチョーセン」たる朝鮮学校は奇異に見えるかもしれない。実際私も朝鮮学校に通っていた時代に、そして息子を通わせている現在も、そのような意見を直接ぶつけられることは多々ある。しかしそれは「自らの主義・信条とは相容れない」ことは意味するが、それをもって即、「差別的に取り扱っていい」ことにはならない。「嫌い・理解できない」ことが、「立場・生立ち・見解が異なる」ことが、貶めたり、社会的再分配や福祉の対象から除外したりする根拠になる、という発想は、断じてあってはならない。

この辺の見解も含め、同じくyahooニュースの記事を題材にした次の稿に譲る。

Yahooニュースに群がるネトウヨの醜悪 − 『パブロフのウヨ』

最近は心身ともに疲れ切っている。
仕事やプライベートの慌ただしさもあるが、何より、世間が「理屈より感情」「理想の追求より(堕落した)現状の追認」「理性より嫌悪感」という具合に、今日の社会が反知性に大きく巻き戻されたような感覚を覚えることに、ある種の『疲労感』や『陰鬱さ』や『諦念感』が蓄積しているのかもしれない。
拙ブログが放置プレーが平常運転となっていることに、ブログ主として心苦しくある。コメント欄を放置した結果ヘイトが充満していることも苦々しい気持ちでいる。
いずれ改善したいが、心身整い次第、ということでご容赦願いたい。



先日、Yahooニュースの独自取材として、朝鮮学校に対する独自記事が、2日間にわたって配信された。



朝鮮学校のいま 「在日」生徒たちの胸の内
https://news.yahoo.co.jp/feature/586
2017年4月27日11:38 Yahooニュース



朝鮮学校の「教育」とは 公費投入のあり方を問う
https://news.yahoo.co.jp/feature/589
2017年4月28日11:39 Yahooニュース



前半が、『一般的日本人』の視点を持った記者が、神奈川朝鮮中高級学校を訪れ校内でカメラを回したもので、朝鮮学校の生い立ちから現状の紹介、校長及び生徒へのインタビューなどで構成されている。いっぽう後半は、朝鮮学校に対する高校無償化法からの除外や補助金のカットなど、公的扶助から軒並み排除されている現状に対する、賛成反対それぞれの立場の識者へのインタビューとなっている。
それぞれに対して気になったところがあるが、それは追々書くとして、
ここでは各記事のフッター部にあるコメント欄、正確にはこの記事をシェアしたfacebookユーザーのコメントが紹介されていることについて書く。
実際に各記事に群がっているコメントを、古い順(記事が上がってから付いた順)から見て欲しい。数多の人間が、記事が上がった途端、あっという間に異口同音に醜悪なコメントを連ねている。その多くが基本的な情報や、正確な事実、ことの変遷についての知識を持ち合わせておらず、言わば、頭脳のフィルターを通さず脊髄反射的に、反知性的な言句を、ただ連ねているだけであることが分かると思う。私は最近、このようなネトウヨの条件反射をパブロフの犬ならぬ『パブロフのウヨ』と勝手に呼んでいるのだが、まさに鐘が鳴ったら涎を垂らす犬のような単純な条件反射で、何か書かずにはおれないというのは、端的に病気だと言える。
『自らが差別主義者であると堂々と開き直り』、いたいけな朝鮮学校の生徒に向かって『帰れ帰れ』と連呼するコメント、あるいは『ただ単に自らが情報弱者であることを告白する』ようなコメントの数々を、わざわざ自分の実名と素顔を晒してアゲようという発想が常識離れしている。恥の概念が無いというか、まともな社会性を有しているのか逆に心配になるような状態である。
このような恥ずかしいコメントを平然と吐こうという気にさせるのも、徹底的に悪魔化された『キタチョーセン』の成せる業か、とある種の関心すら抱く。『キタチョーセン』相手であればどのような悪態をつこうが裸踊りをかまそうが平気ということか。

これについての、興味深い考察が朝日新聞に載った。

確かにYahooニュースのコメント欄は、パブロフの条件に少しでもカスれば、(狭く歪んだ、思い込みの)「韓国・朝鮮・中国」「(ショッカー化した)ザイニチ」を「けなす」コトバで溢れる。

ネットニュースは、無料で手軽に情報を得られる手段として優れたものだと私も思うが、その手軽さと匿名性が相まって、醜悪な差別感情を、さしたる罪悪感もなく気軽に書き込める場所となった。韓国・朝鮮・中国・ザイニチ・反日などという、ネトウヨの大好物がひとたび投下されれば(元々ページビューを稼ぎたいがために『好物』がネタとして採用される頻度が高い)、瞬時に醜悪なコメントで食い散らかされる。早速トップページの見出しに踊り、広く一般に消費されるに至る。
問題は、固定観念と偏見に凝り固まった差別語として使い古された言説、『在日認定』や『反日レッテル』など人々や共同体を切り分けるような言説、暴力的あるいは攻撃的、乱暴なフレーズなどが、(ただでさえ歪んだ筆致の記事に)漏れなくベッタリと付きまとい、量的に巻き散らかされることだ。そのことで、それらに対する負のイメージや、「煩わしい・近寄りがたい」といった思い込みを、先行して与えてしまうことだ。
ネットニュースに脊髄反射的な速度で条件反射をせずにはおれない、ヘイトを書き込まずにはおれない、恥ずかしい生き方をしている『残念な人たち』は最早完成してしまっているので、掛ける言葉は無い(私は常々書いているが、これは医療問題である)。
しかし、ネットニュースから真実の姿を探り、深層・内面に向かい合おうとする者が、ニュースの周りに堆積した「汚い」「悪い」「みっともない」コトバを散々見聞いたら、どうしても目は濁ったものになるし耳は腐ったものになる。

数年前、書店で『ヘイト本』が平積みで置かれ、毎週のように週刊誌が中吊り広告でヘイトな単語の数量を競っていた。その後、『ニッポンスゴイ』ブームと入れ替わるように、ヘイト本ブームがオワコン化し、いくらかこのような風向きは弱まってきた。
しかし、社会では確実に『パブロフのウヨ』が育成され、いまも性懲りもなく、ネットニュースで、SNSで、駄犬がごとく、そこら中にマーキングして回っている。
例えばネットで在日朝鮮人について知ろうとしても、ほぼ100%ヘイトに辿り着いてしまう。ネット空間が、日々このような者のマーキングによって穢され、見るのも嫌になるように汚染されてしまっている。

「ネットニュースなんか読まずに本や新聞を読めよ」という指摘はあながち間違ってはいないが、情報を手軽に取捨選択できるようになったネット時代において、その空間が醜悪な差別言説や反知性言説に占領されてしまっていることは嘆かわしく思う。何とかならないものだろうか、と思う。

朝鮮学校問題を理解するための資料の整理

先日、大阪朝鮮学園大阪府大阪市を相手に補助金給付を求めた民事訴訟の一審判決が下り、大阪朝鮮学園がまさかの全面敗訴となりました。
http://www.sankei.com/west/news/170126/wst1701260077-n1.html

判決文詳細を入手していないのですが、判決報告集会で伺った内容によるとこの判決は、
*原告(朝鮮学校側)が主張した今裁判の本質及びこの差別政策が何故出現したのかという原告側の指摘()については全く答えず、
*被告(大阪府・市)が朝鮮学校のみを排除するために、普遍性や公正性が欠片もない『後だしジャンケン』で拵えた狙い撃ちの「基準」を合理的だと言い放ち、
補助金は「贈与」であるから「出す/出さない」は行政の裁量、という被告が主張さえしていない法解釈をわざわざ持ち出し、裁量だから切り捨てても構わないと言ってのけ、
*行政の不手際や不作為についても司法が追認して『救済』し、
*挙句に補助金の不支給によって、朝鮮学校生徒の就学上の不利益が発生することを「仕方がない」と言い放つ、
まさに『人権の最後の砦』たる司法が自らの存在価値を投げ捨て、公平性・公正性を一顧だにせず、日本が批准した人権規約にも背き、ひたすら行政(政府及び維新系地方公共団体)の意図に寄り添って書かれた、ひどい判決でした。結審から判決までは約半年、裁判官はそれだけの時間を費やし、先般政府が示した『通知(参照:http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20160331/1459442175)の趣旨を追求して、それに辻褄を合わせることに腐心したのです。

)大阪無償化裁判弁護団長の丹羽氏が判決集会で述べたものから引用する。
(1)朝鮮学校に通う朝鮮人子弟とは、日本の朝鮮植民地支配という歴史的経緯に端を発した歴史的な存在であり、その歴史認識に立ち返らないと本質的議論はできない。
(2)今裁判は国際人権訴訟である。種族的マイノリティには普通教育課程のほか、マジョリティより強力に、種族的アイデンティティの涵養のための教育の便宜を確保しなければならないというのが国際的な人権の基準である。日本の現状は大いに劣後し、今補助金不支給もその流れの中にあるがそれは妥当なのか。
(3)朝鮮学校子弟への補助金は、20数年来、継続して、何の争いもなく支給され続けてきたものである。それがある首長の台頭によって問題化され排除されるに至ったのである。北朝鮮暴力団と一緒だと言って、政治的な攻撃によって排除したのである。政治家の政治的主張によって、朝鮮人子弟の教育・福祉が断絶されるのは妥当なのか。

こんなものを認めるわけにはいきませんし、こんなものに黙っていては、全国各地で繰り広げられている行政訴訟が、法治も理屈もほったらかしに雪崩を打ったように『100:0』で負けることにもつながってしまいます。朝鮮学校を支える者が、しっかり考えや理論を整理し、自らの正当性を確認し、正義は我の側にあることをしっかり打ち出して戦っていかなければなりません。

そのために、約2年前にアゲた論点整理のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20150112/14210446)をベースに、加筆・修正をしたものを再掲します。
朝鮮学校問題を正確に理解するための一助となれば幸いです。



【1】当ブログのエントリーのまとめ
当ブログでは、何度も朝鮮学校について触れてきました。そのなかでも朝鮮学校の理解及び無償化・補助金闘争の論点整理に有効と考えるものを列挙します。

2011-09-06 朝鮮学校について、親の立場で考えてみる。
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20110906/1315331441
2011-09-14 朝鮮学校無償化排除にきっぱりと反対する。理不尽だからだ。
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20110914/1316010150
2012-02-08 拉致問題の解決と朝鮮学校への圧力が何で結びつくのか全然理解できない。
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20120208/1328713301
2012-12-26 「高校無償化」は朝鮮学校には結局不支給 ― 子供たちへの差別の固定化を憂う
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20121226/1356494138
2013-01-11 朝日新聞の朝鮮高校無償化排除反対の社説 ― 0点の駄文
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20130111/1357875261
2013-02-20 朝鮮学校補助金代わりに「拉致本」支給 ― 日本政治の劣化が止まらない
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20130220/1361364369
2013-02-26 朝鮮学校補助金の代わり、「拉致本」の次は「切手」? 埼玉県知事の人権感覚に恐怖する。
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20130226/1361849728
2013-08-20 保護者、在日同胞、日本人、大学教員、韓国の芸能人… ― みんなで朝鮮学校の子供たちの学びを支える。
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20130820/1376958063
2015-03-04 아이들아 이것이 우리 학교란다(子供たちよこれがウリハッキョだ)
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20150304/1425483134
2015-04-12 朝鮮学校について、改めて親の立場で考える。
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20150412/1428851268
2016-02-18 日本政府、朝鮮学校への補助金完全凍結を指導 … また朝鮮学校を『利用』するのか?
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20160218/1455808854
2016-03-23 朝鮮学校補助金排除反対の朝日の社説 ― 私も思う、子どもらに責任はない。
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20160323/1458749805
2016-03-31 日本政府、朝鮮学校への補助金交付に『留意』を通知 ― 朝鮮学校生徒へのレイシズムそのもの
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20160331/1459442175
2016-05-25 『朝鮮学校への地方公共団体補助金に対する政府の不当な介入に抗議する研究者有志の声明』に全的に賛同します。
http://d.hatena.ne.jp/dattarakinchan/20160525/1464135962



【2】朝鮮学校無償化問題FAQ
朝鮮学校を高校無償化から排除する動きについての、基本的な問題点の整理は、こちらでほとんど成されております。
http://seesaawiki.jp/mushokamondai/



【3】歴史教科書 在日コリアンの歴史
在日コリアンという人種がどのように生み出されたのかを端的に知るために。

歴史教科書 在日コリアンの歴史

歴史教科書 在日コリアンの歴史



【4】知っていますか、朝鮮学校
朝鮮学校が何なのか知らない、まったくの初心者にはおすすめ。

知っていますか、朝鮮学校 (岩波ブックレット)

知っていますか、朝鮮学校 (岩波ブックレット)



【5】「無償化連絡会・大阪」結成集会レジュメ
高校無償化法適用に向けての連絡会が大阪で立ち上がった際の結成集会で貰ったレジュメ。問題点が端的にまとまっており、論点整理に有効。
特に、これまでどのような経緯で無償化から排除され、補助金が打ち切られるに至ったのか、時系列を追うのに有用。
無償化連絡会大阪レジュメ.pdf 直



【6】「高校無償化」措置を朝鮮学校に適用することを求める大学教員の要請書
高校無償化法の適用から朝鮮学校のみが外されているということが、「法的に」筋が通らない、ということを、「法的に」理解する学習資料として有効。
http://d.hatena.ne.jp/mskunv/
特に、こちらに掲載されている、『パブリックコメント』に寄せられた高林敏之氏の稿は、理路整然と論点がまとまっておりとても参考になります。
http://d.hatena.ne.jp/mskunv/20130110



【7】公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則の一部を改正する省令案に関するパブリックコメント意見公募手続)の結果について
それに対し、「朝鮮学校に高校無償化法を適用しないのは妥当だ」と強弁する日本政府の文書。言い訳文書としても非常にレベルが低いことが分かります。まさに「判で押したように」朝鮮学校はキタチョーセンで、拉致問題が解決していないからダメだと言っています。つまり自らの政治課題が解決していない責任を子供らに押し付け、政治的に敵対する北朝鮮の勢力に属する子供らを差別的に取り扱います、と国家が高らかに宣言したわけです。歴史的な文書と言えるでしょう。そして今般の大阪地裁判決に、その論拠の稚拙さが受け継がれているのです。
パブコメ結果.pdf 直



【8】「朝鮮学校への嫌がらせ裁判に対する意見書」
同志社大学の板垣竜太准教授(社会学部・朝鮮近現代社会史)が、京都朝鮮第一初級学校襲撃事件民事裁判に提出したもの。朝鮮学校の現在、及びその歴史を眺めるうえで非常に有益。世間では朝鮮学校が朝鮮政府と親和性を保っていることで「キタチョーセンの学校」と評価されていますが、本意見書では、朝鮮の教育機関と一体というわけではなく、あくまで在日朝鮮人のための学校であることが客観的に証明されているのをはじめに、朝鮮学校が歴史上日本政府からどのように扱われ、その中で、在日朝鮮人当事者がどのように思考、行動したのかが詳細に記述されています。
朝鮮学校の嫌がらせ裁判に対する意見書.pdf 直



【9】 【Q&A】大阪の朝鮮学校大阪府「私立外国人学校振興補助金
たぶん、2012年の「無償化」連絡会でもらった資料。「無償化」除外の動きと一体で、大阪府・市の補助金が廃止されました。その不当性を考えるうえで有益な資料。
【Q&A】大阪の朝鮮学校と大阪府「私立外国人学校振興補助金」.pdf 直



【10】朝鮮学校への「高校無償化」制度適用に関するQ&A
同様に、「無償化連絡会」でもらった資料。「高校無償化法」の適用が、朝鮮学校にだけ適用されないことの不当性を学習するのに有益。
朝鮮学校への「高校無償化」制度適用に関するQ&A.pdf 直



【11】高校無償化裁判―249人の朝鮮高校生たたかいの記録
東京の無償化裁判のことが中心に書かれていますが、すべての高校生に学ぶ機会を確保すると宣言した無償化法から朝鮮学校のみがはじかれるに至った流れ、各裁判の主張や論点と裁判所に提出された訴状なども参照することができます。

高校無償化裁判―249人の朝鮮高校生たたかいの記録

高校無償化裁判―249人の朝鮮高校生たたかいの記録



【12】朝鮮学校物語 あなたのとなりの「もうひとつの学校」
韓国で出版された本の日本版。実は最近韓国では朝鮮学校に対する理解を深め、支援をしようという動きが少しづつ起きています。この本では、朝鮮学校がどのように起り、変遷したかという歴史解説とともに、内部の人間(学生や保護者)に焦点を当て、何故朝鮮学校に子供を送るのか、が身近に感じられるのが特長です。

朝鮮学校物語  あなたのとなりの「もうひとつの学校」

朝鮮学校物語  あなたのとなりの「もうひとつの学校」



【13】人種差別撤廃委員会による日本の第7回〜9回定期報告に関する調査最終見解
国連の人種差別撤廃委員会による日本政府への勧告文書。朝鮮学校への「高校無償化法」の適用、地方自治体の補助金等回復についてはパラグラフ19で言及され、付則では「特に重要な勧告」だと付言されています。この審査過程において日本政府は、前記【7】にも挙げたように、「学校が朝鮮総連と密接な関係にある」「拉致問題が進展していない」ということを堂々と言ってのけ釈明して見せましたが、この釈明は、最終見解ではまったく採用されていません。逆に「国連の場で、政治的な理由をもって朝鮮学校のみを排除することを露骨に表明した」と、委員の怒りを買っています。
調査最終見解.pdf 直



【14】地裁判決を受けてのコメント
判決報告集会で配られたもの。大阪朝鮮学園・無償化連絡会大阪・ウリハッキョと子どもたちを守る市民の会(韓国)、3者によるコメント。
敗訴コメント.pdf 直




【15】大阪無償化・補助金訴訟関連年表
判決報告集会で配られたもの。政治によって朝鮮学校の子弟が如何に翻弄されているのかが分かります。
高校無償化関連年表.pdf 直

デマ放送『ニュース女子』の手法 ― 思考も表現方法もネトウヨそのものだ。

本年1月2日に放送された、東京MXテレビ『ニュース女子』の、沖縄に関する虚偽に満ちたヘイト・デマ放送について、ブロガーの端くれとして、少し触れておきたい。

報道番組として真実を伝えようとする気概も、真実に迫ろうとする心意気も、報道に携わる者としての矜持も、なにひとつ、微塵も感じることはできない。沖縄の市民とガイジン、日本の国体に相対している(と彼らの頭の中で想像している)者に対する徹底的な差別意識・嫌悪感のもと、「このような結論に導きたい」という強い意思を持って、わざと取材せず、妄想発進の『真実』を安い素材をつなぎ合わせて演出して描いたものに過ぎない。これは報道ではない。ただの差別扇動だ。真実がなんであろうと関係ない、憎悪を燃やす対象を排斥するために作られたもので、思考も表現方法も、youtuberのヘイト動画そのものである。

このようなものはネット上ではそこら中に溢れているものだし、ページビューを稼ごうとフェイクニュースを量産するサイト(https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/korean-news-xyz-2?utm_term=.ee1pBgpaV#.qdagJBgzo)や炎上商法を定期的に繰り出すヘイト有名人等、いまに始まったものではない。それに有効な批判を下す声が完全に存在感を失い、他者の尊厳を穢す『表現の自由』が闊歩するほど、ネット言論は差別と親和性を保ち、良心は失われている。

しかし、たとえそうであったとしても、このような差別扇動が地上波で垂れ流されたことはさすがに大きな問題だ。わざわざ検索せずともチャンネルを合わせさえすればデマが『真実』の顔をして垂れ流される。図らずも、『ニュース女子』中のゲストの女子たちが、「そうなんですかぁ?」と、スタジオの悪いオジサンの妄言に安く乗っていることでも分かるように、リテラシーのトレーニングをろくに積んでいない者は、『真実』のふりをしたデマにも差別扇動にも安易に乗る。それが大掛かりであればあるほど、それは受け入れられる。

被差別者という属性を背負った私にとっても、これはまったく他人事ではないし、この番組の標的となった辛淑玉さんが声明を出している。全面的に賛同する。まったく許されるべきではない。http://ryukyushimpo.jp/news/entry-434266.html

この番組については、既に多くの批判が向けられているし、BPOにも上程され、ほどなく断罪されることと思う(仮にこれが『表現の自由』とされ、DHCが言う『言論弾圧』との主張https://www.dhctheater.com/information/2017-01-20-283265/を受け入れるのであれば、それは即BPOの自殺を意味する)し、既に数多の検証や批判にさらされており、私がこの期に及んで上屋根を重ねる価値はないと思うので書かない。

私が気になったのは、この番組が選択したコトバだ。基地建設等に反対する住民たちに対し、「週休二日だ」だの「定年過ぎてて逮捕されても生活に影響がない」だの「テロリストと呼んでも過言ではない」だの愚言を弄して侮辱しているのだが、その際やたらと「基地の外」というテロップを、強調した文字と色で出している。




反対派住民が陣取るのは基地の敷地外であることは当たり前だし、日本語としても不自然だが、これはどういうことなのか。
勘が鈍くてももう分かると思うが、これは反対派住民を『きちがい』だと最大級の侮辱をしているのである。『きちがい』を『基地外』と書くのは、ネトウヨが用いるインターネットスラングの中でも代表的なものだが、どうやらこの番組の制作者は、骨の髄までネトウヨに毒されているようだ。それを「2ちゃんねる」に書き込むだけでも醜悪そのものなのに、それをわざわざ地上波の電波に乗せようというのだから悪趣味にも程がある。

どうやら、この番組の制作会社、関西発のネトウヨ番組で、橋下徹を出演させていたことでも知られる『そこまで言って委員会』も作っているらしい(http://www.boys.co.jp/works/)。「本音の議論」と言えば聞こえはいいが、要は卑しい内面を晒しながら、他者を選別し、優劣や貴賤を競わせ、強者が強者の立場をひけらかす、という唾棄すべき醜悪な番組だ。こんな番組が10年以上も垂れ流され、いつの間にか関西のワイドショーは同種の論調で溢れ返っている。大阪を覆う維新政治と歩調を合わせながら、ポピュリズム・感情政治・敵を拵え弱者に叩かせる手法で、羞恥心や道徳観を完全に置き去りにして、ニヤニヤと卑しい笑顔で他者を貶める番組が、日々流され続けている。

日々、弱者が、被差別者が、生きづらい世の中になっている。

学習資料の紹介 − ヘイトとは?(のりこえねっと作成)

約半年ぶりの更新となってしまった。
この間、仕事上のプロジェクトやら種々のしがらみやらでなかなか時間が取れなかったこともあるが、何よりもこの社会が際限なく劣化を続けるなかで、最早語る言葉を失っていたというのが実際である。ただアタマの中で組み立てていた考察については、追々文字にしていこうと思う。つい最近、ある在日ブロガーと接触する機会があり、自分なりに刺激を受けた。やはり微力ではあるが、細々ではあるが、発信する意義があると実感した。どれだけできるかはわからないが、今後も「いち在日朝鮮人の視点」を残していこうと思う。



今回は、『のりこえねっと 〜 ヘイトスピーチレイシズムを乗り越える国際ネットワーク』が作成し、著名な在日朝鮮人の文化人である辛淑玉さんが出演する、「シリーズ ヘイトとは?」という学習資料を紹介する。
既に出回って相当程度経っており、比較的よく知られたコンテンツなのだが、よくできた学習資料であり、ヘイトスピーチレイシズム・排外主義を理解する上での教育教材として一定の価値があると考えるところから、20回のシリーズ全部を並列的に提示する。



第1回「ヘイトスピーチとは何か」

http://www.youtube.com/watch?v=cRpz0RoGGf8

第2回「ヘイトクライム

http://www.youtube.com/watch?v=2BETF713Ug8

第3回「朝鮮人は出ていけ」

http://www.youtube.com/watch?v=1VtcZEplTBM

第4回「『ニガー』という言葉」

http://www.youtube.com/watch?v=UpBZO-l3ZNw

第5回「沈黙効果と過剰適応」

http://www.youtube.com/watch?v=4etmtyZXWWg

第6回「ルワンダでおきたこと」

http://www.youtube.com/watch?v=eHLuIcmDcQM

第7回「犯人は外国人風」

http://www.youtube.com/watch?v=sDwbI_DhfVw

第8回「相撲をめぐるレイシズム

http://www.youtube.com/watch?v=1ytEEBTakJ8

第9回「『三国人』という言葉」

http://www.youtube.com/watch?v=Tj5y9Pd1P2o

第10回「日本人ではない」

http://www.youtube.com/watch?v=1a4NH7ncakc

第11回「僕には黒人の友達がいる」

http://www.youtube.com/watch?v=_1CVwyKZdt0

第12回「朝鮮人が井戸に毒」

http://www.youtube.com/watch?v=qqr6MFugazg

第13回「アイヌ民族はいない」

http://www.youtube.com/watch?v=oO14YG7Y360

第14回「日本人の血税

http://www.youtube.com/watch?v=vUFHg_Wkw6k

第15回「竹田恒泰の外国人嫌悪」

http://www.youtube.com/watch?v=7f4DLCDQ41I

第16回「違法デモ」

http://www.youtube.com/watch?v=N57YK0dUAow

第17回「言論の自由

http://www.youtube.com/watch?v=7aJUF7hpVWI

第18回「すがわら一秀のヘイトスピーチ

http://www.youtube.com/watch?v=n-Gdr9J54sc

第19回「オーランドのヘイトクライム

http://www.youtube.com/watch?v=5y9mePuj48o

第20回「公人のヘイトスピーチ

http://www.youtube.com/watch?v=MtFQOzP2hN0



制作日が2016年の2月から7月で全20回、ほぼ1週間に1回の更新でリリースされている。これらを連続で見て驚いたことがある。一般論を提示しているものが中心であるが、時事的なネタ(相撲の件、熊本地震の件、アイヌの件など)を追っているものも多い、ということである。これがリリースされていた約半年の間に、これだけタイムリーに差別事件が発生し、結果このコンテンツにネタが供給された、ということを意味する、ということだ。

思えば昨年も、差別事件が次々と起こっては消えた。
先に挙げた熊本地震の際の「朝鮮人が井戸に毒」デマを筆頭に、市場ずしで韓国人観光客に勝手に大量のわさびが盛られるわさびテロ事件、韓国人観光客がバスの乗車券を買えば名前を勝手に蔑称で振られる事件、大阪府警の警察官が沖縄・高江で抗議する市民に向かって土人となじりそれを大阪府知事の松井が無神経に擁護した事件、道頓堀で韓国人旅行者が暴行を受けた事件、日本で生まれ育ったタイ国籍の少年を国外退去させると裁判所が言えば官房長官法治主義だとふんぞり返りネトウヨ喝采を送る事件、新しく誕生した都知事が早速に韓国人学校に土地を貸さない都民ファーストだと高らかに宣言した事件、沖縄では国の暴政がなりふりかまわず沖縄の市民が幾ら抗っても一顧だにされないいつ終わるとも知れない事件等々、挙げだせば本当にキリがない。そしてそれらほぼ全てが、まともに報道されず、あるべき批判にさらされず、文字通り垂れ流されていった。

今回のエントリの主旨とは逸れるので端折って書くが、
石原慎太郎黒シール事件の際に徹底的に糾弾されなかったことで政治生命を終えることなくのうのうと生き長らえ、その結果幾多の差別主義政策及びその犠牲者が量産されたように、
*朝鮮がらみの事件が起こるたびに朝鮮学校生徒のチマチョゴリが切られたことが徹底的に糾弾されなかった結果、いまとなっては生徒が通学途上にチマチョゴリを着ることすらできなくなったように、
差別事件の最初の段階で、あるべき批判や糾弾がされず、中途半端有耶無耶にされたら、『調子に乗って』、『付け上がり』、より差別はエスカレートする。
今年のように、差別事件が余りに頻発し、どんどん規模や激烈さを増していくと、ちょっとやそっとではだれも驚かなくなり、逆に問題にする者が疎ましい者として扱われるようになる。
差別と対峙するうえで、あるべき知性・理性・拒否感・嫌悪感がどんどん薄れ、その環境に慣らされ、声を挙げなくなっていく。
『感覚の鈍麻』だ。
そして、この『感覚の鈍麻』こそが、差別主義者がより差別を謳歌できるようにし、被差別者がより窮屈になることを強いられるものであり、人類が幾多の犠牲と学習を持って積み上げてきた知性を否定するものなのだ。
最早日本の今日の光景は、差別主義者が大手を振るって跋扈できる最終段階に入ったと私は認識しているが、あるべき感性・知性を回復するためにも、この社会の現状を、少数者はどのように捉えているのか、この学習教材を以て学んでほしい。



今年は何とか落ち着きそうなので、不定期更新は平常運転だが、何とか色々と書いていこうと思う。少しでも日本社会から差別が少なくなり、次の世代が多文化共生社会で青春を謳歌できることを信じて。

相模原障がい者殺傷事件の犯人はザイニチ ― 差別事件に差別で応える差別主義者への吐き気

今般の神奈川県相模原市での障がい者殺傷事件に絡み、「犯人はザイニチ」という言説がネット上で沸き立っている。

約10分でこれだけ収集できる。

ネットにおける毎度毎度の光景であるのだが、猟奇的な事件、理解不能な出来事があると、早速、「犯人は日本人ではない」「これは日本人の発想ではない」「犯人はザイニチ」と、盛大な『切断作業』が繰り広げられる。過去には石原慎太郎が再三このテの発言を繰り返した完成形であるが、比較的最近でも有名どころで以下のようなものがある。



この種のことは、今に始まったことではない。

*いいことをするのは、日本・日本人、日本を好きな人
*悪いのは、韓国・中国・ザイニチ、日本が嫌いな人

という単純な図式で、「我」と「彼」を分離し、「彼」を落とし、下げることで、「我」を保全しているのである。
このような言説に依って立つ者は、「我々の側ではない」「我々には関係のない変な人」という風に、「彼」を外野に押し込んで、思考を停止させることのみに関心があるのであって、本当に「彼」がザイニチかどうかというのは重要ではないし、どっちでもいいことなのだ。ザイニチと認定した時点で「彼」で確定なのだから。
結局、ザイニチとは、「よくわからない人=犯罪者(あるいは予備軍)」という記号で用いられているのであるが、このように犯罪者が逐一とザイニチ認定され、日々ザイニチの悪いイメージが自らの周囲で積みあがっていくわけだから、ザイニチ当事者にとっては、愉快であろうはずがない。

このように差別的な言説がこうもやすやすと良心の呵責もなく次々と垂れ流される日常、日本において差別的な言動を繰り出すことがこれほどにも障壁が低い現状こそが、この社会で差別の芽を徹底的に育て、今般の事件はそれが「成木」として顕在化したのである。
少なくとも、今般の、日本の犯罪史上にもまれにみる、圧倒的な犠牲者を生みだした差別事件・ヘイトクライムを前に、自らもまた差別主義を繰り出そうと考える輩が、次から次へと沸いて出てくる現実に、私は吐き気を禁じ得ない。

そして、このように『ある属性が犯罪性向を備える』ということに対して、まともな反論を試さず、自らの頭で思考しなかった『声なき傍観者』が、かの日ナチを支え、かの日東京で朝鮮人を殺しまわったのである。私はこの日本社会の空気に、ジェノサイド前夜のキナ臭さを感じて久しいが、政治から、人々から、この空気を打ち消そうという意気も乏しいことに、改めての絶望も感じている。

相模原障がい者殺傷事件 ― 何故ヘイトクライムとして論じられないのか?(20160806追記あり)

神奈川県相模原市で、障がい者に対する大量殺傷事件が起こってしまったことに対して、ブロガーの端くれとして書き残しておく。
昨日からの報道やワイドショー、新聞の書きっぷりは、違和感というか、備えるべき視点を欠いた筆致ばかりで、相変わらずだな、と思った。
この社会で決定的に欠く、「他者からの眼差し」という視点だ。「他者への眼差し」、ではない。少数者がこの社会をどのように捉えているのか、という視点である。



相模原事件は、「障がい者に対する嫌悪」「障がい者の生命や尊厳の軽視」を原因としたヘイトクライムである。
彼が事前に衆院議長に充てた手紙からも、彼が措置入院に至った経緯からも、それは明らかである。「愛する日本国、全人類のために」、障がい者安楽死させるべきだと確信を持っていたのである。
ヘイトクライムとは、ある属性(国籍・民族・肌の色・性別・宗教・障がいの有無・出身地や居住地など)を持つことを理由として、それに対する憎悪や排除意識から、それを標的にした犯罪行為・迫害行為、と一般的には定義されよう。
今般の彼の行為は、障がい者に対する憎悪や軽視の意識から、専らそれを標的にすると宣言し、そしてそれを実行したわけであるから、全くブレずにヘイトクライムそのものと言えよう。
彼の思想は、ナチが障がい者二十万人の命を奪った時に振りかざされた文句そのものである。https://www.ushmm.org/wlc/ja/article.php?ModuleId=10005200
彼の事件を考察するに真っ先に出てこなければならないのは、この思想自体が、これまで人類の歴史のなかで幾度となく持ち出され、振りかざされ、そして生命が奪われ続けたという事実であり、第二次大戦後の世界は、ナチをはじめとした人権軽視の思想がもたらした悲劇を繰り返さないという人権基準から発進しているなか、彼の行為は、この人類の価値基準に対する挑戦である、という指摘であるべきである。



ひとりの犯罪者の行為なのに何を大層なことを言っているのか、と思う人がいるかもしれない。
しかし、彼の行為は、以下の事項を改めて明らかにした。これまで人類が幾度となく経験してきた事項である。
*差別心は人を殺しうる、ということ
*差別心の前では人間性は奪われる、ということ
*差別心の標的は悉く社会的弱者に向かう、ということ
池田小事件を引き合いに出すような視点があったが、ふたつの事件は背景が異なる。おのれの劣等感からエリート層の子弟を狙った池田小事件と、マジョリティ(社会的強者)の専制という立場から価値判断をして歪んだ正義感を振りかざした今回の相模原事件とは、事件の効果は全く異なるのである。



障がい者の存在を軽視し、尊厳を無視し、社会の隅に追いやり、社会と接触しないようにし、結果社会的な偏見、差別心の芽を徹底的に育んできたという土壌があって、今般の事件は、起こるべくして起こったのである。
この事件の評価で目が向けられるべきは、この思想そのものの危険性であり、差別と訣別するという社会的な宣言の必要性こそに言及されねばならない。単独犯ではなく複数名の行為であれば、あるいはこれがより強固な社会的排斥の対象になっている属性に向かったならば、犠牲がより甚大になっていた、ということが推定されるに過ぎない。
それなのに、彼の行為に対する評価は、ただの奇人の行為と矮小化され、彼が衆院議長宛の手紙に込められた『政治的主張』は、この思想が歴史的にどのような系譜の中にあるのかという評価に付されぬまま、無批判且つ興味本位に垂れ流された訳だから、その目的すら達成されてしまったのである。



この報に触れた昨日、自宅に戻ってから夫婦で交わした会話の第一声は、奇しくも、しかし必然として同じ言葉だった。
「ウリハッキョ(私たちの学校の意、朝鮮学校のこと)、大丈夫かなぁ」
差別の愚かさに対する言及が乏しいまま、それによって繰り返されてきた被差別者の悲哀が省みられぬまま、今般の事件すらも、ひとりの奇人の犯罪行為とでしか消費されないのであれば、第二第三のヘイトクライムの犠牲者が発生するのは必然である。社会的な偏見に常に晒される朝鮮人家族にとってこれは、まったく他人事ではない。模倣犯の発生は早速、体力の弱い女子供に向けられるのは世の常である。セキュリティもままならない朝鮮学校の教室に、妄想発信の憎悪を発散させる輩が現れないとも限らない。




http://www011.upp.so-net.ne.jp/kamogawa-lo/hate_pyramid/pyramid_updown.html
これはヘイトクライムを論じる際に引き合いに出される「ヘイトのピラミッド」である。現近代の日本社会が、悉く社会の差別に対して鈍感であり、差別的な言説に対して一定の親和性を保ってきた、そして近年の排外主義の台頭についても政治家が「表現の自由」をタテに護ってきたことが、ゆるゆるとピラミッドを登ってきたのである。いままさに頂点近くまで登ってきてもなお、そのことが社会的に総括されないのであれば、残るはジェノサイドか制度的な排斥である。そこまで社会が堕ちぬよう、差別が社会悪であるというコンセンサスが、まともに形成されなければならない、と思う。



(追記)被疑者がザイニチだという、いつもながらの言説がネット上を回っているようである。
良いことをする人は日本人、あるいは日本/日本人が大好き。
悪いことをするのはザイニチ、韓国人、あるいは韓国か中国の云々。
…どうでもいい。
飽きないのだろうか?



(20160728追記)私が言わんとすることを補強する意図で、きょう掲載された記事を紹介する。

相模原殺傷 尊厳否定「二重の殺人」全盲・全ろう東大教授
毎日新聞 2016年7月28日 13時14分(最終更新 7月28日 18時57分)
http://mainichi.jp/articles/20160728/k00/00e/040/221000c

(引用開始)

相模原市の障害者施設殺傷事件を受け、障害者の関係団体が相次いで声明などを発表する中、全盲と全ろうの重複障害を持つ福島智・東京大先端科学技術研究センター教授から「暗たんたる思いに包まれています」というメールが27日、毎日新聞に届いた。福島さんが「今回の事件から考えた原理的な問題」をまとめたという原稿を紹介する。

「重複障害者は生きていても意味がないので、安楽死にすればいい」。多くの障害者を惨殺した容疑者は、こう供述したという。

これで連想したのは、「ナチスヒトラーによる優生思想に基づく障害者抹殺」という歴史的残虐行為である。ホロコーストによりユダヤ人が大虐殺されたことは周知の事実だが、ナチス知的障害者らをおよそ20万人殺したことはあまり知られていない。

一方、現代の世界では、過激派組織「イスラム国」(IS)の思想に感化された若者たちによるテロ事件が、各地で頻発している。このような歴史や現在の状況を踏まえた時、今回の容疑者は、ナチズムのような何らかの過激思想に感化され、麻薬による妄想や狂気が加わり蛮行に及んだのではないか、との思いがよぎる。

被害者たちのほとんどは、容疑者の凶行から自分の身を守る「心身の能力」が制約された重度障害者たちだ。こうした無抵抗の重度障害者を殺すということは二重の意味での「殺人」と考える。一つは、人間の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」。もう一つは、人間の尊厳や生存の意味そのものを、優生思想によって否定する「実存的殺人」である。

前者は被害者の肉体を物理的に破壊する殺人だが、後者は被害者にとどまらず、人々の思想・価値観・意識に浸透し、むしばみ、社会に広く波及するという意味で、「人の魂にとってのコンピューターウイルス」のような危険をはらむ「大量殺人」だと思う。

こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、今の日本を覆う「新自由主義的な人間観」と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。

しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。つまり、ごく一握りの「勝者」「強者」だけが報われる社会だ。すでに、日本も世界も事実上その傾向にあるのではないか。

障害者の生存を軽視・否定する思想とは、すなわち障害の有無にかかわらず、すべての人の生存を軽視・否定する思想なのである。私たちの社会の底流に、こうした思想を生み出す要因はないか、真剣に考えたい。

(引用ここまで)



(20160729追記)



(20160730追記)

相模原市障害者殺傷事件に対する抗議声明
特定非営利活動法人DPI(障害者インターナショナル)日本会議

20160727_seimei.pdf 直



(20160806追記)

共に生きる・トブロサルダ 大阪コリアンの目/183 /大阪
毎日新聞2016年8月5日地方版
http://mainichi.jp/articles/20160805/ddl/k27/070/443000c

(引用開始)

◆相模原殺傷事件 「ヘイトクライム」広がらぬよう 犠牲者に自ら重ねる障がい者
暗たんたる気持ちだ。抹殺したいと考えるほどの憎悪とは何か。相模原市障がい者施設「津久井やまゆり園」で起きた事件が、社会に大きな衝撃を与えている。これから真相がさらに明らかにされていくだろうが、それにしても語る言葉を失う。
逃げられない心身のまま、致命傷を負って犠牲になった方々は何を思い、どのような言葉を残したか。入所者たちが味わった恐怖、驚がく、絶望は想像を超える。施設を利用していたご家族もまた、奈落に突き落とされた悲しみの中におられることであろう。
容疑者は今回の事件前から、障がい者への憎悪に満ちた言動を周辺に繰り返していたという。「抹殺」のための手順を記した文書を作成し、他者にも伝えている。
それらからこの事件は「ヘイトクライム」だと私は認識している。「ヘイトクライム」とは特定の集団や民族を憎悪し、社会から排除、抹殺を目的とする犯罪行為のことを言う。昨今深刻化した「ヘイトスピーチ」が広く知られるところとなったが、「ヘイトスピーチ」を放置すれば、次に「ヘイトクライム」が社会をおおうことを私たちは今一度深く受け止める必要がある。
案の定、SNSには今回の犯罪に共感する書き込みにあふれ、その内容を見れば第2、第3の事件すら危惧される感覚を持つ。
この事件は東京の都知事選挙のさなかに起きた。ヘイトスピーチを繰り返すグループのリーダーが立候補し、選挙中にも特定の集団や民族を排斥する言動を繰り返していた。それでも投開票の結果、この人物に11万票が投じられた。
国会でのヘイトスピーチ対策法の成立を受け、街頭での差別的な演説は多少なりとも難しくなっている。しかし、各種選挙に立候補し、選挙戦を利用して差別的な言動を繰り返すなどの事例も増えている。今後、選挙を隠れみのとした扇動にも注意し、その実態を明らかにしていく必要がある。
今回の「津久井やまゆり園」事件について、容疑者の背景や深層心理を徹底的に究明し、事件を未然に防止できなかったのかの検証、憎悪発言の果てに起こった「ヘイトクライム」の可能性を追及し、社会の病理を鋭くただすことが求められる。何より処罰感情が高まり、異常者による異常な出来事だと片づけて、真実が未解明のまま極刑を急ぐ世論にならないよう呼びかけたい。そのためのメディアの役割は大きい。
わが家族で、この事件の報道をもっとも見入っていたのは私の妻だ。妻には肢体不自由の障がいがある。感情を押し殺し無表情を装ってはいたが、深く傷ついていた。いや多くの障がいを持つ人々が、自分が殺されていたかもしれないと犠牲者に自らを重ねている。<文 金光敏(キムクァンミン)>
■人物略歴
1971年、大阪市生野区生まれ。在日コリアン3世。特定非営利活動法人・コリアNGOセンター事務局長。多文化共生、人権学習の教育コーディネーターを務め、さまざまな子どもたちを支援するソーシャルワークにも取り組む。

(引用ここまで)

盛り上がらなかった祭り(参院選)の後で、無権者は思う。

参院選が終わった。思ったとおり、盛り上がらなかった。というか、有権者が、マスコミが、まったく盛り上げなかった。民主主義の手段たる選挙が、こんな投票率、そしてこのザマで、自分らの民主主義を何だと思っているのだろうか。私はとにかく、重く、暗く、陰鬱な思いである。
この思いについて、いくらか拙い文を連ねてみる。



私は朝鮮人だ。韓国籍だ。従って無権者だ。
この間、私の職場でも、職場の同僚や、パートやアルバイトの連中が、期日前投票に行ったかどうかと話をしているのを耳にした。パート連中が、「選挙行った?」「行ったよ、期日前!」「私も明日行くわ、でも誰が出てるんか全然知らんわ(笑)」などと『平和』なことを言っていた。
私はそれに居合わせても、一緒に笑ったり、或いはそれを諌めたりができなかった。私は無権者だ。その話題に立ち入ったところで、私には『関係の無い』話だ。私には『共通の話題』ではないのだ。

職場での立場は上から数番目、何かあればすぐに彼らは「金さんお願いします」と頼ってくる。職場では中心メンバーである私が、職場の人間ほぼ全てが持っている投票権を、私だけは持っていない。
この心情を、ある在日の学者はこんな風に形容していた。「みんなで入場券買って競馬場に行ったんだけれど、私だけ馬券を買わせてもらえない。仕方がないのでみんなが買う馬券を見るんだけれど、何でこんな変なのに賭けるんだろうって、そんな感覚かな」と。なるほど、とは思う。
私にとって選挙は、何とも言えない居心地悪さ、やるせなさ、疎外感、孤独感というものを感じるものだ。毎回そうだ。しかし今回ほど、その気持ちを抑えるのが困難だった選挙は無かった。

自らが掲げる憲法と手続きをないがしろにし、少数意見を踏みつけながら、ただひたすらに思い込むことだけを追求する政治勢力。掲げる改憲草案は人権条文を大きく後退させ、前近代的で時代錯誤な文句が並ぶ。よりによって安倍が緊急事態と言い出せば全権掌握できるにまでなっている。それなのにマスコミは懐柔策に屈しチカラを失い権力者の太鼓持ちに化し、権力者と一緒になって少数者弱者異端者を吊るし上げることに熱中している。
これは『普通の感覚』であれば、危なっかしくて仕方がない。ナチの台頭前夜とも思うし、民主主義をこれほどに分かりやすく破壊する勢力の台頭は、市民が英知を結集して阻止しなければならないはずだが、市民は問題意識を共有できていない。

私のこの暗い思いを、ほぼ重ねている文を、映画監督の森達也氏が書いている。URLを紹介するので参照願いたい。選挙前に書かれたものだが、ほぼ予想通りになってしまった。

まだ絶望していないあなたへ
ポリタス 2016年7月4日
http://politas.jp/features/10/article/496



私が、永住外国人参政権について、どのように考えているのかについては、本稿を進めるうえで重要な視点ではないのでこの際置く。
しかし、日本の主権者である日本の市民自身が、
情報リテラシーを高め、自らの代表者に常に関心を持ち、
*自らの権利たる投票権を行使し、「よりましな」「より危険でない」者を選ぶ
という、私からしてみれば当たり前の行動を、こうもやすやすと放棄する姿を見るにつけ、つまりは、主権者自らが主権者であることを放棄している姿を見るにつけ、私の無権者としての虚無感は、言いようのないほど高まっている。

そして、なおも続く安倍政治を前に、今度は朝鮮人の何が奪われるのか、私の関心は既にそちらに向いている。
拡充には最後まで手をつけられず、排除には最初に手をつけられるのが、マイノリティの人権、特に敵性とされた朝鮮人の人権である。安倍が政権を取り直して真っ先に手をつけたのが朝鮮高校の無償化排除固定であったことが象徴であるが、彼はことあるごとに朝鮮人の自尊心に土足で踏み込み続けてきた。日本社会が彼に更なる政治生命を与えたいま、そのことにもなお私は警戒を続けなければならない。

いま私は、言いようのない感情と共に、虚ろな目でテレビを眺めている。